真夜中の熱量

 深夜。静まり返ったカルデアの中で動くものの気配は殆どない。代わり映えのない外の景色もあって一日の感覚が狂いやすいのを、まだ未成年の人類最後のマスターのために、そうでなくとも回り回って自分たちのために正しく過ごしているこの施設の中にあって、深夜にコーヒーを淹れる私は異端だ。
 夜中、全く人が起きていないかというとそうでもない。徹夜で作業に当たる者も少なくはない。けれど、こうしてサーヴァントさえいない食堂で、わざわざ自分の手でコーヒーを淹れるモノ好きは私くらいのものだろうと思う。実際、私の他にこうしている人を今まで見かけたことが無かった。
 毎晩の気分転換を兼ねていること、そして夕食に出されたひとかけらの甘味を取っておいて、この時に食べることを楽しみにしているのを知っているのは、食堂の管理をしているごく一部くらいのものだ。
 ドリッパーに敷いたコーヒーフィルターの中、挽いた豆がお湯を含み、苦みのある飲み物になってコーヒーポットへ落ちて行く様を見下ろしながら、芳ばしいその香りに瞼を伏せる。鼻から深く息を吸い込むと、眠気もあってか、軽く頭の中がふわっとして、眩暈にも似た酩酊感を覚えた。
「いいね、それ、僕にも一杯くれないかい?」
「!」
 心地良い感覚に身体を委ねていると、ふと背中から何かに包まれた。それに驚く間もなく、耳元で、それも物凄く近い所から抑え気味の声が聞こえて、身体が跳ねた。悲鳴は出なくて、本当に、その場でジャンプするように飛び跳ねた私を、誰かは平然と受け止めて。
「あはは、ごめんごめん。君って動物みたいな反応するんだね」
 乾いたようにも聞こえる、ハスキーな声。私とそう背丈の変わらない、若い姿のサーヴァントが一騎、そこにはいた。
「ビ、ビリー・ザ・キッド、さん」
「ビリーでいいよ、職員さん」
 未だ激しい心臓の鼓動を宥めるように胸の前で手を重ねる私に、彼は無邪気に笑った。人類が、人類史が未曽有の危機に晒されて間もなくここへの召喚に応じてくれた一騎。明るい笑顔を振りまいて、すっかり馴染んだのはもう随分前の事だ。……こうして話をするのは、初めてだけれど。
「び、っくり、しました」
「うん。ごめんね」
 しどろもどろにもそう告げると、彼はあっさりと謝罪を繰り返した。いつもと少しだけ違うように思える声色だったけれど、こんな夜更けだし、声を抑えているのだろう。静かなそれに疑問も浮かばなかった私は、その場で一度深呼吸をして気持ちを落ち着けた。
「私が淹れるコーヒーでいいんですか?」
「うん。君、いつも砂糖たっぷり入れるだろ? 同じものが欲しいんだ」
 エミヤはちょっと口煩くてね、なんて肩をすくめる様子はいつも通りなのに、なにか、違和感が拭えない。
「いつも……?」
 どうして知っているのか、なんて愚問だ。サーヴァントは霊体化できるのだから。
 違和感があったのは、なぜ彼が私についての事柄を覚えているのかということだ。僅かでも興味を持たれているらしい、ということに対して。
「気付かれてないと思った? 君、いつもこっちを見ていたじゃないか。そりゃあこっちだって意識するよ」
 私の思考はそのまま顔に出ていたのだろう、彼は悪戯っぽくウインクをしてそう言った。瞬間、私の身体が熱くなる。
 だって、それは。
「す、すみません……」
「謝らなくてもいいよ。理由も、そんなに興味があるわけじゃないしね」
 ――笑顔の絶えない彼を、眩しいと、思っていた。
