想い一片

 コーヒーが好きじゃないと気付いたのはいつだっただろう。少なくとも、あいつと会うことがなくなってからだ。
 それまでは惰性のようにして飲んでいたそれが、ある日ふと、顔をしかめてしまうほど『不得手』だと思った。
 いつも砂糖と牛乳でごまかしていた酸味が嫌に舌に響いて、同時に
シコク、もうそれコーヒーじゃなくてカフェオレだよ」
 なんて優しい声を思い出してしまったから。

 半年。たった半年だ。でも、とても長かったように思うし、よくもったとも思う。
 所詮は興味だったのだ。
 相手は若く、里を代表するほどの名だたる忍。その名は他の里にまで轟き渡り、ビンゴブックにまで載るほど。かたやこちらは30代も半ばになって、特定の相手もいない冴えない中忍のくノ一。どこを気に入ったのかはわからないけれど、しつこく言い寄られて根負けするように付き合い始めた。
 選ばれたという自負はなかった。
 いつあきるのだろうといつもどこか落ち着かなくて、どうせ気まぐれに、私がなかなか落ちないものだからつい追いかけていたのだろうと思い込むことで、いつか来る別れに怯え、傷つくまいと必死になっていたのはもうずいぶん前のように感じる。
 口説かれていたのは三ヶ月。付き合ったのは六ヶ月。顔を合わせなくなって三ヶ月。思えば、この一年は振り回されてばかりだった。生活を、と言うよりも、心の中を乱されて。
 それも落ち着いた最近は、要らない煩雑な思考にとらわれることもなく、ただ素直に、ああ私は彼のことが好きなのだと、そんな簡単な気持ちだけが残っていることに、ようやっと気づいたところで。
 いろんなものに気をもんで、いつから自分の気持ちが見えていなかったのだろうと苦笑を禁じ得ない。無くしてから気づくとはよく言ったものだ。

 だからこうして、アイツの誕生日に、アイツの好きなものを用意しているのも、仕方がないことなのかもしれない。
 もしかしたら、今日と言う日は会うことができるのではないかと。
 そして私ではない他の誰かと楽しそうにしているのを見るのではないかと思って、この部屋から一歩も出れないでいる。カーテンまで閉めて。
 自分でもほとほと面倒な女だと思うけれど、どうにもならないからこうなっているのだ。
 なりふり構わず縋り付きにでも行けばどうだろうと考えないでもなかったけれど、それで軽くあしらわれたら惨めすぎてどうにかなってしまいそうで、どこまでも自分のプライドばかり保とうとしてしまう思考に最早嫌悪感すら浮かんでこない。

 アイツが来なくても、今日はたまたまアイツの好きなものが並んだだけで、別に約束があったわけじゃないもの、と用意した逃げ道は、突然なったインターホンの音に潰された。

 ――。気配はなかった。わざわざ消す必要は? 急な任務にしても、忍を寄越すなんてあまり例のないことだ。

 込み上げてくる期待から今更目をそらすこともできずに、私はしばらく玄関のドアを凝視して、それから震える手でチェーンロックを外した。
 それでもドアが開く気配はなく、それはそうだ、部屋の主は私であり、普通はこちらから開けるものなのだから。
 静かにドアノブを回す。かちゃりともせず、そのまま前に押すと、あらわれたのは見慣れた忍服と、ここしばらく見なかった顔だった。

「久しぶり」

 まるで空白の時などなかったかのような振る舞いに、私はついていけなくて言葉を失ったように立ち尽くした。
 好きだと思った相手の、カカシの後ろに広がる秋晴れの空は鮮やかに朱から藍に染まり始めていて、急に暗雲の立ち込めた私の心と全く正反対で、泣きたいと、思った。

「……どうしたの?」
 絞り出した声は随分小さくて涙の色さえ滲んでいて、それを分かってないはずはないのに、カカシはにっこりと人懐こい笑みを浮かべた。
「オレ、今日誕生日なんだ」
 しってる。知ってるわ。
「だからプレゼントをもらいに来た」
「……え?」
「だってオレのための飯でしょ? いい匂いだ。外からだとよく分かった」
 笑うカカシは楽しそうで、カーテン閉まってたからいないのかと思ったけど、驚かそうとしてくれてたの、と聞いてくる彼に、困惑しながらもどこかほころんでいく心を感じる。
 けれど一気にかき乱された私の心と思考はまとまる気配はなくて、何を言うでもないのに詰まるのどに、熱いものがこみあげてくる。
「今まで、どうしてたの」
「どうしても今日、半日だけでも休みが欲しくて。その分任務詰めてた」
 カカシが約束をしたことはなかった。そのことを、今ほどいじらしいと感じたことも。
「ねえシコク。飯の前にプレゼント頂戴よ」
「……夕飯の用意しかしてないわ」
「そうじゃなくて。今、オレの目の前にいるじゃないの。シコクが」
 くす、と細められた目。わざと区切るように、カカシは言葉を紡ぐ。
「キス。してくれない? シコクから」
 してもらったことないよ、とその口から飛んできた愚痴も、咽喉元の熱量を増やすには十分で。

「カカシ」
「ん?」
 じわりと身体を侵食するそれに抗うのをやめると、それまでが嘘のように、咽喉を震わせずにはいられなかった。
「私、コーヒー嫌いだったの」
 笑みすら浮かべた私を見て、カカシは一瞬虚を突かれたように目を丸く見開いた。それから、さっき見せたそれとは比べ物にならないほどおかしそうに顔全体で笑った。
「知ってる。シコクが大好きなのは、甘いカフェオレでしょ」
 何をいまさら、と屈託のない笑い方をするカカシに、私もつられるように笑った。そっとカカシの手を引いて、狭い玄関スペースに二人身を寄せる。
 遮るものを失って、ドアがバタンと音を立てた。
「でもね、もっと好きなものがあるの」
「なに?」
 見下ろしてくるカカシの目は優しい。私はそっとその口元を覆うマスクを下ろすと、カカシの首に手を回して、ゆっくりと口づけた。
 何度も何度も啄ばむように繰り返しカカシの唇に吸い付く。一回一回丁寧に。彼の唇の形や感触を確かめるように。
「……カカシが好きよ」
 そして彼の頬を撫でてそういうと、カカシはこの上なく幸せそうに笑った。


2011/09/15 : UP

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