午前三時の乾杯
ナシャタウンの酒場「フラッグシップ」で夜半に座っていれば、よく知った男が顔を見せる。
「やあ、いい夜だね」
「どうも、支部長殿」
グラスを彼に向かって掲げれば、カロン、と氷がグラスにぶつかって、軽やかな音を立てた。
中に入っているのは度数にして3%程度の、ジュースみたいな濃度の果実酒だ。ここには度数の高い酒も存在するが、私にはそれらを飲む理由――理性は愚か意識さえ混濁するほど酔いたい理由がなかった。
うっすら治安が悪いと言っても過言ではないこの街で、大した人脈もなく、気の置けない仲間達といるわけでもないのに酩酊状態になるなど、何をされても文句は言えない。
「相変わらず初手だけ堅苦しい呼び方だなあ。マスター、私にはインペリアルスタウトを。チョコもつけてくれますか。それとチーズを……ああ、ナッツもあれば嬉しいですね」
「かしこまりました」
声を掛けてくれた男が隣に掛けながら注文をする。受け入れるバーテン共に口角が僅かに上がり、品のいい空気を醸し出す。
私の飲み方を穏やかに微笑んで、共に乾杯してくれるのはこの二人だけだ。バーテンダーのデミアンと、今来たばかりの男、冒険者協会ナシャタウン支部の支部長であるサリーン。
どちらもこの街にいる以上はそれなりに腕っ節があるものと思われる。断定しないのは、それが発揮されるところを見たことがないからだ。
「巴さんは、今日はどんな日でしたか」
「悪くなかったよ。最近は特に月も綺麗だしね。夜も気分がいい。サリーン殿が隣にいてくれるから、特にいい日になったんじゃないかな」
「お上手ですね」
「本心だけど」
ナシャタウンを中心に、島に住む人間の大半が避難するように言われ、私も微力ながら冒険者協会関係者として避難誘導を手伝った。以来、彼はよく声を掛けてくれる。
私はただの旅人で、都合上冒険者を名乗ってはいるけれど根無し草の、いつどこへ消えるとも知れない女だというのに。
そういえばモンドでも似たような事があった。あの時はやたらと面のいい騎兵隊長殿がわざわざこれでもかと親切心で飾り立てた人好きのする笑顔であれこれと教えてくれたものだ。情報収集が癖になっているせいか、うっすらと警戒されている空気も感じた。騎士団として立派な男だと思ったけれど、流石に窮屈に感じて逃げるように……いや、逃げた。自分が監視することには何の感情もないが、監視されるのは思いのほか心身に堪えたのだ。
サリーンからは彼と似た空気を感じるが、威圧感は毛ほどもなかった。同じ若い男ではあるけれど、なんというか、恐らくサリーンは自分で場をコントロールするよりは、偶発性を楽しめる人間なのだろう。デミアンもこのタイプだ。
「何かお悩みですか。私でよければお手伝いしましょうか」
なめらかな質問は、あの騎兵隊長を思わせた。
ふふ、とサリーンが笑う。デミアンがサーブしたグラスと、品良く盛られたつまみの皿に顔を綻ばせて、手始めに一つと一口。
彼が頼んだインペリアルスタウトなる酒は黒ビールで、アルコール度数も高ければ結構な苦い酒だった記憶がある。よく飲めるものだ。
「いいや、大したことじゃない」
「そうでしょうか」
「ああ。そろそろ自分の中の期日が迫っているなと思って」
「なるほど。差し支えなければ詳しくお聞きしても?」
つまるところ、サリーンもその手の男なのだ。これは勘だが、人を見る目はそれなりにあるつもりだ。一時は同心として、時には探偵として。こういう時の感覚で大外ししたことがない。
今更、冒険者協会から目をつけられるような素行はしていない。なら、私的な興味か、染みついた所作ゆえか。
残念ながら、探られて傷むような腹はないが。
「本当に個人的な話なんだ。そろそろ婿を探すのは諦めて、一夜の楽しみを覚え始めようかと」
「……、すみません、ちょっと、もしかしたら意図を汲み間違えている気がします。それというのは……」
