ぺろぺろ

「ん」

 静かな室内。季節は冬となり、空気は冷え、室内には暖房器具が置かれ、乾燥する。年中通してリップクリームを手放さない彼女は、唇に走った痛みに眉をひそめた。切れている。
 たまたま数時間付け直さなかっただけでこれか、と彼女は肩を落としてため息をついた。
「どうしました?」
 そして、それに気づかぬ彼でもない。
 ノボリは彼女がしかめっ面をしたのは知らなかったが、不快そうに出た声は、同じ室内にいる彼に届かないはずはなかった。

「ちょっと、唇が切れただけです」
「ほう」

 切れた個所が気になるのだろう、歯で噛むようにして発せられた彼女の声に彼は眉一つ動かさず、ただ彼女が唇を切ったという珍しい事態に軽く目を見開いた。彼女が暇さえあれば唇にリップクリームを塗っているのは彼も目に止めているところで、恋人という肩書きがあるからだろうか、それを注意することはなかった。まさかその彼女が。
 常から彼女の唇が触れるそのリップクリームを注視してはよからぬことに思考を占められていた彼だが、次に起こした行動は決して下心からのものではなかった。

「どこです?」
「ん、下唇、なんですけど」

 す、とお互い何の他意もなくそこに意識が向く。そこで彼は彼女の唇の上に走る赤い線に目を止め、ほんのわずか、刹那ほど思考を停止した。それからもっとよく見せろと言わんばかりに揃えた両手の指先で彼女の頚部を押さえると、覗き込むように距離を詰めた。
 勤務中でない今は、彼は脱帽していて二人を遮るものなど何もない。
 思わず近くなった距離に、彼女は仰け反りそうになりながらも緊張から息をつめた。随分慣れたとはいえ、やはり好きな相手には弱いものだ。それでもじっとしていられるだけ成長と言える。

「……」
「あの、ノボリさん?」

 食い入るように一か所を見つめて固まってしまった彼に、彼女はまごつきながらも唇を動かした。
 直後。

「!」

 ぺろ、とそこを舌先で舐められ、彼女は混乱する。
「あの!?」
 首は動かせないし、唇を動かそうにもノボリは彼女の底に舌を這わせているわけで、ともすればそのまま口内へ入ってしまうのではないかと、上ずってしまったそれは期待以外のなにものでもなかった。けれど、当のノボリは普段なら気づくようなそんな彼女の様子は全く意に介さず、ひたすら彼女が唇に負った傷、ただその一点に意識を注いでいた。

 舌先で傷をなぞられ、それが染みるのだろう、彼女の顔が歪む。それも大したことではないとノボリはひたすらそこに舌を這わせ続けた。
 初めは舌先で優しく。小刻みに先端を揺らして、ちらちらと穏やかに、けれど時折ねっとりといやらしく。悩ましげに漏れる彼女の吐息は視覚からして彼を煽り、軽く音を立ててキスをすれば、彼女の咽喉がこくりと唾液を飲み込む音が聞こえた。それを確認し、今度は強くそこに吸い付く。まるで彼女の血が欲しいと言わんばかりに。実際彼にはその意図があったが、彼女にはわかるはずもない。

「っ、ぅぁ」

 呻きとも喘ぎともつかない声が彼女の咽喉から絞り出される。ノボリは一度吸い付くのをやめて、口内に混じった彼女の血を、それは美味なるもののように堪能した。〆とばかりに自分の唇を舐めて湿らせる。それが終わると、もう一度彼女の下唇を躊躇なく蹂躙した。
 舌でなぞり、吸い付き、得たものを舐めとり飲み下す。彼のそれですっかり乾燥とは無縁になった彼女の唇は、じんじんと走る痛みを快楽へ変えようとしていた。小さな痛みは与える相手や自らの気の持ちようによってどうとでも変わるらしいことを初めて知る。決して嫌ではなく、むしろこれからどうなるのか、何をされるのかを思えば、それは仕方のないことでもあった。
 しかし、先ほど飲み込んだとはいえ再び唾液は彼女の口内へたまっていく。また飲むにしても唇は動かさねばならない。でも彼の邪魔はしたくないし、このまま続けてほしい。
 小さな葛藤の末、彼女は助けを求めるように自分から舌を伸ばそうとしていた。それは彼の舌に触れ、ようやくノボリは彼女の表情を伺う余裕ができた。そして、それを見て絡めぬ理由はない。彼女の望み通り舌を絡ませ、その舌先にも吸い付いて、最後に柔らかな彼女にたっぷりと甘く響くキスを残し、ようやく彼は彼女から離れた。すかさず彼女は口を閉じて、咽喉を動かす。キスである程度拭えたとはいえ、彼の唾液にまみれた唇の上を彼女の舌が走るのを見て、彼は知らずふるりと身を震わせた。

「……っは、ぁ……いきなり、どうしたんですか」

 どうも彼がそれ以上をする気がないと悟ると、彼女はいぶかしげに彼を見て尋ねた。もっともだ。
「いえ、……機会を逃さない手はないと、思いましたので」
 彼の言葉に、彼女は不思議そうに彼の言葉を頭の中で反芻し、つまり単にキスがしたかっただけかと解釈すると、顔を赤くして口元を覆った。それを見て、流石にあなたさまの血を舐めてみたかったから、などと馬鹿正直なことを口にしなくてよかったと、彼は一人胸をなでおろす。そして彼女の表情にうっすらと物足りなさを読み取ると、意図はどうであれ自分の欲求が満たされるまで我慢してくれた可愛らしい恋人の不満を解消するべく、彼女を寝室へ運ぶため立ち上がった。

2011/11/21 UP