けれどそこに触れるにはまだ早い

「……メグルさま」

 急に声を掛けられて驚いた。バトルサブウェイでノボリさんに会うには、基本的にダブルトレイン、スーパーダブルトレイン以外の電車に乗り、連勝しなければならない。最近はようやく比較的安定して20連勝できるまでになったけれど、あえなくノボリさんにこてんぱんにやられてしまった私は、ライモンシティへ帰るため、ノボリさんとおとなしく電車内の座席に腰掛けていた。

 基本的に普段のノボリさんはそこまで口数が多い方ではない。少ないと思ったこともないけれど、柔らかくて落ち着いた物腰は、今となっては優しささえ感じられて、どこか安心する。

 まあ、基本的に仕事中であるノボリさんがそう無駄口を叩くはずもないわけで、でも今日ばかりは様子が違っていた。いつもは私の隣にゆったりと腰かけているのに、今日はどこか所在なさそうで、落ち着きがない。それは私が気づけるようになったのか、はたまた彼がそういうものを表に出してくれるようになったからなのかはわからないけれど、とにもかくにもノボリさんはどう続きを口にすればいいものかと思案しながら、伺うように私を見つめていた。

「あの、どうかしましたか? なんでも言ってください」

 この人は何というか、引き際がよすぎるというか諦め癖みたいなものがあって、私はそうはさせるかとばかりに丁寧に先を促した。仕事のことならまず妥協などしないのに、どうもこと対人関係となると話は違うらしい。ノボリさんは私が促してからもしばらくの間視線をさまよわせて、最終的に私の顔は見ないように、そう、膝あたりに狙いを定めてから、

「つい最近のことでございます。トウヤさまがご乗車されたのですが、バトル後、今のわたくしたちのように腰を下ろし、他愛のない談笑などしておりました時のことです」

 何から言ったものかと、自分の中でも整理しているのだろう。順序立てて初めから話し出すノボリさんに、私ははい、と相槌を打った。

「その、メグルさまがシッポウのジムで調べ物をなさっていたと」

 そこで、ようやく視線がかち合った。いつもなら真っ直ぐな瞳はどこか震えていて、頼りない。

「……ああ、確かに結構前に、シッポウに行きました。トウヤくんにも会いましたし」
「……」
「……そのことで、何かありました? トウヤくんが何か……」
「その際、あなたさまが踏み台の上でバランスを崩されて、お倒れになったと」

 分かった。ノボリさんはその時のことを心配しているのだろう。……けれど、シッポウに行ったのは本当に随分と前のことだし、トウヤくんだって言うとしてもそのあたりはちゃんと言ってるはずな

「それを助けようとなさったトウヤさまが、その、あなたさまの……メグルさまの、身体、に、触れたと仰ってましたが」

  そ っ ち か ! 

「それは、本当なのでございますか」

 腹をくくったのかノボリさんはきゅっと視線を強めて私を見つめる。私はというと、ノボリさんが言わんとしていることを思い出して、頬が赤くなるのを感じていた。

 シッポウで調べ物をしようとジムの本棚にお邪魔していた時のことだ。まあ結果としてトウヤくんが私の胸を思い切り触ってしまったのだけれど、それにはなんというか、そもそも私が倒れたのは相棒のメタモンが私の服の中に入り込んだためで、そしてトウヤくんが触ったのは厳密にはブラの中に入り込んだメタモンであって私の胸ではなかったというか、そうなると私のメタモンはそういうちょっとその手の悪戯が好きで私は手を焼いていてということまでぺろっと口を滑らせてしまいそうだしというか口を滑らせると言えばノボリさんにへんしんしたメタモンとどうにかなりそうだったことまでほいほい言ってしまいそうで、いろんなことが頭をよぎった結果、私は曖昧に笑った。

「ええ、まあ、あはは」

 そんな私をどう思ったのか、スゥっとノボリさんの眼が細められた。……あ、マズい、ちょっと不機嫌ぽい。

「あの、ノボリさ」
「そうですか、本当、なのでございますね」
「いや、えっと、でもあの、理由があって」
「ええ、ええ! 勿論です! そうでなくてはわたくしも黙ってはおれません!」

