こころ召しませ・男

「――おまん、今なんちゅうた」
 以蔵さんの声は、本当に微かではあったものの、はっきりと苛立ちを含んでいた。
「今夜一晩、部屋の外に居てほしい。なんなら、エミヤにお酒を融通するように伝えて――」
「そがなもんえい」
 ぴしゃりと俺の提案を跳ね付けて、以蔵さんは真っ直ぐに俺を睨んだ。
 全てを言い終わらない内に遮るようにして言葉を重ねられるのも、俺を、じっと睨めつけるのも。ここ最近はなかったことだったから、腹の下の方が重くなる。
 酒好きを公言する彼が俺の提案を蹴るのは予想外――でも、ない。自惚れていいのなら、以蔵さんとは随分心の距離が近くなったと思うし、正直、気に入られていると思う。お酒より優先順位が高くなる程度には。
 以蔵さんには、長らくお世話になってきた。最初はアサシンクラスでの編成で。徐々に絆を深めた後は、騒ぎが起こる度に護衛として。そうして、彼が俺の部屋の中に居着くようになるまで、然程時間はかからなかったように思う。
 晩酌には付き合えないが、機嫌よく酒を飲む姿は好ましい。……この感情が、もっと穏やかなものであれば。彼の信頼に報いることができるような、誠実で、清らかなものであれば良かったのに。
 俺は彼が、俺の陣地で寛いでいるところを見るにつけ、その、身体の昂ぶりを覚えるようになってしまっていた。……いいや、小奇麗な言葉で取り繕うのは良くない。俺は、欲情した。
 繊細そうな――誰かは彼のそう言う心の機微を面倒くさいとか、小物臭が酷いとか言っていたけど――そういう気質の彼が、俺には気持ちのいい笑顔を見せてくれるようになったこと。それを嬉しいと、喜んでいる場合じゃなかったのだ。
 男らしくて、逞しい身体。そういうものに劣情を催す人間だということを、俺は、随分前から知っていたのに。女の人の持つなめらかで心地よさそうな身体には反応しない。
 それを酷く気にした時期もあった。特殊な状況と環境の前では、吹き飛ぶような悩みであったけれど。まさか、またそんなことが気になるような気持ちになるなんて、思ってなかった。そんなの、分かるわけない。実際に目の前にいて、俺に笑いかけてくれて、心底信頼してくれているのが伝わってくる。そんな状況になるなんて、誰が分かったっていうんだ。
「おい、何とか言いや」
 危うく自嘲を浮かべるところだった俺は、以蔵さんのドスの利いた声に思考を引き戻された。
「……いや、ほら、分かって欲しい。俺も男だからさ……そういう夜があるんだって」
 今までも抜いてたりした。でもそれは、以蔵さんにそう思うまでは、自分の身体と上手く付き合うための処理でしかなかった。実際、そう言う面ではカルデアの職員のみんなからの理解もあって助かっている。……オカズの用意、とか。こっそりとしたものだけど。
 でも、この衝動が指向性を持った。以蔵さんだ。だから、困っている。
 今はいい。一人で『処理』をするのに、誰かの名前を呼ぶなんてこと、しない自信がある。でも、そこに以蔵さんがいるって思うと、興奮度が余りにも違いすぎる。ましてや、もし、男同士だからと気兼ねなく以蔵さんに茶々を入れられでもしたら。――裏切りってレベルじゃ、ない、よなあ。
「……おまん、一人でしゆうがか?」
 俺の言いたいことを酌んでくれたらしい以蔵さんは、眉を寄せてそう呟いた。声の険は大分和らいでいたものの、今度は酷く訝るような雰囲気を纏っている。
「そりゃあ、まあ」
 彼の言わんとする所を分かりかねて、曖昧に答える。
 そこに、思ってもない言葉が落とされた。
「どういて一人でしゆうが? ここにはこじゃんとサーヴァントがおるがじゃ、相手にゃ困らんやか。誰ぞ誘うて連れ込めばえいろう。……ああ、それでわしを気にしゆうがか。えい、えい、護衛なら任いちょき。慣れちょるき、気にせんでえい。心得ちゅう」
「は、いや、え、待って、ちょ、まず、なにもよくないよ?!」
「なんじゃ、別に恥ずかしがることでもないろう。それか……誰でもえいわけじゃあないっちゅうことかえ? 目当ての奴がおると」
 にやり。
 以蔵さんの眼が楽しそうに歪んだ。
 あ、これは。しくじったな。誤魔化したところでからかわれることは必至なやつだ。
