金等級鏢師は恋心を落とさない

 蚕の繭を煮て、繊細な繭糸を解き、座繰り機で巻き上げる。
 一定の量が取れたら外して、もつれないように注意していくつかの束にする。
 分けた束は捻って染料につけて染め上げ、よく乾かす。そうして生まれた絹糸で刺繍を刺すのだ。もちろん使うのは同じく璃月産の一級品。強度を保ちつつも向こう側が透けるくらい繊細に織られた絹紗を用いる。

 絹は璃月の名産である。
 竹細工や漆塗り、螺鈿細工と並んで、数多くの職人がいることで知られている。
 綾子もその一人だ。出身は稲妻だが、璃月の絹刺繍に魅入られて家を飛び出し、そのまま居着いてしまった。念のために言うならば、家族仲は今も良好である。
 一針一針を庭先で刺しては、完成した刺繍を木製や竹製のフレームにはめ込む。それを定期的に飛雲商会へと卸している。完成するのは伝統的な両面刺繍。両方同じ絵面のこともあれば、色味を変えて変化を持たせることもある。
 そして休憩の際は雄大な大地に竹の葉が擦れて波のような音を立てるのを、目を閉じて聞くのが彼女の習慣だった。翹英荘の茶葉があれば尚いい。
 そんな穏やかな時間が流れる毎日に満足していた。――ある少年と出会うまでは。

綾子さん!」
「嘉明くん」

 護衛や護送を行う鏢師として、嘉明はよく綾子の元を訪れた。綾子の作品の納品先である飛雲商会が彼の所属している剣鞘鏢局に委託しているためだ。嘉明は依頼の達成率が高く、護送の際の商品の状態が非常にいいと評判で、綾子のような高価な一点ものを扱う職人や、商人にとっては重要な仕事を担う。
 彼の来訪に、綾子は針を差す手を止めた。
 今刺しているのは、岩王帝君にまつわる逸話を描いたものだ。最近交易量が増えたナタのウォーベンの複製品に影響を受け、華やかで印象的な色彩を試みをしているところだった。

「それ、次の作品か? なんか今までとは違うみたいだけど……」
「ええ。厳密に言えば試作品ね。今回お願いしたいものの梱包は終わっているわ」
「分かった。今回も無事届けるから安心してくれよな」
「ありがとう。時間があるなら、少しゆっくりしていく?」
「いいのか! じゃあ、お言葉に甘えて」

 綾子が居を構えているのは沈玉の谷の中でも山奥の方だ。そこから見える景色こそが彼女の得意とするモチーフだったのだが、ここ最近は研究がてら異国の文化にちなんだ刺繍を刺すことが増えていた。
 モンドの立派な風神像、稲妻で大人気な娯楽小説のイラスト、スメールの豊かな木々と砂に守られた書院、フォンテーヌのマシナリーによる舞踏、ナタのカラフルな色遣い。
 部屋の中には木枠に太い糸を通して、さながら革の加工中のようにぴんと張られた絹織物が並べられていた。そのどれもがバラバラの図案で、それぞれの国の特徴や風景が描かれようとしていた。

「ごめんね、いつも以上に散らかっていて」
「いや、相変わらず凄いな。これをじっと座って刺すんだろ?」

 しげしげと眺める嘉明を横目に見ながら、綾子は並べた茶筒の前で一瞬迷うように手を彷徨わせたが、一つを選ぶと慣れた手つきで茶を淹れた。
 嘉明は飲茶や早茶をよく楽しむ。それはつまり、璃月の作法によく親しんでいると言うことだ。
 最近試しているフォンテーヌの茶葉に手を伸ばしかけた自分に苦笑しつつ、綾子はお茶とお茶請けを机に並べると、嘉明に座るよう促した。

「結構急に色々とやりはじめたんだな。なにか新しいことでも考えてるのか?」

 嘉明の目線は相変わらず作成途中の刺繍に注がれていたものの、途中で礼を言いながら湯飲みと茶請けに手が伸びる。美味そうに笑顔を零す嘉明を見ながら、綾子は一度深く呼吸をすると、切り出した。

