イチャパラ指南・虎の巻
はあ。零れたため息は、冷え始めた空気にのまれていった。
流しっぱなしだった涙をぬぐって、ずず、と鼻水をすする。火影岩には相変わらず人の影はなく、いい場所だと改めて思った。今日は天気も良かったし、ここを選んで正解だった。
連日のAランク、Sランク任務を片づけて、やっとのことで頂戴した三連休。それをまさかこんなことに費やしてしまうとは思わなかったけれど、気分は悪くなかった。
ぐす、ともう一度鼻をすする。ため息を繰り返せば、また涙がこぼれた。
つい今しがた揺さぶられたばかりの感情がふつふつと湧いてくる。
甘いようで切なくて、心臓がきゅ、と縮むように苦しくて。
ここの所あまりにも任務漬けで感情を殺すことが多かったせいもあるだろうけれど、大きな感情の波に溺れるようにして泣くのは気持ちがよかった。
「……シコク!?」
「っ」
どこか晴れやかな心地で先ほどの余韻を堪能していると、不意に影とともに声が落ちてきて、私はこれ以上ないまでに狼狽えた。元暗部形無しの失態だけれど、声の主が彼の人でなければそうはならなかっただろうし、私が泣いていたことにそこまで慌ててくれたのだろうか、その人、カカシさんはそんな私をからかうことはなかった。
ぱちぱちと瞬きをして火影岩の上に飛び乗ったカカシさんを見ると、やっぱり感じた通り酷く焦ったような顔で、私の一メートル先で困惑していた。
それ以上立ち入るのを躊躇している彼の判断は正しい。
私は彼に負けないくらい慌てて顔をそむけた。さっきまで穏やだった心中はたった一瞬で見る影もなくなり、早鐘を打つような胸を意味もなく抑える。
「……どうした? 何があった?」
私にかけられた声は優しいながらも心配そうで、私はますます慌ててしまう。
ちがう。なにもないのだ。貴方がそんな風に気にかけるようなことは、何も。
「なんでもありません。大したことじゃないんです」
「お前が泣いてるなんて、十分大したことでしょうよ」
ああ失敗した。言い方を間違えた。いや、間違えてはいないにしてもあまりにも言葉が足りなさすぎる。
訝るカカシさんの気配に、とめどなく溢れてくるのは最早涙ではなく申し訳なさのみだ。
「ほ、本当につまらないことですから! 気にしないでください」
とりあえずぐちゃぐちゃに濡れた顔を拭いながら叫ぶようにそう返し、また、ぐす、と鼻をすする。秘かに憧れ続けている人にまさかこんなところを見られるとは、と思うけれど、任務で情けない姿を晒すよりは余程良いと思ってしまう私は、忍としてはともかく恋する女としては何か間違っているような気がしないでもない。
はあ、ぐす、はあ、ぐす、を繰り返して、何とか早くカカシさんの誤解を解こうと気持ちを落ち着けていると、当のカカシさんは、はああああ、と長くあからさまなため息をついた。
「あのねえ、今までどんなにどやしてもちびりとも泣かなかった奴が、顔中涙で濡らしてるってのに、気にならないわけないじゃないのよ」
ぽん、と私の頭に乗る、なにか。そのまま私の髪をなぞる様に肩まで落ちたそれは、カカシさんの右手だった。
「ほーら、さっさと白状しときなさい」
掴まれた肩。引き寄せられて、私はいよいよ申し訳なさに言葉に窮してしまった。それをどう捉えてしまったのか、カカシさんは
「お前が泣くくらいのことを、つまんないなんて思わないから」
これ以上ないまでに優しくそう言って、ますます私の口を重くしたのだった。
「いえ、あの、本当に大したことじゃないんですよ、えっと」
「うん」
さも涙にくれる後輩を慰める先輩の構図は、唯一全てを知っている私にとっては滑稽極まりなく、カカシさんがふざけてないからこそ、その真面目さと優しさが申し訳なくて、ここまで来たら泣いていた理由があんまりにも取るに足らないのがより一層引き立てられて、私は違う意味で泣いてしまいたかった。
――ああ、イチャパラに感動してたなんて、どう言えばいいんだろう。
******
はあ。
零れたため息は、暖かな居酒屋の空気に飲まれていった。
