色事は銘々稼ぎ

(1) 愛弟子

「お~い愛弟子ー!」
 集会所内に溌剌とした男の声が響く。やかましい、うるさい、と窘められることさえあるその声を聞きながら、私はうさ団子に舌鼓を打った。
 カムラの里への流通にも利用される大きな川のせせらぎが近い。集会所に併設されている食事場は屋内だけでなくテラスや集会所を出て直ぐの道の脇にも椅子やパラソルを立てていて開放的な作りになっているのだが、私はこの川に面した席が特に気に入っている。人の出入りが限られているということもあるが、時折オトモたちが里を出て行くのを見送り、手を振れるからだ。
 この里に来るようになってから長いが、変わらない光景には退屈どころか安堵さえ感じてしまう。……それがまだ彼が誰のものでもないと言うことに対するものだと否定できない辺りが、まだまだ彼に相応しくないなと思う。

 ちら、と横目に彼の姿を見遣る。後ろ姿だけれど、しっかりした体躯に堂々とした姿勢ながら、彼がいっとう目をかけているお弟子さんの姿を見て、嬉しそうにしているのが分かった。
 カムラの里のウツシ。優秀なハンターであり、後進の育成にも力を注ぐ教官でもある。
 今よりもずっとハンターとして未熟だった時分に命を救われて、自分の力量でハンターを続けていけるのか不安になっていたのを親身に相談に乗ってもらってから、私はずっと彼に懸想している。
 いつ来ても、何年経っても変わらず朗らかに挨拶をしてくれて、たちの悪い余所のハンターに絡まれればやんわりと助けてくれて、なのにきっちり過ぎるほど節度を守って接してくれる彼に、勝手に熱を上げて、同時にどうしようもなく脈のなさを感じて久しい。
 誰にでも優しい彼が、持ち前の誠実さで告白をする前の娘たちの淡い気持ちを萎れさせてきたことは聞き及んでいる。また、誰が告白しても頷いたことはないのだという。他でもない彼のお弟子さんに聞いたから間違いない。
 温かいお茶を啜る。うん。お団子とよく合う。
「こんにちは、タワコさん! 遅くなりました」
「……こんにちは。私は別に構わないけれど、あなたの教官が後ろで寂しそうにしているわよ?」
「えっ あ、いや」
 口の中のものを飲み下したタイミングで声をかけられ、私はゆっくりと目線をそちらへ向けた。声をかけてくれたのはカムラの里が誇る新進気鋭のハンター殿。彼の一番のお弟子さんの姿があった。私よりも年若いその姿はエネルギーに満ち満ちていて、いつ見てもまぶしさを覚える。その向こうに、可愛がっているお弟子さんに相手にして貰えなかったのか、物凄く寂しそうに行き場のない手を彷徨わせるウツシさんの姿が目に入って、私は内心どきどきしながらも年上らしく振る舞った。
 このお弟子さんは、いとも容易く彼の色んな表情を引き出してしまう。数多の女が声をかけてもびくともしないのに。
「ちゃんと挨拶しましたよ。ね、教官?」
「ああ、そうだね! 今日も愛弟子が元気そうでなによりだ!」
 お互いの顔を見合う師弟の姿は微笑ましく、素直によい光景だと思う。嫉妬めいた気持ちがあったのは前までの話だ。今はもう、なんというか……ちくっとする胸の痛みがあるだけだ。
「そう? ……ああ、そっか。ふふ、私がお弟子さんとクエストに出るから、うらやましいんでしょう」
 彼らは優秀なハンターだが、そんな者が里を一気に空けることがないように調整されているらしい。これも、お弟子さん情報。
 私がからかうようにして視線をウツシさんへと向けると、彼は困ったように眉尻を下げた。
「参ったなあ、お見通しだね」
「あなた方と知り合って長いですから」
 どんなものだ、と少し胸を張る。と、妙な顔をしているお弟子さんが目に入った。物言いたげな表情だけれど、前に『一人前になって喜んでくれたし実際にクエストも一人でこなしたりしているのに、クエスト中のことがやけに筒抜けになっている』とこぼしていたから、子ども扱いの延長だと思っているのかも知れない。
 お弟子さんのいない時のウツシさんの姿も何度も見たけれど、それはないとはっきり言える程度には、お弟子さんのことは一人前と認めて信頼していると思う。実際、自慢の愛弟子だよ、と、弟子自慢をしているウツシさんが、お弟子さんを過剰に心配したことはないのだ。
 まあ、私が言ったところで説得力はないだろうけれど。
「教官……」
「うん、愛弟子、気をつけて行ってくるんだよ」
「……」
