くろつるばみ
昼過ぎ。前日からの任務を終えたカカシは、報告書を提出したその足で上忍待機所を訪れた。特に理由はなかったが、残りの体力と相談して直帰するより一度顔をだし、飲み会の段取りでもあれば参加表明でもと考えてのことだった。
戸を開けてすぐ、優れたその鼻がひくりと動く。
「……なーんか、カビ臭い?」
いつもとは異なる匂いに、彼は首をかしげた。待機所には常時誰かしらいるが、そういった人の放つ臭いではない微かなそれにカカシははて、と考えを巡らせる。
誰に対して放った言葉でもなかったが、あっさりと答えが返ってきた。
「ああ、少し前までシコクの奴が来てたんだよ」
「シコクが? カビの臭いさせて?」
「あいつ今書庫の掃除してるらしくてな」
めんどくせーのによくやるぜ、とカカシの疑問に答えたのはアスマ。任務前の一服と言うところだろう。吐き出された紫煙にまかれながら、カカシはふぅんと気のない返事をした。
劣化や風化を防ぐため、書庫は日の当たらない蔵であるとか、地下にあるのが定石である。彼女が請け負ったらしい書庫も例に漏れず地下の一室にあるため、そこにあるカビの臭いを連れてきてしまったのだろうとカカシは思った。
書庫の掃除は危険度で割り振られる通常任務のランクで言えばDランク。下忍がやるようなものなのだが、何分古い蔵書の中には術式の書かれた巻物を含め扱いが難しい種類のものも多く存在するのも確かで、そういったものは通常任務の割り振りからは外され、大体が火影から勅命を受けて行われるのが常であった。今回は今までの報告書の類や書物を整理し、場合によっては修理・修復を行うため、それを耳にしたシコクが自分から申し出たという。いくら下忍には任せられないとはいえ、本来は中忍や特別上忍が行うような内容のはずだが。
「ただの雑用を自分からやりだすなんざ、変わったやつだぜ」
「それ、シコク一人でやってんの?」
「……やけに気にするじゃねえか」
「んー……そんなつもりはないけど、何度かマンセル組んだことがあってさ。やり易い奴だったなと思って」
「へえ、お前が」
褒めるとはな、と言った直後、彼は時間だと慌てて待機所を後にした。
慌てるくらいなら待機所でタバコなぞ吸ってないでさっさといけばいいのにとカカシは思うものの、想定される返し文句に黙ったままひらひらと手を振って見送るだけにとどめた。カカシの場合は遅れる際はとことん遅れる上に、慌てることはまずない。お前が言うなと言われることは必至だった。
「……」
ふむ、とカカシは手を顎にかけながら考える。
黒曜シコク上忍。年はカカシより一つ下で、後輩に当たる。暗部に所属したという話は聞かないが、正規部隊として任務にあたった回数は立派な上忍のそれだ。そして、カカシが今まで組んできたくの一とのマンセルにおいて、任務完遂が『やり易い』と感じる数少ない人物である。
忍ながら我が強い者というのは少なからずいるもので、それはくの一とて同じこと。ましてや相手がカカシとなると浮き足立つくの一は多く、大抵が――とくに中忍などははしゃぐか、がちがちに緊張するかのどちらかというありさまで、もちろん後者なら任務の成功率を高めるためにフォローはするとはいえ、前者のようなタイプを諌めるのにかかる労力は場合によっては相当なものになることもある。
元々穏やかな気質である彼にとって任務中の仲間のフォローはそれほど負担になるようなことではないが、それでもシコクに対する『なんとなく心地がいい』という感覚は払拭できるものではない。
任務の合間の休息や任務終了後の他愛もない時間まで気兼ねなく、かつ精神的に疲労することのないくの一として、カカシにとってシコクは貴重な存在でもあった。
冷静さは言わずもがな。些細なやり取りでさえ気取らない彼女の振る舞いはカカシでなくても好感が持てた。
同じく後輩にあたるテンゾウを女にしてつつましくしたような、とカカシは形容したことがあるが、我ながら的を射ている、とさえ思ったそれは、テンゾウが暗部所属のため、ほとんど誰にも通じなかった。例えられたテンゾウ本人が聞く機会があれば、女性に向かってその例えはいかがなものかと難色を示していただろう。けれどカカシにとってはそれだけ気のおけない、共にいると気持ちのいいくの一だった。
既に任務を終え、あとは待機もなく、ただの休日である。
少々の疲労感はあるものの、顔を見せることのない後輩が上忍待機所に来たとあって、カカシは軽い足取りでシコクが居るであろう書庫へと向かった。
書庫はいくつかあるから念のためにと適当な理由をつけて受付で彼女の居場所を確認し、探す手間を省いたカカシは目的の地下室の扉を開けた。
「……あ、はたけ上忍。ご無沙汰しております」
天井までびっしりつまった棚の奥からひょっこりと顔を出したのは、紛れもなく黒曜シコクだった。
