紅茶の便り
スメールで妙論派の学生としてダリオッシュ――巡礼や研究を目的として諸外国に飛び出した遊学者のことだ――の身分を手に入れた私は、意気揚々とフォンテーヌへ向かった。そしてすぐに壁にぶち当たっていた。
かの国の煩雑極まりない行政手続きに疲弊していたのである。
雑で良いわけはないけれど、細かすぎるのだ。修正箇所がほんの些細なことであっても差し戻され、書き直し、申請が通るのを待つ……。これを繰り返さない人の方が珍しいんじゃないかと思う。
これなら教令院で単位を取ったり、研究論文を送って卒業することの方がまだ簡単に思えてくる。ごく一般的なスメール出身の学生として、こんな感覚になるのははっきり言って異常事態である。
しかし、そんな苦難の日々も終わりそうで、安堵もしていた。前から申請していた手続きがついに通りそうなのだ。
建築物としてのメロピデ要塞の見学、というのがそれである。
何せ水中。地下にあり、今も施設として機能している上、人が生活している。その上で500年以上の歴史を持つ建造物なんて中々ない。砂に埋もれ、今も稼働するもののその多くが沈黙しているアフマルの建造物もスメールにはあるものの、砂と水中では事情が異なる。
アフマルはかつて地上にあったものだが、メロピデ要塞に関する情報にそう言った言及はない。先代水神であるエゲリアの命によって建設されたというから、最初から水中であった可能性は十分にある。
だったら、この目で見たいと思うのは……学者として、ごく当たり前の感情だ。
メロピデ要塞は刑務所であり流刑地でもある。フォンテーヌの中でも『限りなく外国として扱われている』特殊な場所であることを踏まえても、価値は計り知れない。フォンテーヌのマシナリー技術に支えられたその場所を目前に、挫けている場合ではないのだ。
うきうきで買い込んだ食料品を抱えつつ、早く宿に戻って今一度メロピデ要塞について公開されている資料を読み返そうかなんて考えていると、ふと足首にふわっとしたものがまとわりついた。
「うっ、わあああっ?!」
なになに、と腰を捻って足元を見ると、可愛らしい猫ちゃんが一匹、私を見上げてにゃあん、なんて可愛く鳴くじゃあありませんか。
これは……ねだられている……食べ物を……!
どうしよう、と思うも、首輪のない小さい猫ちゃんは私の学生服をよじ登り始める。にーにーと泣きながら必死に。
「えっえっ 待って、待って! 今はマズい!」
まだ仔猫だから破れはしないと思いたいけれど、恐らくまだ爪を研いだことも、切られたこともない猫ちゃんの爪は鋭く、肌に貫通してくる。
「いたた……っ、猫ちゃん~~~っ、お願いだから……!!」
取り敢えず一旦腕に抱えている荷物をどこかに置かなくちゃ、と辺りを見渡そうとした直後、
「ほら」
「あっ」
大きな身体に視界を遮られたかと思ったら、猫ちゃんが大きな男性の手に掬われていた。
見上げると、本当に立派な身体をした人だった。ワイルドにスーツを着こなしているけれど、素肌が覗く場所にはどこも傷跡が見え、その数にちょっとびっくりする。
スメールでは傭兵にそう言う人もよくいるから見慣れてはいたけれど、フォンテーヌに来てからはめっきり見なかったから、一瞬、緊張が走る。けれど、猫ちゃんを優しく扱う手と私を見下ろす目が知り合いの傭兵さんを思わせるほど優しくて、すぐ心は解れた。
「ありがとうございます。急に登ってこられてしまって」
「あんたの猫……ってわけじゃなさそうか」
「はい……首輪もありませんし、近くに親猫がいれば良いんでしょうけど……」
「おっと、触っちまったが、大丈夫そうか?」
「わ、わかりません……そもそも、フォンテーヌ廷で野良の動物なんて、鳥以外見たことがなくて……」
