個体値をください

 サブウェイマスターはいわば現場と管理職を掛け持ちするひどく忙しい立場である、ということは私も理解している。だからこそ彼らに……いいや、それは建前でなんていうか、その、彼ら、じゃなくて、彼、ノボリさんに会うために、私はポケモンを強く強く育てようと決意したのだ。

 とはいえ、一朝一夕でそう強く育てることなど不可能で、私は今日も今日とてメタモンを肩に乗せながら(この子は油断していると服の中に潜り込んでくるのでなかなか気が抜けない)、ギアステーションの入り口付近で人々のポケモンを愛で続けるジャッジさんに声をかけていた。

 「ああ、いつみてもあなたのメタモンは素晴らしい」とはジャッジさんの談。
 でも、どんなにジャッジさんにほめそやされても、この子はポケモンバトルはなぜかからきしで、だというのにおそらくどの個体よりも一番上手く『へんしん』できるから性質が悪い。この間もシングルトレインに乗車してノボリさんのところまで命からがらと言った体でたどり着いたはいいものの、あっという間に瞬殺されてしまって、肩を落としてライモンまで戻る電車に揺られていると、こともあろうにノボリさんにへんしんしてしまったのだ。それも、ゆるゆると口元をゆるめたまま。私はノボリさん二人に挟まれて座席に座るというよくよく考えればある意味天国のような空間にいたわけだけれど、まさか当人の前でそんなことをするなんて思ってなくて、叱りつけたり、ノボリさんに何度も頭を下げたりして忙しかった。私の気持ちを知った上での行動だから、本当に性質が悪いのだ。この子は。まあ、私も愛着があるから、こうしていつも一緒にいるわけなのだけれども。……とにかく! 今日も新しく孵化した子をジャッジさんに見せ終わった後、もうここ数か月は続けてきたいわゆる『廃人』生活を経た私はぽつりと、漏らしていた。

「あの、……ノボリさんの個体値って、やっぱり優秀なんでしょうか」
「へ?」

 ぱちくり、と、そんな言葉がぴったりなほどジャッジさんは呆気にとられていて。私は半ば真剣に、かつ真面目に呟いた分、気恥ずかしくなって目が泳いでしまった。ジャッジさんも首をかしげている。
 ああ、なんかもう頭おかしくなったということにしてしまいたい。というか、こういう発想に至るほど馴染のあるものになってしまったこの生活。へこたれそうになることもままあるものの、それでもどこかふわふわと浮ついた心地でいられるのは流石というべきかなんというか、恋の力とは偉大なものである。こんな風に他の人に漏らさない限りは。

「えっと、僕の聞き間違いじゃない、よね」
「あの、えと、……はい。ノボリさんの個体値って、優秀そうですよね」

 半ばやけくそになりながら言うと、ジャッジさんは

「僕は人間のことまでわからないけど、確かにサブウェイマスターをしてる以上、トレーナーとして優秀なことは間違いないよ」

 と見事感服するまでにそつのない対応をしてくれた。ええありがとう。ごめんなさい。変なこと言って本当にごめんなさい。

「ですよね、あは、」

 は。引き攣った笑いでごまかせるものでもないけれど何とかその場をしのぐために最後の力を振り絞った瞬間、

「おや」

 と私の背後にかかる声。びくぅ! と、身体がバネみたいに跳ねたのは、致し方ないことだと思う。私の右肩でメタモンが可笑しそうにもにゃもにゃと鳴く。ううっ、くそう。ジャッジさんは大丈夫? と私に声をかけつつも、

「ノボリさん。珍しいですね、ホームまでいらっしゃるの」

 と声の主に話しかけていた。私も振り向かないわけにはいかなくて、へらへら笑いながら後ろを向いて、視界の中に入った大好きなその姿をとらえた。

「えっと、こんにちは、ノボリさん」

 挨拶すると、ノボリさんも頭を下げてくれた。

「驚かせてしまったようで、大変申し訳ありません」
「いえいえ! 気にしないでくださいっ」
「あはは、今ノボリさんの話してたんですよ。だから」
「ほう、わた」
「ジャッジさん!」

 ああもう、ノボリさんの声にかぶせてしまったけど、今は緊急事態だ。やや恨みを込めて余計なことは言わないでくださいね、と目くばせをすると、ジャッジさんは含み笑い。ノボリさんはそんな私たちをじっと見ていたけれど、彼が何かを口にする前に、ジャッジさんがノボリさんに笑いかけていた。

「ノボリさんは優秀だっていう話を、ね」

 うう、ジャッジさんの楽しそうな声が今はからかわれているようにしか聞こえない。ノボリさんには本当のやり取りは聞こえていなかっただろうけれど、それでも私はどんな会話をしたのか知っているわけで、顔中に集まる熱を発散させる方法も分からずに、ただこっくりと、一つ、うなずいた。