「はいこんにちは。聞いたよ。今日は休みなのに任務入れたんだって?」
「ここのところAランク任務が多くて。それに休みといっても家事以外特別やることもありませんし……たまには以前のような慣れたことがしたくなったので」
特別上忍の頃は情報管理が分野でしたから、とシコクは穏やかに笑う。
「ふーん、さっきは待機所に居たみたいだけど」
「気分転換に、少し。……なにかあったんですか?」
「いいや、ちょっとカビ臭かったからさ、気になってそこにいたアスマに聞いてみたら、滅多に顔を見せない可愛い後輩がいたって言うじゃない? だから顔を見にね」
「! それは……御足労を御掛けしたようで」
「いえいえ、可愛い後輩のためだし」
可愛い、可愛いとちくちくつついてくるカカシにシコクは苦笑する。
「昼飯食った?」
「いえ、まだです。あともう少しで区切りがつくので……もう少しだけお時間いただけますか?」
「りょーかい」
「……可愛い後輩にご馳走してくださったりします?」
「可愛いからこそ心を鬼にしなきゃならないときもあるね」
軽口を叩きながらも書物を整理する手は止めなかったシコクの動きが、カカシの言葉でほんの僅か鈍りを見せた。
恐る恐るとカカシを機嫌を伺うように首を傾けながらその顔がカカシに向けられる。
「あの、昼時の店はあまり明るくありませんので、私の手料理でもよろしいですか?」
居酒屋なら何度か連れて行かれた店を数件知っているんですが、と下がった眉と控えめに引き上げられた口元が作り出した表情はどこか困っているようで、カカシは彼女と同じように首をかしげた。
「……んん、まあシコクが良いなら」
これは意外と天然ぽいねえという言葉は飲み込んで、カカシは先輩上忍の許可が出て心底安堵したように笑んだ後輩をじっと観察した。
立ち振舞いはそつがなく、情報管理が得意とあって状況把握もお手のもの。物腰は柔らかく、かといってだらしがないわけではない。勤務態度はいたって真面目で軽口も叩ける。
非の打ち所が無いようにも見えたが、これはつつけばなにか出てきそうだとカカシはいたずらを思い付いたような心地になった。
しばらくの後彼女が作業の手を止めるのを見ると、カカシは開いていた愛読本をしまって、二人ならんで地下室を出た。施錠を確認し、日の下に出たシコクは大きく深呼吸を。
「じゃあ材料費はオレが持つから料理はまかせた」
「え? でも」
「いいから。そのかわり、よそよそしい呼び方はいい加減やめるように」
カカシが人差し指を立てて言うと、シコクはきょときょとと目を瞬いた。
「今まではなにも仰らなかったじゃないですか」
「お家にお呼ばれまでしてくれたのにここにきて未だ『はたけ上忍』だなんて、オレはこんなに可愛がってんのにシコクはそうじゃないのね……」
悲しいなあ、とわざとらしくさめざめと泣く振りをして見せると、シコクは再び困ったように笑う。
ここで何か冷めた反応を返してこないところがテンゾウと違って可愛いのだ。とカカシは思うが、生憎同意を得られるような人間はいない。
こほん、とかしこまったシコクに、カカシは期待を込めて猫背気味の背をさらに丸めるようにして顔を近づける。
「では、……えー、はたけ先輩」
そうして、シコクの口から出されたフレーズに、そのままがっくりと項垂れた。
「先輩呼びはかわいくないほうの後輩を思い出すから、だめ」
大袈裟なまでに肩を落とすカカシに、シコクはそれではと思考を巡らせる。
「はたけさん」
「もうちょっと」
「……カカシ上忍」
「肩書きはいらないね」
「……。……カカシさん」
「もう一声! って言いたいけど、まあ及第点かな」
徐々に難しい顔になっていくシコクを見ながらようやくカカシが合格サインを出すと、シコクは小さくため息をついた。
「同僚なんだから、気兼ねしなくていいんだよ」
「いえ、上忍のみなさんにはまだまだ教わることばかりで、とてもそんなことは」
「……っていうわりにはさっきちゃっかりオレにたかろうとしてなかったっけ?」
「先輩のご厚意をお断りするなんてとんでもないことです」
「ご厚意もなにも、お前から言ってきたんでしょーよ」
やっぱりこいつは慎ましくもない立派な女テンゾウか、とカカシが思っていると、シコクがそれでは買い物へと促した。その顔はどこか楽しげで、緊張してもいなければ、何かを期待する様子もない。
気兼ねしなくていいって楽だなあとぼんやりと先をいくシコクの背中を眺めていると、シコクがカカシを振り返った。
「カカシさんは何がお好きですか」
「秋刀魚」
「塩焼きが美味しいですね。私はカレイがすきです」
まったく遠慮のない後輩に、カカシはじゃあ両方買おうと笑った。
