いざ参るは愛しき人の
ざり、と地面を踏みしめた。見上げるのは彼女の部屋。手には、ついこの間手渡されたシンプルな鍵。いや、鍵にシンプルもクソもないんだけど、間違っても少女趣味なキーホルダーはついてない。本当に鍵だけ。
部屋に気配を感じる。おそらく寝ているだろう。今は朝の五時だ。あたりは明るく白み始めているとはいえ、人通りは皆無に近い。特に彼女に限っては今日は休みの日だと言っていた。起きるのはまだ先だろう。
一週間ほど里を離れ任務にあたっていた。つい今しがた帰還し、報告は済ませてあるから、夜からの待機まで身体を休ませねばならない。幸か不幸か戦闘のなかった今回の任務。チャクラ切れには程遠く、体調もいいため長い休息は得られない。
折角なら彼女と過ごしたいと足を向けたまではよかったが、部屋に入るまでに今の時刻に気付いてしまったのは多分よかったのだろう。
一般人である彼女と忍のオレとでは生活リズムがあまりにも違う。
それでなくても彼女と親しくなるのに世話を焼いてくれた紅には『アンタには忍の中でも特に常識ってものがない』と散々言われた。共に家で暮らす家族もなければ、一人身の長い女っ気のない男なんてろくなもんじゃないとまで言われて、いい加減耳にタコができそうだとげんなりしたものの、今ではその意味が身に沁みて分かった気がする。
こういうことに全く疎いオレは、時折その気もないのに彼女を驚かせてしまうことが今までにも何度かあって、その都度謝罪を口にしたり、意識を変えねばと強く思うものの
「私にとってはカカシが初めての忍だから、カカシを基準に忍の生活や感覚を覚えればいいじゃない。カカシのことも、忍のこともわかって一石二鳥よ」
などと頼もしいことを言ってくれるものだから、なんだかんだと甘えっぱなしでいる。
今日のこれもおよそ非常識なのだろうとさすがに感じてはいるものの、任務前にもらった合い鍵のこともあって、今すぐにでも彼女の部屋に入りたい欲求は収まる気配も、収められる気もしない。
この鍵は強請ったわけではなく、彼女がその手で、その口で合鍵だと言って、オレにくれたもの。
いつまでもここに立っている方がよほどおかしいだろうと、オレは一度指先で鍵を弄ぶと、二階にある彼女の部屋まで階段を音もなく上った。
目的の部屋には名字だけが記されている。
女の一人暮らしは何かと気を張るものだといった彼女を思い出した。
この鍵はそんな彼女の信頼の証。
オレの方がよほど危ないかもしれないのに、などと思う日が来るなど、かつてのオレが見たら卒倒しそうだ。オレも人の子、彼女の前ではただの男らしい。
鍵穴に差し込んだそれは何の抵抗もなくかちゃ、と音を立てて、彼女への壁を取り払った。
玄関口で脚絆を脱ぐ。以前は新しい男物の革靴が置いてあったが、今はオレが以前に使っていた古い脚絆が並べられていて、ひそやかな優越感を覚えた。彼女はあの一度も、誰にも足を入れられることのなかった革靴をどうしただろう。
脱衣所と風呂の横を通り過ぎ居間に入ると、一度深呼吸を。自分の部屋と違って、彼女の部屋はどこか潤っていて、息をするのが易いように思えてくるから不思議だ。湿気のそれともまた違う。自分の良く知らないものへの違和感と、自分ではないからこその他人の温もりの心地よさが共存している。
来てよかった。ここで息をしているだけで、なにか、睡眠による疲労回復とは異なる癒しを得ることができる。
何度か静かに深呼吸を繰り返し、オレは再び足を動かした。今の奥へと続く扉に手をかけ、開ける。
そっと中を伺うと、予想通り、ベッドの上で眠る彼女。夜は寝苦しかったのだろうか、布団が床に落ちていた。
あーあ、風邪ひくよ。
一人でこぼした苦笑を拾い、彼女へ近づく。日当たりのいい窓際のベッドには、すでに外からの光がカーテン越しに落ちていた。
く、と、息をのむ。
パジャマよりおよそ露出の多い彼女の姿にぐらついたのは頭か、身体か。
彼女の肌を包んでいるのは目に優しい若葉色。
うん。緑は確かに目にやさしくてオレも好きだけど、でも、これはねえ
キャミソールと呼ばれている可愛らしい肌着に、それとお揃いのパンツ。布地の上からでもわかる彼女の体のライン。穏やかに呼吸を繰り返して上下する胸元は、少し意識をずらせば、その膨らみがよく分かった。
下はと言えば、これは何か固有の名称でもあるのだろうか、ゴムは腰元だけで、なんというか、キュロットを下着にしたような形のそれは、上手い具合にオレの目の前に、彼女の柔らかそうなヒップを見せつけてくれていた。
……中、見えかけてるけど。なにこれ、オレ、試されてる?
