からすばいろ
……さて、これはどうしたものか。シコクは用意されたそれを前にして、数秒思考を巡らせた。
手にしているのはシンプルなようでいて、見る目が多少なりともあればその質の良さが見て取れる下着である。
アンバーホワイトの生地には淡くハートがあしらわれ、その脇を埋めるのはピンクゴールドの糸で丁寧に施された刺繍。デザインは上下共に揃えられており、すでに下は彼女が身に着けているのだが、問題は上である。
何度タグを見直しても、彼女の胸のサイズよりも足りないのだ。それも、2サイズ分。
シコクはどれほど見つめようとも、変わらずにそこに記されたまま動かない『D』の文字を前に考えた。
これを用意したのはあのはたけカカシである。彼に限ってこんなミスを犯すなど考えられない。
その証拠に、アンダーのサイズはぴったりなのだ。
星の数にはとても及ばないとはいえ、今まで恋人として重ねてきた肌の触れ合いの数は体中の指をかき集めても数えきることはできない。
ともすればシコクよりも彼女の身体を熟知しているはずのカカシが、まさか胸のサイズを間違えるなどあり得ない話であるし、勿論シコクもそんなことは承知している。
カカシは彼の歪みない意志のもと、これを選んだ。
彼女が首をかしげているのは、なぜ不適切と知りながらも、あえてこれを買ってきたのか、に対してである。
『寄せては引く波のような駆け引き』と言えば聞こえはいいが、彼女たちが常日頃行っている他愛もないやりとりはどちらかと言えば『花一匁』だ。それはただ日常的に行われる遊びであり、そこにロマンやドラマ、ましてや崇高な意味などあるはずもなかった。
ただ時間を潰すように、決められた文句をなぞる様に、相手が攻めれば自分は引き、自分が攻めれば相手は引く。
これはその延長であり、では自分はどう攻めようかと彼女は考えながら、とりあえずはそれを身に着けることにした。
そもそもカカシがこれを買ってきたのには彼女自身の言動が絡んでいる。
『ねえシコク、今日泊まっていく?』
『随分と急ですね』
『無理にとは言わないけど』
『……着替えを、一度家に帰らないと』
『ああ、いいよ。オレが適当に買ってくる』
『下着もですか』
『こんな機会滅多にないし、プレゼントさせてよ』
『……ええと』
『ね』
事の発端を思い出し、あああの時どうしてうまく躱せなかったのだろうと思ってももう遅い。
随分と前から、それこそ恋仲になる遥か昔から、シコクにとってカカシは特別なのだ。そのカカシの申し出を断るという発想自体、無に等しい。
憧れであり目標であり、畏怖と恋愛の対象。
彼女の芯を貫き、正す存在。
言葉にすればそんなものかと思うほどには、そこに込められる想いは強いと彼女は自負している。それでもできるだけ簡潔に言い表そうとすれば、それらが一番妥当な言葉だった。
それがえらく近いところまで来てしまったものだ、と思うが、決して不快ではないことは明白で。
けれど、カカシの腕の中に納まるほど近くなる前は出来ていた『花一匁』は、このところうまくいったためしがない。
カカシがこれに何を求めているのか。あるいは、実は何も考えなどないのか。
いや、あるにはあるのは間違いないのだが、彼女が懸念しているようなことなのか、それともいつも通りのそれなのか。
まとまらない思考に無理やり終止符を打ち、シコクは寝間着に着替えて、留まっていた脱衣所から出ることにした。
どのみち投げかけられたこれに対し、何らかのリアクションを起こさねばならないのだから。
「カカシさん、お風呂ありがとうございました」
「ん」
カカシはトオルの声に反応するように愛読本から顔を上げ、シコクとカカシ、それぞれの視界に互いが映る。
カカシがおいで、と手招きするのに素直に従うと、シコクはカカシの膝の上に乗せられた。
「石鹸の臭いがする」
「お風呂上がりですから」
「ホントにオレの使った?」
「そこまで潔癖ではないつもりですが」
本を丁寧にフローリングの床に置き、カカシはシコクの身体を抱いて鼻を鳴らす。
彼女が少し身をよじれば、カカシはこれ幸いにとそのまま自分の都合のいいようにシコクの身体を動かして抱き心地のいいポジションまで誘導した。
