憂鬱な雨の日は
憂鬱な雨の日は
「……あ、都センパイ?」朝の校舎の中だった。鬱陶しいくらいの湿度に嫌になりながら髪をアップでまとめた後くらいだった。今にも雨が降りそうな空。僅かに世界は薄い黄色のセロファンを掛けたみたいに見えて、確実に降るなと思って居た時だった。
声を掛けられ、記憶にないそれに眉をひそめる。もう一度都センパイ……ですよね、と不安そうな声があって、私はその声に見当をつけた。名を呼べば、恐らくあの人懐こい感じのする笑顔が見られることだろう。
「サカチじゃん」
出会いは中学の時だ。シニアをやっていたサカチは部活動には参加していなかった。私はその時美術部なんかに入っちゃったりして、ついでに言えば図書部長なんてモノをやっちゃったりしていた。
サカチは昼休みにたまに図書室に来るくらいの、それなりの常連とか言う奴で、馬鹿みたいに図書室の空気が好きだった私は当然、その姿を何度も目撃していた。ちなみに図書室の空気は今でも好きだ。
たまたまサカチがとある本を借りようとして、それが源氏物語だったりしたときは驚いた。現代語訳が付いたものだったけど、サカチは古文が好きなようだった。またある時は奥の細道だとか、小倉百人一首なんてものを借りていた。その時、なんだか良いなぁと思ったのを覚えている。
話し掛けたのは三年に上がった直後くらいだった。サカチが取った本の表紙を見て、私が声を上げたのだ。サカチは私の方を見て、驚いたように目を見開いた。ごめん、何でもないですと何故か敬語で謝ったのも覚えている。アレは結構恥ずかしかった。
サカチはこれ、読むんですか、と聞いてきた。素直にうんと頷いた辺り私は凄く正直者だと思う。サカチはじゃぁ先にどうぞ、とその本を私に渡してくれた。
君もこの人好きなの?と聞くと、サカチはこれからですと言って、はにかみ笑い。これが初めての会話だった。
それから済し崩しに図書室で会うようになって、なんか雰囲気で話したりした。なんとなく栄口君と呼ぶにはちょっと仲のいい気がして、でも名前で呼ぶと要らぬ誤解を受けたりして、中学生なんて子どもだから、変な野次を飛ばされたりからかわれたりすると私は気にしないけどサカチに迷惑かなと思ってあだ名のつもりでサカチって呼んでも良い、と聞いた。良いですよとにっこり笑ったときのサカチはとっても可愛かった。やあまあ別にそれだけの関係だったけど、まさかサカチが西浦に来るとは思ってなかった。聞くところによると野球部に入ったとか。シニアやってたもんねなんて久しぶりの会話に、ちょっと男の子になったサカチはハイと答えた。
「都センパイ、図書委員やってるんですか?とれとも、美術部とか」
「あー…美術は入ってないよ。図書委員もやってないけど、図書室には大体入り浸ってる」
にししと笑うと、チャイムが鳴った。一限が始まる予鈴だ。偶然会ったのは廊下で、私達はそのまま別れた。朝から久しぶりに会話出来て、ちょっと一日が楽しくなるような気がした。
外は雨。校舎の中は湿気がまとわりついて生温い。
******
その日の放課後は酷い雨だった。途中止むかとも思われたけれど、酷くなった。私は図書室で一冊本を読み切って、どこからか校舎内でランニングしてるどこかのクラブの声を聞きながら、まったりしていた。
雨が降る日はどことなく視界が黄色く見えるから、傘は持ってきていた。親に頼んでかなり大きいものを買って貰ったから、殆ど濡れない。正直大きすぎたとも思ったが、友達と一緒に入れたりするので結果オーライとか言う奴だ。
図書室が閉まるのは五時半。完全下校は六時だ。まぁそれは飽くまで形式的なもので、六時以降練習やってるクラブもある。そう、野球部とかね。
流石にこの雨では外練出来ないだろうけど、サカチ頑張ってるのかなと思うと、想像出来なくて困った。そういや、サカチはいつも本を手に取ってるところとか、図書室にいる時くらいしか知らないからなあ。
暫く静かで、恐らくはクラブやってた人達は下校し始めたんだろう。不意に間延びしたチャイムの音が聞こえて、ひょっこり先生が現れた。閉めるから出ていってねーと急かす声。あーいと返事をして、カバンと傘を持って図書室を出た。そのまま昇降口まで行って、靴を履き替える。時計は五時四十五分を指していた。
傘を広げて、てろてろ歩く。ここから私の家までは大体二十分くらいかかる。今日は雨が降る気がしたから、チャリンコで学校行って、帰りは徒歩という計画だった。
だばだば降ってくる雨は、傘の骨がちょこっと出てるところからどぼどぼ滝みたいに垂れる。あれだ、赤ちゃんのベットの上にあるくるくる回るアレみたいな。あの、なんかいっぱい垂れてて、回ると飾りが揺れる奴。
傘をくるくる回しながら水たまりを避けていると、すぐ脇を誰かが走っていった。大きいカバン。リュックだ。……サカチじゃん!