「ね!」
「はあ……分かりましたよ。じゃ、タワコさん行きましょ」
 じっとりとウツシさんを見るお弟子さんは、やれやれと言いたげにため息をつくと、私に向き直った。待ってました。
「了解。じゃ、はいこれ。お弟子さんの分のうさ団子」
「えっ いいんですか。ありがとうございます!」
 やったー、と無邪気に喜んでうさ団子を頬張る様はかわいいものだ。ウツシさんと言えばその様子を本当に……思わずくすっと笑ってしまいそうになる程度には本当にうらやましそうに見ていたものだから、私は失礼にならない程度の笑顔で挨拶をしてお弟子さんとともにその場を後にした。
「んぐ、んぐ……ねえ、タワコさん」
「うん?」
「まだ教官のこと好きですか?」
 クエストを選んで集会所から出て程なく。早速目的地へ向かおうとガルクに跨がったところでそんな話を振られて、私は盛大に言葉に詰まった。
「あ、あのねえ」
「言葉に詰まるって事はまだ好きなんですね。よかった」
「よかったって……どういうことよ」
「いやあ、今まで教官の近くにいた身としては、やっぱり長い間あの教官のこと好きでいてくれるような情の深い人と一緒になって欲しいんですよねえ」
 のんきな声に、やれやれと頭を振る。
「外野の気持ちなんて本人からすれば大きなお世話でしょ。それに……脈なしなのを分かった上で、勝手にずるずると引きずってるだけよ。期待されるような事にはならないと思うけど」
「……そう、でしょうか」
「そうよ」
 ウツシさんがきちんとした人だと言うことはもう嫌というほどに分かっている。安易に自分に寄ってくる女に手を出すことは絶対になかったし、いたずらに気を持たせるようなこともしない。告白を断るのだって、彼に関する悪い話を娘達から聞くことがないというのは誠実な態度と言葉があったからだろう。
「告白はしないんですか?」
「しない。……まあ、あなたより想われてるってちょっとでも思えたらわかんないけどね」
 そんなこと、絶対に有り得ない。
 そういう気持ちを込めて言ったのに、お弟子さんときたら妙に真剣な顔で私を見て
「本当ですか?」
 なんて言うから。
 ありえないって言ったつもりだったけど、と返そうと思っていた言葉が引っ込んだ。
「……そうなったら、の話よ? 考えるかもね」
「ふうん。わかりました」
 お弟子さんは一人で考えるような仕草をして、何度か軽く頷いて、何かを納得した。そうして直ぐにガルクと共に駆けていく。なんの確認だったのかと突っ込む機会は失われて、私は慌てて後を追いかけた。
「ちょっと!」
「ま、取り敢えずクエスト行きましょ!」
「そうだけど! 待ちなさい!」
 ――それを見下ろす目があったことは、意識しなかった。


(2) タイシ

 カムラの里は良いところだ。百竜夜行という脅威のために、終の棲家として選ぶ者はほぼいないものの、人も良いし食べ物も美味しい。環境が持つ空気感……と言えば良いのか、そういうものが凄く肌に合うと感じる。
タワコさん、こっちに移住しないんッスか?」
 何度か言われたことのある言葉が若い男の子からこぼれ落ちた。ハンターを目指してウツシさんに師事をしているという彼は、茶屋の長椅子に座って無邪気な様子で私を見てくる。隣り合って座りながら茶を飲んで世間話をしていた時のことだった。
 この、好ましい里の人にそう言って貰えるのは素直に嬉しい。既に自立して久しいから、誰に何を言われることもない。
「うーん、全く考えてない……ことは、ないんだけどね」
 いつどうなるか分からない身だ。せめて惚れた男の姿を見て、その気配を感じて暮らすのは悪くないのだろう。ただ……なんというか、そうするには機を逸してしまったというか。ウツシさんのことを考えて胸を甘く疼かせる時期はもう過ぎてしまったのだ。正直、今は寧ろあまり考えないようにしたいとまで思っている。そのくせ、この里で過ごしたくなってしまうのだからどうしようもない。
 まあ、言葉を取り繕うのならば、私がこの里を好いているのは、なにもウツシさんがいるからだけではないと言うことなのだけれど。
「百竜夜行が心配とか?」
「まあ、大して力にはなれないかもしれないけど、それはあまり大きくはないわね」
 勿論、死にたくはない。この里に定住するリスクの高さは誰しもが考えるところだろう。この里の人たちが五十年前の百竜夜行で壊滅的な被害を受けてから、ずっと次に備えてきたことは知っている。その温度差から、定住を考えていた者も考えを変えることがままあるとも聞いている。
