二律パララックス
――この力の程度を知るために試行錯誤していた頃、六分街のゲーセンに通っていたことがある。
スロットの目押し、格ゲーのフレーム技。相性のいいジャンルは結構偏りがあるもので、ノーツを叩く音ゲーなんかは画面がチカチカしすぎて寧ろ苦手だ。自分でアクションを起こせるタイミングがないと意味がない上、それがありすぎても眩しくてプレイ続行が難しい。
向いてるゲームでさえタイミングゲーに成り下がるため、結局メダルゲームとかレースゲームとかに落ち着いちまって、そのうちに足が遠のいた。
でも、そう長くないゲーセン通いの中で、一人プレイングが気になる奴がいた。
猫のような犬のようなシリオン。白い毛並みの――ああ、絶対にライカンとは違う、しなやかな体躯だったからオオカミじゃない――毛艶のいい、良い所の出っぽい綺麗な顔した男の子。
なんで印象に残ったかって言えば、トライアンドエラーに対する集中力が異常に高かったからだ。アレはその辺の奴は真似できない、天性の才能だと思った。
……そのくせ、そいつはいつ見ても、何度試そうと機をうかがっても、スリのチャンスが巡ってくることはなかった。
だから印象に残ったんだと思う。
まあ、流石に治安官になってるとは思ってなかったが。
「市民のご協力に感謝いたします!」
キラキラとした宝石みたいな目元に、あの頃見かけたのと変わらない綺麗な毛並み。ぐんと伸びた背丈に初めて見る笑顔。
そのどれもが眩しく、俺は目を細めた。
ヴィクトリア家政に身元を預かられ、普通の家事代行に一切の適性がないと匙を投げられてからも、俺は一般市民として過ごせていた。ホロウ内に潜りこむこともあるため、そっちで能力を発揮していたためだ。ヴィクトリア家政のことを未だよく知らない身からしても、それがどれほど寛容な措置かは理解している。まあ、彼らのご主人様曰く、『風見くんは能力を見込んで声を掛けた。その他が壊滅的だったとしても、手放す理由はない』だそうで。
ヴィクトリア家政のイメージを損なわない範囲で、割と自由に生活はできている。実際にGPSがついている『首輪』を着用しているため、無断でホロウに入ったりなんだりはできないが、まあ、納得したのは俺自身だ。
とまあ、近況はともかく。
一般市民として楚々と過ごしている中で、女の悲鳴と「スリだ! だれかそいつを捕まえてくれ!」という怒号に反応して、ちょいと足を掛けてやったのが縁で、治安官に感謝されるとか言う人生初の珍体験をしている。
しかもその相手が、昔ゲーセンで見かけた少年とは。
ライカンに指導された事を思い出しながら、できる限り柔らかい笑みを意識する。
「いえ。咄嗟のことだったので上手くいって良かったです。治安官さんもお勤めご苦労様です。何かあれば、僕はヴィクトリア家政までご連絡頂けたらと思います」
心を込めることは苦手だが、上辺をなぞることくらいはできる。
お辞儀までした俺に、しかし治安官はじっと俺の顔を見て。
「……なにか?」
「あ、いや」
その目が妙に静かで、じくじくと心臓の鼓動が大きくなった。
大丈夫。ホロウレイダーとしての俺の顔は割れてない。木っ端の治安官が知るはずもない。
じゃあ、この……動物が狩りをするときのような目はなんだ?