事の顛末を説明し、引っ張ってこられた飲み屋のカウンター。萎縮して縮こまっている私をよそに、カカシさんは呆れきったようにため息をこぼす。
「……はあ、お前ねえ」
「だ、だから大したことないって言ったじゃないですか……」
勘違いしたのはカカシさんですよ! と捲し立てるように言えば、そのあたりは認めながらもカカシさんは再び大きなため息を。
「つーかね、なんであんなところでわざわざイチャパラ読んでたわけ? まあそりゃ泣けるのは否定しないよ。名作だし、あれは読んだ奴にしかわからないけど、ただの恋愛小説でも、ましてや官能小説なんかでもないんだしね。でも、外でそんなことしてあまつさえ泣いてるなんて、お前、相当ヘン」
「カカシさんに変って言われたくないです……」
「え、なに、聞こえなかった。もう一回言ってくれる?」
「イエ! ナンデモアリマセン!」
ホントに小さな声は周囲の喧騒にまぎれると思ったけれど、甘かった。凄まれて、私はきゅっと息を詰めた。
そんな私の姿に満足したのか、カカシさんはくい、と大吟醸をあおる。動く咽喉仏が印象的で釘付けになりながらも、先ほどカカシさんから『今日はお前の奢りだから』ときつく言われたのを思い返して、私も私でため息が落ちた。
カカシさんが勝手に心配して先走っただけなのに、どうして心配して損したからって怒られて、こんなことになってしまったんだろうか。ロマンスどころか、甘さのかけらもない。
「で?」
「え?」
徐々に思考が愚痴へ移行し始め、自然と自分が持っていたグラスに目を落としていると、カカシさんは急にカウンターの机に頬杖をついて、やや尊大な様子で私を見てきた。普段は眠そうな印象を受ける目元は、少し酒が入ったせいか、私の思い違いか、どこか気だるげな中にも色香を感じてしまう。のは、惚れた欲目か。
私の胸中など知りもしないカカシさんは、少し表情を険しくして
「なんでイチャパラ読んでたの?」
的確に、私の触れられたくなかった部分を突いてきた。
「以前から興味はあったんです」
「お前本好きだしね」
「三日休みもいただけて」
「羨ましいねえ」
「ここの所Sランク、Aランクばっかりだったんですよ? 当然です」
「はいはい話がそれてるよ」
ぐぬぬ。はぐらかす気がないとは言えないけれど、煙に巻くことは至難の技か。逆ならともかく、これは諦めたほうが楽だろう。
「……まあ、することもなかったので、この機会にシリーズ読破も悪くないかと」
「オレはお前がイチャパラを読んでた理由じゃなくて、なんでイチャパラにしたのかをもっと知りたいんだけど」
「セクハラですか」
「あれを読んでおいてそういうこと言う? そんなんじゃないことは読んでたら分かるでしょ」
言われ、私は間を伸ばすようにちびりちびりとどぶろくで唇を濡らす。どぶろくと言っても、このにごり酒、味は甘めで上品だし、悪酔いもしないから好きなのだ。
「黙秘、します」
「……へえ」
頬杖をついたまま、カカシさんはスッと目を細めた。
怖い。超怖い。それ以上のことは何もしてないのにそんな小さな所作だけでこの威圧感。たまらない。勘弁してほしい。
なぜイチャパラにしたのか? わざわざ口にしなくても、カカシさんは薄々感づいてるような気がする。その上で私が口を割るのを待っているような節がある。
四六時中、暇さえあればカカシさんが開いているイチャパラを読めば、彼の好むものが分かるかもしれないなんて、答えはこれ以上ないほどありきたりで平凡な発想だ。カカシさんの食べ物の好みは知っていても、それ以外でこの人の好むものとなると、急に霞がかって見えなくなってしまう。それは時として弱点と成り得るからわざと見せてないのだろうけれど、ひっそりと気付くならいいだろうと、そんなしょうもない理由。
まあ私にとってはそんなことでも知りたいという衝動を後押しするには大きな要因で、つまり好きな人の好きなものを好きになれたらいいよね、なんて浮ついた少女趣味な考えから出た行動なのだ。そんな恥ずかしいこと、まさか当の本人様に言えるわけもなく。