 まあでも、ハンターたるものそう言う危険とは常に隣り合わせだ。だから、そこで気が引けるようなことはない。
「じゃあ、なんでッスか?」
「……世の中には、いい男がたくさんいるからね」
 苦笑いと共にこぼした言葉は、あまり褒められたものじゃなかったと思う。それでも嘘ではなかった。
 ウツシさんより良いと思える男がいないか探しているのだ。
 正直に白状なんてしないし、あの一番のお弟子さんが聞けば『それ、どんな狩りよりも難しくないですか?』とか言われるに決まっている。ウツシさんよりもいい男なんてそうそういるものじゃない。仮にいたとしても既に所帯を持っているだろう。ウツシさんが独身なのがまず奇跡なのだ。
 そんなの、私が一番よく知っている。
「へえ……タワコさんって、男に興味あったんスね! 男には当たりがキツい所しか見たことなかったから、意外ッス」
「酔っ払った連中にはろくでもないのがいるからね。多少キツくないとすぐにナメられるし。それに、真っ当な人には普通でしょう?」
「あ、確かにそうッスね。……いや、でもなんか本当に普通っていうか……なんだっけ、粉かける? みたいなこともないじゃないッスか」
「どこで覚えてくんの、そんな言葉。ダメよ、ちゃんと場所選ばなきゃ」
 私は良いけど、と苦笑が漏れた。軽く窘める程度で深く反省するような話でも無い。少年は無邪気な目のまま話の先を促してくる。そのかわいらしい額に軽くデコピンをして、けらけらと声を立てて笑った。
「忘れられない男がいるのよ。……それを、忘れさせてくれる男を探してるの」
「ふーん。誰でもいいわけじゃないってことッスね」
「そりゃあそうよ」
「それって、年はいくつでもいい感じッスか」
「お? エントリーするかね?」
「はぐらかさないでくださいッス」
 む、と明らかに機嫌を損ねた顔をされて、素直でいい子だと思う。この里の、モンスター関連以外の治安の良さがそうさせるのだろう。
「そうだなあ。年上でも年下でも、真っ直ぐアプローチされたら好ましいとは思うわ」
「真っ直ぐって?」
「そりゃ、ド直球に好きですって毎日言ってくる感じ」
「……タワコさん、流石にそれは夢見すぎのような…… 自分、ウツシ教官くらいしかイメージできないッス」
 んぐ。
 咄嗟に頭が真っ白になり、返す言葉を失う。茶化したつもりが墓穴を掘ったような気がして肝が冷えた。
「ウツシさんが直ぐ出てくるんだから他の男だって一人や二人くらいいるでしょうよ」
「そういう人が確実にタワコさんを口説くとは限らないッスよ?」
「こら。一言多い。モテないわよ」
「はーい!」
 全く、どこで誰が聞いてるかも分からないのだから勘弁して欲しい。私もモンスターだけじゃなくて立ち回りを学ばなければ。


(3) イオリ

 オトモ広場には数多くのオトモ達がいる。
 このところどうにも集会所……もとい食事場に長居をする気にはなれなくて、私はぶらぶらとオトモ広場を散策していた。理由は単純明快。先日少年と話をしてからと言うもの、一人で勝手に気まずくなって、なんとなくウツシさんの顔が見られるような場所へ足が向かないというだけだ。私が彼の顔や姿を見ることができると言うことは、彼からも私の姿や顔が見えると言うことでもある。
 少年相手だからと話を盛ったのは大人げなかったかもしれないけれど、回り回って少年にした話が彼の耳に入っているかもしれないと思うと落ち着かなくて、自然と離れた場所へと来てしまったのだ。なんて分かりやすい。
 アイルー達に挨拶をしながら、ぷらぷらと足を動かす。そういえばここから修練場にいけるのだったと思ったが、そこもまたウツシさんと縁深い場所のため、行くのは憚られた。
 昔、行商人の護衛でこの里に来たとき、もぐりのハンターに襲われそうになったことがあった。女と言うこともそうだし、ハンターになって年が浅かったこともあったけれど、無理矢理どうにかできるとまで侮られた事にショックを受けた。その前から経験の浅さもあってか妙に絡まれることがあったため、私はハンターとして身を立てていくことに自信を欠いていた。
 そんなとき、ウツシさんに助けられ、弱音を吐き、鼓舞してもらったのが全ての始まりだ。
「キミが自信を持てるようになるまで、鍛錬に付き合うよ!」
