やがて熱は燃えるのか

 目が覚めると寝床と身なりを整えて、水を汲みに行く。
 その頃には家主はとっくに家を出てしまっていて、私はのそのそと掃除をしたり、ご飯を作ったり、細々としたことを行う。
 ――異世界と呼ぶに相応しい場所で突然目が覚めてから、かれこれ数ヶ月は経っていた私の、これが今の日常である。

 しがない無職としてコンビニバイトに精を出していた私は、その日の昼勤から夕勤と言う9時-22時ぶっ続けのシフトを終えて家に帰り、風呂キャンセルからのベッドで爆睡をキメたはずだった。
 それが、目を覚ましたら見慣れぬ木製の丸い天井が見え、知らない匂いに首をかしげ、知らないけど可愛い生き物に心を奪われ、そして入って来た知らない男性と出会うことになった。

「ああ、起きたか。竜達があんたの匂いに釣られたのか、上手い具合に倒れてるところを見つけてな。ここらじゃ見ない格好だったし、周りには何の痕跡もなかったから保護したんだ」
「だいじょうぶか? きょうだい」
「俺はイファ。医者をやってる。こっちは診療助手で俺の兄弟のカクークだ」
「よう、きょうだい!」

 そういって、男性は自分をイファで竜医と名乗って――『知らないけど可愛い生き物』は竜だったらしい。カクークという名前の子が特殊なだけで、普通は人の言葉は喋れないんだとか――色々と教えてくれた。
 動くのに問題なかったから外に出ると、まあ広がるわ広がるわ、絶対に現代日本でもなければ世界のどこでもなさそうな景色が。切り立った崖だけならまだしも、巨大なスプレーアートみたいなものを施されて、気球が飛んでいて、赤い竜もそこかしこを飛んでいて、驚天動地の連続。
 夢なんじゃないかと思ったけど、覚めないままである。
 身寄りも無ければ知らないことが多すぎるため、そのまま彼の家で常識を教わり、手伝いにも満たない家政婦の真似事をしている……と言うわけである。

 しかし。しかしだ。

 はっきり言ってイファは気持ちのいい男性だった。優しいし、嫌味が無くて距離感があまりにも真っ当で。そして褐色肌の美男子なのである。多分竜の診察をする中で負ったとおぼしき傷痕でさえ、彼の魅力を上げている。
 患者は医者に恋をすることが往々にしてあると言うけれど、私もご多分に漏れずそのコースを突っ走っている最中だった。

 頭では分かっている。
 奇跡的にいい人に拾ってもらえて、衣食住に困らず、イファだけでなく彼の周囲の人間や、集落の人々によくしてもらっている。
 これ以上何かを望むのは良くない。
 早く自立に向けて外に目を向けていくべきだ。
 仕事を探すのは怠いけれど、やらなくては飢えてしまう。

 それでもこの国の、この世界の常識など全く分からず途方に暮れた私は、事情を説明してどうにか家に置いてくれないかと頼み込んだ。
 彼が異性だとか、そういうことを気にしている余裕さえなかった。
 よっぽど私を哀れに思ったのだろう。イファは本当に優しくて、

「じゃあ、こうしよう。俺は寝る時間も何もかも不規則だからな……。ベッドとかは好きに使っていい。食費や家賃なんかを気にするなら、家の中の片付けとか細々としたことをやってもらえると助かる。優先順位を下げざるを得なくて、なかなか手がつけられないんだ」

 なんて言って、私に仕事を与えてくれた。
 現代日本と違って光熱費や家賃制度はなさそうだけど、その分便利ではない。サステナブルな暮らしってやつが近いかも知れない。だから家の中のこととは言え、それでイファの生活の助けになるなら、十分な免罪符だった。

