今はまだ、この距離に甘んじて
ルミナスクエアの喧噪を抜け、地下鉄へ滑り込む。手に持った保温バッグを水平に保つのを最優先に少しだけ揺られれば、六分街にたどり着く。
地下鉄の出口から『BOX GALAXY』の前を通り過ぎる。美味しそうな珈琲やラーメンの匂いに空腹を刺激されつつ道なりに真っ直ぐ進めば、その奥に、ビデオ屋さん『Random Play』はある。
道中ノックノックで先に連絡を入れれば、店先に着く頃には、可愛い店主の一人が待ってくれていた。
「リンちゃん、急にゴメンね」
「いいよ~。私もお兄ちゃんも、サヤさんの美味しいご飯が食べられるわけだし。気にしないで。
準備できてるから、私の部屋に行こ?」
「ん、」
優しい気遣いと振舞いに、既に涙腺が緩くなる。うるっとしてしまって、喉が詰まった。
何度もこくこくと頷いて、リンちゃんの後に続いて既に閉店した彼らのお家へお邪魔する。ドアが閉まると、かららんと可愛い音が響いた。
店内にはもう一人の店長さん、アキラくんがいて、ソファに掛けていた。
「アキラくん、こんばんは。これ、アキラくんの分だよ」
「やあ、サヤさん。ありがとう。リンのおこぼれに預かれるなんて嬉しいな」
保冷バッグの中から、アキラくんの分だけ取り分けたご飯を出す。今日は栗おこわと、揚げ出し豆腐、そして鶏肉となすの甘酢がらめだ。スープジャーにはキノコのお吸い物が入っている。
「僕の分だけでもこんなにあるのか……本当にいいのかい?」
「今日はその、一晩リンちゃんをお借りするので。それに、ちょっと夢中になって作っちゃったので……ぜひ、食べてくれると嬉しいです」
「じゃあ、お言葉に甘えて。サヤさんも、心ゆくまでゆっくりしてくれ。僕も君の手料理を満喫させてもらうよ。……っと、そういえば僕の方にもこの後少し知り合いがやってくるんだけれど、君の料理を食べたがっていたら、少し分けても良いかな」
「大丈夫です。お口に合えば良いんですけど」
「きっと大丈夫さ」
相変わらずこの兄妹は言葉選びが優しい。
またまた胸にこみ上げるものがあって、私はうんうんと頷いて答えた。
アキラくんの待ち人はまだ来ないそうで、施錠を任せてリンちゃんの案内で二階へ着いていき、彼女の部屋で同じメニューを広げていく。
「わあ……! 美味しそう!」
「ありがとう。冷めないうちに食べて」
「じゃあ、いただきまーす!」
アキラくんにも言ったけれど、夢中になってたら品目が増えてしまって、とても一人では食べきれない量になっていた。
……実はこういう時、お裾分けする人がいるのだけど……。今日はどうしてもその人のところへ行く気になれない、いや、行けるような気分じゃなかった。
だってそもそも、その人が原因で逃げるように作ってしまったメニューだったから。
箸をとり、リンちゃんに続いて少しずつ食べながら、私は今日あったことをポツポツと話し始めた。
なにせ、今回リンちゃんのところに来たのは、『恋にやぶれ……いや、まだ破れては居ないけれど、良い感じだなって思っていたのが勘違いだったことを突きつけられて、壁に衝突して心が折れそうだった私を慰める会』という名目なので。
出会いはなんだったかな。多分、『Random Play』で凄く格好良いオオカミのシリオンさんが、ビデオ屋さんの販促をしていたのが最初だった気がする。
普段はヴィクトリア家政という富裕層向けの家事代行サービスを取り仕切るボスなのだとリンちゃんからは聞いている。名を、フォン・ライカンさん。
私が彼について知っていることはあまりない。
仕事にとても誇りを持っていること。
いつも身だしなみに気をつけていて、それはふかふかそうな尻尾はもちろん、爪の手入れにまで及ぶこと。
そして、サービス内容における手料理というものがやや苦手であることを目下、課題としていること。
私が差し入れやお裾分けと称して『Random Play』の二人に度々手料理を振舞っていることを知ったその人は、
「是非わたくしどもにもお願いすることはできますでしょうか? 勿論報酬はお支払い致します。料理という『仕事』を外部委託するとお考えいただければよろしいかと」
と、そんな提案をした。もちろん、私の料理を食べた上での判断だった。
ライカンさんが私の手料理に興味を示したのは、なんと言ってもリンちゃんとアキラくんが絶賛してくれたからなのだけれど。
「えっと、でも……そんな、ヴィクトリア家政って上流階級御用達の方々ですよね? 特に面接も研修もなく、いいんでしょうか……?」
「わたくしどものご主人様から手料理のオーダーが入ることは殆どございません。お願いしたいのは、わたくしどもへの料理のサーブでございます」
「さ、サーブ、ですか」
「はい。できれば……ご指導もいただきたいのですが。それは追々、他の者との相性もございますから、顔合わせが終わってからでよいかと考えております」
――そんな風にして、私とライカンさんは知り合った。ノックノックも交換して。
以来、ヴィクトリア家政から十分な報酬をもらっており、今ではそれ一本で生活費が賄えるほどになっていた。
とはいえ、飽くまで私は外部委託された個人事業主。ヴィクトリア家政の従業員ではない。ライカンさん以外の人と顔合わせもしたし、実際に対面で感想ももらって、私も料理について改めて勉強しつつ、個人的な付き合いも悪くない関係を築けた。
今思うと、慢心があった。
それは仕事に関することではなくて――ヴィクトリア家政の仕事ぶりを知ってるのに慢心できるヤツなんているわけない――私の、個人的な感情のこと。
