À coups de knock
今日は狛野くんの家でアオくんとツキちゃんを見ることになっている。報酬は狛野くんの手料理だ。なんなら一緒に晩ご飯を食べるのだって報酬に相応しい。
午前中の短時間配達バイトを終えて、澄輝坪(ちょうきへい)のティンズ・コーヒーでお気に入りの一杯をもらう。一旦アパートに戻って身支度をし直そうとウキウキでスカイウォークを歩いていると、頭一つ分どころか、二つ分くらいある立派な上背を見かけて足を止めた。
『狛野くん!』
そう言って呼びかけようとした言葉は喉を震わせることなく頭の中にこだまする。
中途半端に上げた右手を、そっと欄干へ置いた。
賑わう街で大声を出すことを躊躇ったわけじゃない。
視線の先には、いつも穏やかな顔をしている彼が、企業アカデミーの同級生の女の子と気安くやりとりをして、くるくると表情を変えているのが見えたから。
からかうような、悪戯っぽい笑顔が魅力的な子。
その子に何を言われたのか、狛野くんは真っ赤になって、けれど決して、例え真似であっても粗暴な仕草なんてしないで、彼女に何かを言い返していた。
(――あー、これ私、振られたかも)
彼のことを素敵な男の子だなぁ、と思ったのは、結構前で。
それというのもラマニアンホロウで輝嶺石(こうれいせき)の採掘のため、臨時アルバイトで参加したときに出会ったのが彼だった。
見た目で遠巻きにされてはいたものの、インターンで来たという彼の仕事ぶりは誠実そのもので。
なんなら、ちょっとミスって怪我しそうだったところを助けてもらったことまであった。
割のいいバイトだったけど、なにせ体力仕事だし、危ないからそれ以来募集があっても参加は見送っているのだけれど……狛野くんとの縁は切れなかった。
お互いアルバイターとして情報を共有することになり、ノックノックを交換して……。
きっかけは、なんだったかな。
街で見かける度に声を掛けてくれたり、バイクの話をしたり、ひょんなことから弟妹がいる話を聞いて、バイトに家族の時間に、って、全然勉強する時間がないじゃない! ってなって……ちょっとだけ勉強を見るようになって。
それでお礼に晩ご飯をご馳走されるようになって、まあ、元々感じのいい子だなと思っているうちに、あれよあれよと気になる人になっておりましたとさ。
(そしてたったいま、脈なしなのを突きつけられちゃった)
澄輝坪は人との繋がりが強い街だ。お金では買えない仕事や、時間の使い方がある。
そんな中で、私と狛野くんみたいな関係はそこまで珍しくない。なんなら、彼の弟妹たちだって身を寄せ合っているという意味では同じなのだ。
郊外の走り屋たちみたいなワイルドな格好をしていても、彼の良さは損なわれない。実際、同い年の女の子でさえ気づいているのだ。
そこまで接点のない私だって、年下の男の子にこんな風にどきどきしているのだから――彼ともっと時間を共にしている子なら、きっと……
「タマキさん?」
「!」
ぼうっとしていたら、急に想っていた相手の声が直ぐ近くで聞こえて飛び上がってしまった。
「わ、狛野くん」
「どうしたんスか? なんか、元気ねぇみたいッスけど……具合でも悪いとか……」
背を丸めて顔を近づけてくる彼にドキドキしつつ、そんな見るからに落ち込んでたかなあと気を取り直す。
「なんでもないの。ちょっと……失恋というか」
「へ」
「いや~ 距離感近い女の子と連れ立って歩いているのを見ちゃってさあ」
ははは、とへらへらしながら、ティンさんの珈琲に口をつける。……うーん、ぬるい。ぼうっとしててしくじったな。
敢えて散り散りになる意識をそのままに、意を決して狛野くんの顔を窺おうと目線を上げる。……と、なんだか難しそうな顔をする彼が目に飛び込んだ。
「彼氏スか?」
「違うよ。ただの片思い」
欄干に体重を預けながら答える。まるで風よけになるみたいに狛野くんが立つ位置を微調整するものだから、いっそ笑えてきた。
「優しい人だから、勘違いしちゃったみたい。彼にとって特別でもなんでもなかったの」
中々できることじゃない。褒められるべきだ。美徳だ。
けれどそれが恋心をずたずたに引き裂くこともある。
自認として狛野くんは自分が優しいタイプだとは思ってない。だからきっとピンとくることはないはずだ。
ちょっとだけ心の中で詰って、
「……でも、素敵な人だもん。そりゃ色んな人が好きになるのは当然かあ」
決してこの恋が嫌になることはない。
そんな気持ちを込めて、彼に言葉を投げた。
「だから諦めちまうって?」
「そうだねえ。元々歳もちょっと離れてたし……私じゃ釣り合わないよねって、思ってた。
一緒にいた子は可愛いし、年回りだって近くて、お似合いだったよ。彼も私が見たことない顔してたしね」
この気持ちがバレてなくて本当に良かった。
バレた上で振られたなら、側にいるという選択肢は消える。消さなくちゃいけない。
「……タマキさんでもそんな風に思うんスね」
「えぇ? どういう意味よ」
「いや、なんつーか……意外っつーか。なんつーんでしたっけ、自己肯定感? そういうのあると思ってたんで……」
「まあ、別に今の自分が恥ずかしいとかじゃないからね。ただ……前途有望な若者に悪い影響があると困るじゃん? 大人としては看過できないって言うか……」
「はあ? そんなフンベツもねぇ位のガキなんスか、そいつは」
「え? いや、そんなことはないと思うよ。立派に働いてるし。……狛野くん、なんか怒ってる?」
「タマキさんに対してじゃねぇんで」
「それは……伝わってるけど」
狛野くんが怒るようなこと今の流れであったかな?
