Start Line, at AM 6:00

 最初、やけに据わった目でアイアンタスクに近づく人影に気づいたのは俺だった。
 そん時は確か……清算の日の三日間が終わったんだったか? 〆の日だったかもな。
 郊外の連中の儀式みたいなもんだから、本来街からふらっと人が来ることはないはずだったが……そいつは深夜に、郊外にしちゃ綺麗な風と共に、ふらふらとした足取りでやってきた。

「理由は分かんねえけど、酒が飲みたいならバーニス、入れてやってくれ」

 シーザーの一声で、そいつが輪の中に入ることが決まった。

 よれよれのスーツ姿のそいつは席に着くなりジャケットを脱いで、景気のいいことに、シャツのボタンも際どい位置まで外し始めた。

「ストリップショーはやってませんわよ」

 ルーシーお嬢様がそう言って窘めていた。男は俺一人で、気のいい女連中の空気に気が緩んだのか、そいつはぺこぺこと頭を下げた後、

「ああ、すみません。もうちょっとでマジで社会的に終わるところでした」

 そう言ってお嬢様に感謝を述べた。
 変わった奴だな。そう思った。

「なんかしょんぼりしてるね? 気分アゲてこ!」

 そう言って、バーニスが駆けつけ一杯とばかりにジョッキにビールを注ぐ。
 カウンターに置かれたそれに、そいつは物慣れない様子で、両手で抱えるようにして口をつけた。

「う、うう……うううぅぅ……」
「ありゃ。泣いちゃった」
「おいおいバーニス~なにしてんだぁ?」

 野次が飛ぶが、周りが介護しなくとも、そいつは勝手に語り出した。

「仕事がっ 仕事が本当に忙しくてぇ……!!! ほんっ、本当に、辛くなっちゃってぇ……!」

 嗚咽を漏らしながら、出るわ出るわ。愚痴の嵐。
 弱音を漏らすにしたって各々スタイルがあるだろうが、そいつは酒も回らんうちからべそべそと泣きながら、一人でブツブツと話しっぱなし。
 お嬢様に目配せされ、俺はそいつが乗ってきた車のナンバーを控えることになった。

「でも同僚も上司もめちゃいい人たちでぇっ でも作業量は頭おかしくてぇっ」
「うん、うん」
「繁忙期だからっ 繁忙期だからいっぱい我慢してっ でもストレス発散もできないまま寝るか仕事かの日が続いててっ」
「それは疲れるよね」
「頭では今が頑張りどころで、辛くっても堪え凌ぐしかないって、分かってるんですっ でもっ でもっ 限界だなあって思っちゃって」
「そういう時あるよねぇ」
「もう頑張れないって! なっちゃったんですっ! どうしたらいいか分かんなくてっ! ここまで来たんです!」
「そっかぁ~ 大変だったね」

 バーニスの相づちに、そいつの声がどんどん震えていく。
 ナンバーを控えた時点で、そいつは両目から涙を流しながらしゃくり上げていた。
 ルーシーが手早く調べ、パイパーが聞き耳を立てる。

「盗難車ではないようですわ」
「そうかい、そいつはよかったなぁ」
「……本当にただの一般人がたまたま来ただけ……?」

 その会話を受けてか、バーニスがカウンター越しに頬杖をついて、珍客と目を合わせた。

「あなたのお名前は?」
「うっ……う、ぐす、アカリ三枝アカリ……です」
「お家の人が心配してるんじゃないかな?」
「一人暮らしっ、です」

 おいおい……。
 心配になるほど、バーニスの問いにぽんぽんと答えていくそいつは、気づけばどこかうっとりした目で我らがバーテンダーを見つめていた。

「明日もお仕事?」
「はい」
「行けそう?」
「分かんない」
「でもみんないい人たちって言ったよね? 連絡がなかったら心配するんじゃないかなぁ」
「……う……」
「ひとまず職場まで行ってみるって気持ちなら案外イケちゃうかも?」
「……そう、ですか?」
「うんうん! それにぃ、もう頑張れないってなっちゃったなら……キミのエネルギー、ニトロフューエルで補充しちゃお! ねっ」
「? にとろ、?」
「元気が出るドリンクだよ~」
「変なお薬、入ってないですか?」
「だいじょーぶ! 心配なら目の前で入れてあげるし、私も同じの飲んだげる」
「はぁ……お願いします。お金……これで足りますか?」
「十分」

