てのひら- A trifling matter -

 ここは、聖王都西域にある街、サイジェント。先日魔王召喚の儀式を執り行おうとした事件は秘密裏に始末され、細々と、あるべき姿へ戻ろうとしていました。
 管理側の立場であった城の内部ではいろいろと権力闘争が勃発し、現在もそれによって賄賂も含め、様々な汚職事件が暴露され、お金にまつわる膿が出ている真っ最中のようでした。
 でも、そんなことは、わたしには関係のないことです。管理職なんて言うのは、とても身分の高い人からでないとなることは出来ませんし、何よりも、わたしは、わたしの周りが、幸せであればよいと考えていますから。
 ただいつものように、サイジェント北部のスラムで、仕えるべき主人と共に、在ることが出来たら。わたしはそんな風に暮らせる日が来ることなんてとても想像出来ませんでしたが、今は、まさにそんな日々を送ることが出来て、嬉しいです。
 朝起きてお早う御座いますと挨拶をし、朝食を作ってそれを食べ、昼間ではなんやかやと家事をこなし、昼食を作りそれを食べ、昼を回ると買い出しに行ったりもし、そして、わたしは買い物の帰りに、ただいまと言って家に帰るのです。すると主は無愛想に、おう、と返事をして下さるのです。
 わたしは、そんな今がとても幸せです。

「バノッサさん、今日はフラットの方とお会いしましたよ」
「……何?」
 無骨な印象のテーブルに、たった今し方買ってきた品物を並べつつ、わたしは主に報告しました。少し前から、わたしはバノッサさんの護衛獣です。
 バノッサさんはもそりと台所として使っている部屋まで顔を出すと、少し不機嫌そうな声で席に着きました。
「誓約者とか」
「はい。あちらの方々に、丁度こちらへ行こうとしてらっしゃったみたいで。それで、こちらの品物を頂いていまいりました」
 こちらです、と頂いた品を見せると、バノッサさんは顔をしかめました。
 どうかなされましたか、と尋ねると、バノッサさんは、なんだこれはと仰いましたので、お裾分けだそうです、と私はそれに貼ってあったラップを取りました。丁度、もうすぐお夕飯の支度をするところなのです。良い品を頂きました。
 バノッサさんはわたしを見てから、わたしの頭に手を置きました。わたしはそのまま引き寄せられて、バノッサさんの脇に立ちました。
 つくづくあいつらもお人好しだなと、バノッサさんは呟きました。わたしはそうですねと返事をして、笑いました。
「……なんだ」
「いいえ、何でもありません」
 ふふと笑うと、バノッサさんはわたしの頭をかき回しました。わぁ、と声が漏れ、バノッサさんは部屋にいるとそこから出ていきました。
 ぼさぼさになった頭を直しながら、わたしは台所に立ちます。フラットの皆さんからのお裾分けは、美味しそうな"らーめん"でした。誓約者の方と、それから後、ガゼルさんにリプレさんがご丁寧に器ごと持ってきて下さったのです。それも、丁寧に三人分。わたしには浮遊移動の能力がありましたので、三つを浮かせて、持って帰ってきた次第です。それでも皆さんはわたしがその能力を使えることはご存じでしたので、そのまま表通りで別れてきました。

 北のスラムを中心としたオプテュスというはみ出しものの集団は、バノッサさんがフラットの方々に勝てなかったことで解散しました。バノッサさんは手下を失いましたが、わたしはこれでよかったのだと思います。
 今では、北のスラムは閑々としていて、解散した後の手下さん達は、殆どが悪さを働いて、投獄されたと聞きます。解散前まではバノッサさんの管轄でしたので、手を出しにくかったのでしょうね。
 でも、バノッサさんの命が狙われることもありませんし、わたしは、やっぱりこれで良いのだと思います。バノッサさんも魔王召喚に荷担したとされて投獄されたのですが、誓約者さん達の取り計らいで、こうして、北のスラムで過ごして行けることになったのです。
