To be or not to be
世の中には千石目当てて君に近づく女の子もいれば、その逆もあるって、気付いてる?気付いてないよね、南!
そう叫びたくとも叫べない少女が一人。篠崎迪というのが少女の名前で、彼女が密やかに想いを寄せているのが山吹中テニス部部長の南健太郎という少年。丁度今、彼女の目の前で他の女子生徒と楽しそうに談笑している彼だった。厳密に言うならば彼女の目の前ではなく彼女の視界の中の話なのだが、今ここでそれについて言及する必要性は彼女にはなく。
ぼんやりとその様子を見つめていた彼女は不意に、溜息を漏らした。
震えたそれは思うよりも頼り無く。
「迪ちゃん、恋煩い?」
「よく分かるね」
「まあねー。ホラ、俺女の子のことはよく見てるし」
軽い調子で彼女に話し掛けたのは千石清純。その調子故にクラスのムードメーカーになれる典型的な人間だが、彼は彼女と同じクラスではなかった。ふらりと彼女の教室に現れた彼は、彼女の席の前、今は空席のそこに腰掛けた。
「そんな分からなくても良いようなこと分からないでよ」
「う~ん、そうは言っても俺、恋する女の子のことはとくによく分かっちゃうんだよねえ」
少しばかり眉を下げて笑う千石に、彼女は溜め息を一つ零した。今度は先ほどとは違ってあからさまに、大きく。
そんな彼女の態度に、彼は気分を害することなく彼女の肩を一つ、叩いた。
「今回は、お疲れ様。気晴らしにどっかいく?」
「ありがと。でも遠慮しとく」
「あらそう?」
「うん。寧ろちょっと一人にしておいて欲しい感じ」
彼女が眉を寄せながら笑うと、千石はそうか、と言って素直に引き下がった。思ったよりも彼女の表情が泣きそうな時のそれと酷似していた所為かもしれないし、彼女の想い人が彼の友だちで、彼女はその思い人にすでに振られていて、彼女は元々彼女の想い人目当てに彼と仲良くなったと言うことを良く心得ていたからかも知れなかった。
どちらにしても、周囲の評価とは異なって、彼女の中での千石という少年の評価は低い物ではなかった。
「ん、りょーかい。楽しくなりたかったら何時でも呼んでチョーダイナ。これ俺の携帯番号とアドレス」
ひょいと彼女の目の前に差し出された紙切れには、少し走り書きになりながらもしっかりと彼の言う彼の携帯の番号とメールアドレスが記されていた。
彼女はそれを受け取って、礼を言いながらもその直後歪に開いたその口で自嘲気味に笑った。
「これが実はあの人のアドレス、とか言うオチはない?」
「やだな、俺そんな傷心した女の子の心をえぐるようなマネしないよ」
彼女の言葉に、千石は苦笑を返した。彼女は必死に笑おうと努めたが、それは少しばかり苦しそうな笑顔でしかなく、直ぐに掻き消えてしまった。
「優しいね、千石」
「ええー、迪ちゃん、気付くの遅くない?」
俺はずっと前から優しいじゃんね、と千石は明るく笑う。彼女はつられて、うんそうだねと、今度は笑顔を浮かべることが出来た。その顔は多少なりとも悲しげで、しかし彼の気遣いを身に染みて分かっているような、そんな深い笑みでもあった。
彼女は彼の優しさを知っている。
彼と彼女の想い人は友だちであり同じ部活であり、彼は普段の軽い調子で、彼女の思い人が誰を好きなのか、そう、本当に軽い調子で聞くことも出来た。けれどそれをしなかったのは彼女への優しさである、と、彼女は思っている。
彼女は知っている。
彼女の想い人がこの所いつも同じ女子生徒の話をするのを。
それでなくとも最近になって、とある女子生徒のことを可愛いと褒める彼女の想い人の様子に、彼女は徐々に脈の無さを思い知り。ついには逐一とある女生徒についてやや照れた表情を浮かべながら報告をしてくる彼女の想い人の様子に、彼女は徐々に、自分の気持ちを整理し始めていた。