 ぺち、と無防備に財布が出される。
 そこから札が数枚出されて、「もうないや」と呟く声。

「じゃあ、これでお酒とご飯、欲しいです。あとはチャージ料として貰ってください」
「わあ、凄い気前がいいんだね」

 バーニスの満面の笑みにつられたのか、そいつはへらへら笑った。流れるようなバーテンダーの仕草を、子どものように目を輝かせて見つめる。
 流石にもう、不審者ではないと皆が気づいていた。

******

 殆ど日の出と同時だった。
 微かな湿り気を帯びた夜の風が、逃げるように引いて行く時間。

「……っ!!!!!!!!!!!!」

 声にならない悲鳴を聞いて、目が開いた。
 見ると、自分の車の前でエンジンを吹かしながら、昨晩の客が青ざめていた。
 他の連中はまだぐーすか夢の中だ。
 俺としてはこのまま見ていても良かったが、スマホの画面を何度も見つめては胸を押さえているそいつの様子があまりにも憐れみを誘っていたため、止むなく声を掛けることにした。

「お客人、さっきから百面相してどうした」
「あっ……! あ、あの、えっと、私、アカリと申します」
「ああ。昨日聞いた」
「えと、今日も仕事で」
「それも聞いたな」
「……燃料が……新エリー都に戻るまで、絶対的に足りず……出社が遅れる連絡をするにしても、時間的に誰にも連絡できずでして……」

 言葉の通り、覗き込んだインパネには、燃料の減少を示すランプがちかちかと点滅している。
 青を通り越して白くなった顔に、昨晩あんなにぐずっていた割りに、ちゃんと出勤するつもりで居ることに口笛を吹きそうになった。
 どうしよう、と、昨晩とは違う、理性を感じる涙声。目線が小さく震えている。分かりにくいだけで内心はかなりパニクってると見た。

 朝っぱらから大声で騒がれてもな、と助け船を出してやる。

「まあ、あんた一人送っていくことくらいわけないが……俺たちの間にはそこまで信頼関係がないことが目下の問題だな」
「……お、送っていただけるんですか?!」
「あんた人の話聞いてたか?」

 縋るような目を向けられ、思わず直視を避けた。
 カリュドーンの子の面子にこんなカオをする奴はいない。郊外でこんなに無防備に期待の目を向ける奴も、いない。
 それで分かっちまった。こいつは良い奴に囲まれて生きてきたってことが。

「あ、いえ、勿論タダでとは思ってないです」
「そうかい。交渉ごとはお嬢様の領分でな」
「ライト。本来わたくしの交渉はこういう場面で受け持つものではないことくらい知ってるでしょう」

 険のある声が横から出てくる。昨日遅かった割りには朝が早い。
 おおかた、この客の件が引っかかっていたからだろうが。

「そうは言ってもな。俺の担当でもない」
「はぁ……。三枝アカリさんと仰ってましたわね。燃料代をツケにすることもできますけど、あなたのような方のひょろっちい運転では始業には間に合わないのではなくて? 今繁忙期なのでしょう。遅刻は影響が大きいんじゃありませんの?」
「うっ……はい……」
「でしたら。今日の所はこのライトに送らせますわ。そしてあなたの車を担保に、今回の送迎分の燃料代と人件費をツケにして差し上げます。無論、口約束ではなく、書面で残しますわよ」
「あ、ありがとうございます……!」

 ルーシーが見事に話の主導権を持って進めていく。客は車のエンジンを切り、俺のときと同じように、目を輝かせて何度も頭を下げていた。

「書類作成はちょっとだけできます! 紙とペンをお借りできれば……いえ、会社のカバンに数枚ペラがあるので、そのまま一筆書けます」
「まあ。話が早いですこと」

 言うや否や、車の中から紙を取り出し、バインダーを下敷きにさらさらと迷いなく書類を作っていく。
 手書きではあるものの、きっちりと整った字面はこの辺じゃ見ることがなく、物珍しさについ覗き込んでいた。
 お手本のように綺麗な字だ。字が読める奴ならまず誰もが間違いなく読み進められるような、癖の少ない字。
 夜、あんなにおいおいと泣いていたわりに、今日の出勤に間に合わせようと必死な姿を見ると、総合して悪い奴じゃないのだろうという判断も説得力を増していく。