 それまでのバノッサさんは、荒んでいて、わたしは、そんな時のバノッサさんに拾われました。はぐれだったわたしを、バノッサさんは手下として側に置いて下さいました。そのご恩は、今でも到底、忘れることは出来ません。この世界の勝手も分からず、路地裏で細々と死にかかっていたわたし。バノッサさんは、わたしに死ぬのかと尋ねました。当時のわたしは答える気力もなかったのですが、バノッサさんは、そのままわたしをスラムへ連れて来て下さったのです。
 誓約者さんも、聞けば、はぐれだったそうです。バノッサさんは誓約者さんをはぐれ野郎と罵っていましたが、わたしもはぐれの身分だったので、あの事件が終わってから、誓約者さんをはぐれと呼ぶのはやめて欲しいと言いました。バノッサさんはそれを聞き入れて下さって、はぐれと呼びそうになると、誤魔化すようにわたしの頭を撫でて下さるようになりました。ただ、それはカノンさんという、長い間バノッサさんの側にいた方の、代わりなのかも知れません。カノンさんはあの事件で、命を落とされました。
「バノッサさぁん!夕食の準備が出来ましたよ~」
 あの事件の後、わたしたちは細々と暮らしています。わたし達は王室お抱えの騎士団の人々の監視の対象でもあるので、自由というものはないに等しいです。でも、腕には自信があるので、街の外に出て、かつてのオプテュスの残党を倒す代わりに、彼らからお金を巻き上げたり、彼らを騎士団に突き出して、その報酬を貰ったりして生活しています。自立した生活を送れるだけ、まだ良い方なのです。
「……お前、それ、カノンの分なのか?」
「はい」
 バノッサさんの問いかけに、わたしは答えました。バノッサさんは微妙そうな顔をしました。
「なにか?」
 尋ねると、バノッサさんは首を振って、席に着かれました。あの事件を思い起こしているのでしょうか、バノッサさんは無言です。わたしは、"らーめん"の前で手を合わせました。そしてそれを美味しく頂いて、食事を片付けます。カノンさんの分は、バノッサさんと分けて食べました。
 夕食を食べ終えた後は、バノッサさんの側で眠りにつきます。余り遅い時間まで起きている理由もないので。カノンさんがお亡くなりになってから、バノッサさんはわたしを布団の中へ引き入れるようになりました。
 バノッサさんの腕に抱かれながら、わたしはバノッサさんの顔を見ました。丁度窓から差し込んでくる月の光が、危なげにバノッサさんの顔を照らし出していました。
「……悪かったな」
 唐突に、バノッサさんはそう仰いました。わたしは、いいえと答えました。
「バノッサさんは何も悪くないですよ」
「違う」
 バノッサさんは、わたしをきつく抱きながら静かに答えました。
「お前は、カノンの代わりじゃねェ」
「……なんだ、気付いてらっしゃったんですか」
「俺様を馬鹿にしてンのか?……鈍いのはお前の方だぜ。俺様がお前を側に置いてやってるって意味がわからねェのか」
 バノッサさんは声を低くして、そう仰いました。わたしは、そんなことがあるはずがないと、首を振りました。
「わたしはカノンさんがいてくれたお陰で、バノッサさんが生きていらっしゃると、そう思っています。あの時まで、バノッサさんには、カノンさんしかいらっしゃらなかったでしょう。カノンさんがいてくれなかったら、バノッサさんはあのまま魔王となられていたはずです」
「……否定はしねェよ。だがな、今お前がいるお陰で、俺様が生きていられることを忘れてんじゃねェぞ」
「え?」
 バノッサさんの言葉が意外すぎて、わたしは目を見開きました。バノッサさんは、とてもあからさまな溜息をついてから