 弟子でも何でもなかったのに、そう言って手を差し伸べてくれた先輩ハンター。その頃から彼は何をするにも一生懸命で、誠実だった。性別や見た目もさることながら、力不足に悩んでいた私を一人の人間として扱ってくれた。彼はかけがえのない恩師でもある。
 そんな彼に恋に落ちたのは当然だと言いたい。
 とはいえ、彼の愛弟子愛に触れ、どこまでも男性としては一線を引いて接する彼に、早々に期待も希望もなくなってしまったのだけど。いや、彼の方が正しいのだけど。
 甘酸っぱい気持ちとは別に、彼には割と容赦なく扱かれた事を思い出し懐かしくなる。翔蟲の扱いも今では随分と手慣れたものになった。
タワコさん、オトモたちをお探しですか?」
「いや、ちょっと足が向いてね」
 広場をゆっくり一蹴すると、オトモの雇用を担当する少年に声をかけられた。カムラの里から狩りに出るときはアイルーにもガルクにも世話になるが、今回の滞在で雇うオトモは既に契約済みだし、特に狩りに行くからと呼びに来たわけでもない。
 ただの散歩だと言うと、珍しいですね、と言われる。その通りだ。用もないのにここに来たり、通ったりすることはない。
「なにか悩み事ですか?」
「なかなか鋭いわね。まあ、そんなところかしら」
「ずっと足下を見ながら歩いてたでしょう。それに既に解決方法が分かっていれば、タワコさんなら何かしら行動すると思ったので」
「ふふ、よくご存じで」
 解決方法。敢えて言うなら時間がどうにかしてくれるだろうか。それとも、誰かと話すことに集中すれば良いのかも知れない。……誰に付き合ってもらうかが悩ましいところだけど。
「あまり人が来ない場所が良いなら、普段オトモたちが休むのに好んでいる場所をいくつか案内できますよ」
「大丈夫よ、ありがとう」
「なにかお力になれることがあれば遠慮なく。……あ、でもタワコさんにはウツシ教官がいましたね」
「は、っ?」
 素っ頓狂な声がでた。
 どういう意味だろう? いや、きっとたいした意味はないに違いない。そう思わないと無理だ。
「あ、ウツシ教官のことでしたか。だったら納得です!」
 まさか本人に相談はできませんよね、と、およそ他意などないのだろう柔らかな笑顔のまま追い詰められ、私はいよいよ言葉に窮した。察しが良すぎないか。
「いや、あのね? 悩んでいるっていうとまた違うというか……」
 あからさまに動揺が現れてしまい、胸の中が嫌な感じに冷える。
「大丈夫ですよ。誰にも言いませんから」
 なにか得心がいったように頷く少年に、もうそういうことで良いかと捨て鉢のような気持ちになる。
 ありがとう、と取り敢えず礼を言っておくことにして、なんとなくここにも居づらくなりおにぎりでも食べようかと広場を後にした。
 どうも今日は調子が良くない気がする。元々身体を休めるつもりだったとは言え、食事屋にいくのも気が引けて、私はおにぎりを買い込むとそのまま宿へ帰ることにしたのだった。


(4) アヤメ

 夜の食事場で乾杯、と酒を酌み交わす。怪我のために出身地たるカムラの里へ一時帰省しているという上位ハンターの女性と知り合い、話に花が咲いて盛り上がったからだった。きっかけは……なんだったか。大体の里の人の顔ぶれは覚えたけれど、見かけない割に同じ場所で物思いに耽る彼女が気になって、私が声をかけた……気がする。身につけている装備品が、ハンターなら一目で分かるような一級品の割に、狩りに出る様子がなかったから疑問に思ったのだ。
 元々はカムラの里の生まれで、三歳の頃にこの里を離れて引っ越したのだという彼女は「帰るならここしかないと思った」としみじみ語ってくれた。私はこの里の出身ではないけれど、彼女の気持ちが分かるような気がした。合う人には本当に心地の良い場所なのだ。
 流石にカムラの里に腰を落ち着けるのか、と言われたときは言葉を濁したけれど、上位ハンターとして各地を飛び回っていた彼女には「同じハンターだ、気持ちは分かる気がするよ。居心地が良いからって腰を落ち着けるかというのはまた別の話だったね」と言ってもらえたのは幸いだった。
 流れを断ち切るように今までのハンターとしての活動やカムラの里について話し出してしまえば、そこから話題には事欠かず、なんだかんだぱかぱかと酒が入った。
 最初は発泡酒。次は葡萄酒。その次は純米酒。
タワコ、アンタ明日に響かないのかい?」
「そちらこそ、身体に障りはないですか?」