「手落ちがあったでしょうか。すみません。まだまだ一人前にはほど遠く、見習いの身でして」
「なるほど、そうでしたか。お引き留めしてしまい、こちらこそすみません。お名前と連絡先の確認は済みましたので、お帰りいただいて結構です」
言いながらも、その目は一向に収まる気配がない。
後ずさりしたい気持ちを抑えて、俺はもう一度会釈をすると、そそくさとその場を後にした。視線が背中に刺さるようで、早く人混みに紛れてしまいたかった。
――相変わらずなんのチャンスも窺えない、隙のない男だ。
それが、久しぶりに見た彼への率直な感想だった。
******
それっきりになるはずだったんだけどなあ。
二度あることは三度あるらしい。ホロウでの一仕事の後に立ち寄った六分街のカフェ。そのテラス席で珈琲の香りを楽しんでいると、目の前を例の治安官が通り過ぎていった。非番なのか私服姿で、普通の服を着ていると寧ろ幼く見えた。
その歩みと共になめらかに動く尻尾が、足と共に止まる。
妙に気になって目で追いかけていたから、気づかれたかなと注意して横目に観察していると、どうやらゲーセンを気にしているらしかった。
……入らないのだろうか。
ネコ科の尻尾の感情なんてそこまで知ってるわけじゃないが、そわそわと尻尾が揺れていて、強く意識しているのは明白。
でも、無邪気に喜んだりする様子でもない。なにか……気になるのに我慢しているような……。
「あ」
「!」
癖で人の隙を観察するのに、視界に入れていたのが拙かった。
急にそいつが振り向いて、目が合った。それはもうバチッと。
シリオンって大体フィジカルが強いんだよな……。街中にいるヤツはその身体能力で社会貢献しているのが多いが、それだけに隙が少なく標的にすることはあまりない。
治安官なんて天職だろうな。ここまで能力が向いてると。
察しの良さに歯噛みしながらも、ここまで目が合っては今更逸らしても白々しいだろう。後ろ暗いことをやってきた身としてはあまり関わりたくないものの、今は一応小綺麗に暮らしている市民だ。心証を損ないたくない。軽く会釈をして、少し笑みを浮かべた。
「こんにちは。先日はどうも」
「ええ。こちらこそ」
何か話すことがあるわけでもないのに、彼の足がこちらへ向く。
あーあ。折角気づかれてなかったのに。トチった。こういう『逆チャンス』に能力は使えない。
「誰か待ってるんですか?」
「いえ、ゆっくりしています」
「隣に掛けても?」
「ええ。どうぞ」
綺麗な言葉遣いと共に、彼が笑みを浮かべながら正面の席に座る。ここで席を立つのは絶対におかしい。
「なにかありましたか?」
話題に窮してそう言うと、彼はいいえ、と首を振った。
「ただ、ここのコーヒーは賞を取ったこともあるとかで、一度飲んでみようかと思ってたんです。折角なのでおすすめを聞こうかと」
「はあ……。いえ、つまらない返事になって申し訳ないのですが、嗜好品ですし、好みによるとしか……」
「はは、ですよね」
苦笑いをする彼の表情は豊かで、しかしその目がふと鋭さを帯びた。
「治安官さん?」
「セスといいます。今日は非番なので、これは……俺の個人的な判断と行動によるものだと、理解してくれ」
彼の言葉が崩れる。少し身構えつつも先を促すと、彼は声を潜めた。
「何か、困ったことがあったりしないか?」
「え?」
無意識に強張っていた肩から力が抜ける。
眉をひそめそうになるのをこらえる俺を他所に、セスと名乗った彼は顎に手を当てて考え込むような姿勢をした。
「いや、この間も今日も……キミの様子が気になって」
「……はぁ。そんなに変でしたか?」
「妙に緊張していただろ。あの時は事が事だから、興奮が抜けきらなかったのかと思ったけど」
「そりゃあ……仮にあなたが治安官じゃなく、防衛軍の人だったとしても緊張はしたと思いますけど」
「そうか……オレの気のせいならいいんだ」
どこか安堵した様子の彼に、まーた中身の綺麗なヤツがよとクサしたくなる。
が、俺と彼に接点はない。コンビニの店員に八つ当たりするような所業をするわけもなく、俺は笑った。どうなるかはともかく、カードを切っておこうと思った。
「ご心配どうも。多分、様子がおかしかったのは……仕事柄、人の機微を観察する癖があるのと……昔、あなたと同じ色を持つシリオンの少年をそこのゲームセンターでよく見かけていたので。同じ人かなと考えていたんです」
「へ」
嘘ではない。内容に嘘がないなら、暴きようもない。
彼が別人でもなんでもよかった。場は持つし、「なんだ、そっか」で済む話。話を切り上げるに相応しい空気にもなる。
さて、どうくるか。
彼の反応を待つと、じわりとその頬に赤みが差した。
「……恥ずかしいな。多分、オレだ」
「やっぱりそうでしたか。あの頃、僕も通っていて」
「そうだったのか?」
「ええ。今はもう止めてしまいましたが」
「そうなのか。オレもだ」
「あなたも? でもさっき、凄く気にされてましたよね?」
なるほど。ゲーセンを懐かしく思っていたってわけか。それにしては、尻尾がすごいうねうねしてたけど。
俺が指摘すると、彼は照れくさそうに頭をかいた。