「旅をしているのは婿捜しなんだよ。まあ婿といっても婿入りを望んでいるわけではなくて、これから先長く共に過ごすパートナーと言ったほうが正しいかな」
私の言葉に、サリーンが僅かにデミアンと視線を交わす。私は見逃さなかった。
「別に酔ってない。いや、酒を入れてるのだから多少酔ってはいるかも知れないが、バカを言うほど飲んだわけではないよ」
「……そうでしたか。あちこち旅をされてきたとのことでしたが、お眼鏡にかなう男はいなかったと」
「そうだなあ」
ちびちびと酒を飲みながら、サリーンはナッツを口に入れた。
「であれば、まだ行かれたことがないというスネージナヤに、直に発たれるのですか」
「いや、いいなと思っている男はいるんだ」
じっと彼を見遣りながら、私もグラスの残りを煽る。美しくカットされた氷が店の照明に照らされて、宝石のように輝いていた。
「でもまあ、そいつは立場もあるし、たった一人にと望めそうにないから」
「おや、諦めてしまわれるんですか」
焚き付けようとしているのか、サリーンはどこか愉快そうに目を細めた。誰を想像しているのだか。
「ああ。だからサリーン殿。折り入って一つ頼みがある」
「うーん、このタイミングであなたから何かお願いされるとは。お断りしても?」
「私の一夜の相手の、最初の男になってくれないか」
案外、ぎょっとした顔をしたのはデミアンの方だった。とはいえ客は私たちだけではないので、仕事の手を止めることはない。
一方で、サリーンは喉を詰まらせることもなくぽりぽりとナッツを食べる手を進める。なんなら口内で両方の風味を楽しむのだろう、チョコも一口囓っていた。
そつがない男だ。
いや、それとも案外、驚いて狼狽えているからこそ隙のある素振りを見せられなかった可能性もある。
「どうだ。ちなみに、デミアン殿もいい男だと思っている。私の酒の飲み方にやいやいと口を出してこなかった二人だからな」
「たったそれだけで決めるだなんて、思いきりがいいんですね。長く旅をするための秘訣でしょうか」
「そうかもな。そうやって頭ごなしに否定しないところが好ましいと思っているよ」
追い打ちを掛けると、サリーンはいよいよ黙り込んでしまった。はぐらかすのは無理だろうと判断したか。
「好ましい男ではあるけれど、婿にと望むほどではないと」
「言っただろう。立場があるし、嫁をもらうと動きにくそうだ」
「私のことでしたか」
「筆頭候補だからな」
それはそれは、とサリーンの声に動揺はない。しかし、つまみに伸びていた手は止まっていた。代わりに、グラスに口をつける。
「ちなみに今晩のお相手でしょうか」
「色好い返事がもらえるなら待つのは吝かではない」
「では、少々お時間を頂戴しても?」
「構わない」
そう言って、サリーンは私を見て微笑んだ。美しく弧を描く唇が蠱惑的で、けれど柔らかく細められているはずの眼差しからは、温度を読ませない鋭さがあった。
デミアンがハラハラした顔で私たちの様子を窺っていたけれど、これ以上話を続けるつもりはなかった。もう少しだけ度数の強い、甘いカクテルを追加で頼む。
それきり話題は流れてゆき、掘り返されることもなく、ひとしきり酒を楽しんで解散することになった。
――次の日の夜、ナシャタウンでは殆ど見ることのない色とりどりの生花で作られた花束を持ってフラッグシップに現れたサリーンに「まずはここからでしょう」と優しく窘められ、私は花々の香りに包まれながら、頬にキスを受けた。
やられた。
顔に出ていたのだろう。花束を挟んで至近距離で私を見つめる男の顔には、どこか勝ち誇ったような笑みが乗っていた。
とっくに日付も変わった夜半。なのに、昼前には号外で新聞が配られて、私はしばらく宿から顔を出すことができなかった。柄にもなくため息ばかりつく私を、まるであの男の微笑みのような花の芳香が包んでいた。
2026/02/27 UP
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