べにけしねずみ

 なにか確たるものが欲しかったわけではない。
「お気をつけて。ご武運を」
 ただ、耳にしたそれが心地好かったのだ。


 その日の任務である猛獣及び密猟者の討伐を終えたカカシは、報告書は自分が、と申し出た後輩にこれ幸いとそれを頼むと、そのまま家路に着いた。
 里を行き交う人々はそれぞれに先を急ぐように歩いている。漂ってくる香りは夕飯のそれで、カカシはふと足を止めた。

 商店街の手前。目に留まったのは見慣れた漆黒。
 それはカカシに気付くと、側に居た女性と別れ彼の方へと小走りで近寄ってきた。
 間違えるはずもない、黒曜シコクだ。
「任務、お疲れさまでした」
「ん」
「……カカシさん?」

 呆けたように表情の読めないカカシに、そのそばまで駆け寄ったシコクはわずかに首をかしげる。カカシは先ほどシコクと一緒に居た女性の去った方を指差して
「よかったの?」
 と小首をかしげた。シコクはそれにはっきりとうなずきを返す。
「ええ。あれは友人なんですが、たまたま会ったんです。アカデミー時代からの付き合いで」
「大事にしなきゃダメだよ」
 たまたまと言うからには事前に都合した訳ではないだろうが、お互い忍ならば尚のことたまの顔合わせは貴重なものである。それが今生の別れになることもあるのだ。
 忍界大戦時代とは世界情勢が異なるとはいえ、いつの時代も一般人に比べ忍にはそう言った危険が常につきまとう。
 幾人も近しい人間を失っているカカシにとって、そういった長い付き合いになる人間と言うものは尊ぶべきものだった。
「してますよ。お互いに」
 カカシが短い言葉に乗せた想いを、シコクは微笑みで受け取った。カカシの込めた想いに対して、それはあまりにも軽いように思われた。
 けれど、シコクも忍の一人である。彼の言わんとすることなど今更上忍二人が揃ってするものでもない。
 カカシは彼女の目がどこかからかいを含んで弓なりになっていることに気付くと、取り繕うように頬をかいた。
「年取ると説教臭くなるね」
「上忍師が板についてるんでしょう」
「お前もそのうちこうなるかもよ」
「それは楽しみです」
 シコクは言って、それからふと思い立ったようにカカシを見上げた。
 自分の気持ちがどこか浮わつくのを感じながら、カカシもシコクを見つめ返す。

「では、私もこれで失礼します」

 そうしてシコクの口からでた言葉はカカシが予想していたそれとはかけ離れていて、彼を落胆させるには十分だった。
 子どもでもあるまいし、とカカシは思うものの、落胆はそれだけ彼が期待をもって彼女の会話に臨んだことを如実に表していた。

 今日はカカシがこの里で産声をあげた日。彼にとっては故人の命日よりは余程特別でもないのだが、それでも今年に限ってねだるような気持ちになっているのはどうしたことだろう。
 そうして果ては咄嗟にシコクの腕を掴んでいたカカシは、己はこんな人間だったろうかと頭を働かせた。
 よく知った人間にも、カカシからは面識がない人間からも、沢山の言葉をかけられた。さすがに自分が受け持つ生徒や他の班の下忍らから手放しで喜ばれては感じないものもないわけではないが、その一つ一つに感動して涙を流すような人間ではないことは彼自身がよく知っている。ありがとうと笑顔なり手なりを振りまいた時にもなんら特筆すべき感慨はなかった。

 まるで青臭いことをしていると、己が掴んだシコクの手を見ながらそう分析する程度に冷静さを欠かなかったカカシは、さも平静を装って口を開いた。

「送るよ」

 言い訳にしては最低な部類だが、発してしまった以上後には引けない。
 カカシの言葉をどう受け取ったのだろうか、シコクは虚を突かれたように目を見開いていたが、直ぐにその双眸を緩く細めると、
「では、お言葉に甘えて」
 なにも言わず、カカシの言葉に乗った。



 辺りはまだ活気づいている。夕日に照らされながら歩く道は、ひどく懐かしいもののように思えた。
 なぜかと考え、直ぐに忍として屋根の上を駈けたり、瞬身の術で移動することが多いからだと気付く。
 誰かと連れ立って歩くのはいつぶりだろうか、そう言えば前にもシコクと昼間、こうして歩いたことがあった。

 そういえばあのころを境に、シコクの姿をよく気にするようになった気がする。と言うより、よく視界に入ってくるようになったというべきか。
 それまではさほど関わりもなかったはずなのに、と横を歩くシコクに目をくれると、カカシの視線に気づいたシコクは穏やかに微笑みを寄越してきた。
 今日の討伐隊は昼からで、出発前にも顔を合わせたことを思い出す。
 取り立てて何かあったわけではないが、声を聞いたときの心地よさを思い出して、カカシは今自分に向けられている笑みにそれを重ねていた。