考えてみるけど、特にないはずという結論に落ち着く。
「タマキさんが惚れるくらいだ。そりゃあそいつは一端の野郎なんでしょうよ。けど、数人の異性に粉かけてるような軟派な奴に、タマキさんが自分を下げる必要はねぇッス」
そういう話だったっけ?
「いや、狛野くん。だから、ただ私が片思いしてただけで……別に恋人とか、明らかに両思いだったよねみたいな関係じゃないんだって」
「だとしても、タマキさんからいけねぇくらいにゃ、ぶつかり甲斐のねぇ男ってことだ」
いや、そうじゃ……そうなの?
どうやら狛野くんの中で、私の想い人は随分と悪い男になってしまったみたいだ。
私のために怒ってくれてるのが分かってつい嬉しくなっていると、ふと狛野くんの眼孔が鋭くなった。
彼の背筋がピンと伸びて、つられて私の顔も上がる。
「……ジブンも、人のこと言えねぇッスけど。でも、そいつより絶対、タマキさんの良い所知ってると思うッス」
「ふぇ?」
「オレにとっちゃ、タマキさんは特別なんスよ。だから、応援なんてできねぇけど……早く元気になって欲しいッス」
「え? まっ、え、ちょ、え、え???」
背が高い狛野くんと立って話すときは、ずっと上を向いているのが辛くなって、目線が下がることも多い。普段は自然と座ったり、階段の段差で身長を調節したりしているのだけれど、今はそれもできない。
こんなタイミングで俯けなかった。だって、私が彼を拒絶しただなんて思われたら困る。
だから、私は赤くなっていく顔を隠すことはできなくて。
狛野くんは、真剣な目で私を見ていて。
「……タマキさん?」
彼の顔がちょっと赤くなる。それはきっと、私が真っ赤な顔をしているからで。
「……こ、コマノクンノコトナンデスケドモ……」
「……え?」
私がかろうじて絞り出した言葉に狛野くんも真っ赤になるまで、3秒もなかった。
******
「納得いかねえッス」
「……」
お互い時間があることを確認して、ちょっとあたたかいものを飲み直そうと喫茶店に腰を落ち着ける。元々狛野くん家で勉強を見る約束だったけれど、こっちの方が大事な話なんでと押し切られてしまった。
そこで、ちょっと緊張が解れたのを皮切りに、狛野くんが不満を漏らした。
「オレ、そんな女にちょっかいかける奴だと思われてたんスか」
「違うよ。誰にでも優しいって言ったじゃん。実際、さっきも可愛い女の子と歩いてて、なんかからかわれて、顔赤くして照れてたし」
「あれは……っ」
狛野くんが言葉に詰まる。
けれど、私がさっきまで彼を諦めようとしていたことを鑑みてか、少しの後、視線をそらしつつも詳細を教えてくれた。
「あいつは……ダチなんスけど、オレがタマキさんのことが、その、特別だってのがバレちまってて……今日はタマキさんが家にくるんで、からかわれちまって」
「なるほど」
そこを私が見かけて誤解したと。
そんな綺麗に誤解するもんなんだなあと最早他人事めいた感想がでる。
狛野くんは照れからか、がしがしと頭をかいた。かわいい。
「まだあるッスよ。なんで元から諦める予定だったみてぇな言い方だったんスか」
「……だって……ただの隣人とか、家族みたいな気持ちじゃなかったから……。キスしたり、それ以上だって……考えるような、気持ちで、だから、よこしまな下心があって」
「後ろめたかったってワケか……はあ~……ギリギリ間に合って良かったっつーべきか」
「こ、狛野くんこそ……その割に、私の片思いを応援するとかどうとか……『オレにしとけ』みたいには言わなかったじゃない」
「そんな恥ずかしい台詞言えるわけねーって! それに……オレよりずっと大人なタマキさんが好きになった相手なんだ。よっぽどのクズでもなけりゃ、ジブンこそ敵うワケねぇ相手に決まってる」
なんだか物凄く高く評価されている。
「そんなに?」
「そうッスよ。落ち着いてて、冷静で。人の話聞かねぇで突っ走っていくこともなくて」
「ハードルが低いだけな気がするけど……」