 散々飲んだ後、良い気分になったあたりでそんなやりとりをして、
「そんな鍛え方はしてない」
 二人揃って言うことは同じで。久しぶりに楽しくて仕方がなくて、夜が更けるまで話し込んでしまった。
「誰かいい男いないの?」
「そっくりそのままお返しします~」
「はは、さっきからそればっかり」
「らってぇ……」
「ごめんごめん、飲ませすぎたね」
 良い気分なのと眠気がやってきて、もう動きたくない。それでも水は飲まなくては、と思ってどうにか水を流し込む。それが限界だった。
「うー……」
 いけない。こんな失態、普段ならしないのに。いくら気が合う同性と言えど、長年の付き合いでもない相手に隙を見せすぎている。
 でも一度目を閉じてしまうと、あまりにも心地よくて瞼を開けることができなくなった。
「たすけて……め、あかない……」
 むにゃむにゃと助けを求めるも、気持ちよさに意識が沈んでいく。
「あらら……。あ、アンタ良いところに。ちょっとこの子送ってやってくれない?」
 遠くで声が聞こえたけれど、もう返事もできなかった。


「わあっ!」
 がば、と飛び起きると、見慣れない天井だった。
「あ、タワコさん起きた」
「え、あれ、えっ?」
「もー。アヤメさんとお酒飲んで潰れちゃったんですよ」
「いやそれは覚えてるけど」
 記憶をたぐってもちゃんと覚えている。彼女にはいきなり酔っ払いの介抱をさせるなんて悪いことをしてしまった。療養でこの里にいると知っていたのに。次会ったら謝らなくては。
 声をかけてくれたのはこの里期待の星であり、彼の愛弟子だった。どうやらここはその自宅らしい。
「寝落ちするなんて……う……きもちわる……」
「珍しいですよね。タワコさんが酔い潰れるなんて。はい、水です」
「ありがと……」
 水の入った器を渡され、ありがたく飲み干す。心地よい冷たさに大きな息が漏れた。少しだけ胸のむかつきがマシになった気がする。……この調子じゃ、狩りに出られたとしても夕方以降になりそうだ。
「ねえ、私がここにいるってことは、自力で来たわけじゃないんでしょ……?」
 まさかお弟子さんが運んでくれたのだろうか。お互いハンターで力があり、この里には翔蟲という移動手段があるとは言っても、ハンターであるが故に体重もそれなりにある。重装備でこそなかったが、大変だったろうに。
 謝罪と礼を言おうとした矢先、相手の口から零れた言葉は思っていたものとは違っていた。
「ああ、タワコさんを回収して欲しいって声をかけられたんですけど、丁度ウツシ教官がその役を買って出てくださったのでお任せしたんです。最初は宿へ行こうと思ったんですけど大分夜も遅かったし部屋もどこか分からないし、教官と自分の家ならウチの方が良いかとこっちへ運んでもらって」
「……さいっあくだわ……」
 よりにもよって。
 私が頭を抱えるのと、お弟子さんが布団の上に置いた器を下げるのは同時だった。
「いいじゃないですか。まあそういうことでなにもなかったんですけど」
「ウツシさん相手になにかあるとは思ってないわよ」
 知らない人が聞けば彼を男として侮っているようにも聞こえる言葉が漏れたが、相手は彼の愛弟子だ。誤解されることはない。
「まあ、教官の家にお持ち帰りしちゃえばどうです? って言ったら叱られましたよね。タワコさんの取ってる宿の部屋がどこかも知らないのに送ろうとしてた人が何言ってんだと思いましたけど」
「……『俺一人だと誤解されるかも知れないから愛弟子も来てくれるかい?』とか言ってたんでしょう……」
「惜しい。『タワコさんに誤解を与えてはいけないから愛弟子も一緒に行こう』です」
「同じだわ!」
「ちなみに横抱きでしたよ」
「うっ」
 覚えておきたかった、と思ってしまう自分が恨めしい。というか、意識のない人間なんて相当重かっただろうに。
タワコさん、教官の胸に頬ずりしてましたよ」
「……」
「あ、大丈夫です。教官も嬉しそうだったんで」
 なんのフォローにもなってない。思い切り大きなため息が出た。最悪を上回る気分に顔を覆う。
 まあ、嫌そうな素振りがなかったのは不幸中の幸いだろうか。お弟子さんの言うことだから、どうしてかは分からないが嬉しそうだった、というのはそうなのだろう。そう言うからには特に表面上取り繕っていたわけではなさそうだ。
「……ねえ、ウツシさんの予定とか知ってる……?」
