大好きな君へ

 静かな夜だ。
 高層マンションの相当高い場所にあるこの部屋は何時も静かだけれど、寒くなるとそれが増すような気がするのはなぜだろう。

 この部屋の主はまだ帰らない。今日も大好きな仕事に追われている。
 夕飯はお互いにそう多い量を食べるわけではないから、暖かいシチューにオムライス。明日の朝のことも考えて、多目に作っておいた。

 先に食べても良いんだよ、といつだったか彼は言ったけれど、一人では『食べるための食事』になりがちだ。どうせなら美味しく、楽しく食べたい。
 だから待つことは苦ではないのだと言えば、彼はこの上なく幸せそうに笑った。
 彼と付き合うまではこんな風に、プライベートを誰かに合わせることなんて想像できなかったけれど、尽くすということはそう悪くない。

 一応彼は上司に当たる。厳密に言えば部署は違うけれど、彼は現場における最高責任者であり管理職だ。収入やその他において私が彼に釣り合うことはまずない。非常に残念なことに、性格や器量に至るまでそうなのだから最早コンプレックスを抱くのもまるで恥ずかしく、彼が私を想ってくれていることを大切にしようなどというある主悟りの境地に至っているのが現状だ。

 けれど私にもプライドというものはあるわけで。
 彼より早く仕事が終わるため、彼の分まで料理を作って、いつからかそれを彼の部屋でするようになって、掃除やベッドメイキング、彼が部屋に置くようになった育成途中のバチュルと戯れ、洗濯をして、丁寧にアイロンがけをしてと気づけば一人暮らしの時は怠けていた家事のスキルは目覚ましく延びを見せていた。

 とは言え、まさかバレンタインデーに手作りをするとは思わなかったのだけれど。

 リビングの白いテーブルの上には、白い包装紙と薄茶色のレースのリボンにくるまれた箱。ぱっと見は上品そうに仕上がったからよしとしよう。多くは望まない。

 こうやっていろんなことに気をくばるようになったのも彼の影響だ。

 大体において彼は私が彼にすることを喜んでくれる。だから徐々に申し訳なくなってきて、料理であれば盛り付けまで、出掛けるときは爪の長さまで意識するようになった。
 もちろんこれは私が勝手にやっていることで、彼が特別そうするよう仕向けているだとかそういうことはない。と、思う。少なくとも私に『期待されている』という印象は抱かせていないし、また遠回しに思い通りに動くよ う指示されていると思ったこともないのだから、そうなのだろう。

「ただいま!」

 玄関から、疲労はあるもののどこか弾んだ声。
 もう彼の部屋に居ることが当たり前になって久しい私は、バチュルを肩に乗せて当然のようにおかえりなさい、と彼を出迎えにいった。
 玄関までいくと、ドアのロックを確認し靴を脱ぎ終えた彼が私をみてにっこり微笑んだ。先程の声と違わず、どこか高揚感のある顔は頬が寒気に晒されて赤くなっているからだろうか。

ユカリ、ただいま」
「おかえりなさい、クダリさん」

 彼から仕事用の鞄を預かれば、彼は仕事中とは異なる白いコートを脱いで玄関先のハンガーにかけた。
 私はそれを眺めながら、彼の鞄の重みがいつもと変わらないことを無意識に確認していた。

 彼は人気がある。というか、職場内では男女問わず、サブウェイマスターの二人は慕われている。
 私が入社した頃は、二人がバレンタインデーにたくさんの女性――いいや、女の子と言うべきか――に囲まれ揉みくちゃにされていたのを目にしたものだ。
 とは言え、過激なプレゼントも中にはあったようで、二人がなにも受け取らなくなったというのはギアステーションスタッフの間では有名な話になっている。

 仕事用の鞄以外何も持ってない彼は、ネクタイとボタンを緩めてから私から鞄を取り上げた。

「今日の晩御飯、なあに?」
「シチューとオムライスです」
「やった!」
「今からすぐに卵で巻きますから、手洗いうがいと、着替えを先に」
「うん」

 綻んだ表情に私も少し嬉しくなって、バチュルを一度ソファにおいて、キッチンに立つ。準備はすでにできているし、彼の帰宅時間とあわせて作り始めていたから、あとは楽だ。

 フライパンを暖めてバターを引く。牛乳をいれてよくかき混ぜた卵が美味しそうな音を立ててフライパンの上に広がり、火力を緩めて一度蓋を。
 半熟になるよう少し時間をおいて、チキンライスを乗せて、お皿にくるんと移動させる。デミグラスソースをかけて、少しだけパセリを添えれば完成だ。