 イファにはよくつるむ友達がいるらしくて、オロルンというやたら華やかな顔をした男性を「農家だ」と言って紹介されたときは耳を疑った。

「イファにもついに番ができたのか。その子、竜だったりしないか? 今は何かの力で人間になっているとか」
「どこから突っ込めばいいんだ……。取り敢えずどっちも違う。彼女は……まあ、記憶喪失みたいなものらしくてな。今はうちで治療中だ」
「なるほど。なら、かなり不安だろう。いっぱい野菜を食べて、元気になるといい。
 それと……ばあちゃんに視てもらった方がいいと思う」
「そこまで大層なも……いや、そうだな、そっちのアプローチもアリか……」

 二人の会話は本当に気安くて、頭に浮かんだことをそのまま口にしてるのかと思うほどとりとめが無くて、それが逆にほっとしたものだ。オロルンの突拍子もない話の振り方には未だついて行けないけど。

 そういえば、私がイファの家にそのまま転がり込むことを許可されたのは、ひとえに竜達が妙に私に関心を持つからでもあった。特に幼竜が顕著だ。
 イファの所にいる竜達は怪我や病気をしているので、中には気が立っていて攻撃的な子もいる。そんな中、幼竜だけでも大人しいとイファ的には助かるのだそうだ。
 理由は定かではないけれど、皆私を見ると母親にするかのように甘えてくるので、私も遠慮無く構っている。一緒にベッドの上で寝ることもあるけれど、今のところイファに何か言われたことはない。檻や柵で囲うやり方は一般的ではないみたいで、イファがそう言うものを扱っているところは見たことがなかった。



「大丈夫か? きょうだい!」
「……かくーく……」
「――起きたか? 今まで随分元気だったけど、疲れが出たんだろう。そのまま寝ていていいからな」

 この数ヶ月、自分でも気を張っていたらしい。
 朝起きたときはどうも無かったのに、水を汲みに行って、家の細々としたことをやろうとしていたら徐々に寒気がし始めて、「あ、マズい」と思った時には身体が物凄く怠くて、立っているのが辛いほど状態が悪化していた。
 イファに伝えようにも手段がなく、どうにかベッドに潜り込んだところでぷつりと記憶が途切れている。
 一旦帰ってきたのか、それとも幼竜の誰かが報せてくれたのか。
 目が覚めると、既にイファはそこにいた。私が目を開けると、少しほっとしたように笑って、おでこに乗せた冷たい塗れタオルを替えてくれた。
 優しい手つきを感じながら、なんとなしにその動きを追いかける。

「なんだ? 寝るまでここにいた方が落ち着くか?」
「……ごめんなさい。迷惑掛けて……仕事、あるのに。増やしてしまって……」
「おいおい、誰しも体調を崩すことくらいあるだろう? そんなに気にするなって。お前はよくやってくれてるし、迷惑なんかじゃない。どうせなら、ありがとうって言ってくれ」
「ありがとう……イファ」
「はは、そうそう。なんかねだったみたいになっちまったけど。そうだ、丁度いい果物をもらったんだ。絞ってジュースにするか、カットしてそのまま食べるかどっちがよさそうだ?」
「……ジュース」
「分かった」

 優しい声に優しい言葉。優しい顔に、優しい手つき。
 好きだなあと思っていたものが許容量を超えそうで、私は目を閉じた。そうしないと、目から彼に伝わってしまうんじゃないかと思ったから。

 すうすうと寝続けて、やっと身体が楽になったのは三日ほど経ってからのことだった。

「ん。熱も下がったし、これなら出かけられそうだ」
「……?」
「流泉の衆に行くぞ。湯治ってやつをしにな」

 流泉の衆。この国の主立った六つの集落の一つ。水場が多く、泳ぎが得意なコホラ竜の生息地でもある。
 その場所と、『トウジ』の言葉に私は少し首を傾げて、そういえば温泉地としても有名だったことを思い出した。