「お、ついにデートに誘います?」
「お詫びに決まってるでしょ!! うっ……ぷ……」
「えー、どう見ても教官、役得って感じだったんで謝る必要ないと思いますけど」
「おばか。そんな恥知らずな真似できないわ」
 二日酔いの気持ち悪さと戦いつつ、この失態をどうすれば挽回できるか考える。
「……うーん、教官も教官だけど、タワコさんもだいぶ拗らせちゃってるなあ」
 お弟子さんの声は右から左へ通り抜けて、頭に入ることはなかった。


(5) ウツシ

 ため息が止まらない。やらかしてから既に二日経っている。上位ハンターの彼女には早々に頭を下げに行った。笑って許してくれたのは本当に幸いだった。次からは本当に気をつけると言うと、
「アタシは楽しかったから別に良いけど。今度酔い潰れたら『お持ち帰り』するわ」
 なんて言われて笑ってしまった。
 一方でウツシさんとはまだまともに話ができてない。改めて考えると百竜夜行に備える中、夜も哨戒に出ている彼の貴重な休み時間を割いてもらうのも憚られたためだ。
 ただ、何も言わないままでいるのはただの失礼だから、既に口頭で謝ってはいる。彼は優しく目を細めて、気にしなくて良いと言ってくれた。でもそれは分かっていた返事でしかない。ただの社交辞令にすぎない。
 彼の手伝いでもできれば良かったけれど、役職に就いている彼を直接助力できる立場にない。なにか……お礼になるようなことができればいいのに。何も思いつかない。
 オトモ広場の片隅で今回雇ったガルクを撫で回しながら、私は何度目かのため息をついた。考えがまとまらない。狩りにも出ているけれど、大型モンスターを相手取るような長時間の集中が難しく、クエストの受注は採集系か、小型モンスターの討伐に留めていた。
「どうしたらいいんだろうね」
「ウォンッ」
 ガルクに話かけると、元気よく返事がくる。尻尾を振って私を見る目はきらきらとしていて、心が癒やされた。ぎゅ、と抱きしめて背を撫でると、大人しくされるがままになってくれる。きゅうん、と可愛い鳴き声が耳元で聞こえた。
「悩み事かい?」
「え、」
 そんな私の前に音もなく現れたのは、悩み事の中心であるウツシさんその人だった。立ち上がり、ガルクを待機させる。
「今、いいかな?」
「あ、はい。もちろん」
 珍しいこともあるものだ。常に里の外に出ているというわけでこそないけれど、闘技場の受付役でもある彼が用もないのにこんな……修練場に行く道すがら? それとも帰り道か。
「私に何かご用ですか? あ、埋め合わせの件でしょうか」
「いや、このところキミがなにか悩んでいる様子だったと人づてに聞いてね。でも、そうだね。フゲン様からも休むように言われてしまったから、時間は取れそうだ」
「百竜夜行は大丈夫そうですか。いざとなれば微力ながら出陣します」
「今は小康状態と言ったところかな。その時はお願いするよ」
 頼もしいね、と笑いかけられ、笑みを返す。と、ウツシさんは私の隣に腰を下ろした。それに合わせて、私も座り直す。
 必要以上に近いわけでもなく、かと言ってあからさまな距離を取るわけでもない。心地よい位置だった。
「……こうやって腰を落ち着けて話すのは、昔相談に乗っていた頃以来かな?」
「そういえば」
 懐かしい話だ。あの頃のように、また相談に乗ろうという申し出なのだろう。
 そこまで、私は追い詰められた顔をしていただろうか。
「そんなに酷い顔でした?」
「そういうわけじゃないよ。ただ……俺が気になっただけで」
 いつも大きな声で溌剌としている彼は、今は穏やかな声で私を見つめた。
「お節介かも知れないけど、なにか力になれればと思ってね」
「……ありがとうございます。嬉しいです」
 素直に微笑む。彼の中では、私も弟子の一人なのかもしれない。
 ぐるぐると考えていたものが、本人を前にすると全て吹き飛んでしまう。
 どう話を逸らそうか。いっそあなたにだけは相談したくないと言ってみようか。
 優しい顔のまま私を見てくる彼を見つめ返しながら、彼をがっかりさせたくないという気持ちが浮かび上がってくる案を蹴っていく。誠実でありたいと思ってしまう。
「たいしたことではないんですが、」
 気づけば、そう漏らしていた。
「実は、前から懸想している男性がいて」
「!」
 彼の目が僅かに見開かれる。驚きの所作として、彼がするものとしては拍子抜けするほど小さな反応だった。
