今、逢いにゆきます

 こくり、と咽喉がなった。
 目の前には、すうすうと可愛い寝息を漏らしているノボリさん。今日はたまたま用事があって出かけていたのだけど、帰宅が遅くなると連絡を入れたのはもう一時間ほど前のことになる。それでも会いたいです、と言えば、あなたさまがお帰りになるころにはわたくしも帰宅していましょうと微笑まれ、私は必ず真っ直ぐケンホロウの空を飛ぶでノボリさんの家の前まで帰るからと言って通信を切った。

 そして、前にもらった合鍵でかちゃんと鍵を開けて、ドアを開けて、玄関にお邪魔して、ドアを閉めて、鍵をかけて、チェーンロックもしてそろそろと靴を脱ぎ、揃え、こんばんは、と恐る恐る声を掛け、電気こそついているものの静かなノボリさんの家の廊下を歩いて、そこであれ? と首をかしげた。

 ノボリさんが出てこない。

 いや、たまたまトイレに行っているのかもしれないし、別にそりゃ、お疲れだろうからそこまでのサービスなんて期待してなんか……ないと言えば嘘だけど、でも無理にしてほしいとも思ってないからいいんだけど、でも、環境音? 生活音? もしないというのはいささか不気味ですらあるというか、でも空調は温かく居心地もよくて、もしかしたら書類と格闘しているとか、あるいは読書に夢中になっているとかかなあと思ってひょいと覗き込んだリビングには、ノボリさんの身体に合わせた大きなソファに横になって眠る、ノボリさんの姿があったのだ。それを目に止めた瞬間、瞬きを繰り返して、目をこすって、何度も確認した私は間違ってないはず。

 そうっと近づくと、滅多に見られない寝顔がまるで大安売りかなにかのように明るい室内照明に照らされ、惜しげもなくさらされていた。帽子をかぶる関係でオールバックにしている髪の生え際だとか、意外に眉毛が男らしいだとか、睫毛長いとか、やっぱり鼻筋が通っているとか大きな口だとか、唇が薄いだとか、……その唇がうっすらと開いていて、無防備に呼吸を繰り返しているのに、私は無意識的に息をのんでいた。

 たとえばそれはそれだけではそうはならなかったかもしれない。同時に目に飛び込んでくる、緩められたワイシャツから覗く咽喉仏とか鎖骨とか、ノボリさんの身体全体も呼吸に合わせて過ごし動いているだとか、普段はそんな姿を見ることなどないだけに、私はなんだかドギマギしてしまって、声も出せなくなってしまっていた。
 けれど、ソファで寝るのは身体に悪い。
 私も前に一度やったことがあったけれど、腰を痛めてにっちもさっちもいかず悶絶したのは今でも嫌な思い出だ。ノボリさんはお仕事があるのだから、寝るならベッドに行ってもらわないといけない。こくり、と、また咽喉がなった。

「……の、ノボリさん、起きてください?」

 そっと方に手を置いて、ぽんぽんと優しく叩きながら声を掛ける。けれど、彼は起きる気配がない。

「ノボリさん、ノボリさん? 寝るならベッドに行きましょ? ここは身体にも悪いし、風邪ひきますよー?」

 さっきより少し顔を近づけて、決してうるさくはないように、できるだけノボリさんが優しく覚醒できるように気を付けながら声量を調節する。そこでノボリさんはようやく鼻から「んー……」とやたらに色っぽい声を上げて、もぞりと動きを見せた。このまま覚醒してくれるかなあと思っていると、ノボリさんはそのまま再びすやすやと規則正しい呼吸を繰り返してしまった。

「ノボリさーん ね、だめですよ、一回起きましょう?」

 さっきよりも少し強めに肩を叩く。ああう、半開きになってる唇がやたら色っぽく見えるのはなんなんだろうか! このままでは私の心臓に悪いと思った私は、どうにかノボリさんに目を覚ましてもらおうと必死になり始めていた。

「ノボリさん、明日もお仕事早いんでしょう? ちゃんと寝ないと。起きてください、ノボリさん、ノーボーリ―さーんー!」

 うん。こういう寝方をして起こされるのが不愉快なのは私にも覚えがあるから、できればそうっとしておいてあげたい。でも、そうもいかないのだ。いろんな意味で。これはノボリさんのためというよりは、私のため、だ。
 なんだか気持ちが落ち着かないし、さっきの鼻にかかった声がぐるぐる頭の中を回っているし、正直早く帰ってその、うんと、まあその、ねえ、そういう気分になってしまうし、でもこんなノボリさんを置いていけはしないし、そもそも私を待っていてくれたのだし。
 健やかな顔で眠り続けるノボリさんに半ば途方に暮れつつ、私はとりあえず必死にノボリさんの名前を呼び続けた。

