ZONE

01: The first move.

 住む世界が違う人間というのはいるものだ。那美子は交友棟二階の窓からテニスコートを見下ろしながらそう実感する。
 氷帝学園。文武両道、そしてありとあらゆる設備に恵まれた資産家御用達の私立学校として知られている、その、中等部。ふたを開ければ全てが全てそうでないことや個人的な投資が占める割合も少なくないことは容易く知れるのだが、それを一々説明するのには骨が折れるどころか全身が骨折しているだろうことも想像に難くない。
 他校生徒が抱くイメージでさえそういった開きを感じるのに、氷帝学園の生徒である彼女ですら格差を感じずにはいられないほどの異色を放っているのが男子テニス部だった。部長や監督の私費がつぎ込まれているのもあり、一軍周辺の一見無駄とすら思えるほどの豪華さや環境の素晴らしさは群を抜いているのだ。それでいて、ことテニスについては酷く硬派な場所であることも、あまりテニス部について明るくない那美子でさえ知っているほど有名である。
 ――いや、テニスに真剣だからこそそれにふさわしい扱いであると言うべきか。
 どちらにせよ、中学校とは思えぬほどの規模であることは確かであり、そしてそれはテニス部を取り巻く女子生徒の数についても同じことが言えた。
 アイドルにそうするように熱狂している女子の勢いはすさまじい。那美子はそれを遠巻きに見ながら、まるでテニス部に傾倒する様がある種カルトじみているようにも感じられ、彼女らから目を離すことができないでいた。
 テニス部に意中の彼がいるのか、その気持ちも恋なのかファンとしてのそれなのか、付き添いで仕方なくなのか、はたまた、応援する自分が可愛いのか。
 どちらにせよ禍々しいまでのエネルギーは彼女を惹きつけてやまないのであった。
 窓際に立ち、柱に隠れるようにしてテニスコートを観察し続けていると、彼女は面白いことに気づいた。よくよく見てみると取り巻きには派閥や自治会が出来ているようで、それ以外にも贔屓にしているテニス部員が同じ者同士で徒党を組んでいたりする。
 彼女たちの中に蔓延るそんな組織じみた雰囲気を明確に観測する時、那美子はいつも心の中に湧く心地よいものに脳を浸すのだ。
 体系化された感情を自然発生した好意と取るには余りにも難しいし、また仮にフェンスに集る女子のなかに純粋に恋する者がいたとして、そんなレッテルを貼られているなんてこれ以上ないまでに煩わしいことだろう。いくら部員たちに迷惑がかからぬよう、という配慮から生まれたとしても、人の気持ちというものを形骸化され仕分けされて不愉快ではないのかと彼女は疑問に思う。またそれに気付かない女子に対しては憐れみにも似た切なさを感じるのだ。あるいはそれを、冷静に観察しているが故の優越感と言うのかもしれない。
 気づけばテニス部の活動日には交友棟の二階、サロンの一角に陣取り、テニスコートを見下ろす日々が続いていた。といっても部活時間中は彼女も自分がやるべきことと向き合っているのだが、集中力が切れた際には必ずと言っていいほどそうするようになっていた。
(まあ、私には関係のない世界だけど)
 那美子の結論はすでに出ている。だからこうして彼女が物思いに耽っていることなど、本来は誰も知らないはずだった。彼女が頭のなかで感じたことを口にすることはなかったし、また態度に出すこともなかったのだからわかるはずもない。テニス部に夢中になる女子生徒に話を振られれば同調してやり過ごす程度に彼女はこの中等部で上手く生活できていたから。
 ふと、彼女はぎこちなく柱の影に身を隠した。
 いつもならテニス部の練習に熱を上げるコート周辺の女子ばかり見ているのだが、なぜかそのときばかりコートのなかに目を走らせてしまったのだ。男子テニス部員に興味のない彼女の目はそのまま滑るはずだったのだが、
(……目があってしまった)
 一人、何故か真っ直ぐに彼女を見上げていた少年がいた。
 マズイ、と咄嗟に思ってしまったのは何故だったのか。下心からテニス部員を見たわけではなかったものの、高い場所から見下すようにしていたことか、目があってすぐに隠れてしまったことか、はたまた多数派である女子生徒を彼女たちがテニス部員達に対してそうするように、ある種異様な熱を伴った目で見ていたことを知る人間がよりにもよってテニス部員の中にいたことに対してのばつの悪さか。罪悪感なのか背徳感なのか、それは心当たりもないのにパトカーを見てぎくりとする心理に似ていたのかもしれない。まるで今まで感じていた優越感の上を行く支配者の出現にふと自らも冷静さを欠いていたことを知らされた気になり、彼女は急に恥ずかしくなった。そういえば自分はどんな顔をしていたかと思い巡らせ、自らの失態に舌打ちを。
 深淵を覗く者は自らもまた深淵に覗かれていることを忘れるな。そう残したのは誰だったか。
 まさかそういつまでもこちらを見てはいないだろうと彼女は自分自身に言い聞かせたが、再び覗き込む勇気はなかった。
(誰だったっけ、あれ……)
 鋭い視線だったから心臓がはねあがったが、敵意はなかったような気がする、と思い起こす。とにかく、これからはもっと気を付けるべきだと反省すると、彼女は外からは見えないようにと気をつけながら再び机に向かった。