「二週間以内に繁忙期とやらを乗り切りなさい。期限は必ず明記。車を預かる間、あなたの車の保証はいたします。それも文面に入れて構いませんわ」
「はい」

 程なくして完成した文面をお嬢様が確認し、頷いたのを見て名前を書き記す。

「写しも問題ありませんわね」
「は、はい。あ、あとこれ、車の鍵です」
「……私から申し上げることではありませんけど、あなた、もっと警戒心というものをお持ちになった方がよくってよ」
「え? でも……薬を盛られたり、寝てる間に攫われてたり、財布の中身が抜かれてたり……身体をどうこうされたりとか、なかったので。昨日真っ先に声かけてくださったシーザーさんも凄く朗らかでいい人でしたし、バーテンダーさんも笑顔が素敵で優しかったですし……」
「……あなた、そのうちにおケツの毛一本残らずむしり取られることになりますわよ」
「いやぁ、見知らぬ人ならともかく、昨日優しくしてくれた皆さんにソレされたら泣いちゃいますね……」

 泣いて済む程度ではないはずだが。
 ズレた返答にルーシーは毒気が抜けたらしい。

「ライト。さっさと送って差し上げなさい」
「俺か? 人を運ぶならパイパーの方が適任だぞ」
「あなたが安請け合いしたんでしょう。それにパイパーがかっ飛ばしたら、この方、あちらにつく頃には気絶してしまうのではなくって?」
「……了解」

 ナンバー2に言われ、バイクの元へ向かう。俺の後ろをちょこちょことついてくる気配に、ヘルメットを押しつけた。

「わっ フルフェイス……ですか?」
「大将が客人扱いしてたからな。被っといた方がいい」
「……これどうやって被るんですか?」
「……頭よこしな」

 ため息を殺す。
 あごひもを左右に広げてゆっくり被せた。たたらを踏むこともなく、踏ん張ってるのは高得点だ。

「ん。指が入るような隙間はないな? 痛みはあるか?」
「いえ」
「ならいい。あごひもを締めるぞ。こっちは指二本入る程度の方がいい」

 まるでガキだな……。
 思いつつ、柔い顎下に指が触れる。女の肌の感触なんて、久しく気にしたことがなかったが、妙に指先に感覚が残る。

「ありがとうございます」

 もごもごとヘルメットから暢気な声がして、意識を離す。
 肩掛け鞄を背負って指示を待つ姿は妙にくすぐったく、誤魔化すように愛車に跨がった。

「よし。じゃあ、後ろに乗りな。体重はバイクの中心だ。膝で俺の腰を挟め」
「は、はい」
「掴むなら肩より腰だ。後ろのグラブバーを握ってもいいが」
「こ、怖いので腰でもいいですか」
「ああ。できるだけ前傾姿勢でな」

 二人乗り(タンデム)向きのカスタムはしてないが、まあなんとかなるだろ。
 他にいくつか注意点を教えてから、明るくなってきて焦りを見せ始めるそいつを尻目にバイクを出した。



「ほら、間に合ったろ」

 ルミナスクエアのコンビニ手前でバイクを止め、ヘルメットを脱がしてやる。
 髪の毛をぼさぼさにして、そいつは笑った。

「バイク、すっごくいいものですね……!」
「そいつはよかった」
「えっと、ライトさん。今日は本当にありがとうございました。皆様へのお礼とは別に、また何かお礼させてください」
「そうかい? だったら、あんたの連作先でも貰っとこうか」
「へ?」
「あっちの誰とも交換してなかったろ。次どうやって迎えに来たらいいんだ?」
「あ、そっか!」

 おいおい。本当に大丈夫か。
 ルーシー程じゃないが、胸の内に浮かぶ程度には素直すぎる相手に、ペースを崩される。

 この調子で男に引っかかったことは……今『こう』ってことはまだないんだろうな。
 男が近くにいなかったか、いても女として扱われたことがなかったか……はたまた、ただの箱入りか。

 清楚な字だった。それを考えると、箱入りってのはしっくりくる。

 このままだと俺が一番最初の悪い男、ってのになりそうだ。俺っきりにしといてくれるといいんだが。

「じゃあ、本当にお世話になりました。仕事、頑張ります。昨日のバーテンダーさんにもよろしくお伝えください」
「ああ」

 礼を言って、最低限の身だしなみって奴を整えながらコンビニへ入ってく後ろ姿を見ながら、口元のマフラーを引き上げた。
 口角が上がった理由? さあな。俺にもわからん。

2025/10/27 UP

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