what to do for you
※FF9ブランク夢本『ねがいごと』のサンプルを兼ねています。R15程度の性描写を含みます。
あの人に抱かれたのは18になってすぐだった。
母親の病を治す薬を求めて、藁にもすがる思いで飛び込んだのが彼のところ。
リンドブルムの貧民街で昔、名を馳せた札付きのワル……でありながらあっさりと足を洗い、今はタンタラスという劇団に身を置くブランクという男性。それが私の恩人であり、想い人だ。
私は薬の対価を身体で払うと約束し、彼は金が無いというのならとそれを承諾した。いざ約束を果たそうとしたとき、思い切り渋られたのは今でも忘れられない。
最初は私の年齢が理由だった。ガキに手を出すほど困ってないと。当時私は15歳で、生活も余裕があるとは言えなかったから身体つきも貧相だった。それでも日雇いの仕事をこなしながらどうにかその日をやり過ごすように暮らしていた私には、身体以外に差し出せる資本はなかったのだ。だから彼から薬をもらって母の容態が落ち着いてすぐに彼の元へ向かったのだけれど……。
彼は何を思ったのか、私に薬の知識を与えだした。
「食い物にされるだけの人生でいいのか?」
困惑する私へ、彼の言葉が刺さった。否やなど、あるはずがなかった。
下働きのように彼の元で知識を蓄えだした私は、その後も何度か彼に約束のことを持ちかけた。けれど、彼はのらりくらりと私をやりすごし、私は焦燥感に駆られたものだ。どうして約束を守らせてくれないのかと詰め寄ったこともある。それでも、彼は頑なに私との約束を自分から持ち出さず、また私からどれほど言い募っても応えることはなかった。理由はそのうちに年齢から身体つきの話になり、薬の知識が増えていくにつれて自分の身体の価値を彼に差し出せるほど高めればいいのかと食事に気を使い始めたりもした。
そのうちに彼は薬の調合を少しずつ私へ割り振って、できたものが売れる度に小遣いのようにして金を渡してくるようになった。それで、私は金で返せばいいのかと何度も聞いたものだ。彼ときたら、好きにすればいいとは言うくせに、いざ金額の話を持ち出せば漠然とした話しかしないのだから私は本当に悩んだ。
「薬の価値ね。お前はあの薬にいくら出せるんだ?」
そうやって、意地悪く私に言って。そんなの――金額で簡単に言えるほど、軽いものじゃないのに。それを見透かすようにして、彼はにやりと笑った。妙な悔しさを感じたのを覚えている。
母の病は金さえ払うことができれば治るものだった。それは間違いない。一度医者に診てもらっていたし、彼もそう言っていた。珍しい病ではないと。でも私にはその金がなかった。なのに、彼は、人生を、身体を差し出すと必死に頼み込んだ私に薬を与えてくれた。薬の材料は自分で取りに行けと言われたけれど、彼の仲間が手伝ってくれた。だから、私は彼に奇跡を与えられたのだ。どうやったって無理なことを、彼に叶えてもらった。だから、それを返したい。
どうしても私を抱くのが無理だというのなら、身体で払うというのが性的なことではなくそれ以外の労働であっても構わなかった。なんでもいい。彼に恩を返したかった。この感謝の気持を、どうやって返せばいいかわからなかった。でも彼は私に仕事を教え、給与を払い、約束を宙に浮かせたままで、一向に対価を支払わせてはくれなかった。あの時、薬の対価に身体をという話を了承したにもかかわらず、だ。
彼のことがよくわからない。彼に仕事を教わり始めて以降タンタラスのアトリエに赴くと、同じくタンタラスに身を置く弟分・マーカスといつも軽い調子でやり取りをしているのを見るけれど、貧民街時代は仲が悪く、グループ単位で対立して激しくやりあっていたと聞くし、かと思えばタンタラスに入る前から面倒見の良さと薬の知識の豊富さによって彼に救われたという話もある。私は、後者の人間だった。
身に余る待遇であることは分かっていた。何が不満なのだと、誰かから言われてもうまく答えられなかっただろう。意地であり、プライドの問題であり、彼に報いねば私の心の有りようがどんどんと下へ下へと向かってしまうような不安でもあった。彼への感謝を昇華する手段さえも彼に委ねているような有り様は、きっと贅沢で傲慢だった。それでも、彼は私のそんな気持ちをすべて受け止めてくれていた。表面上はあっさりとしたものだったけれど。