「けんど、その様子じゃとおまん、まだ餓鬼じゃろ。本番で失敗せんよう、わしが教えちゃろか」
「……は、」
 必死にどう取り繕うべきか、いや、そう言うことにして兎に角今晩は勘弁してもらおうか。
 頭をフル回転させていると、以蔵さんの言葉の中に妙なものが混じった。
「え?」
「なんも知らん年少に教えるがも年長の役目じゃき」
「……えっと、何の話を、」
 ついていけずにそう訊ねれば、
「はあ? なにを呆けちゅう……やき、筆おろしじゃ。一人でしよっても上手うならんきに」
 ――。
 ひゅ、と、俺の喉が奇妙な音を立てたのを、彼は聞いただろうか。聞こえていても、大して気には留めなかっただろう。だって、名案だとばかりに明るい顔をした彼は、マフラーを緩めて、ベッドに腰掛けて、俺を、手招いている。
「いや、ちょっと、待って」
 状況についていけずに混乱する俺はどう見えたのか。以蔵さんは酷く無防備な顔で、立ち尽くす俺を見上げた。
「なんじゃ、どういた」
「……ええと、」
 言いたいことは沢山ある。聞きたいことも、確認したいことも。そのどれもが上手く言えず、言葉に窮する。一体何を、どこから切り出せばいいのか分からない。
 まごつく俺に、以蔵さんの顔が急に、すぅと冷え込んだ。
「人斬り相手は不満かえ」
「っ、そんなことは、ない!!」
 不満どころか! ……ただ、不安なだけだ。だって――以蔵さんだから、こんなに身体が、気持ちが掻き乱されるのか、俺には分からないのに。
 流されれば、きっと楽だ。多分、気持ちいい。
 誰に教わらなくてもそう感じるのは、本能なんだろうか。……それとも、見当違いなただの期待にすぎないのか。俺には、分からなかった。
 分からないことだらけだ。自分の気持ちも、以蔵さんの気持ちも、このまま、何もしないでいれば起こるであろうことも。
「……マスター、おまん……ひょっとして」
 そろりとかけられた声に、不自然に肩が跳ねた。うっ、と唸るような声が喉からまろび出る。
「普通のヒトじゃっちゅうのに、レイシフトは出来て、房事が怖うておじりゆうがか゜? げに妙な奴じゃのお」
 しげしげと見つめられ、返す言葉もなく以蔵さんの視線を受け止める。……よかった。惚れてるとか惚れてないとか、そんな内容でからかわれてしまったら俺の心は間違いなく天誅されていた。
 誰か俺に教えて欲しい。彼に触れたい、触れて欲しいと望むこの心に、名前を付けて欲しい。まだ20年も生きていないけれど、いつだって男にばかり劣情を催してきた自分は、きっと同性しかそう言う目で見られないのだと思う。でも、じゃあ、世間一般の恋人のようになりたいのかと言われると、分からない。
 目の前にいる岡田以蔵という人は、その答えを知っているだろうか。
「えい、えい、楽にしいや。最初からなんにも教わらんで上手い奴なんぞおらんきに」
 彼が上機嫌で、酷く楽し気なことは伝わってくる。でも、それだけだった。……俺は本当に、ここで以蔵さんに任せてもいいんだろうか。
 不安だった。まだ、誰ともこんな風になったことはない。身体で得る快楽は知っている。でも、じゃあ、心で得る快楽とは、一体どんなものなのだろう。それは、ここで有耶無耶のままにしてしまえば、もう知ることはないのではないか? 焦燥感にも似た感覚が、炙るようにしてじりじりと胸を焼く。
「何なら目ぇ塞いで、ああ、耳も塞ぐかえ? 手の具合はどうしようもないけんど、多少は誤魔化せるろう」
 俺の胸中は、正しく以蔵さんには伝わっていないだろう。もしかすると、俺が罪悪感とか、ばつの悪さを感じているのだと思っているのかもしれない。そう言うものを、まるで服を脱がせるようにして、以蔵さんは一枚一枚、取り払っていくように言葉を重ねていく。どこか違和感を覚えたけれど、以蔵さんの表情はずっと楽し気で、勿論それはいくばくかの揶揄いを含んでいるもので、俺は分からなくて、だから、――振り切るように首を横に振った。

2019/03/24 公開 2025/04/26 UP

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