「いや、やりたい気持ちは正直あるけど……のめり込みすぎるから」
「なるほど。ゲームってそういうものですからね」
「キミも?」
「まあそんなところです」
全然違うが、これくらいの嘘はまあいいだろう。実際、能力の話なんかできるはずもない。
俺の言葉に、セスは納得できたらしい。
なんというか、素直な青年になったものだ。ゲーセンなんてちょっと捻くれたガキがわんさといるもんなのに。まあ俺の事なんだけど。
六分街のゲーセンは規模も小さくて店長の目が行き届いているため治安が良かったか。ルミナスクエアにあるでかいゲーセンじゃ、置き引きだのスリだのがしばしば起こっている。別に俺がやったわけでも、見たわけでもないが、良く治安官が聞き取りに来ているのを見かけたものだ。あまりにもチャンスが多くてちかちかするから、六分街で落ち着いていたわけだが。
セスがそういう所にも行っていたかは分からないが、あそこの空気がよかったのは間違いない。
「……ところで、セス、くん」
「? ああ」
「さっきの台詞はナンパに聞こえるから、言い方は考えた方がいいんじゃないか?」
「はっ?」
「『キミの様子が気になって』、なんて」
「そうは言っても……他にどう言えと。まさか挙動不審だったから追及したいとでも?」
「まさか。私服姿で言われても、ね」
ふふ。とつい笑ってしまった。威圧してどうすんだよ。
「っと、そういえば、どこかへ行くつもりで歩いていたのでは? ゲーセンじゃないとなると……」
「ああ、ビデオ屋に行くつもりだったんだ」
「なるほど。あの店はいつもお客が絶えなくて凄いですね」
「ってことは、キミもよく行くのか?」
「いや、映画は得意じゃないんです。僕はお向かいのレコードショップで音楽を嗜みに」
映画やテレビドラマなんかは、感情移入すればするほどタイミングをスカされるのが気になって、それがあまりにも疲れるから止めた。別に瞼の裏で閃光が弾けるわけじゃないんだが、癖で能力が発動するのをじっと待ってしまうのだ。
その点、音楽や本はいい。関係がない。
「映画なら、どちらかというと原作の小説を読んだりしますね」
「なるほど……。あ、でもあそこはテレビCMだけを集めたビデオなんかもあったけど」
「そうなんですね」
「ああ。予定がないなら一緒に行かないか?」
一瞬反応が遅れる。この子、人懐っこ過ぎないか? なにか裏がある……訳でもなさそうだし。
「僕がご一緒してもいいんですか?」
「もちろん。店長とも付き合いがあるけど、取り扱ってるビデオのセレクトもうまいんだ。声を掛ければ、きっとキミも楽しめる一本があると思う」
「それはそれは」
そこまで言われて断るのもな……。となるのは、俺も流されてるって事なんだろうか。
なんというか、セスの目を見ていると強く出られない。彼に対して、気後れすることなんて何もないはずなのに。
「では、差し入れにコーヒーでも買っていきましょうか。セスくんも興味があったのでしょう?」
コーヒーを飲みきって、店内に入る。ティンにティンズ・スペシャルをテイクアウトで頼むと、横からセスが付け加えた。
「そうだ、店長は二人なんだ。だから二人分で」
「なるほど、わかりました」
ビデオ屋への差し入れの分、そしてセスの分も袋に入れてもらい、ゆっくりと向かう。六分街をうろつくことは多いが、ビデオ屋に入るのは初めてだった。
ドアベルを鳴らしながら、セスが先に入店する。その後に続いて、足を踏み入れた。
店内は少し薄暗い。壁や天井の色合いのせいだろう。これが落ち着くという人も多いのかも知れない。映画も、スクリーン以外は落ち着いた色のことが多い。
日が当たる入口側には商品がなかった。品物が日焼けしないようにしている配置は好ましく、これだけでも店長の人柄が窺えた。セスの言うとおり、映画に対する造詣が深く、また愛着もあるのだろう。どちらかと言えば、映画好きが高じて運営しているビデオのセレクトショップという風情だった。
まだ殆どの人間は仕事中か授業を受けている時間だ。店の中には他に誰もいなかった。
「ンナナ!(いらっしゃいませ!)」
店番のボンプが鳴く。そちらを見ると――やけに既視感のあるボンプがにっこりと笑っていた。
オレンジのスカーフを巻いた、ボンプ。それは……俺も見たことのあるデザイン、だった。
かの『パエトーン』のものと同じ。
「? どうしたんだ?」
早い。俺が瞬間的に警戒したのが分かったのだろう。セスが俺のほうを振り向いて首を傾げる。それに「いや、なんでもない」と、明らかな嘘が勝手に舌に乗って出ていった。
「店番のボンプがどうかしたのか? いつも出迎えてくれる、いいヤツだよ」
「ンナンナ(新しいお客さん! はじめまして!)」
じっとボンプを見つめる。俺に睨まれて、そのボンプはシュンと耳が垂れた。
「ンナァ……?(ど、どうしたのかな? 僕、何かやっちゃった?)」
「……」
いや、違う。違う箇所がある。パエトーンのボンプのスカーフは『01』だったはずだ。こいつは『18』。多分違う個体。の、はず。
それに、パエトーンならば喋るはずだ。人の言葉を。
ビデオ屋の店長……パエトーンの強火ファン……とか?