大事にされていたと、思う。今思い返してもそうだし、当時だってそう思っていた。だから……彼への強い感謝の中に、仄かに、淡いものが混じり始めたことに気づいてしまえば、後は思い悩む日々の始まりだった。
対価を受け取るのを渋り続ける彼に痺れを切らし、頼み込んで頷かせたのは17ももうすぐ終わるかという頃。浅はかだったような気もする。彼はあんなに私を大切にしてくれていたのに、それを踏みにじってしまったのではないだろうかと後で思った。まあ、もう手遅れだったけれど。
当時はどうすればいいのか、全く分からなかったのだ。母は針仕事が得意な人で、その頃には内職の傍ら、私に裁縫を教えられるくらいには回復していたのも大きい。過ぎていく穏やかな日々の中で、約束が風化してしまいそうで怖かった。約束を果たすと、その責任を果たす事に対して自信がなくなり始めていたのかも知れない。自分の中に息づいてしまった気持ちは恩を感じているのと同じくらい……いや、もはや混ざり混ざって切り離せないほどになっていたからだ。
彼との出会いを経て、食うに困らなくなって、否が応でも身体つきも変わり、私は彼に迫った。このままでは、夜にこっそり忍び込むかもしれないと。
その事自体は彼にとっては大したことではなかっただろう。けれど私は、良くも悪くも自分が大切にされていることを自覚していた。だから、卑怯な手を使った。
男を許したことがない身体が厭わしいというのならどこかで適当に散らしてくると続けたのだ。
これできっと彼はうなずいてくれるのではないかという打算。けれど、それを抜いても有言実行する覚悟を決めたのも確かだった。
処女は男慣れしておらず痛がり、男は楽しめないという話はそれなりに聞く。とは言え、信用できない男に身を任せることは恐怖以外の何物でもない。だから踏ん切りがつかなかったのだけれど、万が一彼がその手の男だったとして、では約束を変えてほしいとは言えなかった。むしろ、恐怖や不安を越えるからこそ対価として相応になるのではとも思ったのだ。
「だああーっ! わーかったよ! 別に面倒臭えなんて思ってねえ! だから妙なこと考えんなっ」
――そうして、彼は頭を掻き毟ったかと思うと、はっきりとそう言った。
その時、私はどんな顔だったのだろう。ホッとしたのは覚えているけれど、あまりいい気分じゃなかった。恩だの感謝だのと口にする癖に、彼に大切にされていることに喜びを感じていたから。
程なくして、リンドブルムの宿の一室で、ブランクは丁寧に私の身体を拓いた。最初は身体を撫でるようだった手付きが乳房をなぞり、乳首を優しく擦ったとき。そう言えば女扱いされたことがなかった私は酷く狼狽えたものだ。
「ど、どうしてたらいい?」
「……力抜いて、楽にしてろ」
処女が、というよりは性体験がないとこうも動けないものなのかと言うほど、私は彼に対して協力的とは言えなかっただろう。端的に言って色気もなかった。それでも、彼は短気をおこすこともなく私をなだめすかしながら行為を進めた。
「落ち着かないなら目を閉じてな。仰向けは嫌か?」
「だ、だいじょうぶ」
彼の唇が肌に吸い付き、掌が何かを確かめるかのように触れる。どんな顔をしていいのか、どんな顔をしているのか分からなくて、恥ずかしくて、初めての時は気まずかった。
そんな私に、彼が何らかの楽しみを見いだせたとは思えない。だからこそ――彼に抱かれることが、務めを果たす以上の感情を私にもたらした。
「ったく……こんな調子じゃ夜が明けちまうぜ」
くすぐるように、なんでもないことのように私に触れながら、くふくふと笑ってしまいそうな私を、苦笑しながらたしなめるから。それなのに、彼の手は次第にはっきりと私に行為を意識させるものへと変わっていって。
敏感な場所を指先で繊細に扱われた私の口からは、甘い声が漏れた。
「っあ、ん」
「お、それなりの反応はできるんだな」
からかうような口ぶりに手の甲で口元を押さえると、意地悪く口角を上げた彼が隠すなよと笑った。それを見て、客観的に見れば面倒くさい女だっただろうに、どうしてだか彼の機嫌がそう悪くないものだと分かって、私は、彼の態度に徐々に心をほぐされているのだと理解した。