 語気を強めるノボリさんに、私はこれは逆らわないほうがいいな、と思った。

「わたくしは、メグルさまが気の多い方だとは思っておりません」
「は、はい」
「ですが」

 ムス、とどこか据わった眼もあって、ノボリさんはいつも以上に仏頂面だ。

「そのような話を耳にして、大変気持ちがよくないというのも、真実本当に、わたくしの本心なのでございます」
「……えと、はい」

 これは、嫉妬、ということでいいのだろうか。それはなんというか、ノボリさんは不服かもしれないけれど、とてもうれしい。私はノボリさんたちのように華やかで責任ある地位などないし、外見は言わずもがな。平々凡々、むしろやや下気味の私に対して、そんな風に嫉妬してもらえるのは幸せを通り越して光栄だ。ノボリさんには大切にしてもらっているけれど、こんな話を聞けるのはそうない。しかも、今彼は勤務中だ。いつもこの時間は雑談しているとはいえ、これほど私情……恋人という関係を前面に押し出した言葉は耳にしたことがなかった。

「急にこのようなことを申し上げ、メグルさまを困らせているのは重々承知しております。わたくしに、あなたさまの一切を縛る権利などないこともよくよく」
「そんなっ、私、」
「ですからどうぞわたくしに、その権利をお与えくださいまし。……わたくしと、夫婦になっていただきたいのでございます」
「……え?」

 ちょっと意味が分からないです。と反射的に口にしようとするのを何とか押しとどめて、私は数度瞬いた。

「……え?」

 そうして絞り出したのは、やっぱり頭の残念さが覗えるただの音で。けれどノボリさんは、そんな私を相も変わらず緊張感を保った顔つきのままじいと見つめて、それからふとゆるく首をかしげた。

「わたくしでは、ご不満でしょうか」

 どこか不安そうに、切なげに揺れるその声に心がざわつく。なにか、何か言わなくちゃ。

「わたくしの勝手な欲のためにこのようなことをお願い申し上げ……メグルさまが幻滅されるのも仕方のないことでございますね」

 ノボリさんの手袋をはめた手が、私の頬に触れる寸前で、撫でるように動く。

「まもなく駅に到着いたします。ライモンへお帰りになるお客様は引き続き、降りましたホームでお待ちください」

 アナウンスが流れた。マズイ。ノボリさんはサブウェイマスターとしてこの車両に残るけれど、私は降りなくてはいけない。はやく、何か言わなくちゃ。

「ノボリさん」
「はい」
「私、ノボリさんのこと、好きですから。幻滅なんて、してません。むしろ、あの、嬉しかった、です」
「……それは」
「えと、でも結婚はあの、まだ早いというか、覚悟ができてないというか、だって急だったから、あの、っ、ひゃん!」
「!?」

 不意に首筋に冷たいものが当たったかと思うと、メタモンがいつかのように服の中に入り込んでいた。

「わ、こら、今大事な話を、っ、や、やめなさい! ったら! どこ入ってるの!」

 それはまさしくトウヤくんの時と同じ。胸の中に入り込んだメタモンに、私の身体が熱を持った。よりによってノボリさんの眼の前でやるかこの子は! きっと分かってやってるんだろうけど! ええい、たちの悪い!

「すみませんノボリさん、すぐ」
「いけませんよ」
「!」

 ノボリさんの眼の前で胸元を引っ張るわけにも、ましてや手を突っ込んで出すわけにもいかずとにかく両手で押さえようとしていると、ノボリさんは私の両手首をそっと掴んで、メタモンへ語りかけた。

メグルさまにそのように触れていいのは、わたくしだけですので。さ、出てきてくださいまし」




 電車にブレーキがかかり、ゆるゆると速度が落ちる。

「……えっと、あの、ありがとうございました」

 察してくれたのか、スグにモンスターボールへ戻ってくれたメタモンに安心しながら、お礼を言う。直に、電車は止まる。

メグルさま」
「はい!」
「……なにか、あなたさまに身に着けていただけるようなものをお送りしてもよろしいですか? たとえば、指輪のような」
「! は、はい。喜んで」

 うわごとのように自分の声が遠い。どこかふわふわと浮ついた感覚に、浮かれているのだと知るのはもう少し先になりそうだ。
 目の前で、ノボリさんがほほ笑んだ。今はそれだけでいっぱいいっぱいだった。

2011/11/03 UP  2011/11/09 加筆