「温泉……に、入るの?」
「そうだ。さっぱりするぞ」
「楽しみだな、きょうだい」

 イファが笑顔で言う。竜医なのにたまに人の患者を看ることもある彼が、相手を励ますときの顔だ。楽しみにできるイベントで、気持ちから元気にさせていく。
 そう言うやり方って分かっているのに、イファが本当に楽しそうに言うから、私も顔の筋肉が弛むのを感じた。

 イファは花翼の集と呼ばれる、熱気溢れる地域の竜医だ。この国は基本的にどこもからっとしていて温暖だから、お風呂に入ると言うよりは水浴びだったり、濡れたタオルで身体を拭くみたいなやり方が一般的で、花翼の集もそう。そもそも、汗をかいても乾燥しているから、直ぐに乾いて臭くなることもそんなにない。
 一方で流泉の衆では温泉文化があって、お湯に身体を浸してリフレッシュする習慣がある。これは他の部族でもハマる人がいて、温泉へ行くのは珍しくないことのようだ。

 ただ、屋外で仕切りもないため、全裸で身体を清めるために入るものではないそう。

「水着はあっちでレンタル出来るし、気に入ったものがあれば買おう」
「えっ、で、でも」
「ははっ、気が早かったか?」
「大丈夫だ、きょうだい! まかせとけ!」

 水着。私が知っている水着だろうか。上下セパレートしかなかったらどうしよう。
 水着なんて小学校以来着てない。いいや、そもそも最低限の身だしなみにしかお金をかけてこなかったから今更ではあるんだけど。
 ……この国の人は結構華やかな化粧をする人がかなりいる。しかもみんな似合っている。場違いだったらどうしようか。
 私の明後日の不安にも、イファは旅路を心配しているように見えたらしい。

「竜の力を借りれば、そこまで辛い道のりじゃないさ」
「そうだぞ、きょうだい!」

 そう言って、カクークと共に見当違いな励ましをしたのだった。


******


 流泉の衆につくと、すぐにムアラニという快活な女の子が案内してくれた。イファとも面識があるらしい。なんでも護送も観光案内もできる、マリンスポーツの申し子なんだとか。ナタの人は基本的に戦士だから皆実用的な肉体を持っていると思うけれど、彼女はしなやかな肉体美を惜しみなく晒していた。健康的で素敵なプロポーションには嫉妬さえ湧かなかった。彼女が吃驚するほど明るくて、イファと同じく嫌味な部分がなかったからだ。

ナコ、水着はこっちだよ。あたしがコーディネートしてもいい?」
「ああ、えっと、子どもの時以来着てないからお願いしようかな……。あんまり肌を見せる習慣がないから、露出が多いのはちょっと……」
「了解! 色の好みとかはある?」
「……ムアラニ、ナコはまだ病み上がりで、今回は湯治だからな」
「わかってるって~!」

 ムアラニはとにかく元気が良かった。でも、例えばそれを私に強いることはなくて、病み上がりだったら椅子に座ってていいよと鏡の前に椅子を置いてくれたり、サイズを計ってくれて、そこからいくつか水着を見繕って身体に当ててくれたりした。

「これなんかどう?」
「う、ビキニスタイルはちょっと」
「でも、これとセットのパレオがあるよ。それに、ラッシュガードタイプってそこそこ締め付けがあるし、元気じゃないと結構辛いと思うんだよね。ゆったりしてるのも結局身体のラインはでるものが殆どだから、下は露出多めでも締め付けが少ないやつにして、パレオとかぶかぶかめの上着と合わせようよ。
 直射日光に当たり続けるのは今のナコには良くないだろうから、あたしも布面積が多いのは賛成なんだ」
「なるほど……」

 そう言われると、選ぶデザインはかなり幅広くなりそうだった。
 結局無難に白ベースにセルリアンブルーとオレンジが可愛いアクセントカラーのものを選んだけれど、ムアラニが意味深に笑うものだから首を傾げる。