無理やりではないものの、優しいながらもいいように動かされる自分に、シコクはかなわないなと思ってしまう。どこまでも穏やかな様子のカカシを見ると、心地よさまで感じてしまい、どうしようもない甘い敗北感が彼女の胸を満たすのだ。
見下ろしてくるカカシの眼は、シコクの好きな『大切なものを見る目』だ。これに打ち勝つ術など彼女にはない。
そしてこれが、適度な距離を保っていた以前には出来て、今は上手くできなくなった『花一匁』の原因でもあった。
「シコク、前に比べて柔らかくなった?」
不意にカカシがシコクの顔を覗き込むように首をかしげながら発した言葉に、シコクも同じように首をかしげて答える。
「体重は変わってないはずなんですが」
「女は恋をすると変わるって言うけど」
「……それを言うなら、私が変わったというより」
カカシの眼がからかいの色を含んだのをみて、シコクは笑みをこぼした。
「カカシさんが変えたんですよ」
「……」
固まったカカシに、何か言ってくださいとせがめば、一つ奇妙な空白の後、カカシが口を開く。
「あー、なんていうか、すごいこと言ったね」
「事実ですので」
「ふぅん? ちなみにオレはお前をどんな風に変えたの」
「目に見える体の変化もありますけど、もう一つ」
「なに」
「知りたいですか?」
「いや、自分で探す」
だから喋るなよ、と言いながら、カカシの唇が寝間着の隙間から彼女の肌を滑る。
くすぐるようでいて、底抜けにじれったく。
「あれ」
不意にカカシが声を上げて、シコクの身体を探っていた手が止まった。
「着けてくれたんだ」
「カカシさんが下さったものですので」
お気に召しましたか、とシコクは肌蹴た寝間着に手を添え、カカシに見せるように背をそらす。それを、カカシはピクリともせずにじぃ、と見つめた。
明らかに彼女には合わない小さなカップ。窮屈そうにおさめられた胸は、それでもこらえきれずにその存在を主張している。普段よりも締め付けているせいか、視界に訴えてくるその質感の軟さにカカシの息が刹那、乱れを見せた。
「どんな気分だった?」
「カカシさんの正気を疑いました」
シコクが真面目な顔をして言ってみれば、カカシはがっくりと肩を落として、あのね、と眉を寄せた。彼が期待しているような言葉をそっくりそのままなぞってやるほど、シコクは素直でもなければ媚びることもない。
「じゃ、どうして着ける気になったわけ?」
先ほどよりは幾分か投げやりになった声に、シコクは笑みを一つ。
「カカシさんが下さったものですので」
先ほど口にしたものと寸分違わぬ文句を、シコクはそらんじるようになぞる。けれど彼女の顔と声は、じわりと滲むような暖かなもので満ち満ちていて。
「結局脱ぐことになるのに」
「脱がすのが醍醐味だというのなら、つけなければ意味がないでしょう」
カカシの腕の中に納まったまま、シコクはカカシの首に腕をからめた。その仕草に応えるように彼女を抱きなおすと、カカシはシコクを見下ろしてくすりと笑う。
「……随分色っぽくなったじゃない」
「そうですか?」
「そうです。これもオレが変えたの?」
「カカシさん以外にいても?」
「いいわけないでしょ」
ころり、とフローリングに転がされ、シコクはカカシの唇を受け止めた。止まっていた手も再び動き出し、今度はシコクがカカシの手に自分のそれを重ね、誘う。
「我慢がきかないかも」
「明日の昼食のカレイ、期待してますね」
「もっと欲しいもの、ないの」
「甘味処のスイートポテトが好きです」
「色っぽくなったっての撤回するわ」
「萎えました?」
「まさか。ま、余裕はちょっと増えたかな」
心地よくカカシの手がシコクの肌をなでながら、寝間着を取り払う。重力に従ってするりと落ちたそれに見向きもせずに、カカシはシコクの下着に手をかけた。
そして落ちてきたため息に、シコクは何事かとカカシを見やる。カカシはその視線を避けるようにして彼女を抱きこむと、ぽつり、呟いた。
「ウソ」
「え?」
「……思ったより、視界に訴えてくるものがありすぎる」
読み違えた、と苦笑気味に囁かれたカカシの声に、シコクは思わず噴出した。
「珍しいですね」