そうしてそんなとある日の午後、昼休み。別の女子生徒に声を掛けられ引き留められている彼女の想い人を発見した彼女は、彼女の想い人に何だったのか尋ねたのだ。すると彼女の想い人は苦笑気味に顔を歪ませて
『千石のヤツに取り次ぎってヤツ?自分で頑張ればいいのにな、篠崎みたいに』
と、彼女の目の前で、そんな言葉を吐いて見せた。
それが意味するところはつまり、彼女の想い人にとって彼女は飽くまで彼目当ての女子生徒の内の一人で、彼と仲が良いために自分とも仲が良くなっているのだと、さっぱり見当違いなことを考えているらしかったのだ。
彼女はそこではっきりと、確信した。
自分は、彼には見向きもされて居ないのだと言うことを。
それだけならばまだしも、可愛い意中の女子生徒の話をする彼は、明らかに彼女を気に掛ける素振りなど毛頭無く。
ああ、彼女が出来るより酷い、と彼女が唖然としたのはそう遠くない、ここ数日の間の話。
そうして彼女もまた、彼女の想い人が漏らした言葉を実行していた数多いる女子生徒の内の一人で。ただそれが明るい髪の少年ではなかっただけで、意中の人の周囲からお近づきになる、と言う方法は、他の女子生徒と何ら変わりはなかったのだ。
それを、彼女の目の前にいる明るい髪の彼は、知っているから。例え冷やかすような調子であっても、敢えて彼女の想い人にそれを問い質さないのは彼女を思ってのことだと。
そうして、自分からは決して口を開かない彼女の様子に彼は何かを感じ取り、こうして彼女の目の前に現れていた、と言うことだ。
幸か不幸か、いくら彼女が意中の人に振られたからと言って、きっかけは彼女の下心であった二人の関係が途絶えてしまうことはなかった。彼はそこまで友だちを好いている女の子を放っておける人種ではなかったし、彼女も彼との関係を気楽に感じていた所為もあったろう。
この明るい少年は、彼女が明け透けと仲良くなるのは彼女の想い人になるためなのだと告げたその日、今まで彼女が見たこともなかったような嬉しそうな表情で、大きく笑ってくれた。その時の彼を、彼女は忘れたことはなかった。
「助かった、千石」
「いえいえ」
「詳しく聞かないで居てくれて、ホント、ありがと」
「いいっていいって。俺も、まさかこんな展開になるとは思って無くてさ、気配りの一つや二つ、今まで出来なくてゴメンね?迪ちゃんの目的は一番最初に教えて貰ってたのにさ」
彼の言葉に、彼女は目を丸くする。
「らしくないね、いいんだよ、感謝してる」
そして、少しばかり目を細めて。次の授業開始を告げる鐘の鳴る五分ほど前、次は移動教室だと軽い調子で言う彼を急げばかと叩き出した。
彼の背中を、彼女は少しの間見送って。そうして苦笑気味だった顔を自らの携帯に落とし、先ほど彼が手渡した紙切れを見ながら、ボタンを押し始めた。
「何してるんだ?」
そこについ、とやってきたのは紛れもない、彼女の想い人、南少年。彼女は顔を上げないまま、千石の携帯番号とアドレス登録をしていると答えた。
「ふぅん?」
それに彼は少々面白く無さそうに声を出して。
「さっきさ、浮かない顔してたみたいだけど、何かあったのか?」
そうして不意に、彼女が今最も問われたくない言葉を口にした。彼女自身も何故そんなことばかり彼には分かってしまうのかと内心で頭を抱えながら、表面上は素知らぬふりをして
「ちょっとね。凹んでたのを元気づけて貰った」
「……何かあったのか?」
そうして、少しばかり心苦しそうに尋ねてくる彼に、彼女はもっと息が出来なくなった。
「ちょっとね」
「俺には言えない?」
「まあね」
「……なんで?」