「どうかした?」
「……ナコって、イファのこと好きなの?」
「へっ?!」
「あは。この水着の色、ちょっとだけイファっぽいもんね」

 とんでもないことを言ってのけてしまうムアラニに、思わず選んだ水着を握りしめる。そう言われたらそう見えてくる。
 ……どんな気持ちでこれを着ろと?!
 慌てる私に、けれどムアラニは「皆まで言うな」とばかりに試着室に放り込んで、鏡の前で立ち尽くす私はこれを着る以外の道がなくなってしまう。
 どんなに恨みがましくカーテンの向こうを見つめても、ムアラニが透けて見えることはなかった。


 ぐぬぬ、と思いながらえっちらおっちらと肌着の上から水着を着てみた私は、ムアラニから太鼓判を押されるとすぐさま着替えることになってしまった。
 恐るべき手腕。でもデザインは気に入ってしまったから今から選び直しは体力的にも厳しくて、私はしっかりとパレオで身体を隠してもらうと、いつの間にか揃えられていた可愛いビーチサンダルを履いてイファと合流することになったのだった。

 ――そして、果たして、同じく水着を着て足湯とドリンクを楽しむイファを目にすることになる。

 気絶しなかったのを、誰か褒めて欲しい。
 男の半裸なんて、海水浴場に行けばいくらでも見れるものだ。実際、流泉の衆では薄着の人も多いし、周りを少し見渡せば似たような格好の人は沢山いる。
 それでも、意識している男性の……そんな鍛えてる風には見えなかったイファの、明らかに逞しい身体が惜しげも無く晒されていることに、いつも通りにしているなんてとてもできそうになかった。
 嫌でも筋肉の凹凸が作る影とか、腹筋ボコボコだとか、じろじろ見るなんて失礼だって分かるのに、視線が止められない。
 仕方がないから、明らかに不自然なほど視線をイファから外す。もし咎められたとしても、彼の身体を舐めるように見ているよりはずっといい。

 幸か不幸か、療養のためだからと設けられた区画なのか、私たちの近くにレジャーを楽しんでいる人が来ることはないみたいだった。

「お、きたか。気に入ったのはあったか?」
「う、うん」
「えへへ、このあたしにかかればざっとこんなものだよ!」

 えっへん、と胸を張るムアラニに苦笑する。良い子ではある。本当に。いきなりイファのことをぶち込まれなければ。

「よかったな」

 イファは暢気にそう言って、私が座る場所を空けてくれた。ぎこちない動作で、視線を外したままそこへ座る。
 棚田みたいになっている場所の一つを貸し切っているみたいで、岩の影に隠れて、人の声もそこまで強く響いてこない。確かにゆっくりと湯治に来るにはいい場所だった。

「あ、ナコ。パレオは温泉に浸かるときは外してね」
「え?!」
「マナーだよ!」

 そこのルールは私が知ってるのと一緒なんだ?!
 そう思うのと、話が違う、と言う気持ちがわき上がるのは同時で、上手く言葉が出せなくなる。おろおろしている間にもムアラニは先にお湯に浸かって、私を手招いた。

「ほらほら、入ろう! ちゃんと足もつくし、怖くないよ」
「いや、怖いわけでは……あの、イファ、ちょっとだけ目を逸らしてもらえると……」
「ん。こうか?」
「やれやれ」

 私のお願いに素直に目を閉じるイファ……とカクークに感謝して、慌てて綺麗に着せてもらったパレオを脱ぐ。それでさっとお湯に浸かると、無色透明とはいえ液体の屈折で体型はある程度誤魔化せるだろうとほっとした。