ベッドの中、余韻と微睡の中に浸りながら、シコクは素直に疑問を口にすることにした。
愛おしそうに肌を滑っていくカカシの手は行為前のそれとは異なり穏やかで、彼女の眠気を誘うには十分だ。
それをなんとかすんでのところで堪えながら、シコクはまた口を開いた。
「カカシさんが、あんなものを買ってくるなんて」
あんなもの、と言いながらも彼女の顔は酷く嬉しそうだ。その『あんなもの』は行為の終盤にはすでに彼女の身体から離れ、今はベッドの下へ追いやられている。
冗談のようなやり取りこそ星の数ほどあれど、あえて相手のポイントを外すような贈り物というのは今回が初めてだった。
カカシはシコクの疑問を受けて、間延びした声を上げた。
「んー、ま、見たときお前に似合いそうだなって思ったのもあったんだけど」
「サイズがこれしかなかった?」
「いや」
次にカカシが発しそうな言葉を、彼の呼吸に合わせるようにして投げかけると、カカシはすぐにそれを否定した。
「ああでも、確かにお前の胸のものは置いてなかったけど、それより」
そしてふとシコクと視線を合わせると、いつもの飄々とした笑顔を浮かべて
「あれ渡したら、どう反応してくれるかなって考えたら気になってさ」
と、答えた。それを聞いて、ああ、やっぱり自分の推測は遠くなかった、とシコクは目を細める。それから、あれやこれやと考える必要などなかったことに、僅か拍子抜けしたように脱力して。
いい年をしてたまの悪戯が好きなこの男に、いったいどれほど骨抜きにされるのだろうとまとまらない思考の糸を手繰り寄せる。
元々冷静で穏やかな気質のカカシは、時折酷く子供じみた真似をする。大なり小なり心に傷を抱えて生きる忍にとって、そんな風に居られる時間があることは喜ばしいことに違いない。先の大戦に九尾事件を経て、近しい人を失わなかった者などいないといっても過言ではないのだから。
そして例に漏れずカカシもまた、大切な人を幾人も亡くしている。そのことを忘れることもなく、きちんと受け入れ、その上でたおやかに笑う姿がシコクには儚くも恐ろしく見えたものだ。
そんな底抜けに大きな存在が、ただ『なんとなく』の出来心でした小さなこと一つが、ひどく愛おしい。
そうして不意に、自分を真っ直ぐに立たせてくれるしっかりとした芯がカカシなら、腑抜けにするのもまたカカシなのは至極当然だと、シコクは一人で妙な納得をした。
大体、彼女の芯を形作るのがカカシだというのなら、もとよりカカシとの距離などないに等しいではないか。
何をいまさら狼狽えていたのだろう、とシコクはおかしくなって、ふと笑みをこぼした。
二人が潜り込むにはわずかに小さなベッドの中で、カカシがぴたりとシコクに身を寄せ、シコクの左手を取る。
「シコク」
「はい」
「これからの予定って分かる?」
「取り敢えず、今のところ寝坊するのは確実です」
シコクの答えにカカシは屈託なく笑い声をあげた。それからそしてその指先で、シコクの薬指をつまむように柔らかく握る。
「ここ、空けといて」
そしてシコクが何かを口にする前に、カカシは彼女の好きな眼で笑うと、静かにその唇で彼女のそれを塞いだ。彼女の驚きはその唇に吸い取られ、重なったそれが離れる頃には、心地よい微睡は霧散してしまっていて。
「……随分と急ですね」
至近距離で互いの瞳を凝視し、そうしてシコクの口から出た言葉は喜びでも驚きでもなく、ただあまりにもいつも通りのそれだった。
「んー、うん」
「なんとなく、ですか?」
「まあ、それもあるけど」
お互いに感情的になることもなく、まるで冷静で。
ただ胸から溢れ出すものがあることは確かだった。
カカシはシコクの手を取っていた指先で彼女の髪を梳きながら、ぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「お互い忍だし、先の見通しっていうの? 約束事ってなかなかできないじゃない」
「はい」
「たとえばデートにしてもさ。日付決めたって、任務如何ではぽしゃったりとか珍しくないし」
「はい」
「店の予約なんかにしても、同じでしょ」
「はい」
「お互いを縛り付けるとは言わないけど、そういうことってなかなかできない」
