鳥籠からの鳴き声
蓄積していたのは羨望と嫉妬と、あるいは疲労。もしくは、ただ焦がれていたのかもしれない。暮らし慣れたというにはあまりにも身体に馴染んだ実家の廊下を歩く。両親もとうに殉職し、自らも一線を退いた今、この家は私にはあまりに不釣り合いなほど立派だった。
忍の家に生まれ、当然のように忍になった。親が、師が、仲間がそうだったように、私もまた里のために、命が尽きるその時まで戦いの真っ只中に身を置くものだと、そう思っていた。
それが、敵の攻撃により足を患って、今は杖こそつかなくていいものの、とても戦えるものではない有り様とは、情けなさで涙も出ない。まさか自分がこうなるとは露程にも思ってなかったのは傲慢だったのだろう。あまりに呆気のない幕切れに、未だに一人置き去りにされたような心地でいる。額宛てもドッグタグもすでに手元を離れ、隠居というにはあまりにも早い生活をしていた。
チャクラは練れる。頭もまわる。印を組んで術も発動できる。ただ唯一、患った足に一定量以上のチャクラを送ることができず、故に昔のように跳んだり駆けたり、水の上を歩くなど、忍として最低限のことができなくなっただけ。……『だけ』、というには、それはあまりにも大きな欠落だった。
戦えずともまだできることはあると、三代目に特殊な術式を組み込んだ忍具の開発を任せられ、それをこなして早六年。私にできることが残されていたのは幸いだったと思ったけれど、それが在りし日の憧憬への執着に過ぎなかったことは、つい三時間ほど前に気付いたばかりだった。
す、と障子を開け、締める。奥に進み、襖を開ければ、久しぶりに見た銀の髪が揺れた。
何もすることがなかったのだろう、片手で腕立て伏せに励んでいたらしいその姿に自分を重ね、ああこの人も根っからの忍なのだと妙に嬉しくなった。
いつの間にか零れていた笑みをそのままに、私に向き直る彼へ口を開く。
「御気分はいかがですか、カカシさん」
すると彼は腕立て伏せをやめて、困ったように眉を下げて笑ってから、やれやれだとため息をついた。
「チャクラが練れないってのは、こうも落ちつかないもんかね。これならだたの結界に閉じ込められた方がましだな」
おどけてこそいるけれど、その言葉は本心なのだろう。どこか今の彼が纏う空気は所在なさそうに揺れている。
私は、彼のすぐ側まで足を進めると、私と彼を隔てている格子に手をかけた。
ここは私の家。もっとも奥の間にある、特殊な座敷牢。
この座敷牢は、今まで私が磨いてきた技術の集大成であり、私にできる里への貢献の形そのものと言っていい。中に入った対象のチャクラを、一般人のレベルにまで抑える特殊な牢だ。この格子の一本一本には、細かく私のチャクラを練りこんだ術式が刻んである。
どんな忍であろうと、中から逃げ出すことは非常に困難だ。三代目の命を受け、一戦からの離脱を余儀なくされたその日から積み上げてきたものを、これに込めた。もっとも、三代目は二年前に里を守り、お亡くなりになったけれど。
完成したのは、つい先日。それを式を飛ばして五代目に報告したのが昨日のことだ。そして、その五代目に言われ、牢の性能はいかばかりかとカカシさんが私の家を訪れたのが三時間ほど前のこと。
その程度を試すのに、わざわざ牢の鍵を閉める必要はなかった。にも関わらず、私はまるで気まぐれのように、彼が牢の中に入ったのを確認すると、カシャンと、座敷牢の鍵を落としていた。
里一番の手練れ。誉れ。それを三時間も拘束できた。戦うことも満足にできなくなった私が、この、技術だけで。
勿論私たちは仲間であって、私も彼もお互い危害を加えるような関係でないからこそこうもあっさりと彼を捕捉することができたわけで、たとえばもし仮にこの座敷牢に入る前から私が鍵を落とすつもりだったとしたら、また結果は違っていたかもしれない。
けれど、それでも、ただ小さくて擦り切れた私の、忍としてのかつての自尊心を慰めるには、十分だったのだ。たとえ変わらない現状を、自分自身に突き立てるだけだったとしても。
三時間前にそうしたように、鍵に手をかけ、開ける。
「……もういいの?」
牢から出て開口一番、そう言った彼にはすべて見透かされている気がした。
「ええ。ありがとうございました」
別に、里を裏切るつもりはない。仲間を売る気も、毛頭ない。
それをするには私は歳をとっていたし、また里も、仲間も愛していた。
この人を閉じ込めて分かったのは、自分の中でまだ消えることのないかつての場所への未練。彼を出迎えるために出ていた家の門前でその姿を見たとき、懐かしい戦場の臭いに、己の内に燻らせたままの熱を呼び起こされてしまった。同時に、自分が作り上げたものの醜さも。