無理に反応しなくてもいいが好きにさせろと言われて、ベッドに転がされて。くすぐったいような感覚に笑いをこらえていれば、それも徐々にムズムズとしたものへ変わって。それが快感だと教えられて。挙げ句潤滑剤だのなんだのとあれこれ使われて、酷く優しく扱われて身体を震わせ、気づけばひっきりなしに猫のような声を上げていた。
でも、それは奉仕ではなかった。させてもらえなかった。そっちは教えてももらえなかった。けれど、その時の私にはそれに気づく余裕もなくて、ただただ彼に翻弄されて、私の初めての夜は終わった。
間近で見る彼の目が穏やかなような、妙に険しいような気がしたけれど、それがどんな意味を持つのか私にわかるはずもなかった。
ただそれ以降私は、一回では割に合わないと主張し、その次以降は彼によくされるばかりの内容に異を唱え続け、今になっても不定期に彼に抱かれている。
約束の中に、不純な気持ちを詰め込んだまま。
******
母には、誰に胸を張れなくてもいいが、自分には胸を張れる生き方をしろと教えられて育った。勿論、盗みをしたり、騙したりすることは悪いことだと言うことも分かっているが、母はそれでもそのやり方で自分を誇れるのなら突き進みなさいと言われてきた。
自分に胸を張れる生き方。それは、その時その時を懸命に生きることだと、私は思っている。だからあの日、彼に薬の対価を約束した時までの私は、母の言うことをきちんと守れていた。……今の私は、そういう意味では少しワルなのかもしれない。
彼に抱かれたくて、気持ちを伝えることもできないくせに、大切にされていると感じたくて付き纏っている。少なくとも母にバレたら間違いなくこっぴどく叱られるだろう。彼の元で世話になっていると伝えて以降、母の中で彼は恩人の中の恩人で、物凄くいい人という位置づけらしいから、私の今の有様だったらきっと彼から離されるに違いない。そしてそれは、私が彼の足をズルズルと引っ張るようなことをしているからだ。
でも、告白をしたところで彼はきっと受け入れてはくれないだろう。そもそも身体のことだって私が駄々をこねたようなものだ。
彼は母を助けてくれただけでなく、私に手に職をと、面倒を見てくれていたのに。私が独り立ちできるように手を回してくれて、私の人生を負ってくれていたのに。
――この自己嫌悪も、彼がもたらす甘い気持ちに霞んでいくのだからもはや手の施しようがなかった。
いつかこんな日は終わる。分かっていた。だからこそ自分から断ち切ろうという気になれなかった。ただの、私の我侭だ。
これじゃあ約束を果たせなかった頃のほうが幾分かマシじゃないか。そう思っても後の祭り。
だから、誰かの手によって終わりが来ることは明白だった。
「兄貴、彼女のこといい加減ちゃんとした方がいいッスよ」
「言うな。分かってるさ……」
リンドブルムの劇場街。タンタラスのアトリエにいつでも出入りできる私は、今日も彼から仕事の指示をもらいに足を運んでいたところだった。タンタラスは定期公演で各地を飛び回っているため、リンドブルムに居る期間はあまり長くない。
入ってすぐの部屋には誰もおらず、仕方なく階段を登って、奥に通じる部屋へ顔を出す直前。ブランクとマーカスが話しているその声と内容に、私は思わず足を止めた。
決して黙って聞くつもりだったわけではない。でも結果的にはそうなった。
「そう言いながらどのくらい経ってるんスか?」
「うるせえ。ルビィにも散々どやされてんだから勘弁してくれよ」
話の内容は十中八、九私のことだろう。ちゃんとしたほうがいい、というのは、……約束のこと、だろう。それくらいしか心当たりがない。
「俺は別に文句があるわけじゃないッスけど、」
くらりとした視界に、身体が咄嗟に後ずさり頭を支えようとする。その動きに逆らわないまま、私は踵を返してそこから立ち去った。二人の会話は終わってなかったけれど、終わってからじゃ遅い。
二人が私に気づく前に。会話が途切れる前に。
そっと動いたからきっとわからないはずだ。
そのまま、私はとにかく離れようと通りを走り抜けた。
場末の酒場にはいろんなやつが集まる。悪いやつばかりではないけれど、酒が入れば暴力沙汰も起こるし、それなりに治安は悪くなる。
