1, 2, 3, FOR, YOU!

 あの子の存在を知ったのはもう随分前だったと思う。
 自分の中で不動の哲学を持ち、自らの考えの通りに行動し高みへと登っていく。
 一瞬、人間ではないのかとさえ思えるほど――それはつまり一般に言う、神への『傲り』のようなそれを、あの子は許されていたのだと了解したくらいに――神々しく見えた。
 小細工など必要ない。あの子には上を見上げて、凛と張った空気を従えているのが似合うと、思った。
 我ながら詩的で呆れるほどに、あの子は人間らしすぎて、それを超越してしまっていた。
「や、原田少年」
「……誰」
「絵描き」
 野球帰りの少年達を引き留め、手を挙げた。
「なんじゃ、絵描きちゅうたら……」
「御察しの通り」
 少年の一人が名を挙げようとして、それを止めた。
 名を名乗れと真っ直ぐに見つめてくる原田少年は、嫌になるほど世間を知らない目で睨んできた。
 この子の瞳の奥底には、何がひそんでいるのだろう。
 のぞき込めば、見える気がした。駄目だ、この子と相対する時はどうにも詩人になってしまう。
「なんじゃー見つめ合って」
「ええのう原田ぁ」
 野次を飛ばす少年達は、原田少年が睨みを利かすのも利かずに笑いあった。こちらもチャリンコになってはいるが、少年達の方が矢張り体格が良い。
「悪いね。ま、名も無き絵描きというのも悪くはないでしょ」
 笑ってみると、原田少年はすんともしなかった。ただ具にこちらを監察していた。
「……訛りがない」
「君もね」
 にこ、と笑う。原田少年の質問はこちらの出身を訊いたつもりだったのだろう。しかし疑問系でもないそれに、嫌味な子ども相手に丁寧に答えてあげるほどいい人ではないのだ。
「お姉ちゃんなんか臭くない?」
「ん?絵の具の匂いだよ」
「絵の具?でもお父さんの絵の具はそんな匂いせえへんよ」
「お姉さんのは油絵の具って言うものなの。興味あるなら来ても良いよ。神社の近くのぼろっちい一軒家だから」
「あそこなんか。酷いこと荒れとったけどなぁ」
「そこはお姉さん頑張って掃除したんだよ。元は父方の実家だったんだ」
「なるほど、帰る時は原田と一緒じゃ!」
 少年達は一緒コールをして原田少年をからかおうとしたが、五月蝿いの一言で吐き捨てられていた。
 ふと見ると、真っ先に匂いに気付いた幼い少年が、こちらを見上げていた。
「どうかした?」
「ん……。ぼくもあのおうち見たんじゃ。冬寒くないん?」
「あはは、寒いけど慣れてるから」
 笑うと、幼い少年は顔を輝かせて
「じゃぁぼくんち来て!あったかいから」
「こら青波!初対面に向かって気安く声を掛けるな」
「えー、だって兄ちゃんもあのおうち見たじゃろ?」
 暫く会話を訊いていたけれど、どうにも、堪えきれなくなって吹き出した。
「青波君、か。お誘いありがとう。でもお兄ちゃんの言うことは聞いておいた方が良いよ」
「なんで?」
「んー…例えば、お姉ちゃんは人恋しくなってそのまま家に居着いちゃうかも知れないからねぇ」
 げ、と。原田少年の顔が険しくなった。一方青波君と言えば単純に嬉しがっている。余りにも素直すぎる反応に笑いが堪えられなくなった。
 原田送ってやれよーと言う他の少年達の声を聞きながら、暫く笑いが収まらなかった。
 ようやく収まった頃には原田少年と青波君と、永倉少年しか居なかった。
「やーいいね、少年は。特に君ら、素直だね」
「……」
 むすりと黙り込んだ原田少年は、帰るんで、と声を振った。
「え、送ってくれるんでしょ」
「……」
「……」
「……」
「……永倉少年は送ってくれるね?」
「え?あ、はい」
 ぼけっとしていた永倉少年を捕まえて、私は一息ついた。
「セーフ。誰もいない田舎道で年頃の女が一人なんてどうなっちゃうやらで」
「……大丈夫だと思うけど」
「何か言った、原田少年」
「まあまあ……。あの、もしかして俺らを待っとったわけですか?わざと?」
 永倉少年に訊かれ、曖昧に頷いた。
「一番はまぁ、人恋しかったんだろーね」
 ほら、子どもが一番直ぐに懐いてくれるからさ?