「サカチ!」
思わず呼び止めると、サカチは真面目に止まってこっちを見た。ああ、そうこうしてる間にサカチ濡れちゃうよ!
「都センパイッ!?」
サカチの驚いた顔を見る頃には、私は小走りでサカチの側まで行って、傘を被せていた。
「こんなだだ降りの中傘さしてないなんて信じられない!風邪引くよ!」
傘忘れたんだろうけど、サカチの家って遠いじゃん。中学の時私と同じ校区だったんだから、家までは少なくとも私と同じくらいかかるはず。
「折角だし一緒に帰ろうよ」
「いいんですか?」
「余裕余裕。私の傘おっきいでしょ?ほら、サカチも入れてるじゃん?」
笑って言うと、サカチは照れたみたいに笑った。私が傘を持ってると、サカチはオレが持ちますよって言って、代わりに持ってくれた。私の手に覆い被さった手は熱くて、あー結構校門から遠い距離だし、心底濡れてるんだろうなと改めて思った。急がないと本気で風邪を引くかも知れないから、私はちょっと小走りで歩こうとしたけど、察したらしいサカチが、別にゆっくりでも良いですよって言った。駄目だよ!って言うとサカチはそれ以上何も言わなかった。
家についてすぐにサカチを家に上げて、バスタオルでくるむ。両親は共働きでこの時間は居ない。後一時間もすれば帰ってくるだろうけど。
「寒くない?寒いよね!お茶入れるから温まっていきなよ」
「そんな、良いですよ、ホント、そこまでしてもらうなんて」
きょどるサカチを余所に、私はテキパキとやかんをコンロにかけてお茶っ葉を急須に入れた。
「あ、そうだ、お風呂!身体暖めるならお風呂が一番良いよね!」
「せ、んぱいっ、マジで良いですからっ!」
「何言ってんの!」
まるで母親の如くお茶を入れてサカチに出すと、サカチはそれを素直に受け取ってくれたけど、風呂だけは頑なに拒んだ。ああだってもう、すっごく冷えてるに決まってるのに!