「ごめん、イファ。……と、カクーク。もういいよ」

 言って、ムアラニの方へゆっくりと移動する。
 温かいお湯に久しぶりに包まれて、自然と息が深くなる。

「気持ちいい……」
「ね」

 ムアラニと合流してほう、と息をつくと、凝り固まった身体が解れるような感覚があった。
 そう、これだ。
 親しんだ感覚だった。人はこれがなければ生きていけないんじゃないかって思うような、故郷に、家に帰ったようなほっとする感覚。
 ――突然ここへ来てしまったのなら、突然帰ることもあるのだろうか。
 それは嫌だな、と思った。自分がもがいて、今頑張っているのは一体何だったんだって、誰を憎んで、恨めばいいのか分からない。今、不安はあれども居心地のいい生活をしているから余計にそう感じる。
 ここから消えたくないのは、イファの優しさに触れたからだろうか。
 向こうでも一人暮らしをしていたけれど、人と生活することのよさを知ってしまったからには、もうあちらに戻れたとしても一人で生活するのは無理だろうなという直感がある。
 まあ、そういうのは戻ったときに考えればいい。少なくとも今、私はここで生きているのだから。

 とはいえ、温泉に浸かったことで一気に日本が恋しくなってしまった私は、熱くなった目頭を誤魔化すためにざぶざぶと顔をゆすいだ。


「ムアラニ、もうちょっと熱いのに浸かりたければどうすればいい?」
「え? うーん」

 温めの温度が物足りなくなり、私の様子を見てくれているムアラニに聞けば、彼女はイファの方をチラリと見遣った。私たちの様子をしっかり見ていた彼から、柔らかい眼差しが届けられる。

「あんまり長時間でなければ大丈夫だ」
「オッケー。なら、こっちかな」

 温泉の中を中腰で歩いて行きながら、ムアラニの案内で温度の高い場所へ移動する。確かに温かい。さっきの場所が38度くらいだとすれば、案内先は40度はありそうだった。

「はあ。これ気持ちいい」
ナコは熱めの温度が好きなの?」
「そう、……かも。もう少し熱くてもいいかな。野外だし」
「あはは。じゃあこっちかな」

 どんどん進んでいくムアラニについていく。と、そのうちに暑くなってきて、ムアラニが温泉の淵に腰掛けるのに習おうと立ち上がった。

「はあ、あつ」
「ちょっとは慣れた?」
「え?」
「肌出すのが苦手なんでしょ? パレオはあっちに置いてきちゃったけど」
「あ」

 言われて、直ぐに温泉に浸かり直す。ムアラニから「あー」と咎めるような声が上がったが、謹んでスルーした。

「……ごめん、戻るね」
「ええ~、慣れたわけじゃなかったんだ」
「まあ、うん」

 無理強いはされなかった。ムアラニに手を引かれてすいすいと泳ぐように戻る。

「こら、泳ぐなよ」
「泳いでないよ。手を引っ張ってもらっただけ」
「……まあ、のぼせたりしてないならよかった」

 イファの所まで戻るとムアラニがパレオを渡してくれる。それを羽織ると、大型パラソルの作る日差しの下によぼよぼと潜り込んだ。プールサイドに置いてあるようなデッキチェアによじ登り、身体を横たえる。乾いた風は心地よく、いつになく眠れそうだった。

「はぁ……」
「水分補給を忘れるなよ」
「ん……」

 手渡されたグラスになみなみと注がれたフルーツジュース。砕かれたワイルドな氷がカランと音を立てる。
 ちびちびと飲んだ後、目を閉じた。

ナコ、大丈夫?」
「ごめん、眠たくなっちゃった……」
「ああ。無理するな」

 二人に見守られながら、うとうととした感覚に身を委ねる。
 直ぐに意識は落ちて、優しい眠りの帳に覆われた。


******


ナコ、寝ちゃったね」
「ああ。身体が冷えないうちに起こすつもりだ。それでも起きなければ部屋に運ぶよ」

 ばさ、とイファが上着をナコに被せるのを見守りながら、ムアラニはジュースに口をつけた。

「なんかイファ、甲斐甲斐しいよね?」
「まあな……。今ナコは大人になる途中みたいなもので、本人もかなり頑張ってる。独り立ちできるまでは面倒を見るつもりだからな」
「……え? ナコっていくつなの?」
「さあ。聞いちゃいないが、まだ子どもだろ?」
「え?! いやいや、そんなわけないと思うけど」
「え?」