チャクラが練れないと言った彼の心細さは、まさに私が自分の足に感じていることと同じ。
漠然と、戦える仲間を、そしてその筆頭であるこの人を妬む気持ちがないわけではない。だからこそ彼を閉じ込めたと思う。けれどそれは私自身が越えねばならないほんのわずかな嫉妬に過ぎない。
燻る熱が衝動という勢いで暴走することは、このはたけカカシという優れた忍の拘束をもってしても、終ぞなかった。
彼にここは似合わない。
彼はこんなところにいるべき人ではない。
「五代目にはいい出来だと伝えておくよ。……ま、破れなかったのは結構悔しかったけど」
「そうですか」
牢から出たカカシさんは、私の前で螺旋丸を作って、やっぱり思うようにチャクラが練れるってのは安心するな、とつぶやいた。
そして螺旋丸は私の目の前でつむじ風となって、彼の手中から消えてい く。
「あのさ、シコク」
「はい」
奇妙な沈黙があった。カカシさんはしばらく何事かを逡巡するように間を置いて、それから
「次は腕にしてくれない?」
「はい?」
唐突に、妙な要求を私に投げて寄越してきた。現役の頃も思わないではなかったけれど、相も変わらずこの人の考えていることは掴めない。
目を白黒させているだろう私に、カカシさんはどこか機嫌よく笑って。
「どうせ捕まるなら、お前の腕がいい」
「は、あ」
まるで私がしたことなどなかったかのように、けれどはっきりとそれを口にしながら、カカシさんは穏やかな目で私を見た。
「今なら間に合うでしょ」
その言葉が真に指しているのは何か、私でさえも知らないことを、カカシさんは分かっているように確信じみた声で言う。
「何をおっしゃっているのか、分かりかねます」
「こんな大層な忍具なんてなくても、オレを捕まえるのにお前の両手があれば十分だってこと」
何度も同じことを言うの嫌いなんだけど、と彼は半ばあきれたように、まだわからないのかと私を見つめた。
それは、つまり、嫌いなことをあえてするほどの価値が、私にはある、と。
赤く染まっていく顔を隠すように、彼の胸に頭を寄せる。ぎこちなく腕を伸ばし、その背を包み込んだ。
「はい、捕まった」
カカシさんの手を私の背に感じる。彼から香るのは戦場の匂い。私が忘れられなかったもの。ずっとずっと、手放したくなかったもの。
ぎゅ、と彼の腕に抱かれる。捕まえたのはもうどちらの方なのかわからない。ただ頭の上から降ってくる優しい声が、私の心を刺激した。
「やっぱりお前の腕の方が、この中よりもよっぽどいいよ」
「ずっと気になってた。三代目から何度か様子は聞いてたけど、ま、予想通りというかなんというか、随分ふさぎ込んでるって」
告白めいた彼の言葉に、甘い響きはない。
「たまには外に出て、いろんなことを楽しみなさいよ」
「……」
そういえば、門前で彼を見上げた時、後ろに広がっていた空は綺麗だった気がする。
「お前が引きこもってる間に、いろんなことなあったんだ」
「……五代目から、聞き及んでいます」
こと戦闘においては私はただの足手纏いで、木ノ葉崩しの時でさえ、私はアカデミーの子らのそばでじっとしていることしかできなかった。もっとも、結界を張ったりすることはできたし、日頃の鍛錬は欠かさず行っていたからイルカたちは心強いと言ってくれたけれど、それは少しの慰めにもならなかった。
「歩けないわけじゃないでしょ。四肢は生きてる。心も」
「……私は、駄目です。昔の自分が、今でもちらついて」
「なら、それを超えろ」
簡単そうに言ってくれる。けれど、彼はそれを言うに十分な忍でもある。そのことが酷く悔しかった。
ぐ、と彼の背に回した腕に力がこもる。二の句が告げられないでいると、先に動いたのはカカシさんの方だった。
「って、こんな説教しに来たんじゃないんだけど」
あーあ、と言いながら私の頭を撫でる彼の手は優しい。
「どこで間違ったのかね」
「私に聞かれても困ります」
「だってお前があんまりにも情けないから」
つい男としてじゃなくて、先輩としてのスイッチが。と言うカカシさんの声は、どこかまだ説教臭さが残っている。
「牢の鍵を閉められたときだって、オレが好きすぎるあまりのことかと思ったのに、三時間程度で満足されちゃうしねえ」
「カカシさん、以前から思ってましたけど自意識過剰です」
「そんなことないよ」
「加えて自信家とは」
「そりゃ、自負ならあるさ。見かけ倒しだけど」
それで、違うの?