それでも昼間から賑わうその場所で、私はタンタラスのアトリエを飛び出した昼過ぎから夕方まで、ずっとそこで好きでもないお酒をかっくらっていた。
終わった。
私と彼との約束の曖昧さからくる、決して健全とは言えない関係について。仲間から咎められていたと言うのなら、そろそろ潮時なのだろう。今まで私に付き合ってくれていた彼がどういうつもりなのかは結局わからない。優しさ……だけではないだろう。でも、彼は仕事に対して厳しい人だった。だから、甘さ、でもないと思う。
じゃあ、彼はどうして私にこんなに応えてくれていたのか。
知りたいような知りたくないような。でもそれも全て、彼との関係が変わってしまうことに比べれば小さなことだ。
大きなジョッキに注がれた麦酒から始まり、赤だの白だののぶどう酒、果実酒、その他おつまみも含め諸々……。呑んだくれた私は、酒場のカウンター席で突っ伏していた。
「おいおい、こんなところで自棄酒かあ? なにがあったかオレたちに話してみるかい?」
肩に手を回され、馴れ馴れしく話しかけられる。まあ、その程度なら平時でもあり得ることだ。けれど、私は直感的に悪い匂いを嗅ぎ取った。
重たくてぐらつく頭を持ち上げると、そこにいたのはそこそこの体躯の若い男たち。5人ほどだろうか。にやにやしているのがわかる。……深酒をしたやつから財布をスったり、今の私のようになっているやつを複数人で『楽しむ』連中だろう。
でも、どうでもよかった。
財布には大した金額があるわけじゃない。こういう場所だから勘定は都度支払っているから店からなにか言われることはない。
身体だって。
彼が大切に抱いてくれたから、そうして何度も触れてくれるから他の男を考えなかっただけで。
彼に受け入れてもらえないのなら、誰に触られても同じだ。
「話したら、慰めてくれるの?」
私の言葉は、確かに相手に伝わったようだ。呂律が怪しかったような気がするが、仮に何を言っているか分からなくてもこんな場面では都合のいいように解釈するものだ。
「ああ、勿論! オレたちみんなで慰めるよ。なあ?」
私の身体を撫で回しながら、男の一人が言うのが聞こえる。それに応える複数の声も。
「でもここじゃあうるさいからさ。静かなところへ行こうか」
男の声とともに、手を取られ、身体が持ち上がった。肩を貸すような体勢でも、足先が引きずられることはなくて。
「嫌なことはぱーっといいことして忘れよう」
そんな男の言葉を聞きながら、私は目を閉じた。ふわふわして、気分がいい。気持ちいいなら、それ以外何も考えられなくなるのなら、今の私には悪くないのかもしれないと。
「悪いがそいつは俺の連れなんでね、置いていってもらおうか」
耳に入ってきたのは、聞こえるはずのない彼の声だった。
「なんだテメエ?」
「だからそいつの連れだって」
「急に出てきて適当なこと言ってんじゃ……」
「お、おい、こいつ……ブランクだろ」
「は?」
「昔ここいら束ねてたやべーやつだよ! 俺はこいつとやりあうなんてゴメンだね!! じゃっ」
「お、おれも……!」
「あっ、おい逃げるなよ! ……くそっ!」
なんだか騒がしい。ふわふわとした心地から、ぐるんと頭と身体が振り回されるような感覚があって、なにかに当たる。よく知った匂い。
「帰るぞ」
耳元で、確かに彼の声がした。
「……どうして?」
「これでも割と探したぜ?」
目を開ければ、確かに彼がいた。私を支えるためだろう、抱きしめられていて。……こんなときでもほっとしてしまうのは、もう癖だろう。
「それより、こんな無茶な飲み方しなくてもいいだろーが。酒はもっと味わって飲めよな。今度教えてやる」
私をたしなめる声に、呆れはあってもそれ以外のものは読み取れない。椅子に戻され、私は机に突っ伏しながらも直ぐ側の彼の気配を感じていた。
「どうして、怒らないの」
「……何の話だ?」
「おしごと……」
「お前、来ることは来ただろ?」
思いがけない言葉に、私ははっとして彼を見た。急に頭を動かしたせいで視界がぐらつき、再び机へ頭を乗せる。
「どう、して」
「わかるさ、消してない気配くらい」
どういうことなの、と聞きたいけれど、聞ける余裕はなかった。
それで? 彼は不審に思って追いかけてきてくれた? でも、さっきは探したって言っていたような気がする。