 噛み合わない会話に、二人は顔を見合わせる。
 先に口を開いたのはムアラニだった。

「子どもなわけないよ。さっきだって『水着は子ども以来』って言ってたし。イファも聞いてたでしょ?」
「いや、それは今よりもっと子どもの頃のことかと……。それに……あまり人の身体について言いたくないが、発育がいいとかそういうことじゃないのか……?」
「あたしと同世代か、少し上くらいだと思ったけど」

 イファの頭の中で、パチパチとパズルのピースがはまっていく音がした。
 オロルンが番か、と口にしたのは。
 本人が肌を晒すのを恥ずかしがっていたのは。
 いや、そもそも水着を買えばいいと言ったイファの言葉に、目を白黒させていたのは。

「マジかよ、きょうだい」

 カクークのタイイングのいい言葉で最後のピースがはまる。
 カッと頬に朱が走るのと、イファの中でナコの年齢修正が入ったのは同時だった。

「え、何その反応……もしかしてイファってば診察だっていってナコの服を……?」
「いやいやいやっ! そんなことはしてない。勿論その必要があったとしても見える形で服を脱がせるなんてこと、するはずないだろ!」
「じゃあ、その『やばっ!』って反応はどうして?」
「……いや、その、……水着を、気に入った奴があれば買うって話を、な」
「あー」
「あとはその、随分と子ども扱いをしてしまった気が……」

 そりゃ、成人男性が成人女性に水着を買い与えるなんて、普通有り得ない。
 ムアラニはいくらか合点がいった。
 イファは子どもにするように優しく接したのだろう。勿論、患者である以上成人女性でも優しくはしただろうが、それでもそうだと分かっていたなら自分の家に住まわせることはしなかったはずだ。

 動揺からか頬の熱が引かないイファの横顔を見ながら、ムアラニは思ったことを呟いた。

「イファって凄くよく観察してるし、言葉の通じない竜の言いたいことだって掴めるのに、言葉の分かるはずのナコにはさっぱりなんだね」
「……分かったから、わざわざとどめを刺すようなことを言うのは止めてくれ……」
「だって、あそこまで露出を恥ずかしがってたら、普通それなりに恥じらいがある年齢なんだって思わない?」
「いや、だからそういう年頃かと……」
「だとしても、だよ」

 悪くない反応だな、とムアラニは思いつつ、ジュースを飲み干す。
 たん、と軽快に置かれたグラスと共に顔を上げたイファは、縋るような目でムアラニを見た。

「なあ、今からコテージを分けるのはアリか……? 一つしか取ってないんだが」
「今から『正しい距離感』は、避けられてると思ってかなり傷つくんじゃない? まあ、イファがどう思ってるかによるけど。どうしたいの? 話はそれからだよ」
「……どうしたい、って」

 そこでイファははた、と思う。
 ナコの出迎えがあると嬉しい。「おかえりなさい」と温かく家に迎えられること、家が片付けられ、いつも温かいこと、毎日覚えた料理を振舞ってくれること、寝顔を見て、酷く幸せを感じること。
 家族というものを感じていたからだと思っていた。
 ナコが不安そうにイファに「ここに住まわせてもらえないか」と頼み込んできた姿は記憶に新しい。無碍にすることは有り得なかった。まだ守るべき年齢の子どもだと思ったからだ。
 けれど、では、ナコが大人の女性だったとして、それが違うものになるのかと言えば――全く変わらないだろう、とイファは結論づけた。
 傷ついた竜達に向けるものとさして変わらない感情から、一人の特別な女性になり得る存在だという感覚に変わるだけで、相変わらず彼女との暮らしは心地よく感じるはずだ。
 頭では、離した方がいいとは分かっている。離した上で、一人の女性として仲を深めるべきだと。
 しかし実際の所、彼女は今なお庇護すべき存在であることは確かで、そうなると他の医者か、彼女の事情を伝えられる信頼出来る相手に預けるしかない。そしてそれは、花翼の集ではなくマーヴィカやシトラリといった存在の元へ出すと言うことであり、そうなるとイファは一気に接点を失うことになる。
 いまさら元の生活に戻れるのかと言われると、戻らなければならないという理性とは裏腹に、感情が惜しむ。

