ある地味な日々に埋没した男子生徒のスペシャルデイ
「――危ない、退いて!」
放課後。例外なく部活が停止するテスト前。何の気無しに下校しようと階段を下りていた俺の背後から盛大な声が聞こえた。
振り向いたそこからは、まあ、なんというか、酷く映像がスローに映って――だって仕方がない、上から女子が降ってきたんだから――俺は当然のように、ほぼ反射でその身体を抱き留めた。
普段は全く、千石のように女子の身体に触れるなんてことはないものの、この時ばかりは致し方ないと思う。
変な気持ちはなかった。と言うか、下心なんて浮かぶ間もなかった。
咄嗟に抱きかかえた身体は酷く柔で、俺は振り向きざまに左手で階段の手すりを掴んで、右腕と俺自身の身体でその子の身体を支えたわけだけど、咄嗟にしては上出来なくらいだった。
「……大丈夫か?」
「あ、……り、がとう、東方君」
果たして、それがクラスメートの榎本だと気付くのに数秒。
「……榎本?」
「え?うん、榎本だけど」
いつもクラスの後ろで本を読んでいるイメージしか無い所為で、さっきの思いかけない大声と彼女のイメージが合わなかった。
女子にしては高くないけど、榎本の声は落ち着いていて耳に優しい。気がする。
教室の後ろとはつまるところ背が高いことを意味しているわけで、榎本の身長は女子にしては高い。他の子よりも頭一個分くらい高い。
「ごめんね、人避けようと思ったらバランス崩しちゃって」
「ああ、別に気にしないで良いけど……大丈夫か?」
何処にも怪我はないのかと、さっき答えが返ってこなかった所為もあるけど、もう一度聞く。榎本はうん、と頷いて
「っ!」
それが否定だと言うことを、彼女の態度でひしひしと感じた。
「……足、か。ひねってるな」
「や、でもそんなに痛くないけど」
「そんな事言って大事だったらダメだろ。榎本急いでるのか?」
「え、いや、そんなことは」
「じゃぁ保健室連行な」
連れてく、と言うと、榎本は呆けたような顔をして俺を見上げた後、
「東方君は急いでないの?」
と、そんなことを聞いてきた。
「生憎と、テスト前に詰め込まない主義なんだ」
「あ、毎日コツコツ型?」
「そ。……あ、地味って言うなよ」
「……」
「……言おうとしてたな?」
「ごめん」
俺が言うと、榎本は苦笑しながら謝ってくる。……ああ、こう言うの、新鮮でイイかも。あんまり女子と話す機会もないし、大抵はグッと身長差があるからビクつかれたりするし。
「それじゃ、お願いしてもいい?」
「ああ。じゃぁ鞄持つ」
担いでも良いけど、不用意に触れるのも駄目なような気がして、俺は榎本の鞄を受け取った。テスト前だけど榎本の鞄は軽い。
「榎本、勉強は?」
「あたしもコツコツ型かな。特別家じゃ勉強しないけど、普段授業聞いて、あとは東方君と南君がテスト直前にしてるおさらい講座に耳を澄ませたりなんかして?」
なんて、榎本は思いがけないことを言う。俺が驚いてると、榎本はくすくす笑う。
「東方君頭いいから。二人の話してたところ押さえとけば結構点取れるんだよ」
その笑い声が、近い。身長差の所為もあるだろうけど。
「いつもお世話になっております」
「……あ、いや、そりゃ、いいけど。そんなんで点取れるって言える榎本だって、普段ちゃんと勉強してる証拠じゃないか」
「そう?確かに勉強は嫌いじゃないけど」
黒いショートヘアがさらさら動くのを見る。いくらその辺の男よりも身長が高くても、やっぱり榎本は女子なんだ、と思う。や、さっき抱き留めた時も、思ったけど。
「でも家だと勉強できないんだよね。だからテストで学校終わるの早くても勉強とかせずに遊んでる」
「誘惑が多くて?」