「……」
「……」
 後日、原田少年は律儀にもやってきた。キャップを被り、スポーツウェアを着ている。ランニングでもしていたのだろうか?珍しく息が乱れていた。珍しく、と言うのはずっと彼らを見ていたからだ。ずっと描いてみたかった。……否、欲しかったんだ。
 被写体が動いていると描けるものも描けなくなってしまいそうで、だからいつか機会があればあの張りつめた空気を持つこの少年を切り取りたかった。この世界から額の中に生きたまま閉じこめて、自分のものにしてしまいたいと。馬鹿げたことを思ってしまうほどに。
「……上がりな。暖かいものを出してあげよう」
「……いえ」
 息を整えていた原田少年に投げかけると、原田少年は鋭い目つきのままこちらを見た。原田少年の方が背が高いと、改めて思った。
「……絵」
「え?」
「絵。描いてないんですか」
 原田少年の問いに、倉庫に置いてあるよと答える。今日はお茶を飲みながらのんびり過ごしていたところだった。
「……おじゃまし」
「すとーっぷ。せっかく来てくれたし、やっぱり何かお持て成しするよ」
「っ」
 身をよじって引き返そうとした少年の腕を、思わず掴んでいた。原田少年は怒ったように手を振り払って、こちらを睨んだ。
 思わず構えたものの、右腕に左手を添えている原田少年を見て、大体の察しはついた。思い当たるならそれは……この子は、神童かと思うほどに気高いと言うことだ。
「――…不用意だったね。謝る。御免」
「……いいですよ別に」
「良くないよ。原田少年には嫌われたくないから」
 ぷに、と原田少年のホッペを突くと、今度は呆れたように私を見る目と逢った。おおよそ何を言うんだ目の前の奴はとでも言いたそうに。
「……なんて、本当はずっと前から君を描きたいと思っているからだよ」
「……」
「絵描き特有の、独占欲にも似た感情だね。こんなのは……自分一人だけなのかも知れないけど」
 言うと、原田少年は何かを言いたそうに口を開けた。けれどそれは何の音も発しないまま、閉じた。
「寒くなってきたね、やっぱり何か暖かいもの淹れるよ」
 自分の所為でもそれを棚に上げて、原田少年を誘った。
「心配せずとも、取って喰いやしないよ、そこまで飢えてないからね」
 原田少年が言いたいことはそう言うことではなさそうだったけれど、無視した。所詮口で言わなければ何も分からないから。
「本当にいいですよ。腹に入れるとペースが乱れるんで」
「……そう?お菓子とかも?」
「遠慮しときます。家で母が夕食の準備もしているから。それより……もう少し気をつけた方が良いんじゃないですか」
「ん?」
「女一人ならもう少し敏感でも良いと思います。……じゃ」
「あ……」
 原田少年はこちらに一瞥をくれてから走り去った。……絵を見に来たんだろうか、それとも気まぐれ?
 どちらにしても今日はとても幸せな日だ。自然と笑みがこぼれた。
「今度は青波君と一緒に来なよ」
 去っていく背中に声を投げると、何も言わないまま少年の足音は消えて、やがて視界からも出ていった。

******

「あ、やあ原田少年」
 幾日経ったか――ともすればそれは記憶から抜け落ちそうなほど――長い間、少年達とは会えなくなっていた。会いに行けばいるだろう。しかしそれを躊躇っている自分がいることを、承知していた。
 そんな折りだった。神社で写生をしていると原田少年と出会した。学校へ行く途中なのだろうか、学ラン姿だった。
 黒衣に包まれて見栄えは若干変わった感じもしたが、根本の少年の目は鋭いままだった。けれど、何故か顔つきは穏やかだった。
 そう言えば、あれから本当にどのくらい経ったのだろう?