フォンテーヌ廷は本当に美しく整備されていて、執律庭によって警察犬までもが規律に準じた服装をしている。
だからこそ、野良の動物を見た時の違和感が凄かったのだけれど。
「確かに。親猫もそうだが、近くに飼い主がいるかもしれない。少し待ってみるか。時間が許すならあんたもどうだい? 今、そこで茶を飲んでいたんだが」
男性に言われて、彼が示した方を見る。おしゃれなオープンカフェ・ルツェルンの敷地だ。
室内に誘われるよりは良いし、彼に猫ちゃんを押しつけるのも気が引けて、私は曖昧に頷いた。
買い込んだ食料品に、急ぎ保冷庫に入れなくてはいけないようなものはない。資料を読もうと思っていたのだって、絶対にやらなければならないことでもない。
「あの、じゃあ……ご一緒させていただけたら。私、スメールから来ました、サミーラと申します」
「リオセスリだ。それじゃ、こっちに」
猫ちゃんを手元であやしながら、リオセスリさんが先を行く。それについていって、彼が座っていたらしい席へ案内された。
コーヒーはスメールにもあるけれど、彼はお茶を飲んでいたと言った。恐らく紅茶だろう。璃月とフォンテーヌのお茶は有名だ。とくにフォンテーヌはミルクやクリーム、お砂糖を混ぜたりするし、珈琲との親和性も高い。
「何を頼む? 折角付き合ってもらうんだ。一杯くらいなら奢れるが」
「えっ?! いえいえ、そんな、そこまでしていただく理由がないですし。自分で払います。実は前から、こちらのミルクとお砂糖をたっぷり入れて、ホイップを乗せたカフェオレが気になっていて」
慌てて椅子に荷物を置き、注文を聞きに来てくれたウエイターさんに欲しいメニューを告げる。
失礼にならない程度にもう一度リオセスリさんを観察した。肌の傷跡は明らかに過去何かがあった人ではあるものの、彼の顔立ちは精悍で、一言で言うとかっこいい。
そんな出で立ちの人にたった一杯だとしても何かを奢られるのは、なんというか若干の恐怖を感じた。下心はないだろうけれど、なにか意図があるのでは、と。
猫ちゃんへの手つきが優しいものだったから、悪い人ではないはずだと、そう思いたいけれど。
注文を終え、リオセスリさんもおかわりをお願いしたところで席に着く。相変わらず仔猫は彼の腕の中で一生懸命に鳴いていた。
それを見つめる顔も、やっぱり優しい。
やっぱりきっと、多分、悪い人ではない。少なくとも動物に対しては。でも私に対してはどうだろうか。
「……あ、あの。お誘いいただいたのにはなにか理由が?」
「理由? なるほど、ただ俺が軟派な真似をしたわけじゃないだろうって? あんたはこのチビ助に突然絡まれて、俺は偶然ここでそれを見たから助けた……が、善意だけでは動機たり得ない、と。まさか、俺がけしかけたとでも考えているのかい?」
「う、あ、えと、そういうことが言いたいのではなく……」
「……なんてな。まあ、スメールの学生服を着た人間には、俺の仕事上話を聞くことがあるってだけだ」
「はぁ、つまりお仕事だと」
パレ・メルモニアのお偉いさん、だろうか? けれど、それにしては出で立ちがそれらしくない。反社会的組織に潜入捜査をしている、なんて言われた方が余程納得できそう。
「流石に初手で腹を探られるとは思わなかったが、頭の回転がいいのは美点だな」
「勿体ないお言葉です」
「このまま面接……とまでかしこまったものじゃないが、いくつか質問をしても?」
「リオセスリさんの立場をお伺いできれば」
「ちなみに、君は俺を誰だと思う?」
リオセスリさんの顔はちょっと楽しそうだった。ああ、哲学的命題を語る学者や、言葉遊びを嗜む学生がよくこんな顔をする。
店員さんが頼んだ品物をサーブしてくれて、なんとなしにカップに手を添えた。
「それは勿論、メロピデ要塞の、それなりの権限を持っている、人事窓口さん、ですね」
「ほう」