「少し、旅をしたくなって」

 璃月港には世界中から様々なものが集まる。名産品から犯罪者まで、その顔ぶれは様々だ。
 綾子は納品の際、嘉明に頼んで護衛されながら、璃月港まで何度か水路を往ったことがある。そこで目にした様々な書籍や写真、絵図などを手に取ったりしていたのだが、ある日、たまには遺瓏埠の方までと足を運んだ際に一人の旅人に出会った。
 金色の髪に、白い空飛ぶ相棒――綾子は最初人の姿に似ている睨獣かと思った――は、綾子に様々な国の話を語って聞かせてくれたのだ。食事代を持つ代わりに異国事情を、という流れだった。

「ここの景色みたいに、実際に自分の目で見て、刺してみたいと思って。そこにある刺繍は、試しに刺してみたものだけど、やっぱりインプットが足りないからか、いまいち物足りなくて。刺繍は時間がかかるから、先方にご迷惑にならないようにと思って、少し前から飛雲商会の人には色々と相談に乗っていただいていてね。道中を共にする程度なら一緒に出発しても構わないとまで言っていただいて」
「……そ、っか。いつ発つのかとか、もう決めてたり……?」
「ううん。ひとまず今年の海灯祭までは動かないつもり」

 驚きからか声を詰まらせた嘉明に、綾子は微笑んだ。
 席を立ち、丁寧に梱包してある作品から、比較的小さなものを手に取る。

「そうだ。これを、嘉明くんに」
「……これ……」
「あなたとウェンツァイを刺してみたの。よかったら、受け取って欲しい」

 嘉明が人生をかけて本当にやりたいことというのは獣舞劇だ。日々訓練を欠かさないし、本人もそう言って憚らない。綾子も去年、海灯祭で華々しく舞う嘉明を見た。その時の興奮と感動は直ぐに引くものではなく、嘉明と、彼の友達である小さな獅子――ウェンツァイと呼ばれる睨獣をかたどった、小さな両面刺繍を刺すに至った。
 少しずつ、少しずつ刺しながら、彼への恋心もそこへ注いだ。
 丁寧に漆で塗り上げられた却砂木枠に収まる、四角く縁取られた刺繍。小ぶりではあるものの、確かな腕で刺された、この世で一つしかない画。
 鮮やかな発色の糸と、暗い糸が夜空に打ち上がったあの日の花火を思わせた。

「いい、のか? こんな……」
「あ、いらないなら誰かにあげるなり売るなり、」
「っ、そんなことするわけないって! ……ありがと、なんつーか、嬉しいんだけど、それ以上に驚いちまって……」

 綾子の目から見て、間違いなく嘉明は喜んでいる。
 それにほっとしつつ、綾子は静かに言葉を続けた。

「あのね、もう一つあって……。前からいつも様子を見に来てくれる嘉明くんに、惹かれていたの。かっこよくて、元気で、優しくて。ホントは言うつもりもなかったのだけど……ほら、旅って言っても、何が起こるか分からないじゃない? だから、伝えたくなってしまって」
「へ……」

 刺繍に注がれていた嘉明の目が綾子へ向けられる。僅かに揺れる瞳を見つめ返して、綾子はまた口を開いた。

「返事は、特に求めていないわ。その刺繍も、自分の気持ちを表現したくて、嘉明くんを想って刺したから……持っていたくなければ、手放してくれていいから」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「ふふ。私は構わないけれど、時間は迫っているわよ」

 いつもなら、他愛のないやりとりをして10分もすれば嘉明は席を立つ。
 しかし今日ばかりはその10分でこの話を終わらせたくないのか、嘉明の口は重く、少しの間狼狽えたように目をさまよわせた後、困ったように自分のうなじを撫でた。

「……あのさ、俺だってわざわざここまで荷物を受け取りに来てるのは、単なる親切心じゃないっていうか、綾子さんの両面刺繍の納品依頼があればできるだけすぐに請けてるっていうか……。俺がそうしたくて、つまり、綾子さんに会いたいからで」

 正面から見ていても、彼の首筋が微かに色づいている事に気づく。
 綾子は黙って嘉明の言葉の先を待った。

「ごめん、今ちょっとどう言えば良いか考えてる」
「うん」

 いつもは穏やかに綾子を見て話をする嘉明の目線は徐々に下がり、逸れていた。どこか困った様子で、口にした通り、必死に言葉を探しているのだろう。
 どんな返事でも、綾子は構わなかった。
 ゆっくりと湯飲みに口をつけ、香りと甘味を楽しむ。

