銀の立待月

 月の明るい夜だった。流通関係の仕事の連絡がうまくいかず、深夜にまでずれ込んだのを何とか終わらせて家へと急いでいた。
 そうあることではないけれど、ないわけではない。そんな日。
 疲労と空腹で急ぎ足になっていたのが止まったのは、腕をつかまれたからだった。驚きとわずかな恐怖でもって振り向けば、そこにいたのはいかにも深酒をした体の男。
「よぉ、そんなに急いでどこいくんだぁ?」
 呂律は何とかまわっている程度。吐き出された息は酒臭く、反射的に顔をしかめた。

 そこから具体的なやりとりは覚えていない。
 運が悪かったと思いながらも止められない苛立ちと恐怖の反動か、必要以上にきつい言い方をして、相手の機嫌を損ねた。酔っ払いがよく分からない言葉にも満たない怒声を上げながら、握り拳を振りまわしたのが見えた。ぎゅっと目をつぶって、予想もつかない、けれど確実に来るだろう痛みに備えて。
「そこまでだ」
 毛色の違う声がした。
 一向に来ない衝撃に恐る恐る目を開けると、そこには何か不機嫌そうに声を上げている酔っぱらいと、男が一人。その姿はこの里では珍しくない、オーソドックスな忍服と言うやつで、どうやら助かったらしいことだけを理解すると、ゆるく息が漏れていた。
「なんだお前!」
「酔っぱらって女の子に絡んだ挙句暴力って、そっちこそなんなんだ」
「お、おれはまだ殴ってねえぞ!」
「握り拳つくって振り回して脅すのも立派な暴力のうちだ」
「そんなことしてねえよ!」
「こっちは上から全部見てたんだよ」
 上ずったような酔っぱらいの声と、少し厳しい、威圧感のある冷静な声が交互に耳に入る。内容のほとんどは理解が追い付かないくらいに恐怖と安堵で胸がいっぱいだったけれど、忍の落ち着いた声色はどこか安心できた。
「おーい、何やってんだー」
 新しく男の声が、まさに上から降ってくる。よく見ればそこは居酒屋で、二階で飲み会か何かをしていたらしい。酔っ払いを取り押さえている忍の仲間のようだ。
「ちょっとねー。悪いけど警備部隊呼んでくれない?」
「自分で呼びゃいいだろー」
「今手が放せないんだよ」
 言いながらも、忍はあれよあれよと言う間に酔っ払いを縛り上げてしまった。……素人ながら荒くたい、と思ったけれど、いいんだろうか。確かに怖かったけれど、彼のおかげで殴られることもなかったのだし。
 少し余裕が出てきたところで、忍は私の方に顔を向けた。
「大丈夫?」
「あ、はい、……」
 出した声は普段のそれよりも数倍は小さくて、ああ怖かったんだと改めて感じた。
「君も、酔っ払い相手にあんなふうに攻撃的になるのはよくない。どうなるかなんて考えればわかるでしょ」
 たしなめるそれは酔っ払いに向けていたように鋭くて、私はすみませんと無理から咽喉を震わせた。声も震えてしまって、私が泣いてしまうと思ったのだろうか、
「あ、ええとね、ごめん。怖かったね」
 さらに怖がらせるつもりはなかったんだけど、と忍はどこか慌てふためいたように、意味もなく両手を振った。
 よく見ると、忍がそれと分かるように着用している額宛ては左目を覆うように斜めにして頭に巻かれ、口元と鼻を隠すマスクのせいで顔の大半は見えなかった。背は高いけど、姿勢はよくない。黒の忍服と、銀色の髪のコントラストが夜の月明かりによく映えていた。
 この里にはたくさんの忍がいて、よくその姿を見るけれど、これほどまでに忍らしい恰好をしている人も珍しく、私は警戒どころか、声を聞いたその時よりも安心してしまった。
「あの、私、帰っても……」
「ん、警備部隊にこの人引き渡すのに、もうちょっといてほしいんだ。君は当事者だし、状況を説明してくれないと」
「でもあの、すみません、よく覚えてなくて」
「ま、オレもいるしそう緊張しなくていいよ。それより……女の子がこんな時間に一人で出歩くってのは感心しないね」
 忍として里の治安を守るのは仕事の内だと聞く。けれどこんなところで楽しく飲んでいただろうに、こんな面倒くさい場面に出くわして、表立って面倒くさがる風もなく、あまつさえ説教をしようとする彼に、私は少しばかり自分を取り戻し始めていた。
「仕事帰りです。さも遊んでた風に言われるのは心外です」
 大体、女の子ってなんです。私もう成人してます、と明らかに大人の対応には程遠い私の言葉に、 その人はこれでもかと言わんばかりに唯一露出した右目を丸く見開いて、それから
「それだけ気が強かったら、忍の世界でもやっていけるね」
 とてもおかしそうに、くすっと笑った。