少なくとも、ビデオ屋さんで時折販促をするライカンさんを見て気になっている他の人達よりも、私はずっと近い場所にいる。
そんな風に感じてはいなかっただろうか。
あからさまは優越はなくても、例えば長いマラソンを走る中で『自分は最下位じゃない』、『後ろにはもっと人がいる』……そんな安心めいた気持ち。
そういうものを、知らない間に抱いていたことを今日、突きつけられたのだ。
ルミナスクエアでライカンさんと、一人の男の人が何やら話していたのを見かけた。
ライカンさんは凄く身長が高いけれど、その男の人もかなり背が高くて、モデルみたいにすらりとした体型だったから、余計にライカンさんの逞しさに改めてビックリした。
こっそりと話を聞いてしまったのは、二人の間に漂う空気がなんだかぎこちないような気がしたからだ。
ライカンさんは普段、凄く穏やかで優しい。振舞いも紳士的で、話をするときは必ず相手に向き合う。
けれど、その時はなんだか妙な距離で一緒に居る割りに、ライカンさんの視線は終始男性から逸らされていて、男性の方も、ちょっと演技がかった仕草をしていたものの、私が聞く限り喧嘩腰に聞こえた。
「フン……貴様を餌付けした御仁はさぞ心優しいのだろうな。飼い犬に手を噛まれぬよう、俺が忠告に行くべきかもしれんな」
「……おい、何をする気だ」
「なに、少しご機嫌伺いに行くだけだ。ああでも、心優しい彼女は俺にも何か恵んでくれるかもしれんな」
「彼女の家も知らない奴が。よく言う」
「何も家を知る必要はないだろう。件のビデオ屋に行けば良いだけの話だ。タイミングが良ければ会うことも、話すこともできるだろう」
「……タイミングが良ければ? お前が合わせるだけのタイミングに良いも悪いもあるか」
「牽制にしては弱い。弱すぎるぞ、ライカン。そんなことで忠犬が勤まるのか?」
「彼女は雇い主じゃない。それに、業腹だが俺は彼女を束縛する権利もまだない……」
「ほう? 『まだ』ときたか」
もしやトラブルかも、と思ってしばらく二人の声を聞いていたけれど、杞憂だった。
それどころか、どこか気安い雰囲気さえあって……ライカンさんがあんな低い声で、不機嫌そうに『俺』って言うことも知らなかった。
もしかして、ライカンさんは本当に気安い相手にはああいう態度をとる人なのでは?
そう思うと、ストンと腑に落ちた。
ヴィクトリア家政の皆にも丁寧で、心優しい態度だったから、私もちょっとは仲良くなれたかもって思ってた。
でも、違う。
仕事じゃない時のライカンさんって、あんな飾らない感じなんだ。
そう思ったら、あれよあれよという間に自分がどれほど傲慢だったのか、急に羞恥心が止めどなく溢れて止まらなくなった。
ライカンさんはただ丁寧に接してくれていただけだし、料理を褒めてもらえるのも、だからって別に彼の好感を上げられてるわけじゃない。
普通。『普通に』接してもらっていただけ。
ああ、なんて恥ずかしいんだろう。
そう思ったら居ても立っても居られなくなって、気づけば食材を爆買いして、一心不乱に料理を作ってた。いつの間にか料理を作る楽しさと、味が決まった達成感に上手くすり替わって……そしたら今度は、目の前の大量の品々に恐怖していたと、そういうわけ。
恥を自覚した上でライカンさんに「料理作りすぎたんでもらってくれませんか?」なんて連絡できるはずもなく、彼よりも前からずっと食べてくれていた『Random Play』の二人――特にこの件を聞いて欲しかったリンちゃん――に泣きついたのだった。
「そっかぁ。そんなことがあったんだね」
落ち着いたリンちゃんの声と、気遣いの眼差しが心に染みる。
「舞い上がっちゃって、ホント恥ずかしい……。どんな顔して次会えば良いのかな」
「気づかれたわけじゃないんでしょ? だったら、知らんぷりするしかなくない?」
「できるかなぁ……」
今まで、どんな顔して話してたんだろう。
「もしかして、今まで私がライカンさんを好きなのって態度とかに出てたかな」
「私から見た感じはそんなことなかったと思うけど……」
「ああぁ……どうしよ、「あなたが好きです。大好きです」みたいな顔してたら……」
頭を抱える私に、リンちゃんは食事の手を緩めることなく苦笑した。
「私が知ってる限りじゃ、ライカンさんと話すときのサヤさんもだいぶお仕事丁寧モードって感じだけどなあ~」
「ほ、ほんと? ちゃんと社会人の顔できてる?」
「できてるよ~。でも、もしライカンさんともっと近づくなら、今私に見せてるこういう可愛いところも出してかないとなんじゃない?」
「えぇえ……っ!!! で、でも嫌われたく、ないよ……」
「ん~、確かにリスクはあるけど……逆に言うと、リスクをとらないとこれ以上近づけないところまで来たって思えば」
リンちゃんの言葉に、むむむと考え込む。
今日、ライカンさんの知らない一面を見て、私はまだまだ知り合い程度なんだって痛感した。
それが、ライカンさんも同じように思ってるかもってリンちゃんは言ってるんだ。
流石にライカンさんから好意を持たれているなんて自惚れはできるはずもないけれど、私も自分を知ってもらって、好きになってもらうきっかけを増やしていくしか……チャンスは巡ってこないっていうのは、確かにそうかもしれない。
「あとは……ん~、そうだなぁ。食材をたくさん買うときに、荷物持ちをお願いしてみるコトから始めるとか」
「いいの?! それ、そんなこと、お仕事で忙しいのに……?!」
「別に断られたらそれはそれでいいじゃない? あっちがどこまで仕事として動くか、それとも個人として付き合ってくれるのか……調べるには丁度いいでしょ!」
にこ!