「見学申請を出していて、それが通りそうなタイミングですから。私の身分の調査や、直接の面接、あるいは聞き取りがあることは想定していました」
「続けて」
「あとはその、まあ……リオセスリさんみたいな格好いい方に、猫ちゃんを口実にお茶を誘われるなんて浮かれた出来事が起こるはずがない……というのがそもそも大前提にあって、この考えに至った理由の大部分を占めますかね……」
紅茶の香りを楽しんでいたリオセスリさんが、ティーカップを傾けて喉を潤す。大きな喉仏が動き、静かにティーカップがソーサーの上へと置かれた。丁寧な所作だ。
一方で、彼の膝の上だのジャケットだのネクタイだのでぴょんぴょん跳ねている猫ちゃんの相手もそつなくこなしている。ただ者ではない。
「素晴らしい。じゃあ、次は動機についてだが」
「あ、あの、合ってるんですか?」
「答え合わせは、実際に水の下に来れば自ずとできるだろ?」
「それは……いえ、それは許可が下りたらの話で、」
「その許可が下りるかどうかの最終選考が今だが」
「公的にあなたの身分を証明出来ますか?」
他国だし、強気な姿勢はあまり取りたくはない。けれど、そうも言っていられない空気に渋々事務的な言葉を返すと、リオセスリさんはふむ、と口を噤んだ。
それからにやりと笑って。
「これを」
猫ちゃんのじゃれつきをいなしながらジャケットの内ポケットから封筒を取り出し、私の前にすっと出してきた。わあ、大きな手。……とか言ってる場合じゃないか。
少なくとも街中を巡回中の警邏が彼に反応しないのなら、犯罪者ではないのだろうし。
出された封筒には数枚の紙が入っていた。複写されたもののようで、うち一枚は私がこのところ格闘していた申請書に間違いなかった。なんと既に『可』のハンコが押してある。彼の身元が確かならこれ以上の吉報はない。
そう思いつつ、次の紙へ目を通す。
同封されていたのは、執律庭が発行した面接の委任状。面接官の名前は『リオセスリ』。
「ご理解いただけたかな?」
ちらりと反応をうかがうと、殊更ににっこりと笑顔を向けられた。
聞いてない。聞いてないよ。
書類の手続きとはかけ離れたやり方に、どっと疲れが出た気がした。
「……リオセスリさん。やっぱり、次の一杯奢っていただくことってできます?」
苦虫を噛みつぶしたような私の顔を見て、リオセスリさんはいよいよ声をあげて笑った。
「ははっ、紅茶でよければ」
そしてバッチリと様になるウインクを一つ寄越される。
気づけば猫ちゃんは彼の手の中で大人しく撫でられるがままになって、私たちの目の前で眠り始めた。
ああ、私もできるものならそうなりたいよ。
面接も無事に終えた私は、ひとまず拾得物として猫ちゃんを届け出るというリオセスリさんと別れて宿に戻ったはいいものの、その日は何も手につかなかった。面接の結果によっては却下の可能性がかなり高かったからだ。フォンテーヌにとっても治外法権と言って差し支えない場所だから、基本的に犯罪者しかあそこへ行くことはできない。
後日、『外部の学者を招き、メロピデ要塞についてスメール教令院に認められる研究たり得る論文を知恵の殿堂に収めることについての有意義且つ建設的な知見のため許可を出すものとする』というしかつめらしい文面と共に許可が下りた。
私は喜び勇んで、それはもうワクワクしながら向かった。
地下水路の先で、最高責任者――もとい、メロピデ要塞の管理人として君臨する『公爵』と紹介された彼が「やあ。先日ぶりだな」と気さくに笑いかけてくるまでは。
悪戯が成功したみたいな顔で笑わないでください。こっちは失礼がなかったか気が気じゃないんですからね!!!
2025/12/13 UP
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