耳に入ってくる声も、鼻をくすぐる微かな匂いも、そして他人の温もりも。
すべて、欲しかったもののような気がしてくる。この人の術中にはまっているのかと思うほど、急に。
「……つい男としてのスイッチが、と言った方が正しい気がしますが」
「……」
「……。違いませんね」
呟くと、より一層強く、強く抱きしめられた。
「……皆を見るのが、怖かった」
彼の胸の中で自分のくぐもった声を聞いて、なるほど、私はそうだったのだと不意に納得できた。
すがるように三代目から仰せつかったこの仕事に心血を注いだのは。
それしか残されてなかったのと、そしてそれ以上に、過去のちらつくこの里を、仲間を見たくなかったからだったのだ。
あんなに愛し、今も尚そうであるはずの、里と仲間を慈しむ心。それは確かに私の中にはるはずなのに、自分がもうその場にいないことが辛くて、苦痛で、悲しくて、惨めで。
「もう昔のように走れない、戦えない。それを見せつけられるようで」
「それでもお前は木ノ葉の忍だ。オレたちの仲間だよ」
引け目を感じていた。忍仲間としてまだできることが残されていると自分を慰めながら、もう取り戻せない、失ったものの大きさにどうしようもなく打ちのめされた。
今まで積み上げてきた自尊心、自負、自身、プライド。
打ち崩されたその果ての自分を、誰よりも蔑んでいたのは私だった。
「お前が作った忍具で、どれほどの仲間が死線を潜り抜けてきたと思う」
それは、カカシさんが今もまだ十分に戦えるから言えることなのだ、とは口にできなかった。こんな耳に、心に優しい言葉を彼から貰えるほど、私は情けない姿を晒していることの方が堪えていた。
「この座敷牢の術も、無駄にはさせない」
カカシさんの言葉に、私は強く腕に力を込めた。
「……叶うなら、もう一度あの場所へ戻りたい、です」
忍具で、ではなく、この身体を使って、仲間を守りたい。それが本来の私の気質だったはずだ。
私の言葉に、カカシさんが呆気にとられるような気配を感じた。そうして
「あれからずいぶん経つけど、牙は抜けてなかったか」
骨の髄まで忍だな、と苦笑しながら、けれどどこか嬉しそうに彼は言う。貴方には誰も敵いませんよという返事は、そのまま飲み込んだ。
「五代目に頭を下げに行くか」
「え?」
「え? ってお前、可能性を考えなかったわけじゃないでしょ?」
五代目、綱手様は医療忍術のスペシャリスト。その力があれば、あるいは。
言われたとおり、考えなかったわけではない。ただその唯一の光が絶たれること、その恐怖が勝っていただけで。
「ねえシコク」
「……はい」
「オレは待たないよ」
まるで私の胸中などお見通しだと不敵な笑みを浮かべるカカシさんに、私はぽかんと目と口を開いて、それから、久方ぶりに破顔した。
「木ノ葉崩しがあってから、オレも鍛え直してるからねえ」
「では、いつかお手合わせする日が楽しみですね」
「それは五代目が承知しないでしょうよ」
「いつか、の話ですから」
「……ま、オレも楽しみだよ」
お前の復帰にアイツらが驚くのが、と咽喉で笑うカカシさんに、私はぎゅ、と握った拳に誓いを立てた。
滲んだ涙は、カカシさんの忍服に吸い込まれ、すぐに消えた。
2011/10/10 : UP
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