「都センパイ、風呂よりも傘借りられたら嬉しいです。あ、このタオルは洗って返しますから」
「……そう?大丈夫?冷えてるよ?」
「大丈夫です。有り難う御座います。……オレよりもセンパイこそ風邪引かないで下さいね」
苦笑したサカチはちょっと格好良く見えて、せめてお茶飲んでからにしてね、と思わず言ってしまったのは、引き留めたかったからなのかも知れない。
まぁ、その後直ぐに弟が帰ってきてサカチと私は変に言い訳とかしちゃうんだけど。
てすとまえのはなし
期末テストが近づいてきた日々のある日。昼休みにサカチが私の教室までやってきた。素直に驚いた。上の学年がはびこる廊下を歩くのはそれなりに勇気が要る。サカチも緊張してるみたいだ。
「どったの?」
それを承知で、わざと軽い調子で笑顔を見せた。サカチの緊張が、ちょっとでも解れると良いけど、と思いながら。
「や、あの、都センパイに聞きたいことがあるんスけど……」
わ、敬語が野球部の乗りだ!……というのは置いておいて。
「何?」
賑やかいクラスから出て、廊下に誘う。サカチはんっと、と前置きしてから、都センパイ数学とか得意な方ですか、と聞いてきた。まあ可もなく不可も無くって所かな、と答えると、サカチはそうですか、と頭をかいた。
「何か分からないところがあるとか?」
「はあ……まあ」
煮え切らない答えだったけど、サカチは出来たら教えて欲しいんですけど、と頼んできた。
「私は良いけど……サカチ、野球部でしょ。部活終わってからとか、辛くない?最近野球部凄い夜遅くまで練習やってるって聞くけど」
「あ、それは大丈夫です。寧ろ勉強やっとかないと部活出来ないんで、ちゃんとやんないと」
「そっか。……んー、取り敢えず今どこやってる?高一の範囲なら、教科書とかワークがあれば何とか教えてあげられると思う」
言うと、サカチは嬉しそうな顔をした。
「……あ、でも都センパイも勉強ありますよね」
「んー、授業聞いてたらある程度は把握しちゃうでしょ。あんまりテスト勉強ってガリガリやらないタイプだから。私」
にし、と笑うと、サカチは凄いですねと目をクリクリ動かした。凄くなんて無いよぉ、ノートとってるだけでも大分頭に入ってくるものだよ?確認プリントとか配ってくれる教科とかなんてそれメインにやったら平均は確実だし、と謙遜してみると、なんだか更に凄いと言われて困った。だってクラスメイトとかはそんな私をむきぃ頭の良い奴は!とかって言うから……!こんな直球に褒められるのって凄く照れる!
「そんな綺麗な目で見ないでサカチ……!」
眩しい、と冗談めかして手で目元を覆う。それからがばりと顔を上げて、で、今回の範囲は、と聞いた。
「あっと、平方根……というか根号と一次の方程式と不等式、あと二次方程式までです」
「ふーん……。その辺ならまだ私でも説明出来ると思う。サカチ、部活終わった後なら私の家に来なよ」
サカチは私の言葉を聞くと、驚いたみたいに目を開けた。良いんですか夜遅くにと聞いてくるものだから、余裕余裕と笑う。
「あ、サカチ携帯持ってる?」
「はい」
「んじゃ、メアド教えとくよ。部活で勉強出来そうにない日は連絡入れて?集中出来ないんじゃ、やっても無駄だしね。やろうと思える時間が一番頭に入ると思うから」
「有り難う御座います!」
「いえいえ、どういたしまして」
ぺこぺこ頭を下げてくるサカチはなんだかとても可愛い後輩で、思わず笑みがこぼれた。でも、サカチも男の子なんだよね。
「……そういやサカチ、彼女居ないの?居るなら一緒に勉強出来るでしょ」
「え」
サカチの表情が凍る。それから直ぐに、落ち込んだように居たらいいですねと溜め息。サカチなら出来るよサカチ優しいし!っていうと、サカチは顔を赤くした。そのままの顔で都センパイこそ彼氏居ないんですかと、サカチは照れながら怒ったように聞いてきた。そんな風に言ったって可愛さが増すだけだというのに。
「居たら無闇に男の子を家に上げたりしないよぉ!そこまで無防備じゃないもん」
「や、夜遅くに男上げてる時点で十分無防備ですって」
「そうかな」
「そうですよ」
サカチは苦笑して、それからご指導よろしくお願いしますと頭を下げて、廊下を歩き出した。私はそれを引き留めて、サカチを手招きして呼び寄せた。不思議そうな顔のサカチに耳貸してと言って、
「でも、サカチのことはちゃんと男の子だと思ってるからね?」