「今までの俺様はな、悔しいがあの誓約者の言葉通り、あいつを妬んでただけだった。その所為で、お前を見落としちまってたんだ」
「……」
「カノンを死なせちまってから、ようやくその事に気づけた。それを一番に気づかせたのは、ノエル、お前だ」
 そうして、バノッサさんはわたしの髪を梳きました。
「不意打ちなんて卑怯ですよぉ」
「あ?」
 もぞもぞとバノッサさんの腕の中に潜り込んで、わたしは呟きました。
「これ以上わたしを幸せにしないで下さい。わたしは今でも身に余るほど幸せなんです。いつか、壊れる日が怖くなります」
 何時までも続く幸せが、消える日が来るのを知っています。
 きっといつか、きっといつか、こんな幸せな時は消えてしまうのです。
「バノッサさんはカノンさんが一番だって仰っていればいいのですよ。そうすればわたしはもっと安定した幸せの中にいられましたのに。バノッサさんはわたしを幸せのてっぺんに置いて、脅えるわたしを苛めてらっしゃいます」
「……馬鹿野郎」
 呆れたような、バノッサさんの声が振ってきました。
「お前は、何時だって待ってるだけじゃねェか」
 バノッサさんはわたしの身体を少し離しました。わたしがバノッサさんを見ると、バノッサさんは泣きそうな顔してンなと、わたしを叱咤しました。
「壊れるのが怖けりゃ、お前がお前自身の手で守ればいい。それだけのことだろ」
「……」
 バノッサさんの声は、とても優しいものでした。これも、あの事件以後のことだと、わたしは知っています。バノッサさんは、優しくなって、ちょっと素直になられました。
 わたしは、わたしだけが、変わっていないのかも知れないです。
「俺様は、お前を誰に譲る気もねェからな」
「……はい」
 バノッサさんの言葉が嬉しくて、わたしはやっぱり幸せです。
 辛いことも、悲しいことも。あの事件の後からも無くなったりは、しません。ですが、バノッサさんの言葉が、わたしを生かしてくれていると思うのです。
 バノッサさんは、お変わりになったかと思いました。でも、違いましたね。バノッサさんは前から優しかったんです。わたしを拾って下さったあの時も、ずっと前から、きっと、そうだったに違いありません。ただ、わたしがバノッサさんの言うように鈍かったのですね。わたしがそんなバノッサさんを気付かないことで、わたしはまるでわたしが一人可哀想な者だと、悲劇の主人公を気取りたかっただけなのかも知れません。わたしは、元は外道召喚師と呼ばれる人間達に呼び出されたものですから、こき扱われ捨てられて、そんな哀れな自分に、酔っていたのかも知れません。本当は、わたしは哀れな存在ではないのだと、言ってくれたあなたが居たのに。
 哀れだから慈悲を下さいと、縋っていたわたし。
「わたしはこの先ずっと、バノッサさんのものです。だから、いつもお側に仕えさせて下さい」
 愚かなるはわたしだったのだと思うと、わたしは、実は心の中では、バノッサさんを見下していたのではないかと、急に自分が恥ずかしくなりました。そうです。馬鹿だったのは、わたしだったのです。
「――…泣くな」
 バノッサさんは、舌で、わたしの涙を舐めました。まるで動物がするみたいに、野性的に。
「ば、のっさ、さ、んん」
 バノッサさんの熱い舌が、わたしの頬と、目元を這って、わたしは身をよじりました。恥ずかしかったです。バノッサさんはそんなわたしに意地悪をするように、笑って、上半身を起こして壁にもたれ、わたしを抱きかかえました。
「誰が仕えさせるか。お前は俺様のモンだが――メシ作るのも、買い物に行くのも、金を稼ぐのも、強制した覚えはねェぜ」
「ですがっ……バノッサさんはわたしの恩人です……ッ。だからこれからも仕えさせて下さいッ!」
「嫌だ」
「バノッサさん!」