「なんかタマキさんといると、すげえ安心するっつーか。居心地いいんス。だからもっと一緒に居たくなるっつーか……」
ぽんぽんと狛野くんの口からとんでもない言葉が飛び出してくる。
それに恥ずかしくも嬉しく思いつつ、卑怯な自分が顔を出した。
「ね、ね」
「?」
「……もう誤解したくないから、できればもっとはっきりした言葉が欲しい」
「! そりゃ、」
狛野くんの優しさにつけ込んでいる自覚はある。でも、彼がそんなことしないって分かっていても、これは譲れそうになかった。
「……んんっ」
握りこぶしを口元に当てて、狛野くんが咳払いをする。
「タマキさんが好きだ。家族扱いすんなら姉弟じゃなくて、夫婦希望ッス」
真剣に私を見てそう言ってくれるのを目の当たりにして、気づけば何度も頷いていた。
「ありがとう。私も……狛野くんが好き。恋人からお試ししてくれる?」
私の返事に、狛野くんも勿論ッス、と照れくさそうに笑ってくれた。
結局勉強所ではない空気だったのもあって、ご飯だけ一緒に食べて家に帰ることになった。
狛野くん家を後にする頃には、とっぷりと日が暮れていて。
危ないからと送ってもらうことになった。――きっとお互い、二人の時間がもう少し欲しかった。
そうは言ったって、長くない道のりではあっという間で、私が借りているアパートまで直ぐについてしまう。
「じゃあ、わざわざ家の前まで送ってくれてありがとう……」
2階の部屋の前まで来て振り向きざまにお礼を言おうとすると、狛野くんの腕の中に引き寄せられた。
突然のことで頭が真っ白になったけれど、直ぐに腕の力は緩くなって、どちらともなく視線が絡み合う。
徐々に顔の距離が近くなり……唇が触れ合う。唇の柔らかさにくらくらした。頭の後ろまで熱くなって、火を噴いてしまいそうだった。
どれだけの間そうしていただろう。
ちゅ、と唇が名残惜しそうな音を立てて離れていく。
「……今日はこれで」
「う、うん……」
「扉閉めて、すぐ鍵掛けるんスよ。じゃなきゃ、オレがなんかしちまっても文句はきけねぇんで」
そう言いながら、狛野くんが見守る前で玄関のドアに鍵を掛けた。……冗談……じゃないんだろうな。
逞しい胸板の感触を思い出してしまって、直ぐに振り払う。
ドキドキしながら、チェーンをかけて、そっと鍵を開けた。こっそりとドアの隙間からその背を見送る。階段の手前で狛野くんが振り返って、腕を振り上げてみせた。
「こら。鍵掛けろっつったろ」
小さくも強い声で窘められて、手を振りながら今度こそ施錠する。
ふさふさの尻尾が彼の後ろで落ち着きなく揺れているのが、いつまでも頭から離れなかった。
*knock knock*
「うん? あ、狛野くんだ」
『念押しで言っとくッスけど、夫婦希望ってハナシ
あれ、ジブンは本気なんで。
今度から冗談でもウチに泊まりたいなんて言おうモンなら……オレ、冗談になんかさせねぇから。覚えといてください』
「……えええぇ……」
『アオとツキにテキトーに返事してっと、後悔しますよ』
うそ、狛野くんってこんなキメ台詞持ってたの? 対面のときはあんな恥ずかしがってたのに??
……なんだか、悔しい。かっこよくって、ずるい。
押せ押せな彼にちょっとでも負けたくなくて、恥ずかしさを押し込めてたぷたぷとスマホの画面を押す。
『じゃあ私が泊まりたいとか、帰りたくないって言った時は、ちゃんとホンキで受け止めてよね』
今日は沢山狛野くんに頑張ってもらったから、明け透けな言葉を返す。
少し間をおいてから、返事がきた。
『その返事、マジでズリぃ』
「ふふ」
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次に会うのがもう恋しいなんて、まだ彼にはバレたくない。
2025/10/22 UP
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