ゴムは腰回りだけと見たその通り、本来ならお尻の丸みを包み込むはずの布地は挑発的にめくれあがり、にも拘らず彼女が隠したい場所にはしっかりと食い込んで、しきりにオレを煽ってくる。これが他の誰かなら微塵も心など動かないが、これは他でもない彼女のものだ。
釘付けになりそうな目を何とか引きはがして他に目を映しても、焼きつくのは普段オレにも見せない、彼女の白い柔肌だ。おまけに、ちょっと気の強いところのある彼女の寝顔はあどけなくて、いつもつい『女の子』扱いしてしまうのを怒られるのは理不尽な気がしてくる。
さて、どうするか。
彼女の睡眠を邪魔したくはないが、こうしてみれば、部屋を見上げていた時よりも自分の欲求は深くなっていた。
触れたい。余すところなく。
かといって、寝込みを襲うのはいかがなものかとそれを引き留めているのは、さっき外で足を止めていた時と同じ、僅かな恐怖心。
彼女を怯えさせたいわけではない。嫌われたくもない。
こんな姿はナルトたちには見せられないなと自分自身におどけてみせても、やはりいつまでもここに立ち尽くしているわけもない。
手甲から延びる指の背で彼女の頬を撫でると、深呼吸をした時よりもはるかに心が満たされていくのを感じた。
感情、感覚、あるいは神経か。鋭く乾いたそれが。ほどけ、潤っていく。優しいもので包まれる。
ただいま。
そんな言葉が浮かんで、言葉にはせず指先に気持ちを込めた。はよかったのだが、彼女がむず痒そうにしたので慌てて引っ込める。だが、悲しいかな彼女の意識が覚醒するのが分かってしまった。
どうにもできないままそれを見守ると、うっすらと目を開けた彼女がオレをとらえた。ぼうっとオレを見て、それから間もなく、これでもかと言うくらいの速さで無防備な四肢をばたつかせた。
「探してるの、これ?」
風邪を引くよと初めは真っ先にかけるつもりだった掛布団は床に落ちたままで、オレが広げて差し出すと、彼女は引っ手繰るようにそれを抱きしめた。
どうせならオレをそうしてほしいなあと思いつつ、恥ずかしさで耳まで真っ赤にしながら布団に顔をうずめる彼女を見やる。
「起こしてごめん」
謝ると、彼女の眼に、情けない顔をした野郎が見えた。
「おかえり」
寝起きも寝起き、再びとろんとした目つきになりながらも真っ先にそう言ってくれる彼女に、オレはついに我慢できずにベッド乗り上げて彼女を腕に収めた。
「ただいま」
鼻をくすぐるのは彼女の香り。肺いっぱいに吸い込んでいると、小さな声で
「いつ帰ってきたの?」
と彼女の声が耳に広がった。
「今朝だよ。報告とか済ませて、お邪魔したところ」
もう一度こんな時間でごめんねと謝って、
「どうしても会いたくて」
と言い訳をした。気の利いた言葉など一つも浮かばない。ただ柔らかな彼女の肌に触れたくて、抱きしめる力を強めた。
「……やっぱり、合い鍵渡しててよかった」
少し弾んだ声色と、僅かな笑みの気配。
「起きてほしいとは思ったけど、起こすつもりはなかったんだ」
「カカシ、謝ってばっかり」
徐々に頭が冴えてきたのか、それとも寝ぼけているのか、彼女ははっきりくすりと笑った。
「お風呂」
「え?」
「まだじゃない?」
あと、寝てないでしょう。と彼女の手がオレのマスクを下ろす。
「わかるの?」
「うん。顔と声、疲れてるし、ホコリと言うか、砂っぽい」
「え」
素早くベッドから降りて、またごめんと口走る。だが彼女は全く不快そうな気配を見せずに、ただまた謝った、とからかうように声を弾ませた。
「この前もカカシが帰ってから、床が砂まみれで」
目をこすりながら、彼女はオレを尻目にベッドから降りると、
「結構砂って上がってくるもんだね」
まるで気にしていないし、責めるつもりもないという体でオレに笑いかけた。それを見て、またごめんと言いそうになるのをこらえる。
「……掃除、大変だったでしょ」