ちょっとからかいを含んだ笑みを交えて言うと、サカチは今度こそ耳まで真っ赤にしてきょどった。
「せ、せんぱ」
「はいはい。そろそろ私の友達とかが好奇心で覗き見してると思うから、素直に帰ってね」
「わ」
サカチの背中をぐいと押して、今度こそサカチは歩き出した。案の定窓から私のよく知った顔が幾つも並んでいる。出歯亀ーズめ、と言うと、彼氏?と聞く思春期特有の話題を振られた。
私はちょっと間を置いてから口を開ける。
「そうなるといいなあ」
月の出る夜に
「そういやサカチ、弟居るんだって?」サカチが私の家に来て勉強するようになって、暫く経った日だった。野球の練習でへろへろになりながら、サカチは必死に数学のワークと格闘している。差し入れ代わりにとケーキを差し入れすると、サカチはそれはもう幸せそうに顔を緩ませた。……うわ、なんか凄い餌付けしてる気がする。
美味しそうにケーキを頬張りながら、サカチはハイと頷いた。
「誰に聞いたんですか?」
「や、ちょっとね。居そうだなーと思ってたのと、ウチの弟が君の所の弟と仲良いらしくてさ」
「へえ、初耳ですけど……」
「でしょ。私も初めて聞いてさぁ。サカチの話はね、前からしてたんだけど。ほら、あだ名で呼んでるじゃん?だから分かんなかったみたい」
言うと、サカチはふぅんと相づちを打って、ぺろりとケーキを平らげてしまった。やっぱり男の子は食べるのが早い。
「すっげ、美味かったです」
「そ?……疲れてるから、甘いものが効いたのかも」
笑うと、サカチはまたワークを手元に引き寄せながら、
「あ、都センパイは食べないんですか?」
「いいよ、私のは何時でも食べられるから。……ていうか、遅い時間に食べると太るんだよね……。だから明日の朝食べる」
「朝から?」
「朝に甘いもの食べると良いんだよー」
へへえ、と笑うと、サカチはふぇぁ、とよく分からない言葉を出した。そうして、完全にワークに向かう。
「……」
……。こうしてサカチを見ていると、髪の毛ふわふわだなーと思う。なんて言うかこう、撫で繰り回したいって言うか……。ちょっと色素の薄いサカチの髪は凄く綺麗だ。よくよく見ると、まつげも長かった。いいなぁそういやまつげって男性ホルモンだっけくそーそういや弟も邪魔とか言ってまつげ抜いてたなーああムカツク!何で肌だってそんな綺麗なのかしら!
「……都センパイ」
「ん?なんか分かんないとこあった?」
「や、あの、顔、少し近いんですけど……」
「……。ああ!ごめん、思わず見とれてた!」
サカチは良い子だから、あからさまに顔をそらせなかったのか。
少し日の焼けた肌に、赤みが濃くなっていく。
「み、みとれ……?」
「うん。髪の毛ふわふわだなーとか、まつげ長いなーとか、肌綺麗だなーとか」
思ったことほとんどを言ってみると、何でそんなところ見てるんですか、とサカチは照れたように声を挙げた。……うーん、そんな照れた状態で言われても可愛いんだけど。
「や、……ところでサカチ、弟君もサカチに似てる?」
「え?あ、まぁ似てると言われたことはありますけど」
「……そっか」
「……どうしたんですか?」
「や、サカチに似てるんだったら、さぞや将来有望なのだろーかと」
「……」
「……」
「……そんなこと考えてたんスか」
「そんな事って!酷いサカチ!」
「酷くないですよ!あ、都センパイここ教えて下さい」
「あ、どこどこ?」
急に話を変えられたものの、元々は勉強を教えるためにサカチを呼んでいるので、話をそらすなとも言えずに話を聞いてしまう。うぬ、サカチも私のあしらい方を覚えてきたな?
「あ、ここはね――ここでマイナスは使えないから、もう一個マイナスを掛けてやってiを出して――……」
回答を見ながら何とか説明すると、サカチはじっと私の顔を見てた。何かついてる?と聞くと、ううんと首を振り。
「都センパイがオレに時間割いてくれるのって嬉しいかも、って」
それは一瞬、息をするのも忘れたほど。
へらり、とサカチは締まり無く、でも激烈に可愛く笑っちゃって。
全く、この子は!なんて可愛い子なんだろう!
「……そこはかもなわけですか」
「いえいえ、とっても嬉しいデス」
「よろしい」
何だか悔しくて、とてもそんなことは言葉には出せないのだけど。
にこにこと笑うサカチには、全てお見通しかも知れない。
2006/01/07 : UP