「……なんか、悔しいな」

 少しして、嘉明が呟いた。言葉に反し声や表情はどこか寂しそうで、初めて聞くその声に綾子は息をのむ。嘉明は続けた。

「先に言われたし。言った本人は返事に興味なさそうだし。……俺が今からなに言ったって、旅には出るんだろうしさ」
「それは、まあ」
「一番大事なことは言ってもらったのに、俺、全然納得できないんだ。けど、後悔したくないし、傷つけたいわけでもないから言わせてくれ」

 うなじに当てていた手で後頭部をかいていた手が離れ、精悍な顔立ちが、視線が真っ直ぐ綾子を射貫く。

「俺だって綾子さんが好きだ。急にここを離れるって言われて、できるならついていきたいし、できないなら引き留めたいって思ってる」
「……」
「でも、好きな人のことだから一番に応援したくもあって……」

 澄んだ瞳が伏せられ、見えなくなる。そこでようやく、綾子は惜しむ気持ちが出てきた。
 顔を見て、声が聞ければ嬉しい。旅先で何があるか分からないため、大げさかも知れないが命を落とす可能性も視野に入れての告白だった。だからそれ以上は望む必要もない。そう思っていた気持ちが揺らぐ。
 やっぱり、見納めだなんて嫌だな。

「あー! クソッ。時間がないな……。なあ、綾子さんの言い方だと、ここを発ったらもう長い間戻らないように聞こえたんだけど」
「……そう、ね。戻ってくるつもりだけれど、色々見て回ってみたくて……。道中の殆どは船旅になるでしょうから、何かに巻き込まれない限り滅多なことはないと思うけれど、何があるか分からないから」

 遺瓏埠からはフォンテーヌのルミドゥースハーバーやスメールのバイダ港へ向かえる。砂漠を越えてナタまで行くのは難しいが、ナド・クライ経由の海路を取れば、いくらか行きやすくはあるだろう。
 一つの国に行くたびに戻ってきてもいいが、路銀は有限だ。

「海灯祭が終わったらすぐに行くのか?」
「すぐというわけではないわ。海灯祭で、今まで趣味として刺した作品も売ってみようかと思っていて。路銀の足しにしたいから、海灯祭での売り上げの会計が落ち着いたらのつもりなの。出店は許可が下りそうにないけど、飛雲商会が少しだけ場所をくださるから」
「なるほど」

 嘉明は何事か考えるように顎に手を当てた。綾子はそれを見守っていたが、嘉明が膝を叩くと改めて彼に意識を向けた。

「ちょっと時間をくれ。都合がつかないかかけあってみる」
「え? でも」
「まあまあ、聞いてくれって。それで、無理そうならここを発つまでに一緒にどっか出かけようぜ。デートってやつ」
「えっと、嘉明くん」
「俺、折角両思いなのに綾子さんを諦めるって選択肢は持てそうにないからさ。な?」

 嘉明に押されるように、綾子が首肯する。それに小さく「よし!」とガッツポーズをとると、嘉明は立ち上がった。

「じゃあ今日はもう時間もないし、これで!」
「あっ、そうね」
「そこに積んでるのが今回の納品物だろ? 持ってくぜ」
「ありがとう。お願いします」

 キビキビと動き始めた嘉明に、綾子は惑いながらもいつもそうだったように礼を言う。
 手慣れた様子で積み上げた梱包済みの作品を抱えると、嘉明は家の敷居をまたいだ。

「あ」
「?」
「ちょっと忘れ物」

 綾子が首を傾げる。プレゼントとして渡した刺繍も、ちゃんと嘉明の腕の中にある。部屋を振り返っても、食べ残したものも、嘉明の私物もない。
 一体何を、と綾子が嘉明へ尋ねようとした矢先、頬に何かが触れた。

「あっ、え?」
「へへ。またな!」

 それが嘉明の唇だと気づいて、綾子は頬に募る熱に手を当てた。危なげもなく来た道を駆けていく嘉明を見送り、へなへなとしゃがみこむ。
 我ながら言い逃げめいたずるい真似をして彼を困らせたと反省した矢先のこともあり、思わず同じ言葉で詰る。

「嘉明くんのほうが、ずるいかも……」

 甘い期待の糸が静かに胸に刺されていく。
 火照る頬を両手で押さえて零れた言葉は、日だまりと木々のさざめきの中に穏やかに溶けていった。

2025/11/23 UP

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