「んー、でも忍とお付き合いするって、そういうことでしょ? これから先一緒に暮らしたり、結婚したりしたらそれが日常になるわけじゃない。それに、家に砂上げるなんて畑仕事でも一緒だし」
あ、私の両親農家なんだ、と彼女はしれっとしているが、今の言葉にオレがどんな気持ちになっているのか、彼女には伝わっているだろうか。
「……布団、砂入ったかも」
「じゃ、カカシの服と一緒に今洗濯機まわしちゃお? 新しいのだして、綺麗なシーツと布団で寝ればいいよ」
「え、……え?」
「カカシがお風呂入ってる間にかえとくから。着替えはいつも男物干してるの、あれでいけると思うの。あ、その前にカカシの着てる服って普通に洗濯してもいいの?」
「あ、うん。ベストと額宛てと手甲は無理だけど、それ以外は平気」
「そ、よかった」
急にてきぱきと布団カバーとシーツを外して動き出した彼女の勢いに押されながら答えると、オレはタイミングを失って行き場をなくした疑問を慌てて口にしようとした。
「え、と、泊まるっていうか、オレ」
「疲れてるんでしょ? ここでお風呂入って、ちょっと胃にご飯入れてあげて、眠ればいいじゃない?」
ベッド小さいけど、とまるでオレの言いたいことなど全てお見通しだと言わんばかりに、彼女は丁寧に答えてくれた。
「いいの?」
「カカシがいいなら、どうぞ? あ、でも……ああっ まだ六時にもなってないの!? ごめん、ごはん炊けるの七時半なの。冷ごはんならあるから、インスタントのお茶漬けでもいい? カカシ寝る前だし、重たくないほうがいいよね」
「うん」
「じゃあ、お風呂はお湯張りながらになるけど、ゆっくり入って」
急がなくていいから、と彼女はオレを煽っていたその姿のまま、色気もへったくれもないさばさばとした態度で布団カバーとシーツを抱えて、洗濯機のある脱衣所へ向かってしまった。
疲れているのか、頭がうまく回ってない気がする。
とにかく洗濯をしてくれるというのだからオレも向かうべきだろうと彼女の後を追いかけた。顔を出すと、すでに彼女は洗濯機を回し始めていて、浴槽を洗っているところだった。
「お風呂ね、そんなややこしくないから説明しなくても大丈夫だと思うんだけど。洗濯物は触っちゃダメなのはかごに出して。洗うものは洗濯機に放り込んで」
浴槽の外で膝をついて、上半身を浴槽の中に突っこみながらはきはきとした指示が飛んでくる。ええと、だからあの、その下着だとシコクのお尻がくっきり見えちゃって、目のやり場に困るんだけど?
起き抜けに見せてくれた可愛らしい恥じらいは、どうやら眠気とともに飛んで行ってしまったらしい。だらだらと身に着けていた装備一式を外しながら、洗濯してもらうものを仕分けして入れていく。
「わ、カカシ、ちょっと」
慌てた声に見ると、顔を綺麗に染めて照れる彼女。
何かしたかと首をひねると同時に、私が出て行ってから脱いでよ、とオレ言いながらを見ようとしないその姿に笑みがこぼれた。
「オレの裸くらい、これからいくらでも見るでしょ。それより、オレはシコクのそのカッコの方が刺激的だと思うけど」
「!」
抱き寄せて、かわいいけどね、と囁く。照れながらもそうでしょ、お店で見かけてつい買っちゃったの、と嬉しそうな声を出す彼女に、オレは一気にその気を抜かれた。
かわいいのは、シコクって言ったつもりだったんだけど。
普段気が強くて隙があればかみついてくるほどなのに、たまに見せるこういう部分とのギャップに見事にはまっているのを否定できない。
少し悔しくて、わざとらしく彼女のお尻を撫でて後ろから下着に沿って指を伸ばせば、窘めるつもりなのだろうが、ひどく甘い声で名を呼ばれた。
「い、今はダメ」
「……後ならいいの?」
慌ててオレを押しのけようとするのに抵抗はせず、ただ意地悪く訊ねてみれば、顔を真っ赤にした彼女は少し間を開けてから、
「ベッドに入るとき、カカシが元気なら」
内緒話でもするかのように、そうオレに囁いた。
2011/09/15 : UP
メッセージは文字まで、同一IPアドレスからの送信は一日回まで