甲斐性もそこそこに

 ギアステーションは地下施設だが、地上にそびえるその部分はホテルだとかレストランだとか、あるいは映画館まで入っている大きな駅ビルである。
 ノボリは夜の業務にかかるまでの短い中休みを使って、最上階より一つ下のフロアを歩いていた。ここは複数階に渡って展開されているホテルのうちの一階である。
 ギアステーションではこつこつと響く靴音も、柔らかな絨毯の敷かれたここではほぼ無音に近い。

「あなた」

 ノボリは駅員の権限で契約してある一室を目指していたが、馴染みのある声に歩みを止めた。
 見るとそこには、給仕姿の女性が、柔らかな笑みと共に彼を手招いていた。彼女のすぐそばには、スタッフルームへの扉がある。
 彼は一つだけ浅くため息をつくと、彼女と連れ立ってそこへ身を滑らせた。

メグル、勤務中はそのように呼ぶのはお止めくださいと、以前にも申し上げましたはずですが」
「あら、ここまで来るってことは、今は休憩時間なんでしょう?」

 開口一番の小言にも彼女、メグルは全く物怖じせずそう言った。二人の左薬指には――手袋をしているノボリは傍目からは見えないが――揃いの指輪が控えめに光っていた。つまり。

「少し位いいじゃないですか、仕事ばっかりの旦那さ、まっ」

 メグルがノボリの胸元を指先でつつく。彼は仕方がない人ですねと再びため息をこぼしたが、それ以上は何も言わなかった。

「さて、それで……どうしました、メグル?」

 代わりに、呼んだからには用があるのだろうと彼は彼女を促すことにした。
 メグルはこのホテルに勤めていて、姿からも分かるように今は勤務中である。
 勿論お互い仕事に支障がないと判断したから今ここにこうして立っているわけだが、あまり時間がとれるとは言えない。
 けれどノボリに尋ねられたメグルは、何度か恥ずかしそうにノボリの顔を見ては足元に視線を落とし、口は開かないまま、両腕を彼の首に回そうと手を伸ばしただけだった。
 ノボリは彼女の意図を酌み、上体を屈める。
 触れるだけのキスは、軽い音を立ててすぐに終わった。

「ここには休みにいらしたんでしょう? ついでに、口紅も落としていってくださいな」

 はにかんでノボリから手を離すメグルに、彼もまた黙ったまま彼女の身体を引き寄せて腕の中に収めた。

「! あなた? あの、ワイシャツが汚れますから……」
「すぐに着替えますので、たいした問題ではありません」

 メグルの顔が彼のシャツに埋もれ、困惑する彼女をよそに、ノボリは改めて彼女に深く口づけた。
 今日はいい夫婦の日だ、とは誰が言ったのだったか。
 彼女の口紅を乱し、自らの唇さえも染めながら彼は思うまま彼女を堪能すると、力が抜けて彼にしなだれかかった彼女の身体を横抱きにした。

「きゃ」
メグル、今日のあなたの仕事は終わりですか」
「ええ、だから呼び止めたんですけど」
「ではタイムカードは」
「切りました。着替えようと思って、ここへ」
「そうですか、では問題ありませんね」

 ノボリは言うや否や、彼女を抱えたまま扉を開けて廊下へ出ると、そのままもともと目指していた部屋まで大股で向かい、ドアを開ける直前に彼女を降ろした。

「ノボリさん?」
「わたくし、女性の化粧の落とし方など存じ上げませんので。メグルが落としてくださいまし」
「まあ」

 勤務中……少なくとも外にいる間は頑なにサブウェイマスターたらんとするこの男に一体何があったのか。メグルはまあるく目を見開きながらも、彼のサービスに心が跳ねた。
 ノボリに促され、部屋の中へ入る。オートロックの扉はバタンと閉まると同時に、鍵のかかる音がした。

「いけませんか?」
「……いいえ、じゃあ、このワイシャツも、責任もってお洗濯します」
「ありがとうございます。休憩時間はあと一時間ほどですので、わたくしは少し仮眠をとります」
「はい」
「あなたがそばにいてくだされば、よく眠れましょう」
「……はい」

 そうして二人、口紅でぐちゃぐちゃになった唇のまま、もう一度たっぷりとキスを。
 その後、あまりの汚れぶりに吹き出しつつ、メグルは化粧を落とすついでにシャワーも一緒に浴びませんかと提案するのだった。

2011/11/22 UP