 本当に、子どもじゃないんだから。

 とりとめもなく、ただ浮かぶままに思考を巡らせている間に、二人の足は目的地であるシコクの部屋までたどり着いてしまっていた。さすがに部屋の前まで見送るのもどうかと、カカシはシコクの横に立ちつくし、彼女の部屋がある三階を見上げる。
「……」

 着いてしまった。なにをやっているんだか。

 なにか明確な気持ちがあったわけではないが、損をした感が否めず、カカシは眉を寄せた。

「ありがとうございます」

 対してシコクは柔らかく笑んでいて、丁寧に頭を下げていた。
「どういたしまして」
 それにひらひらと手を振ってみせる己は大概だなと思いながら、カカシはその場を去ろうとしたのだが
「ああ、違います」
「え?」
「いえ、違わないこともないですけど、カカシさん、気づいてくださらないので」
「……ええと」
 ナニが?
 シコクに引き留められ、カカシは困惑したように首を傾ける。シコクもまたカカシと同じように首を倒して、困ったように笑った。
「お疲れですか? いつもなら気づいてくださると」
「……いや、今日はそこまでチャクラも使わなかったし、疲れてないけど どうしたの」
「いえ」
 カカシがいよいよ上半身ごと身体を傾けたのを見上げて、シコクはどこか所在なさそうに視線をさ迷わせたあと、どこか遠慮がちに呟いた。
「お誕生日……でしょう?」

 じわり、と滲んだのはなんだったのか。

「……うん」
 それは紛れもなく心のどこかが満たされたような、欲しかったものを手にしたような充足感だった。
「ですから、……カカシさんが生まれてくださって、ありがとうございますと」
 お伝えしたのに、カカシさんが全く気づいてくださらなくて。
 今さら説明するのも気恥ずかしいのだろう。確かにいつものカカシならシコクの意図を汲むこともできたはずだ。それを見落としたのは他でもないシコクに端を発しているとはいえ、まさかナルトたち下忍じゃあるまいしとカカシは目を閉じてくつりと笑った。
「すまん」
「いえ」
 いつになくぎこちない空気に、二人は顔を見合わせて苦笑した。
「今日は祝われることはあっても、ありがとうはオレの台詞だったから」
「……中には、そう言われるのを厭う方もいらっしゃいますので、申しあぐねて」
 ちなみに私はお祝い大歓迎です、とシコクの声が跳ねると、カカシもつられるように笑みをこぼした。
「オレも祝われるのは大歓迎な方」
「……では、来年は」
「楽しみが増えたな」
「その前に私の誕生日です」
「ま、来年の楽しみのために奮うか」
「ですね」
 どちらともない目配せの後、カカシはそれじゃあ、と見送るシコクを背に通りを挟んだ向かいの屋根に飛び乗った。
「カカシさん!」
 その背にシコクの声が追い付き、カカシは屋根の上からシコクを振り返る。
「お誕生日、おめでとうございます」
 丁寧に紡がれた言葉に、カカシは唯一露出している右目を嬉しそうに細めた。
「ありがとう」
 そしてシコクと同じくらいに心を込めてそう返すと、後はいつも通り。先ほどもそうしたようにひらひらと指を振り、手を振り返すシコクから完全に背を向ける。

 誕生日がそう特別でないことは変わらないけれど、足に込める力が湧いた気がした。


******


 一日の終わり。
 ごろりとベッドに横になれば、湧き出てくるのは数々の声と、顔と、モノ。

 第七班班長としての任務は昼過ぎには終わり、猛獣討伐と大規模な密猟者狩りも恙無く進み、夕方には幕を引いた。
 その任務の合間にカカシが得たそれらは幾重にも重なって頭に響き続ける。

「ありがとうございます」

 その中で一際大きく囁いたのは、シコクの声。
 ああ、言われてみればあんな明るいうちから大人しく送られてくれた割りに、礼を言う時の声はいつになく弾んでいたような気がする。
 なにをしているのだか。まさか、はたけカカシともあろう者が。
 あんな大切なものを聞き逃していたなんて、ある意味一生の不覚かもしれないとカカシは天井の木目を見ながら胸中で唸り声を上げた。