「か、カカシさんこそっ どうして私のこと、分かったんですか? あそこはほとんど誰も近寄らないじゃないですか」
最初の声の様子からしても、私が泣いていることに気付いていたのだし。そもそも私は気配を殺してなどいなかったわけで、カカシさんほどの人がまさか『火影岩に行ったら私が泣いてました』なんてことはないだろうし、順番としては私の姿を確認して、その上で声をかけにわざわざ火影岩まで来てくれたのだったら、嬉しいのだけれど。
ほのかな期待を込めてカカシさんを見やる。カカシさんは頬杖をついたまま、威圧感だけをゆるく消し去ると、
「そりゃ、任務が終わってアカデミーから出たら、妙なところに気配があるし。あんな誰もいないところで知った顔がぽつんと座ってて、しかも泣いてるなんて心配するでしょうよ」
私が口を割らないことを感じ取ったのか、興を削がれたように私から目をそらした。
……本当に心配してくれてたのか。いや、だからこそカカシさんは肩透かしを食らって、心配かけたんだから奢りなさいよと私をここへ引っ張ってきたわけだけど。
もしかしてカカシさんは、あんなに焦って心配して見せたのが恥ずかしいのかもしれない。
そんな風に考えてみれば、自然と頬は緩んでしまって、私はまた舐めるようにグラスに口を付けた。
「機嫌よさそうね」
じろり、と横目で見てくるカカシさんは再び威圧的な雰囲気を纏っていたけれど、一度『照れている』と思ってしまえば緩んだものが引き締まるはずもなく。
「心配してくださって、ありがとうございました」
嬉しさを隠しもせずにそういうと、カカシさんは諦めたように頬杖を崩して、グラスを傾けた。
「……心配、ねえ」
「え?」
「いーや、何でも。ホラ、もっと何か頼まないの? お前腹減ってない?」
急に声のトーンが落ちたカカシさんに何事かと首を傾げれば、カカシさんはまたなんでもないよと言わんばかりに声の張りを戻して、私に店の御品書きを手渡した。
「えっと、でも……私より、カカシさんどうぞ召し上がってください」
「いいよ。今日はオレが奢るから」
「……はい?」
ちょっとカカシさんの頭の中を覗いてみたい。皆が皆カカシさんほど頭が回るわけではないのだ。というか、カカシさんの考えていることを的確に理解できる人がいたら一度そのコツをご教授願いたい。
任務でならともかく、平常時のカカシさんは特別に掴みどころがない。
そんな思考は丸々顔に出ていただろう。カカシさんは少し悪戯っぽく目を弓なりにして見せた。
「だって最初からオレが奢るって言ったら、お前、絶対何かあるってついてこなかったでしょ」
それから、直ぐに拗ねたように口をヘの字にして、全く後輩甲斐のないやつだよ、なんて。今日のカカシさんはよく表情の変わることだ。
「……いいんですか?」
「いいよ」
「えっと、じゃあ、お言葉に甘えて」
あまり疑ってもいよいよもって拗ねてしまうに違いないし、先ほどのことをぶり返されてはかなわない。
私は早々にカカシさんの好意に甘えると、ようやっとどれを選ぼうかと御品書きに目を落とした。
「……飲みつぶれた後まで優しい先輩だなんて思うんじゃないよ?」
途端、耳に不穏な言葉を聞いて、素早く顔を上げる。マスクは下がっているのに、どこかカカシさんの表情は読めない。けれど、うっすらと酒で濡れた唇に浮かぶ笑みが艶っぽくて、私の心臓は一際大きく跳ねてしまった。
「か、カカシさん、それってどういう」
「さあ、どういうことだろうねえ」
天国か地獄か、いや、あるいはどちらも天国ではあるだろうけれど。
「……シコク、お前はどっちがいい?」
カカシさんの顔が近づいて、覗き込むように出されたその唇から小さくささやかれた言葉に、私の目は御品書きのアルコールの欄を滑って行った。
ああもう、白状してしまおうか。
2011/10/10 : UP
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