「そうそう。直ぐにパソコンの電源つけちゃうんだ」
榎本の口から出てきた思わぬ言葉に、俺は思わず目を丸くした。
「へえ、榎本、パソコンするんだ」
「うん」
「携帯じゃなくて?」
「あー……うん、まあ」
そこで榎本は締まり無く笑って、取り繕うように肩を竦める。
廊下をゆっくりと進んでいる俺達は大半の下校すべく下駄箱へ急ぐ生徒とは逆方向の進路で、たまーに顔を知っているヤツから興味津々な目を向けられたものの全て気づかないフリをして、ざわめきの中、榎本の言葉に耳を傾ける。
大きくはないけど、榎本の声は聞き取りやすい。身長差がそこまで激しくない所為だろうけど、拾いやすい声、耳障りの良い声はなんだかくすぐったくもある。
「実は、携帯持ってないの。家が学校の近くでさ。帰宅部だから部活で帰りが遅くなることもないし」
「ふぅん?授業中に気が散らなくて良いとは思うけどな。……あ、でも榎本の場合は本読んでたら一緒だな」
「!え!」
「ふふん、俺も後ろの席だから結構他のヤツが何してるのか見えたりするんだぜ?」
榎本は本が好きみたいで、休み時間は必ず何かしら本を手にしているように思う。そんな榎本は続きが気になるのか、授業に入っても本を読んでいる時がある。
……そうか、榎本は自分じゃけじめがつけにくいタイプなんだな。家で勉強できないってのはそう言うことだろ。
「……わー……はずかし……」
頬に手を当てる榎本は、はっきりいって、可愛かった。外見じゃなくて、普段そう喋る間柄じゃないからか勝手なイメージが先行していたけど、それとのギャップで。
榎本は外見的にもしっかりしてそうだから、みんなから頼られる側なんだろう。きっと。
だから、はにかんだ顔を見られたのは、ラッキー!てやつかな。
自然と笑みがこぼれたものの、保健室に着いてドアを開けても誰もいなかった。ベッドに生徒の気配はなくて、そりゃそうか、もう全部授業は終わってるから、この時間は本当に気分の悪い奴しか居ないハズだ。
「……先生、いない?」
「みたいだな。ちょっと榎本、ここ座って」
「うん」
俺の鞄と榎本の鞄を、榎本が座った椅子の近くに置く。俺は少し棚を見渡して、目的のものを取りだした。
「……勝手に弄って良いの?」
「ああ、俺部活でテーピングとか包帯の類の場所は結構知ってるからな。湿布も勝手に拝借するか。あ、あと榎本ひねった方の靴下脱いでくれ」
俺の答えに、榎本は暫く間を置く。俺はその間に棚から必要と思しきものを全て取り出す。
「……東方君、テニスしてるもんね。練習大変そう」
「好きでやってるから、そうでもないけどな」
榎本の前にもう一つ椅子を引いてきて、先に断ってから捻った方の右足首を持ち上げた。俺の膝の上に榎本の踵をのせて、少し動かして様子を見る。
「いいね、そういうの」
「んー、そうか?」
「うん」
パッと見た感じそこまで腫れは酷くないが、念のために湿布を貼っておいた方が良いかも知れない。
「ん、きゃ」
「あ、こら動くなって」
冷たかったのか、榎本の足が動く。だって、と言い訳をする榎本の声は笑っていて、ああ、くすぐったかったのか、と思った。
「一応キツめに包帯まいとくけど、家帰って腫れが酷くなってたら病院いった方が良いな」
「……そう?そんなに酷くないけど……」
「怪我した直後は興奮して感覚麻痺してるから分からないんだ。だから軽く見て放置して酷くなったりする。……本当はもっと冷やせるものがあれば良いんだけど、これ以上学校の備品使ったらそれこそ大目玉くらっちまう」
「そんな、お世話になったし、これ以上してもらうのは……」
「まあ気にすんな。行き掛かりというか通りかかった船というか」