徐々に顔色を曇らせていく彼は、それはそうだろう、なんだかんだと言って、彼女は彼と仲良くなる、という段階を経ていたわけだから、彼としては彼女は良き友人の間柄である。
「南には、向いてない話だから」
心が痛い。
月並みな言葉を何処か頭の片隅に思い浮かべながら、彼女はようやっとそれだけを。
「そ、か」
少しばかり蚊帳の外と言うことに疎外感を感じたのか、多少顔を歪めつつも笑みを浮かべる彼に、彼女は瞼を伏せた。
「……好きな人が、居るの」
名を出さなければいよだろうと、彼女は口を開いた。彼女の中ではそれはすでに終わった話で、彼女はもしかすると、自分の内側以外で、何らかの気持ちの整理をつけたかったのかも知れない。或いは単純に幸せそうな顔をして別の女子生徒を褒める彼に、八つ当たりをしたかったのかも知れなかった。
けれど彼の反応は彼女の思うよりもずっと浅く。
「……。……え?」
思わず誰だと食いついてくるかと思っていた彼女は、彼のその様子を見て苦く笑った。
「そのことで落ち込んでたから、千石に励まして貰ってたの」
彼は恐らく、彼女が好いているのは千石少年だと思っているからだろう、何かが彼の中で噛み合っては居ないから反応が薄いのだと彼女は分析する。それは外れてはいなかった。
「……俺の知ってるヤツ、だよな?」
「すでに振られちゃったけどね。まあ、でも、千石のお陰で何とかなりそう。もうちょっと、時間がかかるだろうけど」
何せ同じクラスだしよく喋る方だし。と、そんな言葉は喉の奥に仕舞い込み、彼女は眉を下げて笑う。その彼女に、彼は未だぼんやりと彼女を見つめたまま。
「そ、っか。篠崎、好きな奴居たんだな」
「ま、ね」
「ふぅ、ん」
少しばかりぎこちなくなった彼の表情を、彼女は訝しんで見つめる。それを避けるように、彼は鐘がなったのを良いことに自分の席へと戻ってしまった。
多少なりとも様子がおかしく感じられたが、彼女は頬杖を付いて教室に入ってきた教師を出迎えると、そのまま溜め息を一つ、出した。
次の科目は現代文で、彼女は教科書とノートを開けるだけ開けてから、心中、溜息ばかりをついていた。
外は晴れているというのに彼女の心はどうにも晴れず、それはここ数日間続いていて、未だに晴れる様子がない。何処か心の奥が苦しく、息苦しく感じた直後、鼻の奥に痛みにも似た熱が宿り、彼女は慌てて感傷に浸る思考を停止させた。
ああ、人を好きになるって、苦しい。
彼と仲良くなるために過ごしてきた日々も、脈がないと勘付き始めたころも、何時だって彼女の胸の内は何処か苦しく、上手く息が出来なくなるような、決してそんなことはないのに、彼女はそんな気がして、いつも泣きそうな気がしていた。
それが、終わっても続くなど。
初めて彼を『見た』のは帰り道にテニスコート脇を通った時。丁度その時の彼はストレートが決まり、大きな動作でガッツポーズをして笑顔を見せていた。
二度目に彼を『見た』のは滅多に行かない屋上で昼食を取った時。丁度その時彼は同じテニス部員らしき男子生徒にコロッケを取り上げられて、泣きそうな程に酷い顔をしていた。
三度目に彼を『見た』のは地理の授業中。丁度その時彼はどこか嬉しそうな顔をして先生の話に耳を傾け、ノートを取っていた。
結局それの積み重ねで今に至っている彼女は、忘れるのにも同じ時間がかかるのだろうか、などとぼんやり考えた。それはとても苦しいことだなあ、とやはり思う。
いっそ雨が降ってくれたならば、そうすればこの鬱々とした気分が少しでも慰められるのではないかと思い当たり、けれどふと、そうするときっと彼女の想い人はテニスが出来なくて渋面を作るのだろうと苦笑した。