 それからほどなくして二人組の警備部隊とやらがやってきて、名前や連絡先を含めいろいろと説明を求められた。
 大きな忍の隠れ里とはいえ、こんな形で初めて忍と接触することになった私はもたついてしまって、終始銀髪覆面忍者さんの補足に助けられたという有り様だった。もう私でなくてこの人が話せばいいんじゃないかと、何度も思った。
 酔っ払いはといえば、忍に囲まれて酔いも醒めたのかえらく縮み上がってしまっていて、何度も謝られた。私も覆面さんに諭されたことについて非がないわけではなかったので、お互いに悪かった、と言うことで話はついた。
 念のため酔っ払いを家まで連れて行くと警備部隊の二人が覆面さんに伝えるのを傍で小さくなってきいていた。居酒屋から覗く好奇心に満ちた視線が嫌で、それから背を向けて早く帰りたいと強く思った。
「よし、じゃあこれで君も帰っていいよって言いたいんだけど」
「……まだ、なにか?」
 随分と落ち着きも取戻し、そろそろ眠くもなってきた。お腹も減ったけど、今日はもうお風呂に入って寝てしまいたい。こんなことがあっても、明日はいつも通り仕事があるのだ。
 覆面さんは一度私に向かって少し申し訳なさそうに眉を下げて笑うと、上を向いて声を上げた。
「おーい紅。この子送ってあげて」
「……アンタが送ってやんなさいよ」
「そういうわけにもいかないでしょ。オレはいいけど、この子が」
 どうせ同じ忍なら、女の方が安心するよね? と同意することが前提にある訊ね方をされ、私は言葉に詰まった。ここまで来たら別にどちらでもいい。
 腕の立つ人なんだろうか。さっきのもたついていた私の様子を見て、忍に不慣れだと分かったのかもしれない。それで、ならばと気を使ってくれているのか。
「一つ貸しね」
「はいはい、どんな名酒でも美酒でも奢らせていただきますよ」
「お酒より、アテの方が楽しみだわ」
「……あー、クソ。高い貸しだな」
「やめてもいいのよ?」
「いや、頼んだ」
 傍目に見ても気の置けない間柄なのだと分かる。ふわりと居酒屋の二階から降り立ったのは、つややかな黒髪と紅の眼の美しい女性だった。顔だちも綺麗で、少々鋭い印象も受けるけれど、まさしく美女と言うにふさわしい。
 見とれそうになっていると、目があった。
「災難だったわね。もしよかったら少しこっちに入って、なにか胃に入れて帰る?」
 緩んだ目元はそれだけで彼女の鋭そうな印象を変えてしまった。
 キツそうな人だと思ったけれど、微笑みは気のいいお姉さんと言った感じで、その唇から提案されたそれはとても魅力的なもののように思えた。
「紅」
 それを咎めたのは覆面さん。彼の声に、彼女は不服そうに唇を尖らせた。そんな様子もまた艶やかで、扇情的ですらある。
 ちら、と覆面さんに目をやると、少し苛立っているのかなんなのか、彼女の色っぽい仕草などないような風で、目だけで彼女を怒っていた。見慣れているのかもしれない。
「あの、すみません。お誘いはうれしいんですけど、明日も仕事で」
 急に早く帰りたいという気持ちが膨れ上がってそういうと、なら仕方がないわね、と彼女は優しく私を帰路へと促した。
 危なかった。ホイホイついていきかけたけれど、ほかにも何人か仲間の人がいるんだった。さすがに初対面で軽くついて行ってしまっては、『こんな時間に出歩くなんて』と説教を垂れてくれた覆面さんにぐうの音も出ない。何より厚かましすぎる。
「じゃ、気を付けて」
 右手を軽く上げて見送ってくれる覆面さんを振り返って、深々と頭を下げる。
「はい、あの、助けていただいてありがとうございました」
「気にしないで」
 去り際、にこりと笑った右目はとても優しくて、いい人そうだと思った。