 私は人の輪の中に積極的に入るタイプではないし、人付き合いはどちらかというと煩わしく感じる方だ。別に誰も彼もを嫌っているわけではないし、それなりにそつなく応対できる方だと思っている。でも、気を遣うし疲れるのも確かで。だから、サーヴァントながら明るく笑って、人の輪の中に入って馴染んでいった彼の印象が強くて。
 勝手に、仄かな憧れを抱いていた。尊敬もしていた。サーヴァント相手に畏れ多いことだけれど。
 ……それにしても、少し意外だった。ビリー・ザ・キッドは拳銃王として名を馳せた『伝説』だ。少し本を開くだけで、彼の生きた時代、生涯を覗き見ることができる。何を思い、感じて生きたのかは分からないけれど、人の視線に敏感だというのは言われてみれば納得できるものだ。けれど、こうして彼の方から私にコンタクトを取ってくるほどの何かが、私にはない。彼と私に接点など、できるはずがなかったのに。
「だったら、こうしてお話しているのは奇跡みたいなものですね」
 私が彼を見ていた理由には興味が無いと、彼は言った。であれば、わざわざ口にすることもないだろう。
 気を取り直して、彼の分のコーヒーを淹れる準備をしながら、代わりに舌にのせた言葉に彼はきょとんとして、それから静かに笑った。
「かもね」
 暗い食堂の中、灯りは誘導灯くらいのものだ。けれど、彼のその微笑は明るい部屋で見るそれよりもずっと魅力的で、目が放せなくなるかと思った。
 ぎゅっと心臓が収縮して、胸が痛い。泣きたくなるような、切なさにも似た、甘い疼き。
 皆が知らないかもしれない、彼の一面に触れたような気がして、喜びのような、狂おしい何かが胸を圧迫する。
 ――でも、それはきっと、傲慢に違いない。
 彼が食器棚からマグを取り出す様子を視界に入れながら、私は衝撃から立ち直るのに少し、かかった。
「どうしたの? 緊張してる?」
「いえ、……ああ、いや、そうですね。緊張、しています。貴方はサーヴァントで、マスターと同じく、戦いの矢面に立つ方なので」
「んー。堅っ苦しいのは無しにしようよ。ここにいる以上は志を同じくする者なんだし。ね?」
 取り成すような彼の言葉に、曖昧に頷く。そう言われても、はい分かりましたと即座に態度を変えられるほど器用でもないし、ノリが良いわけでもない。
「召使い扱いされるのも困っちゃうけど、あまりにもあからさまに貴賓扱いされるのも、ちょっと」
「……アウトロー的に?」
「そうそう」
 おずおずと出した言葉を、彼が優しく拾い上げる。そっとその顔を窺い見ると、バッチリ目が合ってしまった。
「あ、やっと目が合った」
「っ」
「目を合わせるのは嫌いかい? やっぱり動物みたいだ」
 思わず目を彷徨わせて狼狽えていると、彼は気分を害した様子もなく、くすくす笑った。
「す、すみません。慣れてなくて……」
「いいよ。今まで目が合うことが無かったから、新鮮だったってだけ」
 軽口というのはどうも慣れない。これもきっと、少しからかいを含んでいるだろうことは分かるけれど、上手く会話に乗っていけない。なにも言葉が思い浮かばない。
 けれど、年下に翻弄されている、とは思わなかった。サーヴァントに年齢などナンセンスだ。それに、彼は現代人が少年と称するものに当てはめるには余りにも成熟している。翻って、自分の未熟さをこんなにも感じてしまうほど。
 本当に、どうして彼は私に話掛けてきたりしたのだろう?