「少なくとも、今の状態は健全ではないとは、思ってる」
「医者と患者だから?」
「それもあるが、……正直に言うと、もうだいぶ二人で暮らすのに慣れてきちまってる。前にオロルンがシトラリに見てもらえばって話をしてたんだが、その前にこいつが倒れちまったから話が進んでないんだ」
「ふうん?」
「その話が進めば、もしかしたらシトラリの所に預けることになるかもな……。頭では、その方がいいとは、分かってるんだが」
「納得はできない?」
「いや、納得はできる。ただ、気持ちが……まあ、なんだ」

 言い淀んだイファに、ムアラニはにんまりと笑った。

「なんだよその顔は」
「いや~、言葉にしなくっても気持ちって分かっちゃうもんだね」
「……ナコに変なこと吹き込むなよ?」
「変じゃなければいいんだ?」

 イファは悟った。こうなったムアラニは止められないし、イファでは丸め込むことはできない。
 肩をすくめて降参のポーズを取る。

「分かった。何が望みだ?」
「え~? 人聞きが悪いよ。あたしは二人のいい話が聞ければ、それでじゅーぶんっ」
「あのなあ……」
ナコだってイファのところがいいって言ったんでしょ? じゃあ望み薄じゃないって」
「いや、あれは……そういうんじゃないと思うが。いきなり知らない場所で目覚めて、右も左も分からないとなれば、誰だってああなるだろ」
「は~っ、分かってないなあ!」

 分かってないとはなんだ、とイファは思った。ただ、ナコがどんな気持ちで――庇護が必要な子どもでなく、一人の女性としてだ――イファの元にいたいと言ったのかを想像すると、霧に包まれたように分からなかった。
 であれば、ムアラニの方が何かをはっきり見えているのだろう。

「イファを意識してるから恥ずかしかったんでしょ」
「……そこか?」
「え? じゃあどこの話?」
「俺がいい年した男だって分かった上で、俺の所に居たがった所……だな」
「それは本人に聞かないと分かんないでしょ」
「急に突き放すなよ」

 イファの眉尻が下がる。奔放なムアラニの言葉に振り回されている気がするが、耳を貸したくないと思えないのが彼女の魅力だった。

「助けてくれたから頼ったのかもしれないし、助けてくれて優しくしてくれたから、その時にはもう好きだったかもしれないじゃん」

 さもそれが真実かのように言う彼女に、イファは苦笑を深めた。

「好きって、」
「少なくとも好感は持たれてるんだから、間違ってないもん」

 そう言い直されると否定はできない。ナコから寄せられる信頼や一般的な好意はイファも感じているところで、お互いそう思って居るからこそ今の心地よさがあると思っている。
 もしムアラニの言うように、イファを意識しているからこその恥じらいなら――彼女が今の暮らしに慣れ、自分に自信を持てたら、その先に進めるだろうか。
 そもそも彼女はいつから自分を……? その気持ちは医者と患者という立場から切り離されても続くものなのだろうか。たった一人の男として、イファは先を望んでもいいのだろうか。
 湧き上がる疑問を振り払い、イファはムアラニに告げた。

「……さっきは話が止まってるとは言ったけど、実は近々、シトラリに視てもらうことになってる」
「その話だけど、ナコ、何かあるの?」
「いや、まあ記憶喪失みたいなものだ。オロルンも気にしていたから、何か分かるかと思ってな。詳しい話はまだできない」
「ふぅん? なにか力になれることがあったら、勿論遠慮無く言ってくれるよね?」
「っはは、分かった分かった」
「絶対だよ? 他のメンバーにも声かけとくからね!」