「……あー、お前、話聞いてたろ」
「……うん」
言い出しにくそうな彼の声に、自然に涙が滲んだ。終わりを告げられるのかと思うと、聞きたくなかったような、これで自己嫌悪しなくてもよくなるのだろうかという仄かな期待めいた気持ちさえ湧き上がって、私はもう、自分で自分が分からなかった。
次の言葉を待っていると、彼は黙り込んで。それで、私が不思議に思って薄目を開ける頃には、彼はいつかのように頭をかきむしっていた。
「ああっ クソ……。おい、場所変えるぞ」
「んえ」
ぐい、と腕をひかれる。そのまま引っ張られたけれど、足元の覚束ない私は何かを考える余裕もなく、それについていくのでいっぱいいっぱいだった。
酒場の二階はだいたい宿屋だ。というとおかしいかもしれない。酒場が地下にあることもあるから、下に酒場があればその上は大体が宿屋だと言ったほうがいいだろうか。とにかく。
飲んだくれていた酒場の階段を引っ張り上げられるようにしながら上り、私は狭い部屋のベッドへと転がされた。
バタン、と扉が閉まり、鍵がかかる音がする。すぐにベッドが揺れて、彼が座ったのだと気づいた。
ベッドの上で上半身をおこすと、辛ければ横のままでもいいと言われる。どこまでも変わらない彼の態度に、私はどうしていいか分からなかった。
「どうして? ブランク、私との約束、もう終わらせるつもりなんでしょう?」
未だに彼のことがわからない。たまりかねて尋ねると、彼はため息を一つついた。
「まあ、そう思ってるだろうと思ったけどよ……そうだな、お前との約束はもう十分だと思ってる。前から思ってた」
そして、私にそう言ったのだ。
「私、まだなにもしてない」
つぶやくと、彼はそういうわけでもないさと柔らかく否定した。
「お前はずっと覚悟を支払ってただろ」
「……?」
「対価を俺に渡すつもりだった。ずっとな」
彼が何を言おうとしているのか、よくわからない。それでも、酔っ払った頭だからだろうか、どうしてだか伝わるものがあった。
――つまりそれは、私の心の機微など、彼には全てお見通しだった、ということだろうか。
覚悟を支払ってきた。前から、約束はもう十分だと思っていると、彼は言った。
「恩なんてのはな、くれたやつにはなかなか返せねえモンだ。そもそも金じゃ解決しねえ話だから余計にな、何をやったって返した気にはなれねえ。だから、お前が約束したこと以上に俺に抱いてる気持ちを、多少除けてやるつもりだったんだ」
それって、だから、そういうことでしょう?
「結局のところお前を抱いたのは、俺に欲が出たからさ。だから別に、お前が気にすることじゃない」
彼の手が私の頭を撫でる。そのままするりと位置を変えて、手袋越しの親指が優しく私の頬をなぞった。それが気持ちよくて、目を閉じそうになる。でも、彼はそれを許してはくれなかった。
ぐっと顔を近づけて、まるでキスでもするのかと思うほどの距離で凄んだのだ。
「またぞろ妙な思い込みで突っ走られちゃたまらねえからな、酔っ払ってようがはっきり言っておく」
今まで一度もなかったその距離にビクリと身体が反応する。キスなんて、一回だってしてない。そんな素振りさえなかった。そうじゃなくても、こんなに間近で彼を見ることなんてなかった。滅多に見ることのない目が見える。私を見ている。
「お前を抱くのをやめなかったのは、俺がそうしたかったからだ。だから変な勘違いするなよ」
彼の声が耳を通って頭に入ってくる。言われたことを何度もリフレインして、そうしてようやく口が動いた。
「勘違いって、なに」
「俺はオンナを引っ掛けるならお前みたいなやつはまず選ばねえってことだ……。あー、まどろっこしいな。お前みたいなやつ、好きじゃなけりゃ抱かねえよ。ここまで言えばわかるだろっ?」
彼はいちいち言い方が回りくどい。
「オイ、人が折角告白してるのにその言い方はなんだよ」
どうやら、口に出ていたらしかった。そう言われても本当のことだから否定する気は起きない。
だって、だったら、
「……よかった」
「あ?」
「ブランクが来てくれて」
他の男に触れられる前に、彼が迎えに来てくれてよかった。だって、本当にもうどうでもいいって思っていたから。
じわ、と目が熱くなって、涙が溢れる。拭うのも面倒で何度かまばたきをしていると、彼の唇が落ちてきて、そっと吸い取られた。