「それは身に余る光栄ですね」
「……の、ノボリさんだけじゃなくて、ノボリさんのポケモンもすごくお強いですし……」
「ええ、長い間共に苦楽を共にして参りました、わたくしの大切な、自慢のパートナーです」

 ちびっとも動かない表情のまま、でも、ノボリさんの声が嬉しそうに弾む。ああ、この人のこういうところを知る度に、また一つ、好きが増えていくのだ。

「あ、の、ノボリ、さん、あの」

 気づけば、口が勝手に――ううん、なにか、熱に浮かされたように私の身体は、その時おもむろにノボリさんの手をつかんでいた。


「の、ノボリさんの個体値、ください! その、た、卵ができるまででいいの、で!」


 空白の時間があったことは確かだ。ただ、それがどのくらいのものだったのかは、私にはわからなかった。ただそう大声ではなかったものの、確実にまあ、すぐそばにいたジャッジさんには筒抜けだったことだろう。うん、なんていうか、本当に私はちょっと精神的に錯乱しかけていたのかもしれない。いや、きっとそうだそうに違いないそうでなくては困る!

メグルさま、畏れながら申し上げますが」
「! は、はひ」

 間抜けな声が出た。いつの間にかメタモンは私の首の後ろに器用につかまっていたけれどそんなことは気にならなかった。

「卵はできないと思います」
「!? でででっですよねあははわたしあのなにいってるんだろ、ああああああああのあのわたしあの」

 パニックによる興奮状態で私の涙腺は崩壊寸前だ。そんな私に対してもノボリさんの表情は微塵も動くことはなく、けれど彼は少し勿体ぶった風に咳ばらいをした。初めて見たそれに、私の挙動が暫し、止まる。

「あと、もう一つ。今ご自分が何を仰ったのか、きちんと分かってらっしゃるのですか?」
「へっ」

 なんだろう、初めて見る表情だった。いや、表情と言うべきか、さっきもそうだったように、ノボリさんの感情というのは声色だとかで割とすぐわかるのだけれど、今はそれとは違って、確かに鉄仮面とも評される彼の顔が、確かな感情を示しているように見えた。ただそれが私の気のせいだと言われてしまえば、そこでそうかもしれないと思ってしまうほどの小さなものだけれど。

「わたくしはやぶさかではありませんが」

 まず、こういう場で突如そのようなことを仰るのは、言われたわたくしはともかく、あなたさまの品位が疑われます。もっとより適切な場面で――云々。後に続いたの御説教はほとんど耳の右から入って左から抜けていくような状態で、私は放心したように口を開けて、じっとノボリさんの顔を見上げていた。それからふと、我に返って、自分が何を口走ったのか、ノボリさんが何を指摘しているのかを理解すると、私は急にさっきまでとは違う羞恥心で興奮しておろおろと視線がさまよった。

メグルさま、聞いていらっしゃいますか?」
「ひえ、すみません、きいてません」

 はあ、と落ちてきたため息に、背筋が凍る思いがした。

「ご、ごめんなさい、あの、」
「……そうですね、あなたさまは随分とお疲れのご様子。どうぞご自愛なさってくださいまし」

 どぎつい雷が落ちるかと思いきや、降ってきたのはふわふわと優しい声色で。見上げると、ノボリさんはやっぱり私の見たことのない表情で、私を見ていた。

「っ、あの」
メグルさまさえよろしければ、体調の良い時に、もう一度、先ほどよりもより適切で良識あるお言葉を拝聴したいものです」

 ――へ、あ、え? 頭の中を、ノボリさんの言葉がぐるぐる回る。えっと、いま、ええと、だからつまり。

「きっききききき今日は帰ります! か、帰ってゆっくり休み、まずっ!」

 噛んだ。辛い。

「本日はバトルサブウェイへのご乗車は」
「やめておきます!」
「そうですか、ではお気をつけてお帰りくださいまし。……またのご来場、心からお待ちしております」

 飽くまで平時と変わらない優雅とも見える所作で、ノボリさんは会釈をくれた。それに追随するような形で、ジャッジさんも気を付けてねと声をかけてくれる。ええすみませんね、本当にすみませんジャッジさんの眼の前で何をやってんだ私。けれど謝るにももつれきった思考と舌先ではそれもままならず、私は慌ててギアステーションの階段を駆け上がった。後ろでノボリさんとジャッジさんが何事かを話す声がしていたけれど、私が知る由もない。首元で、メタモンがもにゃもにゃ笑った。

2011/10/23 UP  2011/11/09 加筆