 それを二人分繰り返し、シチューも盛り付けていると、そう遠くない距離からクダリさんの声が聞こえた。

「こーら、ダメだよバチュル」
「ばちゅ」

 お皿をダイニングテーブルに移していると、クダリさんがバチュルと一緒にやって来た。

「どうかしました?」
「バチュルがリビングのテーブルにあったきれいな箱に上ろうとしてたから」
「あ」

 忘れていた。隠すのを。
 苦笑気味ながらも期待に満ちた目に見送られ、私はそれを手に取ると、クダリさんに差し出した。

「……今日は、バレンタインなので」
「ありがとう」

 なんとなく手作りだと口にするのは躊躇われて、大事に食べるというクダリさんを遅い夕飯へ促してごまかした。





「美味しい」

 食後、私とクダリさんに構われて疲れたバチュルは、私の膝の上で微睡んでいた。
 その横でクダリさんはブランデーをゆっくり飲みながら私のチョコを摘まんで、今にも溶けそうな声で顔を綻ばせた。

 ほろ酔い状態で気が緩んできたのか、クダリさんは私にもたれ掛かり、首筋に顔を押し付けてくる。クダリさんの呼吸に合わせて空気が動き、なんとも言えずくすぐったい。

「大したものじゃないですよ」
「手作りは大したものだよ」

 ばれていたけれど、そりゃあ市販のそれよりは見劣りするし、目の肥えたクダリさんには直ぐに分かっていたのだろう。
 クダリさんはえへへとだらしなくもおよそ成人男性としては可愛らしく笑うと、暫く私の肩口に顔をくっつけてすりすりと頬擦りをしていたけれど、直に黙って動かなくなった。

 暖かな沈黙に寝てしまったのだろうかと彼の名を呼ぶと、クダリさんは呟くようにぽつりと

「女の子って不思議。今日たくさん女の子に囲 まれたけど、大体みんな良い匂い。柔らかくて、あったかい」

 唐突にそう漏らした。私が知らないところではやはり変わりなく揉みくちゃにされていたのだろう。それでもチョコやプレゼントを受け取らなかった辺りはしっかりしている人だ。

「香水ですか?」
「ううん。香水も良い匂いだけど、あれはお洒落の匂い」

 つまり、その人の香りが分かるくらい近くに行ったか近づかれたということか。
 あまり良い気がしないのは、特別感が薄れるからか、クダリさんが私のチョコをとろけそうな顔で食べながら、そのままの顔で私以外の『女の子』を口にするからなのか。

「前まではユカリからもしてた」

 そうして漏れたクダリさんの言葉に、どういう意味かと彼の顔を押し退けてやる。
 化粧っ気のない上更に女っ気までなくなったと言いたいのか。
 胸が苦しくなった私は思わず顔をしかめたけれど、クダリさんは変わらずへらりと幸せそうに笑った。

「今はね、全部消えてはいないけど、ユカリからするのは僕の使ってる石鹸と、シャンプーと、リンスと、あと、部屋の匂い。ぼくの匂い。自分じゃ自分の匂いは気づかないけど、ユカリの匂いは前と違う。これって、そういうこと。……おんなじ匂いって、ドキドキする」

 ね?
 クダリさんに抱き締められて、彼が言いたいことを察した瞬間、心臓がぎゅうっと痛いくらい強く収縮した。嫌な苦しさは吹き飛んでいて、ただ彼の声に集中しようと身体が固まってしまう。

「ねえ、ユカリ

 彼の声にこもった熱が増幅する。

「……苗字も、同じにしよう?」

 どくどくと脈打つ心臓は盛んに血液を循環させているのに、私は顔を、身体を赤く、熱くするばかりでちっとも思考がまとまらない。

 だからクダリさんの少しだけ表情の強張った顔が近づいてきても、黙って瞼を下ろし、初めてを経験する少女のように震えながら、じっと彼の唇が触れるのを待つしかできなくて。

 静かに重なったそれは啄むように何度か繰り返されて、私のなけなしの思考さえ奪っていく。
 けれど、クダリさんの動きを止めたのは、膝の上で眠っていたはずの――

「ばちゅ」
「キミにはまだ早いよ」

 彼は目を覚ましてしまったバチュルに気づき、その四つの目をそうっと片手で覆う。
 そのまま至近距離で私と視線を交えると、きっと真っ赤になっている私に微笑んで、もう一度、今度はさっきよりも深いキスを。

「……ホワイトデーのお返し、ぼくでもいい?」

 ブランデーとチョコの混じった甘いアルコールの香りにくらくらした私は、そんな彼の言葉にこっくりと頷いて、

「……クダリさんが、良い、です」

 ぼんやりしたまま、そう呟いていた。

2012/02/14 UP