「泣くな」
「うん……」
「抱きにくい」
「……うん? するの?」
「じゃなきゃこんな所に連れ込まねえよ。嫌か?」
嫌ではない。嬉しい。でも、
「……吐いちゃうかも」
経験がないほど飲んでいる。幸いにも今の所吐き気はないけれど、この後どうなるかなんて全然わからない。こんな嬉しいことを、次に目が冷めたら覚えているのかどうかも分からない。
そんなことをぽつぽつと言っていると、彼はいよいよベッドに体重のすべてを預けんと乗り上げてきた。
「後始末なんて今までずっとしてきたろ。今更ゲロの一つや二つで怯むかよ」
……どうやら、彼はいつになく乗り気のようだ。折角初めて彼から誘ってもらったのに、私がこんな有様でいいんだろうか。……いいんだろう、な。私だって、初めて彼から迫られて物凄く舞い上がってるんだから。
「お前が覚えてなくても、嫌でも分からせてやるさ。だから安心して抱かれな」
「……うん」
彼の腕が私の身体に回って抱きしめられる。私も彼の身体に手を回して、そうして初めて唇同士が触れた。
******
「……」
あたまが、いたい。
目が覚めて真っ先に感じたことはそれだった。ほんとうに、今まで感じたことがないくらいの頭痛に、枕に頭を押し付ける。唸り声を上げることもままならず、まんじりともせずに痛みと戦っていると、よく知った声が聞こえた。
「よう、起きたな。気分は……って、聞くまでもねーか」
はくはくと口を動かしても、声を出すほどの力が出ない。そんな私の姿を見下ろしながら、彼はベッドの脇にしゃがみこんで、私と目線を合わせた。
「ま、水でも飲めよ。コーヒーが好きならそっちにするか?」
「……みず」
「りょーかい。ほら」
正直、頭を上げるのが辛い。それでも飲まなくてはいけないことは理解していた。これも彼の教育の賜物だろう。
身体に力を入れると頭痛が強くなる感じがして、身体を起こすまで大分かかった。うつ伏せの状態から腕を使ってどうにか四つん這いになり、頭を持ち上げる。そんな私に、笑みを含んだ彼の声がかけられた。
「飲ませてやろうか」
そんな事を言いながら、何が楽しいのか珍しくけらけらと笑っている。少し恨めしく思うものの、昨日の記憶はバッチリあったので、彼のそんな態度が嬉しいようにも思われて、唸るに唸れない。でも、彼が私と同じ気持ちだから楽しげだというには、違和感もあった。
どうにか水を飲み、彼が手ずから作ってくれたという二日酔いの症状を和らげる薬も飲んで、結局私が話ができるほど回復したのは昼を回った頃だった。そうなってようやく、私はタンタラスの所有する飛行艇に設けられたベッドルームにいるらしいことが分かった。アトリエだと個室がないからと言われて納得はしたけれど……それよりも。
あの後、私はベッドの中で醜態をさらさなかっただろうか。漏らしたりとか。
不安になって尋ねると、ブランクは笑みを引きずりつつもいつものようにニヤリとした笑みを浮かべて答えてくれた。
「一番最初に気にするのがそこかよ……。まあ、記憶があって何よりだ。全部片付けといたぜ。だから昨日どうだったかなんて問題じゃないだろ?」
これだ。この答え方。昨日ほどはっきりと教えてくれるつもりは、もうないらしい。
不満そうな顔をしていたのか、ブランクはベッドの端に腰を下ろした。彼の体重でぎし、と音が響く。
「それよか、機嫌は直ったか?」
「……え」
急に彼の声に甘さが滲んで、私はどきりとした。
「昨日みたいな危なっかしいことはもうゴメンだって言ってるのさ。……そういや前もそんな事あったっけな……」
彼の声が記憶をたどるようにして小さくなり、私は顔が赤くなるのを感じた。
確かに勘違いで随分と危ないことをしようとしていたし、気分は最悪だった。昨日のそれはもう、持ち直したと言うにはあまりにも恵まれていて、まだ実感がない。
「でも、ブランクはずっと乗り気じゃなかったのに……どうして急に、あ、あんな……」
何度も甘く唇に吸い付かれたのを思い出して、私は耳まで熱いのを感じつつ疑問を投げた。好きだったと言ってくれるのなら、どうして……。
「……元々、お前みてーな子どもに手を出すつもりなんてなかったんだよ。だっつーのに、お前は人の気も知らねえで……懐くのはまだしも、何度も何度も体当たりで誘ってきやがって……。俺がどんな気持ちでお前を抱いたか」