シコクは一人暮らしである。すでに幾度となく高レベルの任務をこなしているものの、普段の暮らしぶりは至って飾り気のないシンプルなものだということが部屋にあがって、すぐに見て取れた。
殺風景ではないが、ものがあまり多くない。
「どうぞこちらへ。お茶入れますね」
「ん、ありがとう」
1DKの住居に通す部屋もへったくれもなく、カカシは用意された座布団の上に胡坐をかいた。見渡せば、ベッドも台所も、何もかもが把握できてしまう。
上忍である前にシコクは女性である。任務と違ってこういうのはあまり頭が回ってないのかとカカシは思うものの、それ以上深く考えるのはやめておくことにした。
「はい、どうぞ。熱いので気を付けてください」
「悪いね」
「いいえ。今から作りますので、もうしばらくお待ちください」
再び台所に戻るシコクの背中を見ながら、カカシは出されたお茶に口を付けた。観察したところ、特に力んでいる様子もない。
「散らかっててすみません」
カカシの視線をどうとらえたのか、シコクは手を念入りに洗いながら、振り向かずに口を開いた。その声色はおそらく浮かべているであろう表情と同じ苦笑の色がにじんでいて、カカシはなんでもないことのように返事をする。
「これで散らかってるんなら、大体どんなトコでも散らかってるっていうんじゃない?」
「カカシさんの部屋の綺麗さには負けます」
「……それはドーモ」
カカシの部屋もあまりごちゃごちゃとしたもののない質素な部屋だが、それでもシコクの部屋よりはいくらか乱雑かもしれない。
シコクを来客として招いたことはないものの、一度だけ召集がかかった時に彼女が直々にベッドのすぐそばの窓際に控えていたことがあったなあとカカシは記憶を掘り起こした。
「お前の部屋は散らかすの難しそうだね」
「お陰様で溜り場になりかけてます」
「……あんまり男あげるんじゃないよ?」
「心外ですね。今まであげたことありませんよ。大体いらっしゃるのは夕日上忍や、みたらし特別上忍です」
カカシさんは特別ですから、と事も無げにつづけたシコクに、カカシは妙な居心地の悪さを覚えた。かといって追求する気にもなれない。
急にぎこちなくなったカカシの気配はシコクにも伝わっているはずだが、特に何も言わないのはそういうことなのか、と視線がさまよってしまった。
「可愛らしい言葉でも用意しておけばよかったですね」
やはり振り向くことのないままシコクが可笑しそうにつぶやいたそれに、カカシは盛大にため息をついた。
「……もしかして気づいてた?」
そつのない後輩の隙でも突いて、たわむれにからかってみようなどと思った時点で、すでに彼女の手の内だったのか。
「何のことでしょう?」
振り向かない背中はただただ悠然としていて、カカシはこんなに食えないやつだったかなあと頭をかいた。
「ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さまでした」
穏やかな食事を終え、食後のお茶をすすりながら、カカシは息をついた。
「悪かったね、初めは奢るつもりだったんだけど」
ぬけぬけとそういうカカシにも、シコクは微笑んで首を振る。
「こちらこそ、お疲れのところ付き合っていただいてありがとうございました」
「……なんだ、知ってたの?」
「待機所に伺ったときに、猿飛上忍から」
「大した任務じゃなかったんだけどね」
ちょっと火の国の端っこで戦闘があってね、戦闘そのものは大した怪我もなくて平気だったんだけど、いかんせん距離が長くて。
言って欠伸をかみ殺すカカシに、シコクはご自宅に戻ってゆっくりお休みくださいと笑みを一つ。
「あと、差し出がましいかもしれませんけど、カカシさんのお財布だと思うとあれもこれもと買ってしまったので、夕食用に作ったのもいくつかタッパーに分けますから、よければお持ち帰りください」
シコクは低姿勢を崩さないが、初めから夕食分のことも見越していたのだろう。
カカシはそれを感じとりながらもそのことには触れず、畏まってお辞儀をして見せた。
「どーも。助かるよ。埋め合わせに、美味い定食屋教えてあげる。今度一緒に行こう」
「ありがとうございます。ごちそうになります」
「はい。ご馳走します」
言って、二人はお互いの顔を見て目を合わせると、くすりと笑った。
その後再び書庫へ舞い戻ったシコクがどこか上機嫌だったとか、
通常なら数日かかる仕事を一日がかりでやってのけたとか、
あのシコクが唯一名前で呼ぶ男ができてしかもそれがあのはたけカカシだとか、
そういえば二人揃って昼食の材料らしきものを買っている姿を見ただとか、
正確な目撃情報とあらぬ噂が錯綜するのに時間はかからなかったが、それはまた別の話。
2011/07/20 : UP
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