思考の半分以上がすでに彼で占められている彼女にとって、どれほど彼女の『恋』というものが実らないものだったとしても、そして彼女がどれだけ自分の気持ちに区切りをつけようと努力しても、最終的にそれはどうにも叶わないのだろうと、彼女はそれすらも諦めかけていた。
そしてその思考は徐々に方向を変え、もっと可愛く自分自身を作れていたら彼は彼女を見ただろうか、などというものに変わり果てる。彼女はその思考に自己嫌悪すら感じながら、息をついて頭を抱えた。
一方その頃、同じ現代文の授業を受けている最中の彼女の想い人であるところの彼、南少年は少々混乱していた。
彼にとって篠崎迪という彼女は、千石少年に想いを寄せる少女でしかなく、そして彼女と彼の友人が仲良さそうにしているところを見かけたその時から、彼は疑いなど微塵も感じず、彼女はそう言う少女なのだと思っていた。
そこで、何故彼はそう思ってしまったのか。その時のズレが溜まりに溜まり、今彼に大いなる混乱を与えてしまっていた。
彼女の想い人が千石少年ではないことが分かった今、彼は多少なりともそれに衝撃を感じていた。
今まで仲良く付き合いをしていた彼女が思っていたのは千石少年ではない事により、しかし彼女には想い人が居てかつまた既に振られていると言うことを知って、彼は今までそんなことを少しも感知せずに過ごしてきたその事に対して驚きを持っていた。
彼は千石少年には劣るものの、男子生徒の中では彼女のことをよく知っていると、何故だかそう感じていたからである。そうして彼は彼らの交友関係に入ってきた彼女の存在を、ただそこにある人として認識し、共に笑い、共にはしゃぎまわり、たまには昼食を取り、千石少年が居なくともそれは行われ、日々の微々たる会話も、しかし確実に積み重ねてきた。
その、彼にとって『今まで積み重ねてきたもの』と言うのがここに来て一気に崩れ去ってしまった、それに対する衝撃が彼の頭の中で響き続けていた。
十分に彼女のことを知っていたと思っていた彼はしかしその実彼女について知らないこともあるのだと初めて認識し、そうして、一瞬だけ、彼女が知らない人のように感じられた。
苦しそうに歪められた口元と、下がる眉。
初めて見た彼女の違う一面に、彼は酷く狼狽もしていた。
この時ばかりは普段から可愛いと感じ、つい目で追ってしまう女子生徒のことなど頭から飛び去ってしまい、彼は自分の思考の渦に飛び込んで行く。
何か、彼女に対して、違う感情が芽生えているような感覚。しかもその感覚は止まることなく一気に植物が生長するかのように膨らむのを彼は感じていた。
あまりの急速さに、彼は取り残され、何も感じぬままにその感情から出来た実という『答え』を手にしてしまっていた。
その呆気なさに彼は少々戸惑いを感じるも、先ほど見たばかりの彼女の苦しそうな表情を思い起こせば瞬時にその実が熟れていくのを感じる。
あ、俺、篠崎のこと、好き、なのか。
一度収穫してしまったその実は、熟れるばかりで腐ることを知らない。
好き、と、単語を出した瞬間にその実の甘さを思い知って、彼は思わず口元に手を当てた。
暫くの間授業などすっかり忘れ逡巡した彼は、彼女の言葉を思い出す。
『南には、向いてない話だから』
そうして彼女は自分のことをよく分かっていたのかなどと彼は思う。彼女のようにやはり自分も、千石少年に相談するであろうから。
彼の友人の性格に一抹の不安を感じつつ、しかし彼女に対しては自分にすら何も言わなかったほどの真摯さを少しばかり期待し、彼は授業終了の鐘が鳴ると同時に席を立った。
時刻は昼休みに突入。彼の友人が余所へ行ってしまわぬうちにと、彼は彼の友人を捕まえるべく彼の友人が居るであろう移動教室先まで駆けだした。
2007/12/18 : UP