どう考えてもそれしか思い浮かばず、眉をひそめる。それにしたって、このボンプのスタイルがパエトーンのものだとどうしてこんなビデオ屋の店主が知っているんだ? 何か繋がりがある? いや、でも、それなら寧ろこんなあからさまな真似、避けそうなものだ。
いよいよ店主の趣味が色濃く出た店なのだと納得しようとした、まさにその時。
「あ、店長」
「やあ、セスくん……、!」
受付カウンターの横にあるドアから顔を見せたのは、一人の青年だった。くすんだ髪色に理知的な雰囲気のある緑の目。至って普通――そう、特に鍛えているとか、不健康とか、そういうことのない、ごく一般的な姿の。
その青年が、俺を認めた瞬間息を詰めた。それだけで、ふと腑に落ちてしまう。
こいつが、あのパエトーンなのだ、と。
「そちらの方は、初めてだね?」
「ああ。ちょっと最近知り合って、一緒に来たんだ。映画が苦手らしくてさ。店長に聞けば良い作品を紹介してもらえるからって」
「はは。販促してもらえてうれしいよ」
「いや別に、そういうわけじゃ……まあいいか」
二人の男が気安いやりとりをしているのを眺める。
店主がパエトーンだと思った理由はいくつかある。俺がお日様の下を堂々と歩くようになったのは最近のことだ。にもかかわらず明らかにあっちが俺の顔を知っており、なおかつ動揺を見せたこと。ライカンにつかまったときに側にいたボンプから聞こえた声と同じであること。
ただそうなると気になるのは、プロキシが治安官と仲良くしている理由だ。
短い間ながら近くで見た感じ、セスがそう言った手合いと上手く手を組む想像ができない。特に治安官としての彼は言葉遣いもお堅く、職務に対してかなり忠実な印象を受けた。一介の治安官が演技する意味がないから、多分その印象は正しいはずだ。
まさか、仕事抜きの付き合いを……? だとしたら、パエトーンは相当狡猾な自信家か、ヌけてる奴ってことになるが。
「……どうも、セスくんの紹介で来ました。風見リツです。こちらはお近づきの印に持ってきた差し入れです」
「ご丁寧に、どうもありがとう。ビデオ屋の店主をしている、アキラだ」
落ち着いた声の青年はそう名乗り、コーヒーの入った紙袋を受け取ってくれた。
それでも尚じっと見つめていると、アキラは首を傾げた。
「どうかしたかい?」
白々しいと思うのは、俺がこいつをパエトーンだと思っているからか。
「いえ、……できれば普通の映画ではなく、なんというか……感情移入しにくい作品があればいいんですが」
「珍しいリクエストだ。差し支えなければ、理由を聞いても?」
「目に負担を掛けたくないんです。面白い映画はつい見入ってしまうので……変かも知れませんが、集中したくないと言いますか」
「なるほど。ながら見ができるようなもののほうが良さそうだ」
言って、アキラは紙袋をカウンターに置くと、ビデオの棚へと向かった。
「CM集やアーティストのMVを集めたビデオも置いているけれど……これなんかどうかな」
「これは?」
「『私たちのあるべき姿』……。旧文明の資料を集めて再編集した、ドキュメンタリーだ。リツさんが旧文明フリークでなければ、特に感情を揺さぶられることはないと思う」
なるほどね。いい線行ってる。
「セスくんからはCM集とかMV集があると聞いたんだけど」
「そうだね。厳密に言えばCM集と、ラジオかな。CMの方は……集中とは違う意味で、何か求めるものがあるときに見た方がいいタイプのビデオかな。リツさんに勧めるなら、ラジオの方になるけれど……」
「ああ、見るよりは聞く方がいいね。でも、折角だから最初におすすめしてもらったものにするよ。折角ビデオ屋に来たんだから」
「そう言ってもらえると店主冥利に尽きるな」
穏やかに笑うアキラの表情は、流石にもう取り繕うようなものじゃなくなっていた。
こうしてみると、ただの青年なのにな。
探りを入れたいが、セスの目がある。
一度改めた方がよさそうだ。アキラがパエトーンだとして、どのみち俺のツラは割れてるんだし。
あ、でも。
「そうだ。店長さんは対面でしかこういうことはしてないのか?」
「というと?」