那美子、まだここにいる?美術室、施術しちゃったんだけど」
 声に顔をあげると、親しい先輩が鍵をちらつかせているところだった。それは彼女が所属している美術室のカギだ。美術部は原則部活動として場所を選ばない。部員は自分が最も落ち着く場所で作業に当たることを許されている。那美子が部活時間中に交友棟のサロンに入り浸れるのも、ひとえにその恩恵と言えた。
「あ、ハイ。すみません、もうそんな時間でした?準備室にこれ片づけてきます」
 慌てて時計に目をやると、そろそろ六時になろうとしていた。学校が部活動として定めている時間は、六時まで。そのまま窓の方へと振り向くと、明るかった空は夕暮れを過ぎ、闇色へと変わろうというところだった。那美子は急いでサロンの机の上に広げていた紙を丸め、輪ゴムで止める。
「じゃあ、これ鍵。最後職員室に寄って、鍵の返却よろしくね」
「はい、さよなら」
 先輩から鍵を受け取り、短いやり取りをする。足早に交友棟を出ると、那美子は少し離れた特別棟まで急いだ。準備室は美術室の中にある。美術室と準備室のカギを順番に開け、彼女は所定の位置丸めた和紙を片づけると、すぐにまた施錠を完了した。
「あ」
 思わず漏れてしまった声。彼女は自分の鞄を漁りながら、自信の教室の机の中に忘れ物をしたことに気付いた。すぐに職員室に立ち寄り帰路につこうとしていた那美子は僅かに顔をしかめて、暗くなった校舎を駆け出した。教室棟までそう距離はない。しかし見慣れた校舎といえど電気はすでに消されていて、空気は淀んでいるように思われた。恐らく生徒の大多数は帰ってしまっているだろう。静まり返ったその場所は早くしなければ全く別の知らない顔を見せるような気がして、那美子は教室に駆け込んだ。
 真っ直ぐに自分の席の引き出しを漁り目的のものを見つける。彼女が引っ張り出したのはクロッキー帳だった。思い付いたものを書き留めているため落書きやらメモやらと内容は雑多で、ただ絵を描くときの構想によく使うため、ないと落ち着かない。
 よかった、と安堵を吐息にのせ、しっかりとそれを鞄にしまう。以前なら部活中集中力が切れたときに開いていたため忘れることなどまずなかったのだが、暇潰しの方法が変わったせいか置き去りにしていたらしい。
 クロッキー帳を見つけた安堵と迫り来る闇の時間に、那美子は急ぎながらも軽快な気持ちで職員室へ向かった。
「失礼します。美術室と準備室のカギ、返却に来ました」
「はい、確かに。気をつけて帰ってね」
「はい。失礼します」
 簡潔に用を済ませ、下駄箱へ。玄関口にはまだ明りがあったものの、薄暗い校舎との対比も手伝って、それは心もとなく見えた。
 じっと闇に蝕まれる校舎の奥を見ていると妙な心地になりそうで、彼女は後ろ髪引かれる思いで下駄箱を後にした。日は沈みかけようとしているものの、肌を撫でるのは日中アスファルトで温められた熱気だ。それでも直に衣替えをする時期が来るだろう。彼女は校門を一度見てから、反対側に位置するテニスコートを見やった。
(……目があったの、確か同じ学年の男子だった、はず)
 顔の輪郭はほとんど覚えていなかったものの、鋭い眼だけは鮮明に思い出せる。まさか自分が見られる立場になるとは思いもしていなかった彼女は、まいったな、と頭をかいた。隠れたのは、どう考えてもまずい。そう思うものの、別に盗撮のようなことはしていないのだし、見ていたのもあくまでテニス部を応援する女子なのだから、なにも思い悩むことはないと改めて自分に言い聞かせる。
 今度からはもう少し慎重に、謙虚に観察に励むことにしよう。彼女は心に決めると、今度こそ校門に向かって歩を進めた。彼女を伺うひとつの視線には、まるで気づきもせずに。