 悲鳴の様な声を上げると、バノッサさんは笑っていました。なんて意地悪な人だろうかと思います。
「お前が頼むから、嫌だ」
「…っ意地悪です……!」
「へッ、俺様の側にいたいなら意地でも居座るくらいでいろよ」
 バノッサさんは、そう言って笑いました。
「……バノッサさんには、頭が上がりませんよ」
「俺様に『仕える』なら却下だ。そんなうざってェモンはいらねェ。側にいたいってンなら不貞不貞しく居座ってろ。贔屓目に見られンのはごめんだ」
「あ……」
 びくりと、一瞬、何かを指摘された気がしました。そんな、つもりではなかったのに。
「んだぁ?図星指されて黙ってンのか」
「……っ……。バノッサさんはわたしの恩人なんです!あの時、バノッサさんがわたしを拾ってくれて、カノンさんと一緒に介抱して下さった時、わたしはとても幸せでした!!ゴミみたいに使われて捨てられたわたしを、わたしの頭を、バノッサさんは撫でて下さいました!」
「過去形か。……捨てる神ありゃ拾う神ありってのは、あいつの言葉だったな。お前、今幸せなのかよ」
「……幸せすぎて怖いって、先ほど申し上げたじゃないですか」
「あん?じゃぁ良いじゃねェかよ。……俺様だってそれなりに悪くないと思ってるんだしな」
「本当ですか」
「何度も言わせんな。……お前がせがめば、何度だって言ってやるけどよ」
 バノッサさんは、わたしの頭を撫でました。幸せでたまらないと言うのが、今であるというのは間違いありません。
「カノンのヤツのことは、もう済んじまったことだ」
 バノッサさんはそう仰いました。それは、まるでご自分に言い聞かせるような声でした。
「お前が居るから生きていける。俺様の側にいるのは、いられるのは、お前だけなんだぜ?もう一度聞くが、どういう意味が分かるな?」
「……幸せでおかしくなりそうです」
 恥ずかしくなり、バノッサさんの胸に頭を預けました。そうです。バノッサさんはもうずっと前から、わたしを側に置いて下さいました。対等に。
 バノッサさんの首に腕を回すと、バノッサさんはわたしの背に腕を回して下さいました。
「すみません。鈍くて」
「まったくだぜ」
「有り難う御座います」
「……礼を言われるたぁ、思わなかったな」
「わたしを待っていて下さって、有り難う御座います。バノッサさんはもうずっと前からそうしていらっしゃったのに、わたしが馬鹿なばかりに」
「気にすんな。俺様だって鈍かったんだからよ。お前にゃ負けるけどな」
「最後のは要りません」
 わたしはそう言ってバノッサさんに抱きつき直しました。
「……ずっとお側におります」
「たりめーだ、馬鹿野郎」
「野郎じゃないです」
「クソアマ」
「そんな汚い言葉を使ってはいけません」
「関係ねェだろ」
「あります。家族ですから」
 ドキドキと心臓を鳴らしながら、口にしたその単語は。しばらくの沈黙の後に、
「やっと言ったな。遅ェーよ、馬鹿が」
 バノッサさんの苦笑と共に、暖かい腕に包まれました。

 朝になれば、また、わたしはバノッサさんにお早う御座いますと挨拶をし、朝食を作ってそれを食べ、昼まではなんやかやと家事をこなし、昼食を作りそれを食べ、昼を回ると買い出しに行ったりもし、そして、わたしは買い物の帰りに、ただいまと言って家に帰るのです。するとバノッサさんはは無愛想に、おう、と返事をして下さいます。あるいは残党退治に出かけて労いの言葉を掛けて下さったりします。フラットの皆さんとばったり出会うこともあるでしょうし、ひょんな事から釣りをしたりするでしょう。夜になれば同じ布団で眠りにつき、わたしは暖かい腕の中で幸せをかみしめカノンさんを偲びます。そんな毎日を、大切に過ごします。
 わたしは、とても幸せです。

リクエスト企画:アヤナさまへ 2005/09/03 : UP