「カウンセリングというか、好みの作品チャート案内というか。ノックノックならできそうだけど」
「ああ……そうだね。そういうサービスも検討の余地があるけれど……プログラムでの自動応答よりは細やかなやりとりができるし、何よりうちの店を贔屓にしてくれる人を大事にしたいからね」
「なるほど」
流石にあわよくば連絡先を押さえておくとかは無理か。
「じゃあ自動応答じゃなくて店長の聞き取りを受けたい。もちろん贔屓にするのはこの店。ってことで、連絡先の交換はどうだろう?」
「おや……初めてでそこまで気に入ってもらえるとはね」
「はは、店長みたいな男が好みだからって言ったら動揺してくれる?」
言うと、アキラは苦笑いをした。おい、失礼だろ。
「さて、それは今後のお付き合い次第と言っておこうか」
「残念。じゃあ、今日はおすすめを借りていくことにするよ。そうしたら返却しにまたここに来れる」
ガラにもない言葉を並べ立てるのは、いい加減ここから離脱したかったからだ。
セスの視線が身体に刺さるのを感じながら、アキラと寒々しいやりとりを続ける。会員カードを作って、素知らぬふりでビデオを受け取ると、セスに目を向けた。
「セスくん、今日はどうも。僕はこの辺で失礼します」
「ああ、また何かあればいつでも治安局を頼ってくれ」
「そうします」
これだ。この流れが欲しかった。
会釈をしてビデオ屋を出る。向かいのレコード店に入る元気はもうなかった。
……ポート・エルピスでゆっくりし直すかな。
ぱたん、と閉じるドアの音に続き遠のいていく気配に、セスは目を伏せた。
「なあ、店長。オレ、明らかに避けられてるよな? 最初は治安官としてやりとりがあったからだと思ったんだけど、オレ個人になにか思うところがあるのかもしれない」
「どうしてそう思うんだい?」
「治安官としてのオレには協力的だったけど、今日は……個人としては名乗ってくれなかったし、それにずっとオレには丁寧な態度でさ。悪いわけじゃないけど、それがどうにも違和感というか」
女なのに男の格好をしている、というのがセスから見たリツの第一印象だった。ただ、世の中には様々な格好を好む人達がいることも知っているし、TPOから逸脱していないのであれば咎める必要もない話だ。リツのそれも好んでそうしているのだろうと自分を納得させたが、明らかに体型を誤魔化している風にも見え、女であることを隠しているような印象を持った。
例えばDVだなんだと男に追われている女が変装したいとき、体型を誤魔化すようなことはしばしば見られる。一瞬、リツもその類いではないかと訝しんだ。ならば、男である自分への距離の取り方も理解できる。
「セスの観察眼は鋭いからね。君がそう思ったなら、正しいんじゃないか? もちろん、愛想がいいだけという可能性はあるにしても」
「そうかな」
「……気になっているのは、それだけじゃなさそうだね」
「ふう。いや、でも考えても仕方がない。今日は非番だし。流石に職務質問めいたことはできない」
それでも何かが引っかかる。
そう言いたげなセスに、アキラは目を細めた。
今までのことはともかく、今リツはホロウレイダーではない。ヴィクトリア家政の指導下にあるエージェントの一人だ。真っ新とは言い難いが、身分の担保はある。
あまり詮索されるのも、とアキラは思い切って話を変えることにした。
「そうだね。気になった女性にそんな風に距離を詰めたら、それは逃げられるというものさ」
「……はあっ? 店長、なにを……」
「おや、違ったかな? てっきり好ましい相手ともっと近づきたい……なんて悩みに聞こえたけれど」
「なんで店長はそんなにオレの動揺を誘いたがるんだ……?」
「はは、それもバレたか」
どこか恨めしげなセスの目線を浴びながら、へらりと笑ってみせる。
それで気持ちが切り替わったのか、セスは気を取り直して予約していたビデオの受け取りについて口にした。そこから、リツの話が挙がることはなかった。
2025/11/11 UP
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