可愛い顔で締められても、私は騙されない。
リンちゃんもアキラくんも、結構人の懐に入るのが上手いというか、いわゆる『人たらし』ってヤツなんだもの!!! そんな人の手練手管が参考になるわけなくない?! 絶対に真似しちゃだめでしょ!
「まあ、夜は長いんだし、ゆっくり悩も。映画流しながらポテチ開けて、飲み物も何種類か用意したから気は紛れると思うよ」
うんうんと唸っていると、リンちゃんはそんなことを言って「ごちそうさま!」と食事を締めた。私は取り分けた自分の分をゆっくりと咀嚼する。
うん。よくできてる。栗おこわにまぶしたごましお。味が染みた揚げ出し豆腐と、香りの良いお吸い物。鶏肉となすの甘酢がらめは、鶏肉の食感となすのとろとろさが混ざってお箸が進む。お酒だってイケちゃう味で、満足度が高い。
ライカンさんはこれもきっと、落ち着いた声色で「相変わらず素晴らしいお味ですね。いえ、ますます腕に磨きが掛かったのではありませんか?」なんて褒めてくれるんだろう。
そのことに一抹のほろ苦さを感じながら、私とリンちゃんの夜は更けていった。
「……だ、そうだよ?」
「……」
アキラにお裾分けされたサヤの手料理を前に、ライカンは珍しく渋面を作った。この素晴らしい味が自分のために作られたわけではないことに、憤懣やるかたない気持ちになったからだ。
態度には出ないが、リナに手料理を出されたときのような悩ましげなため息は、第三者が彼の心情を推し量るには充分だった。
ノックノックでアキラから連絡が来たと思えば、『ライカンさんは今日ウチに来た方がいいと思うんだ。きっと良いことがあるから』などという曖昧な言葉で。
信頼に足る人だと思って足を運べば、自分の好意が想い人に全く届いてなかったことを突きつけられ、愕然とした。
その上、アキラにと渡された手料理の数々はいつにも増して美味。ますます腕に磨きが掛かったのでは、と味わってると、隣室からは当人から不穏な言葉が出るわ出るわ。
サヤの好意は感じていたものの、悠長に長期戦の構えを取っていたらこの有り様だ。ライカンは深く反省した。
アキラは相当耳をそばだてないと聞こえないし、聞こえても全てを正確に聞き取れるわけでもない。
それでも、酒が入り少し声量の大きくなったサヤがライカンへの想いを悩んで唸る声はよく聞こえた。家具の配置上、アキラの部屋と接する壁に向かって話すことになるからだろう。
ライカンは耳を小さく動かしながら、もう一度息をついた。深呼吸だった。
「アキラ様。今宵お呼びいただき誠にありがとうございました。大変勉強になりました」
「そうかい? このまま相談に乗る必要はなさそうかな?」
「……ええ。まずは自分の力のみで手を尽くしたいと考えておりますので。既にあなた様のお力をお借りしてはいるのですが……」
「わかるよ。好きな女性とのことに、あまり他の人間を入れるのは良い気分じゃないだろう。僕も、無闇に首を突っ込みたいわけじゃないからね」
穏やかに微笑みながら、アキラもまた箸を置く。
「今日の所はこれで失礼致します。お礼はまた後日、改めて」
「いい話が聞けるのを楽しみにしているよ」
「はい。必ず」
男たちの会話など知るよしもないサヤが、ライカンからのアプローチに心臓がもたないと再び泣きついてきたのは、この一週間後のことだった。
2025/10/25 UP
メッセージは文字まで、同一IPアドレスからの送信は一日回まで