「脈はないだろうなと諦めてはいるんですが、なかなか忘れられず」
「それは……」
 なんと言えば良いものか、と彼が気遣わしげな表情になる。そういえば、出会いが出会いだったからだろうか、彼は特別私に対してこの手の話をしてこなかったような。……いや、でもウツシさんのことだ。他の誰であっても気軽にこんな色恋の話を振るなんてないか。
 顔を見ながら話す勇気もなく、側に座っているガルクに目を落とし、その頭を撫でてやりながら口を動かす。
「新しい恋の一つでもと思ってあちこちブラブラしてるんですけど、全然だめで」
「キミは、その人のことがそこまで好きなんだね」
 迷った末、彼の口から漏れたのは私の気持ちを包むような、肯定の言葉だった。
「……。そう、ですね。そうなんでしょうか」
 想う時期が長すぎて、誰を見ても彼と比較してしまって、彼を見ると胸が苦しくて。
「その人は結婚しているの?」
「いえ、多分まだかと」
「そうか」
 諦めきれないんだね、と言われ、頷く。
「じゃあ、その人が他の誰かと結ばれたとき、キミは心から祝えそうかな」
「……」
 どうだろう。想像してみる。どんな女性かは――あるいは男性であったとしても――分からないが、彼が選んだ相手だ。不幸なことにはならないだろう。
 そして、彼に選ばれなかったと言うことはそういうことだと、諦めも付くかも知れない。
「悲しいとは思いますけど、それとは別に多分、祝福できると思います」
 ちくちくと、想像するだけで胸が痛む。けれど、嘘を言ったつもりはない。きっと情けなく彼に縋り付いたり、逆恨みのような気持ちを抱くことはないだろう。なにせ、
「……そう思える人を好きになったので」
 改めて、この人よりもいい男だと思える奴なんていないだろうと思う。薄々気づきながら他の男を捜し続けるなんて馬鹿馬鹿しいことだと頭のどこかでは分かっていた。だって、心の中の一番に据えてしまっているのに、見つかるはずがない。
 随分遠回りをしたけれど、もういっそこのまま告白でもしてしまおうか、と思っていると、隣から声がした。
「俺には無理だ」
「え?」
 普段聞くどの声とも違うその小ささに、弾かれたように顔を上げる。聞き間違いじゃなかったと、今まで見たことのないどこか苦しげな表情が物語っていた。
「俺は好きな人が他の誰かと結ばれても、心から祝福なんてできそうにないよ」
「……それは……意外、ですね」
「そうかな?」
「はい。あ、別にウツシさんが失恋して悲しまないと思っているわけではないんですけど……」
 現状こんな顔を見せるほどだ。そう言う恋をしている? 全く気づかなかった。私が気づかなかっただけで、他の人たちは彼の想い人が誰か知ってるんだろうか。でも、そうだったら彼の愛弟子は私をけしかけるようなことは言わない気がする。
 そう思い至ったのと、彼が次の言葉を発したのは同時だった。思考が途切れて、意識が彼へと向かう。
「俺はどうかな」
「……え?」
「キミからすれば、ただ昔縁があって相談に乗っただけのハンターでしかないかもしれない。でも、キミの好きな人が他の誰かと一緒になるのを喜べるって言うなら、そんな奴より――というとキミの気持ちが軽く聞こえるかも知れないけど、そう言う意味じゃなくて俺が単に嫉妬してるだけで……まあ、キミが他の誰かとそうなるのを喜べそうにない俺のことを考えてみて欲しい」
 彼の顔は真剣だった。切なげな表情で私を見つめて、そういえば、いつもより少し頬が赤くなっているような、
「え、え?」
「キミのことが好きだよ。……はは、なんだか照れちゃうな」
 はにかむ顔は少し幼くて、精悍な顔立ちにもかかわらず可愛く見えた。
 ――などと、考えている場合じゃない。
「いつ、から」
「ずっと前さ。稽古をつけて、翔蟲も使いこなせるようになって……訓練は卒業だって言ったとき、男に襲われかけても、それがどんなに悔しくても泣かなかったキミが、ぼろぼろ泣いただろう? あの時、素敵な人だと思った」
 それは、もう、随分と前の話だ。
「いや、でも、全くそんな気配は……」
「そりゃあ、直ぐに行動を起こしたら良くて失望、悪くて嫌悪されると思ったからね。それに、あの頃俺を信頼してくれていたキミにつけいるみたいでさ。
 でも、そうやっている内にタイミングが分からなくなってしまって。意識はして欲しかったけど、やり方を間違えればキミを深く傷つけると思ったら、あからさまにアピールもできなくてね。精々酔っ払いに絡まれているところに割って入るとか、そういうことしかできなかったんだよ」