 彼女が己の誕生日に触れた際に、すとんと胸に落ちた『なにか』。
 嬉しいのだと認めるにはあまりにも慣れない感覚に、細く息をつく。

 その時ふと、月が陰りを見せたような気がして、カカシは横になったまま、目線だけをカーテンも閉めずにいた窓に投げた。

「あ」

 読唇術など持ち合わせなくともはっきりとわかる、驚きに満ちた顔。
 夜の闇に紛れた体と、月明かりに照らされた肌。
 まさか気づかれないだろうと思っていたのか、シコクは少々ばつが悪そうに微笑んだ。
 カカシは起き上がって、からからと窓を開けてやる。
 入れ、と促してやると、シコクはいよいよ借りてきた猫のように申し訳なさそうな顔をして脚絆を手にカカシの部屋に上がり込んだ。
「……夜分遅くに申し訳ありません……」
「それは気にしてないけど。どうしたの?」
 そろそろ日付も変わる。上忍ともなれば規則正しい生活など縁遠いが、それでも夜は寝るものだ。
「非常識なのは承知の上ですし、時間が時間ですから、窓からカカシさんの様子をうかがって、もしご在宅でご就寝前なら玄関からお訪ねしようと」
 こんなはずではなかったと、珍しく顔を歪めていたシコクは、まさに白状と言う言葉がふさわしいほど苦々しい顔をして、カカシの疑問に答えた。
「これを」
 そうして彼女がカカシの前に出して見せたのは、見慣れない酒瓶。
「先刻はお渡しできなかったので」
「これ……珍しい銘柄だな。木の葉じゃあまり見かけないけど」
「以前任務で立ち寄った先で手に入れたものです」
 夕日上忍に見つからないようにするのが大変でしたとシコクは笑う。
 酒に目がない同僚の名前に、カカシはあー、と間延びした声を出して苦笑した。
 紅からわざわざ隠すと言うことはかなりの美酒である。
「いいの? オレが貰っても」
「お祝いされるのは大歓迎な方、とお聞きしましたので」
「……どーも。ありがたく頂戴します」
「はい」
 仰々しく受け取った酒瓶を掲げるようにして持ち上げると、カカシはちらと時計に目を走らせた。
 まだ、時間はある。
「……なら、もう少し」
 折角だから祝ってもらおうかな。

 呟きは静かな部屋に響き、シコクはきょとんと目を丸くしたあと、
「折角可愛いのがいるのに、野郎一人で晩酌なんてつまんないでしょ」
 そういって笑うカカシに、慌てたように声を上げた。
「いえ、あの、もう夜も遅いですし、カカシさんはどうぞごゆっくりお休みになってください。私はお暇を」
「だーめ。気にしなくていいって言ったでしょ。なんにもしないから先輩の誕生日くらい付き合いなさい」
 『なんにもしないから』などと口を滑らせたのはなぜだったのか。
 いや、それは多分シコクが目に見えて狼狽したからで、己はそれにつられただけだと言い訳染みた分析をしてみるが、すでに言葉を出したあとでは苦い後悔にしかならない。
 いい大人が二人して、まるで実家住みの年頃の男女のようなやり取りを。
 ああ今日は本当に調子が狂うとカカシは思うが、にわかに騒がしくなったシコクが黙り込んだのを見て、自らも沈黙を保った。
「……非常識な後輩に嫌な顔一つせずもてなしてくださるなんて、優しい先輩ですね」
「帰りにはちゃんと送り届けてくれる先輩でよかったね」
「朝帰りはご勘弁くださいよ」
「ちゃーんと夜の間には帰してやるよ」
「……では、僭越ながら不肖シコク、残りわずかとなったカカシさんの生誕記念日にお供致します」
 台所お借りしますよとシコクが微笑むと、カカシはひらひらと手を振り、その背中を見送った。

 里にいる忍で誕生日パーティーでもと言う話がなかった訳ではない。
 それを断ったのはなぜだったのか。
 誕生日はそう特別でもない。けれどそれだけを理由に断ることもなかった。 カカシの頭によぎったのは見知った顔ぶれ。お祝いにかこつけて酒を飲みたがる連中や、お零れにあずかろうとするもの、これ幸いにと出会いの場にしようとする輩たち。
 皆気のいい奴らではあるのだが、そこに可愛い後輩が参加しているのを想像できず、カカシは頭をかいた。
 そつなくやり過ごし、付き合いも悪くはないけれど、賑やかな場所を不得手とする後輩はきっとそこには来ないだろうと踏んだからか、はたまた。

 まあ、いい。静かな酒盛りは嫌いじゃない。

 カカシは窓の向こうの月を見てぼんやりと思う。

 ……月も綺麗なことだし。

 掠めた言葉はそのままカカシの中に留まって、産声をあげることなく彼の穏やかな心中に消えた。

2011/09/15 : UP

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