「……からかってごめんね?」
 上手く言葉を返せないでいると、少し申し訳なさそうに眉尻を下げて、彼が言った。その表情に、こちらの方が申し訳なくてたまらなくなる。
「いえ、あの、……う、うまく返せなくてすみません……」
 あと、謝ってばかりで。
 小さく付け足すと、彼は緩く首を振って否定してくれた。
「黙ってた方が良い?」
「それはそれで……緊張しますね」
「じゃあ、少しずつ喋ろう。君はコーヒー、甘いのが好きなの?」
 少し掠れた彼の声は低くて、まるで声を潜めているように聞こえる。内緒話をしているようで、わくわくするような、どきどきするような。
 私は挽いた豆がお湯を含んで、充分に膨らむのを見守りながら答えた。芳ばしく好ましい香りが再び、鼻腔をくすぐる。
「そうですね……。砂糖と、ミルクはかなり多めです。コーヒーじゃなくて、カフェオレだよって言われたこともあるくらい……。ビリーさんは?」
「そうだなあ、好きか嫌いかを意識したことはなかったけど……君はさ、寒い夜の荒野を知ってる?」
 突然話が飛んで、私は首を横に振った。疑問を持ったことは顔に出ていただろう。彼は、笑みを少し、深めて。
「そこで飲むコーヒーはいいよ。砂糖を煮詰めたくらいのドロドロの一杯を口にすると、身体の中に熱が入って、お腹から温まる。……それがゆっくりと馴染んで、今度は身体が熱を作り出すんだ。そして指先まで届く」
 そう語る彼の顔は穏やかだった。また目が離せなくなりそうになって、それを無理矢理に引き剥がす。コーヒーフィルターの中心に細くお湯を注いで、落ちる音に耳を澄ませた。
「見上げると夜空が迫ってきてね、星の瞬きを見ながら静けさが耳から染み込んできて……」
 聞き慣れたものよりも低い声が、鼓膜を震わせる。まるで一人の男の人のような――実際、彼がそうでなかったことはないのだけれど、意識の問題として――気がして、妙に落ち着かない。
 トットッ、と心臓から、少し早い鼓動を感じるほどになった頃、コーヒーが淹れ終わった。
「……この旅が終わって、カルデアの外に出られるようになったら、君にもぜひ一度堪能してほしいなあ」
 夢のある話だ。彼に限ったことではないけれど、このグランド・オーダーを、誰一人欠けることなく完遂することを疑わない姿勢は好ましいと思う。私だけでなく、皆不安に感じている……はずだ。けれど、それでも今できることを精一杯やっている。だから、サーヴァントからまるで背を押す様にしてそう語られると、湯船に冷えた身体を浸すような心地に似た感覚になる。安堵……とは少し違うけれど、なんだか、地に足がついたような、心の揺らぎがしっかりと支えられるような。
「では、その時はビリーさんにコーヒーを淹れていただきましょうか」
「いいね。勝利の祝杯をあげよう」
「お酒ではなく?」
「お酒じゃなくて。カルデアの外でさ……ああ、勿論君はちゃんと暖かい格好でだよ」
 これは約束……に、なるのだろうか。それでも、彼とそんな風にささやかに乾杯するのは、素敵なことのように思えた。この旅を無事に終えた証左、という意味でも、いつも明るく弾けるように笑う彼と、静かな夜に二人で――
「あっ」
 そう思い至った所で、コーヒーポットからおろそうとしたドリッパーが手から滑り落ちた。ドリッパーは陶器製で、だから、これから起こるだろう派手な音と惨状に心臓がきゅっと跳ねた。
「おっと」
 私が手足が瞬間的に冷えたような感覚に陥って動けなくなる中、彼はあっさりと手を伸ばして、それを掴んでいた。
「すみませんっ 大丈夫ですか?」
 危なげなく受け止めて貰ったけれど、お湯を受け止めていたドリッパーはかなり熱いはずだ。その中にある豆も。それに、彼は手袋をしていなかった。
「僕は平気。君は?」
 何でもないようにそっとドリッパーをシンクに置きながら言う彼に、申し訳なさが募る。萎れた心そのままに縮こまり、私は床に目を落とした。豆が幾らか零れてしまっている。
 片づけは別にいい。大したことじゃない。でも、彼の手に豆が掛かったかもしれないと思うと、あの瞬間、思い至ったことに舞い上がってしまった自分に強い羞恥が湧いた。
「本当にすみません……! 火傷は……」
 いきなり手を掴んで患部を見ることも出来ず、私は両手を中途半端に浮かせた状態で彷徨わせた。狼狽が全てその挙動に現れていた。
 浮足立つ私を、彼は軽快に笑い飛ばして。
「大丈夫だって。落ち着いて」
 親しんだその声と顔に、頭で考えるよりも先に彼が無理をしているわけではないことが伝わってきて、肩の力が抜ける。胸の前で手を握り込んだ。
 彼がサーヴァントだと言うことが分かっていても、これよりももっと酷く損傷する戦闘があることを知っていても、言葉を掛けずには居られなかったのはどうしてなのだろう。
 嫌われたくないから? 見限られたくないから? 円滑な関係を築いておきたいから? 彼の姿かたちが、人間のものだから?