 明かされる彼の気持ちが初めて知るものばかりで、胸が痛い。顔も妙に熱く感じる。
「でも、今のキミの悩みが恋煩いだったから」
 困ったように笑みを浮かべながらも、彼の声は揺れることはない。真っ直ぐに、はっきりと私へ届く。
「忘れられないのは仕方ない。でも、これからは俺のことも意識してくれると嬉しいな」
「そ、れは」
 はくはくと口が動くのに言葉が出てこない。どう返せば良いのか、頭の中にさえ浮かんでこない。
 意識なんて、もうずっとしている。それどころか、彼しか意識したことはない。
 じっと私を見つめて動く気配がない彼は、きっと私の返事を待っている。
「その、私は、……あなたに、想われているとは、思ってなくて」
 何から言えば良いのか言葉を探す私を遮ることもなく、静かに聞いてくれている。
「だってウツシさんは誰に対しても誠実で、だから、勘違いしちゃいけないって」
「え」
 ぽろぽろと零れ始めた言葉に彼が固まる。私の言いたいことを察したのか、彼は私の顔を覗き込むように身体を動かした。こんな時でさえ肩や腕を掴んでこないなんて、本当に、この人は……
「私も、好きです。私が好きなのは、あなたです」
「……!!」
 息を呑む彼の目は見開かれたと思ったら、瞬く間にきらきらと輝きだした。聞かなくても分かる。嬉しそうなのが、表情と気配から充分に伝わってくる。
「あれ、でも諦めるって……」
「こんなに長い間異性として誠実な振る舞いを続けられれば、逆に脈無しだって思いますよ」
「ええっ でも、キミだって暫くしたら敬語になってて、あれ、凄く寂しかったよ」
「……だって勘違いしたくなかったし……」
 彼の愛弟子だって彼には敬語だ。彼は一目置かれているのだ。他の娘達だって彼に好意を持っている。そんな中、ため口で話していて私は他のどんな人よりも彼に近いなんて、思い上がった恥ずかしい勘違いをしたくなかった。
「じゃあ、これからはまた前みたいに話してくれるかい?」
「……ぜ、善処はする」
「よかった」
 ほっと表情を緩める彼に、胸がどきどきする。甘い痛みはもうないけれど、今度は気持ちが舞い上がってしまってどうにかなりそうだ。
 おもむろに彼の手が私の手に重なる。そのまま優しく握り込まれた。
「埋め合わせの件だけど、」
「う、うん」
「本当に、別に気にしなくて良かったんだけど……やっぱり、何かしてもらおうかな」
「何でも言って。私にできることなら」
「じゃあ、一緒にフゲン様のところに挨拶に行こうか?」
「えっ」
「だって、皆に知っておいてもらった方が、お互い何かあった時、直ぐに報せが来るだろう?」
 それはそうだけど。もっともだけど。
「それとも、もっと恋人らしいことをしてからのほうがいいかい?」
 頬を染めながらも明るくそう言う彼に、言葉に詰まる。
「そ、それって、」
「……こういうこと、とか」
 ゆっくり、彼の顔が近づいてくる。私を見ながら、その指が口元を覆っていた布地をずらし、滅多に見ることのない唇が露わになる。
 どこか熱っぽく私を見つめてくる彼に耐えられなくて目を閉じると、柔らかな感触が――
「ワフッ」
 ……来なかった。
「オ、オトモか……別に俺はタワコに無理矢理してるわけじゃ」
「アオン」
「うわわ」
 いい子で控えていたはずのガルクが、彼の顔をぺろぺろと舐めていた。尻尾を振っているから、別に彼を嫌ってのことじゃないだろう。私が襲われていると思ったわけでもなさそうだけど。
「ふ……ふふっ」
 妙に力が抜けてしまって、思わず笑い声が漏れてしまう。展開が早くてちょっとびっくりはしたけれど。僅かに『助かった』と思ってしまったのは黙っておこう。ガルクが私のそう言う気持ちに反応した可能性は高い。
 少しの申し訳なさのお詫びに、自分から彼の頬に唇をくっつけた。
「……あっ」
 驚いた様子で目を瞬かせる様子に、今日は沢山珍しいものを見るな、と思う。
「不慣れだから焦れるかも知れないけど……よろしくおねがいします」
 私が口づけた方の頬を手で押さえながら、彼は真っ赤な顔で小さく「はい」と呟いた。

2021/05/21 : UP

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