「……お久しぶりです」
「久しぶり。学生は大変だね」
 笑いかけると、原田少年は曖昧な表情をして、それから急ぐのでと去っていった。その後ろ姿を身ながらふと思う。何か、あったな。それはもしかすると、彼自身からすると気持ちの良いものではないかも知れない。けれどまるで高嶺の花のように他を寄せ付けなかった、あるいはそうせざるを得なかった状況が一変して、彼が人間であることを許されたのだろうと、ふと想像する。
「……あー、駄目だ」
 顔を思い切り歪めて、髪をぐちゃ、と手で握った。本当に、彼は目を引く。一人の女を詩人にしてしまうほどに。まるで恋のようだ。恋をしているのかも知れない。そうだ、恋をするのに似ていた。あるいはもしかすると、同じなのかも知れない。
 突き詰めると、笑いが込み上げてきて止められなくなった。どうにも、学校が別々になって見かけなくなった想い人をつい見つけたような気分だった。
 一度家まで戻り、直ぐに境内に戻る。絵の具を側に置いてキャンパスをたてた。
 木漏れ日の中にいる彼を描こう。眩しい中にそびえるシルエットの中に、階段を下った先で目を細めてこちらを見上げる彼を。
 描きだしてから随分経った。既に辺りは薄暗く、絵を描く筆はとうに洗って、何もかも片付け、階段の一番下に座っていた。鬱蒼とした暑さはどこへか去って行き、今では蛙のけたたましい鳴き声がする。
 携帯を見ると時間は七時を回っていた。そういや、青波君に鍋を共に囲もうと誘われたことがあった。あれからもう、半年以上経っているのかと思うと、変な気がした。
「ぁ」
 ついぞ聞いたことのない様な、掠れた声だった。原田少年だった。
「や、原田少年」
 片手を挙げて挨拶すると、原田少年は矢張り何か煮え切らないような顔をした。そう思ったのはこちらだけなのかも知れない。
 兎に角、原田少年は何をしているのかと問うてきた。
「君が描きたくなったよ」
 言うと、原田少年は暫く黙って、送りますと声を掛けてきた。全く、人というものは変わるものなのだと思い知った。
 道中、余り会話はなかった。ただ蛙の鳴き声が、静寂に耳が痛くなるのを緩和していた。
「……意外に、俺を待ってたりとか」
 ぼそりと呟かれた言葉に、笑った。
「かもね。もう原田少年なんて呼べないね。立派な男の子だ」
「……少年と男の子の違いは何ですか」
「気分によって違います。……今度からはなんて呼ばせて貰おうかな。たくちゃん?」
「嫌ですよ」
「わぁかってるって。巧君。良いよね、なんか不愉快とかある?」
「それで良いですよ」
 いつまでも原田じゃ、俺ん家全員原田なんですから分かりづらいでしょう。
 巧君は言って、そうだね、とそれに頷いた。
「俺も」
「?」
「名前、教えて下さい。俺、あんたの名前、まだ知らない」
 巧君は歩きながら、視線はこちらへは向けずにそう尋ねてきた。そうだっけ、と言うと、そうですよと答えた。
「お母さんとかに訊いてないの?」
「名前は本人が名乗るものじゃないんですか」
「うはあ、それ言うと巧君だって名乗ってないよね」
「知ってたじゃないですか。いかにも知り合いみたく呼んでたし」
 巧君は言って、それから、わざと間を空けて名を告げた。
「これから名も無き絵描きは、巧君の中でどういう風に呼ばれるのでしょう?」
 訊くと、
「……なんて呼んで欲しいですか?」
 少しばかり挑戦的な目が、私の心の中で大胆不敵に居座っていた。

2006/01/07 : UP