 それは例えばカチーナやキィニチといった面々のことだろうか。
 イファは苦笑いを引きつらせた。

「おいおい、大事だな……」
「イファのパートナーになるかも知れない子のことなんだから、大事でしょ」
「おいおい、きょうだい、マジかよ」
「おまっ、カクークまで……」

 なってない、と二対の目で睨めつけられ、イファは両手を挙げた。降参のポーズだ。
 そこでナコがきゅっと身を縮こめたため、二人と一匹は口を噤んだ。
 イファの上着をしっかりと掴んで包まる彼女を見つめ、イファは温泉のような温かい感情が胸に滲むのを感じる。結局のところ、彼女を守ろうと思う気持ちに変化はない。――ひとまず、今までの距離感を思い出さなくてはならない。何よりも、彼女を不安にさせないために。

ナコ、そろそろ起きれるか? さっきはあっという間に温泉から上がったから、今度はもう少しゆっくり長めに浸かろう」
「……」

 ナコに優しく声をかけるも、彼女はぴくりともしない。深い眠りなのか、すうすうと穏やかな寝息が返ってくるだけで、イファは僅かの間起こすかどうか躊躇う。
 彼女を揺り起こすかどうかで彷徨う彼の手を見て、ムアラニとカクークはどちらともなく視線を合わせ、にっこりと笑った。

「折角ならイファがそのまま抱き上げて温泉に浸かりなよ」
「は?」
「必要ならそうした方がいいでしょ?」
「いくら必要でも、もう子どもとしてみてない以上無理だろ……それに起きたときパニックになったら危ない」
「じゃあ起こすかベッドにつれて行くかだよ」
「そうなんだが」

 子どもだと思っていたときと、大人の女性であると意識している今とでは、彼女の身体に触れるのにもそれなりの心の準備が必要だ。

「大丈夫だ、きょうだい! おまえならやれる!」
「ああ、ありがとな、兄弟……」

 カクークの純粋な励ましに答えつつ、イファはムアラニの視線を避けるようにナコに目を落とした。それから、一拍を置いて腰をかがめる。

ナコ、……抱き上げるぞ?」

 自分を鼓舞するようにそう言って、ナコの膝を立てる。しっかりと身体を密着させ、膝裏と肩を支える。首が反らないように腕で頭を支えつつ、しっかりと両腕に力を込めて胸元へ引き寄せた。足に力を込めて立ち上がる。
 意識のない人間は重いものだが、イファにとっては慣れた動作だ。
 危なげない所作を見ながら、ムアラニはそそくさとグラスを手に持つ。

「じゃああたしは片付けしとくね」
「ああ、悪い」
「いいのいいの。後でナコの着替えも持っていくね」
「助かる」

 そのままコテージへ足を向ける。道中、いくつか心配そうにナコに向けられる視線を感じたが、彼女の寝顔が健やかなのを見ると、彼らの眼差しもすぐに散っていった。
 胸に感じる寝息をくすぐったく思うのは初めてだった。

 まずは今晩、平静を保てるか。それが問題だ。

 随分幸せな悩みだなと、弛む口元を引き締める。
 気持ちを切り替えようと、今日の夕飯は何にするかを考える。ムアラニにはそれも付き合ってもらっても良いかもしれない。

「カクーク、お前も俺が変な真似しないようにしっかり見張っててくれよ」
「おいおい、マジかよきょうだい……しっかりしろ!」
「ははっ、頼んだぜ」
「やれやれ……」

 慣れた言葉で喝を入れてくれる小さな兄弟に答えつつ、コテージの階段を上りきる。
 なんでも無い空間だったはずの個室が、妙に狭く感じたのは――気のせいではないはずだ。

2025/12/19 UP

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