「……ねえ、ノボリさん、お、起きてくれないと……き、……きす、します、よ?」

 こうまでしても起きないのだからよほど深く眠ってるのだろう。そう思った私は、ありがちだとは思いながらも、定番中の定番な台詞を口にしていた。ん? これ普通逆じゃないだろうか。まあいいか。あと、言ってから気づいたけれど、ノボリさんはこんなことでは飛び起きたりはしないと思う。なんだか慣れているし。

 なけなしの勇気をもって絞り出した言葉も、肝心な部分はひどく小さなものになってしまって、格好がつかないったらない。
 じい、と薄く開いた口元に目を落とす。またこくりと唾を飲み込んだ。……いいか、眠っているなら、気づかれないだろう。だって、ここまで呼んだんだもの。それでも全然起きないんだもの。それに、……そう、これはお詫びのキスだ。待たせてごめんなさい、それから、待ってくれてありがとう。私の会いたいというわがままを、嫌な顔一つせずに受け入れてくれて、ありがとう。いつも言えないけれど、大好きです。と。これは丁度いい機会なのだ。

 うるさい心臓を押さえつける術は知らなかった。いつも見上げている顔を、今は見下ろしている。いつもは振ってくる唇に、今日は私から唇を、
「……」
 そうっと近づけて、唇の位置に合わせて私も薄く口を開ける。それから、ゆっくり目を閉じて。目的のそれに触れると、私からしたことなのに体が震えた。一瞬強張った身体をどうにか動かして、もっとしっかりと押し付ける。それから、ちゅ、と吸い付いた。一際強く心臓がはねた気がする。震える息を吐きながらそっと顔を離すと、アッシュの瞳が、真っ直ぐ私を――

「!?」

 ビャ! と飛びのいた私は、そのまま無様に尻もちをついてしまい、にゃ、ともぎゃ、ともつかない情けない声を上げた。ノボリさんはと言えば、慌てふためく私とは全く真逆で、いつも通りの顔つきで、
「お帰りなさいまし、お待ちしておりました」
 と、優しそうな声で呟いた。
「なん、あっ、えっ、お、起きて……いつからですか!」

 さっきまでとは違う意味で心臓がうるさい。

「申し訳ございません、メグルさまに名前を呼んでいただくのが……存外、心地よかったもので」

 つまり、意識はあったけれど、起きるところまでいかなかったと。うんうん、私もそれでベッドから落ちるなーと思いながら起きれなくて、落ちた衝撃でやっと覚醒したことがあったけれど、そういう感じですよね、あるある。頭の中ではそんな他愛のない言葉が浮かんでいくけれど、それは一つとして口から出ることはなかった。

「……あ、あの、えと、私、」
「わたくしも、あなたさまにお会いできるのを心待ちにしておりました」

 なんといったものかと意味のない言葉を羅列していると、不意にノボリさんが目を細めてそう言った。あ、笑ってる。嬉しそう。

「浴槽に湯を張っていたのですが、メグルさまもお入りになりますか?」
「うえっ? いえ、あの、ならノボリさん、お先にどうぞ。というか、私が入っても?」
「勿論です。なんでしたら、一緒にいかがですか? 承諾されますと、そのままベッドの中で、朝まで、になりますが」
「!?」

 やっぱり慣れてる感じのノボリさんは、それでも全くお茶らけた風もなく真っ直ぐにそんな言葉を向けてくる。からかっているのでもなく、きっと本心で、うなずけばその通りになるのだろう。
 さっきまで身体の中によどんでいた衝動を振り返りながら私が答えあぐねていると、ノボリさんはそっと私の手を取って、私を立たせるのではなく、私の側に跪いた。

「そう構えないでくださいまし。たとえ眠っている間だけであろうと、メグルさまがわたくしの手の届く場所へいてくださるだけで、ただそれだけでわたくしは満たされるのでございます」

 手の甲を、ノボリさんの親指が這い、唇がそこに押し当てられる。……ノボリさんも寂しかった、ということで、いいのかな。

「いかがですか?」

 無理強いは致しません、とはっきり告げる口調はしっかりしていた。
「……わ、私は、別に……それ以上、でも」
 反対に、私の声はぼそぼそとだらしがない。けれど、ちらりと伺ったノボリさんの顔は……ううん、目は、とっても幸せそうに細くなっていて、私はせっかくあげた視線を下に戻してしまった。――ああ、わがまま言ってよかったなあ。

2011/11/15 UP