「はい」
「でも、どうしてもね、したくなっちゃったんだよ。約束と、予約」
困ったように笑うカカシに、シコクは身じろぎひとつせず先を待つ。
「少し前から、そろそろかなってタイミングは伺ってたし、ホントなら何かの記念日とか、気合入れてセッティングしたデートのあととかかなって、考えてた」
「はい」
「……具体的に用意してたものがあるわけじゃないけど、でも、そんなのすっとばして、急に、こう」
「はい」
「他の何をおいてもこれだけは、お前に確実に約束したいと思った。だから、できるうちに予約をしておこうと思ったんだ」
オレ以外の奴に渡さないでね、とカカシはもう一度確認するように、シコクの左薬指にキスを落とす。
「カカシさん」
「ん?」
「忘れないでくださいね」
シコクはカカシの腕の中からするりと自分の腕を伸ばし、カカシの胸板に頭を乗せた。
「カカシさんの予約と約束は同時に、私からのものでもあるということを、です」
そしてカカシが先ほどそうしたように、左手の薬指にキスを落とす。喜びにシコクが笑むのを認めると、カカシはあどけない子供のような顔で笑い返した。
「もちろん」
「にしても、コピーはオレの分野なんだけどなあ」
オレもシコクからちゃんとした言葉ききたかったなあ、と暗にカカシが告げると、シコクはそれを受け流すようにくすくすと笑って。
「それは失礼しました。……その日までに、とびきりを用意しておきます」
「ま、期待しておくよ」
「ご期待に沿えるよう頑張りますね」
「色気の方もね」
あそこで食い気に走られるとは思わなかった、とカカシがまたちくりと刺す。
「と言いつつ、カカシさん。ノリノリだったじゃないですか」
「え、そうだっけ」
「いつもより一層エロオヤジみたいなこと言ったりして。あ、そういえばあのプレゼントだってそういうエロオヤジ的な発想からだったんじゃないですか?」
「エロオヤジエロオヤジって……お前ね、それじゃいつもオレがそんなこと言ってるみたいじゃないの」
「違うんですか?」
「お前の余裕がないトコロ見てると、気分がいいのは確かだけど」
特権だよね、とカカシはシコクの『エロオヤジ』発言を否定もせず嬉しそうに笑う。
これは墓穴だったと彼女は悟るも、時すでに遅し。
「だってお前、言葉責めすると一気に余裕なくなって、声も表情も、反応も変わるんだもん。それを見れるのはオレだけなわけでしょ? もっと余裕なくしちゃいたいと思うのは当然じゃない」
「……あの」
「なに?」
「……」
その時ならともかく、冷静になってからそんなことを言われるのは恥ずかしいからやめてください。
言いたかった言葉は軽口にもできず、せめて視線で抗議をしようと羞恥心から一度下げた顔を上げると、飛び込んできたのはからかいではなく、ただ優しく笑むカカシの顔で、シコクはそれを飲み込むよりほかなかった。
そしてすぐにこれも言葉責めの一環かと思い至り、余計に思考を乱してしまう。
歳の差は一つと言っても、そこには越えられそうもないものがそびえているように思われた。
シコクの思考をかき乱した当の本人は笑っているが――
「ホント、かわいいねお前は」
ひたすらに優しいその顔を見てると、もう勘ぐるのも面倒で。
シコクはもう勝てなくても、越えられなくてもいいか、などとめぐる思考ごと放り投げたくなった。
もとより勝負などではないし、むしろその必要などない間柄ではあるのだが。
「物好きな人ですね」
「ま、ライバルは少ないに越したことないし? お前が可愛いなんて知ってるのはオレだけでいいよ」
「……」
「たまの素直は立派な武器だよ、シコク」
「……今身をもって感じている最中です」
「あ、そう?」
言って、カカシはまたこの上なく嬉しそうに笑んで見せる。シコクはそれにつられるように頬をゆるめて、瞼を下ろした。
物好きでとびきり優しい人、と彼女が口の中で小さく呟くと、彼はその口角をわずかにあげて。
そのまま二人、深い眠りの淵へと降りて行った。
2011/08/07 : UP
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