「そんなコト、言われても」
どうして彼のほうが恨みがましそうなのだろう。納得がいかない。
「口約束を果たそうって気概は気に入ってたけどな。……妹分に手を出すのは、気が引けるだろ。しかもそいつは俺の罪悪感なんざこれっぽっちも気づかないまま、あっという間にいっぱしのオンナになりやがる」
ふてくれされたような彼の言葉に、私は目を丸くした。彼の気持ちがどこにあるかなんて、今はじめて知ったのだ。だって、ずっと教えてくれなかった。気づかせてもくれなかったのは彼の方だ。
でも、そうすると、彼は私を抱くと言ったあの頃すでに、私を一人の女として見てくれていたということだろうか。
「なに、それ」
じゃあ、私は最初から報われていたのだ。とんでもない果報者じゃないか。それをふいにしようとしていたのは私自身だったのだ。
「言っとくが、お前こそ俺に何も言わないまま自棄になったんだからな。マジで口約束に意固地になってるだけの線も考えてた」
彼が私をたしなめる。……どうやら、これを怒っていたらしい。
「……だって、全部全部ブランクにお世話になっておいて、すきなんて、言えない」
「対価はもう充分だって言ったろ? 俺から行けばいよいよ手篭めにしたみたいになるだろーが」
つまり私達は自分でやったことに囚われて、互いに身動きできなくなっていたらしい。
それを理解すると、どうにもホッとしてしまって、私は思わず笑ってしまった。
「ブランク、あなたが……すき。ずっと前から、好きだったの」
伝えると、彼の口元が柔らかく弧を描く。それをもう、どういうつもりなのか不安に思うことはなかった。
「そういや、お袋さんに挨拶しとかねーとな」
「え?」
なんとなく甘い空気になったのを気恥ずかしくも感じ入っていると、突然彼がそんな事を言いだした。
「お前に薬渡した後、回復した頃だったかな。直接礼を言いに……というか、乗り込んできたと言うか……とにかく、俺んとこまで来たんだよ、あの人。それで、薬の代金の話を切り出されてな。何を対価にしたかは大体察するけど、必ず何かの形で払わせてやってくれって頼まれたのさ」
「ええ?!」
知らない。彼からは勿論、そんな話、母からだって聞いてない。
「まあお前もまだ15だったし、見守るつもりだったんだろ。それもあって尚の事、お前にのんきに迫られる度にお袋さんの顔がな……」
自分の気持と、約束の話で揺れていたのは彼もそうだったとでも言うのだろうか。
「のんきは酷い」
「俺からすりゃのんきで充分だ。おかげで仲間から散々その話でいじられたんだからな」
……。
「そう言えば、どうして皆知ってたの? 私、言ってないよ」
「そういうのに耳が早いやつがいるんだよ」
「ふうん……? ルビィのこと?」
「なんでそこでその名前を出す」
彼がぎくりと身体をこわばらせる。昨日『どやされてる』と言っていたからそうじゃないかと思っただけだったのだけれど、あたっていたようだ。
「苦手なの?」
「いや、まあ……そうだな、なんつーか、言うことが正論だからタチが悪いというかな……」
歯切れの悪い口ぶりに、いつも飄々としている彼が本当に頭が上がらないのだなと思う。少し羨ましい気もするけれど、こざっぱりとしてはきはきした彼女のことは好きだし、今はアレクサンドリアで劇場を切り盛りしていると聞くが、逞しい生き方には尊敬を覚える。自分にはとても無理だという気持ちも込めて。
「あいつの話はいいだろ。とにかく、俺も腹括ったってことさ」
「……もし私が、この瞬間も、この先もずっと約束にこだわってるだけで、あなたに強い恩を感じてるだけだったらどうしてたの?」
ほんの少し。意地悪な気持ちが芽生えて、意趣返しなんて言うつもりはないけれど、そうつぶやく。彼は改めて私を見下ろして、それから私の手を取って。
「お前の好きなようにさせただろうし、盗んででも連れ去ってただろうな」
「なに、それ」
「惚れた弱みってやつさ」
まるで何かの役を気取るように、彼はそう言って私を抱き寄せたのだった。
2020/09/18 UP
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