「や、でも多分これが千石君辺りだと絶対こんな事出来なさそう」
「そうか?あいつも普通にするぞ、このくらいなら。テニスに限らずスポーツやってるなら」
「東方君の常識はね、多分あの人には当てはまらないものの方が多いと思うんだ」
「……それは否定しないけどな。ま、あいつは基本良いヤツだよ」
「変なあだ名つけられてるのに?」
「……」
「……」
瞬間、変な沈黙が降りた。
「榎本、あのあだ名ってそんなに浸透してるのか?」
思わず、真顔で聞いていた自分が少しばかり憎い。榎本はおかしそうに笑って
「さあ?あたし、結構テニス部見てるから、かなり有名なのかは分からないけど」
なんて言う。
「……そうだったのか。榎本、練習見てたんだな」
「うん。あたし山吹の男子テニスプレイヤー、みんな好きだよ。あ、でも阿久津君と千石君と、南君と東方君位しか知らないけど」
「いや、そこに南と俺が入ってるだけで十分。俺達のは……まあ、自分で言うのも何だけど、目立った技もないしな」
言うと、榎本はおかしそうに笑う。
「いいじゃない、サインプレー、格好いいよ」
包帯を少しキツめに、榎本の足首を固定するように巻いていく。
「……そうか?」
「うん。堅実で華やかさはないかも知れないけど、変なごり押しプレー見てるより楽しいよ。……それに、南君のテニスしてる時の自信に満ちた顔とか、千石君に負けないくらい格好良いと思うけど」
「……榎本、俺は?」
「勿論東方君も格好良いよ」
「……なんか付け足して言われてるみたいで癪だな」
聞き方が悪かったからだろうけど、と言って、包帯を結んで止める。そこでがらりとドアの開く音がした。
「あ、先生」
「おう、どうした榎本。怪我か?」
「ハイ。階段で落ちかけて足捻ったんですけど、偶々東方君が現場に出会して応急処置をしてくれてたところです」
「あ、使ったのは包帯一巻き分と湿布だけなんで」
「はいはい、確かに。しかしなんだ、お前ら仲良かったんだな」
保健医の言葉に俺達は顔を見合わせて苦笑する。本当に、まともに話したのはこれが初めてなのに良くここまで普通に会話したもんだ。
保健医に別れの挨拶をして保健室を出る。榎本の鞄は俺が持ったままで、俺が送っていく、と言うと榎本は意外そうに目を丸くしたけど、直ぐに笑って有り難う、と言ってくれた。いや、そんな大したことじゃないとは思うんだけど。
「……東方君」
「ん?」
帰り道。いつもよりは余程ゆっくりな足取りで、俺と榎本は歩道を歩く。
榎本は右足を庇うように歩いているから、見ただけで怪我をしているのが分かるし、道行く人もそれなりに避けてくれるからありがたいことだ。
「さっきは付け足すように言ったけど、あたしは、東方君が一番好きよ」
少し頬が赤い榎本は、顔毎見上げてくるんじゃなくて、上目遣いに、目線だけ俺を見て、少し首を傾げて笑った。
「……榎本、そう言う言い方は、」
「あ、東方君顔赤い」
「榎本こそ」
「……」
「……」
「……でも、嘘じゃないから」
「うん。ありがとう、すげー嬉しい」
耳まで赤いのを承知でそれだけを言うと、榎本は少し顔の赤いままで、そっちこそ反則、と俺の言いたかった言葉を吐き出した。
帰り道はお互いぎこちなくなったものの、榎本は今回もテスト直前の復習頼りにしてるから、と言って、彼女の家の前で別れる頃には、まあ、それなりに仲良くはなれていた。と、思う。
今まで何となく目をとめていただけだったのに、いや、その時点で既に俺は惹かれてたのかも知れないけど、今日本当に榎本のことが好きなのかもなあ、と、自覚した。
ひとまず、今回のテスト直前の復習には、彼女を誘おう。
2007/11/24 : UP