 本当に本当の帰り道。月明かりの鮮明さを楽しめるほどに回復した私は、女性と自己紹介をして、彼女の名が紅さんであることを知った。覆面さんがそう呼んでいたけれど、やっぱりとても親しい仲のようだ。
 居酒屋では、珍しく休みの重なった面子で飲み会をしていたのだと教えてくれた。忍の休みは一般人で言うシフトのようにしてずらされるので、基本的に重なることはないのだそうだ。
「すみません。お楽しみのところを、興醒めするようなことで」
「貴女は悪くないわよ。それに、醒めるどころか面白いもの見れたしね」
「面白いもの、ですか」
 紅さんは私を見てくすっとおかしそうに笑った。私に関することで、だろうか。どこが面白いのかさっぱりわからないけれど、気分を害してないのなら何よりだ。……もしかして紅さんは私が酔っ払いに絡まれていた時の様子を面白がっていたのかもしれないが、そんな性格の悪そうな人にはとても思えないのですぐに無いなとかき消したのは私だけの秘密だ。
「アイツのあんなところ、初めて見たわ」
「アイツ……覆面さんですか?」
「そうそう、そいつ」
 よかった。私のことではなかった。そう思うと同時に、彼は何も面白いことなんてしてなかったように思うけれど、と似たような疑問がわいてくる。忍にしかわからない笑いのツボと言うものがあるのかもしれない。
 話の流れで、今日の感謝を改めて伝えてほしいということと、いい人そうな忍さんでよかったです、と口にすると、いよいよ紅さんは愉快そう笑い出した。
「貴女には羊に見えても、中身はその辺の男とかわんないわよ、アイツ」
 まあ、あれでなかなかロマンチストだったのは今日知ったけど、と紅さんは笑いを引きずったままそう言った。
「でも……助けていただきましたし、今だって同じ女性同士の方がって、こうして紅さんに送っていただいてるわけですよ? すごく紳士的だと思いましたけど……」
「まさか。安心させたいなら、アイツ自身が女に変化でもすればよかったのよ。普通に助けたのは下心があったから」
「……下心?」
「前から声かけるきっかけでも狙ってたんでしょうね。だからどうしてもアイツ自身の姿で接触する必要があった。でも実際は場合が場合だったから、貴女を送るのは私に任されたってわけ」
「あの、……ええと」
「下心があったからこそ貴女を送れなかったのよ。やあね、アイツったらそんな草食系童貞みたいなことを平気でするなんて……本気なんだわ」
 一人で盛り上がる紅さんに、私はなんとか言葉の端をつないで整理を試みていた。
 彼女の話を自分に言いようにつなげると、彼は、私を好き、なように聞こえるんですけれど?
「あの、えっと、紅さんと覆面さんはどういうご関係で……」
「どういうって、ただの同僚よ。それ以下でも、それ以上でもないわ」
 間違っても勘違いしないでちょうだい、と釘を刺され、その剣幕のすごさに私は無言で何度も頭を振ったのだった。



 そのあともまさか「彼は私のことが好きなんですか?」とも聞けず、タイミングを綺麗に逃してしまった私はそのまま家までおとなしく送られてしまった。アパートの部屋の前。私は深くお辞儀をして、紅さんに御礼を言った。
「はたけカカシ」
「え?」
 下げた頭に、そんな言葉が落ちてくる。顔を上げると、上機嫌な紅さんの顔が見えた。
「あいつの名前よ。もし覚えてたら次、名前呼んでやって。犬みたいに喜ぶから」
 よかったら試してみて、と紅さんは妖艶に笑って見せた。これはなにかよからぬことをたくらんでいる種類のものだ。たぶん。その光景を見て笑いたいとでも言いたそうな。
「危ないから私のことは見送ったりしなくていいわ。ちゃんと部屋に入りなさい」
「はい……。あの、紅さんも、お気をつけてお帰りくださいね」
 言うと、紅さんはこれでもかと目を丸くして、それからにっこりと綺麗に笑った。
「これでも上忍……っていっても、貴女は知らないものね。ありがとう。里で見かけたらいつでも声かけてね」
「はい。おやすみなさい」
 軽く会釈して、ドアを開けて、もう一度笑みと一緒に軽く頭を下げた。ドアを閉めて、チェーンロックと鍵をかける。
 いつも通りの帰路だったのに、なんだかものすごくいろんなことがあった。

 ――はたけ、カカシさん。

 紅さんから教えてもらった名前を忘れないように頭の中で繰り返す。
 やっぱり、自分でももう一度直接お礼を言いに行くべきだろう。……菓子折り、でいいのかな。ちょっと忍について詳しい人に聞いてから決めよう。
 あれこれと考えながらお風呂を沸かす手がどこかはずんでいるのに気付いて、私は苦笑を禁じ得なかった。

2011/09/15 : UP

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