 ――彼の明るい笑顔が自分にも向けられたことで、ほっとしたのは何故なのだろう。どうして私は、彼が一言もそんなことは言ってないのに、コーヒーで祝杯を挙げようと言われた時、『二人で』だと思ってしまったのか。
「職員さん?」
 呼びかけられ、ハッとする。そうだ、だって彼はまだ私の名前さえ知らないのに。
「いえ、……よかったです、あまり酷くないみたいで。すみません、ありがとうございます」 
 意識して深く息をする。考えても仕方がないことを考えるのは止めておこう。特に、今目の前に彼がいるというのに他の事に気を取られているのは失礼だ。
「……ビリーさんは、お砂糖、どれくらい入れますか?」
 切り替えてそう訊ねると、彼は一拍置いた後、ニヤリと笑った。
「君と同じで」
「――」
 心を読んだようなタイミングは、勘弁してほしい。

******

 コーヒーに舌鼓を打っている間は静かなものだった。ぽつぽつと話はするものの、低く冷蔵庫が稼働する音が響く程度で、私たち以外に足音も気配もない。
 いつもと違うのは、隣にサーヴァント、ビリー・ザ・キッドがいること。彼がいつも見るように、明るく楽し気ではなくて、穏やか且つ静かに佇んでいることだった。
「……うん。美味かった。ありがとう」
「いえ、お粗末様でした」
 そこにいた時間は、長くなかったと思う。なんなら、一人で味わっていた時よりも短くさえあったかもしれない。
 けれどいつもよりもずっと新鮮で、終わるのが名残惜しいとさえ感じていた。
 どちらともなく片づけをして、それが終われば、私は仕事に戻る。もう少し話をしていたいような気もしたものの、かと言って持っている話題もなくて。好きなものや嫌いなものでも聞けばいいのだろうけれど、話がそこから続いてしまえば、仕事のスケジュールがキツくなる。
「では、私はこれで」
「また機会があれば、よろしくね」
 軽く頭を下げて、その場を辞す。歩き出したところで、呼び止められた。
「あ、そうだ」
「?」
「君、猫舌だったりする?」
 彼の顔を見る。表情からは特になんの意図も感じられなくて、私は素直に答えた。余りにも熱いのは不得手だと。
「オーケー。覚えとくよ。呼び止めてごめん。仕事、頑張って」
 薄暗い中、彼が緩く手を振って見送ってくれるのが分かる。矢継ぎ早に言葉を続けられて、どうしてそんなことを聞くのか、聞きそびれてしまった。
「ありがとうございます、いってきます」
 でもまあ、嫌な感じではなかったし。彼と少し話をしたおかげだろうか、気分は良かった。このまま眠れたらいいのにと思うくらいには。
 一方でどこか、いつもよりも目が醒めて、やる気が湧いているような気もしていて、私は自分の作業場へと足を進めた。聞く人が聞けば、いつもよりも軽やかだったかもしれない。実際、その後はかなり捗って、早く寝ることができた。

 ビリー・ザ・キッド。初めてまともに会話をした最初のサーヴァント。
 このとき交わしたささやかな約束が、私の感じた通りに叶うことを、私はまだ知らない。

2019/10/23 UP

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