(目があった)
 日吉はつい今しがたまで熱心にこちらを見下ろしていた少女の姿を改めて記憶しておこうと努めた。彼の記憶が正しければ、彼女とは同い年だ。名前は確か鬼木那美子。美術部員で、変わった絵を描くことで一部では有名な少女である。ああいう絵を描く人間が同じ学校内にいると思うと彼は不思議な心地になったから、彼女の名前は顔よりもよく覚えていた。まるで住む世界が違うと言うべきか。彼がいる場所が日常なら、彼女は非日常の住人なのではと下らないことに頭を働かせる。
 彼女がテニスコートを見下ろす姿を見るのは初めてではなかった。
 練習の合間、今そうだったように打ち込みや体力作りのための基礎トレーニング、あるいは練習試合を終えてわずかな休憩をしに場所を移すときのことだ。彼が目線を上げたときに偶然、彼女の存在に気づいた。フェンスに群がる女子を視界に入れたくなかったが故の行動だったが、思わぬ収穫を得たと彼がほくそ笑んだのはそう前のことではない。そして彼女が見ているものがテニス部員やテニスの試合などではないことに気づいたのも。
 彼女はじっと、彼があまりの五月蠅さに最早精神統一の練習だと割り切った女子生徒たちへ目を落としていたのだ。よくよく目を凝らすと、那美子は他の女子がそうであるような浮かれた表情ではなく、ただ淡々と、それ以上でもそれ以下でもない、平坦な顔で佇んでいるのが分かった。生憎彼の休憩時間の方が短くそれ以上のことはわからなかったものの、少なくとも部活時間中ずっとそうしているわけではないらしいと言うことが彼が彼女について知っている全てだった。
 もっと彼女を近くで見たい気持ちがないわけではなかった。コンタクトレンズを使っていても、テニスコートからでは交友棟の二階にいる人間の表情の機微を察するのは難しい。もしかしたら平坦な様子の中に、何か複雑な色が潜んでいるかもしれない。テニス部の練習がオフになる日は何処か期待をしながら彼女が佇む場所に立ってみたこともある。しかし彼女がいるのはテニス部が活動する日のみのようで、他の日に出会うことも、姿を見かけることもなかった。
 彼が――厳密にはテニス部員たちがテニスコートにいるからこそ彼女はテニスコート周辺に集まってくる女子生徒を見るべくあそこにいるわけで、彼も彼でその時間を部活以外のことに割こうなどとは微塵も思わなかったため、今まで彼らが出会うことはなかった。だから彼にとって、ある意味住む世界が違うと言うのは的を射ているように感じられた。まるでその事象に触れている間は、鬼木那美子という少女を幽霊の類ではと思ってしまうほどに。
 だが、今日は出会ってしまった。
 距離を考えれば気のせいで済んだかもしれないが、生憎と日吉の目ははっきりと、目があった直後素早く柱の後ろに身を隠してしまった彼女の様子を捉えていた。偶然ではないだろう。少なくとも彼が目で追える時間内に彼女が窓際から身を引いたことなど今だかつてなかったことだったから。
(……捕らわれた)
 ぞわり。彼の右顎を、鳥肌が駆け抜けた。
 これは怪異だ。日吉は確信する。
 日常に潜む闇を聞く度にそれを覗こうとしてきた彼は、鬼木那美子という別世界の住人を見つけてしまった。
 今まで暴いてきたそれと、彼女は一線を画している。確かに存在するのに、彼が求めるその時には絶対に近寄れない。
 だが、機を逃してはいけない。今日は事象に掠めることができた。その時を待つのだ。
 知らず浮かべた笑みを隠しもせず、彼は自分の世界に戻る。
「あれ?日吉、なにかいいことあった?」
 背中で受けた声に彼は僅か意識を奪われる。人に話してしまえば非日常への入り口が拡散してしまうような気さえして、彼は固く口を噤むことを決めた。
「なんでもない」
 彼が窓際を振り返ることはもうなかった。

2011/03/02 : UP