この話には性描写が含まれるため、18歳未満の方や高校生の閲覧を固くお断り致します。

月満ちる夜に

 ふ、と夜半に目が覚めた。虫の声がうるさいほどで、開け放った戸から入ってくる風が涼しい。月の光がやけに眩しく感じる。蚊帳の中にいることと、顔に浴びているわけではないのでその所為で起きたわけではなさそうだった。隔離された特殊なこの空間において、敵襲に遭うことも殆どない。夜戦に出した部隊は寝る前に帰還している。胸騒ぎがしたわけでもない。
 ただ、本当に偶然だった。
「どうかしたか」
 もそりと布団から這い出すと、戸を開ける代わりに寝ずの番を置くと言って配置された後藤藤四郎が外から声を上げた。
「異常は?」
「今んところはねえな」
 最近、修行を終えて一回りも二回りも強くなった後藤の声は揺るぎなく、頼もしい限りだ。蛍が飛び交う庭は夏の風情たっぷりで、この本丸の池や井戸の水が綺麗であることを示していた。
「じゃあ……誰か、寝付けない子はいる?」
 人間の耳には、この本丸は穏やかな夜に包まれているように思う。それでも、いつかあった出来事に思いを馳せて、私は後藤に尋ねた。
「一人いるぜ」
「だれ?」
「水心子正秀。井戸の側で何度も水を被ってたが、今は移動してるな」
「どこに?」
「池ん中」
「あら」
 それはいけない。付喪神といえど、今は人の身体を持っているのだ。罰でも、修行でもないのに身体をいじめるのは宜しくない。
 四つん這いで蚊帳から這い出ると、後藤の脇に腰を下ろし、足先に草履を引っかけた。
「大将が行くのか?」
「薬研は今日の出陣で疲れてるでしょう。それに、水心子はまだこちらで顕現してから日も浅いし、私の前では普段から気を張っているようだから。清麿にも頼っていないのなら私が行くわ」
「ん」
「こっちに連れてくるから、後藤は一度どこかに隠れていて」
「近侍は?」
「水心子を連れてくるって分かってればいいわ」
「分かった」
 近侍は今は乱藤四郎で、彼は隣の近侍にあてがわれた部屋で寝ている。後藤は音も無く姿を消した。うん。どちらも短刀だ。修行前からこの手のことは熟知しているし、特にからかったり騒ぎ立てるようなこともない。水心子は生真面目だから、リラックスさせようとあれこれ構う刀もいるが、この手のことに関しては軽い調子で絡むわけにも行かない。例え耳に入っても触れるようなことをする者はいないだろう。それは、誰であっても同じ事。
 執務室からよく見える池を目指して歩く。涼しいし、月明かりだけで十分な夜だ。だからこそ影がより夜の闇を濃くしているが、虫たちの声が闇への怖さを多少は減らしてくれる。
 ざりざりと砂を踏みしめ池へやってくると、後藤の言うとおり、水心子が一振りでぽつんと、気配を殺すようにして池の中に立っていた。――戦装束のままだ。
 今日の夜戦に出陣させ、中傷を受けていたので手入れ部屋へ入れたのだが、終わってからずっとああしていたのだろうか。
「あまり身体を冷やしては駄目よ」
 とっくに勘づいているだろう私の気配に、水心子が驚くことはない。頼りないような動きで私を見遣った水心子が「我が主」と呟いたのがかろうじて聞こえた。その目はいつも見るものと同じで真っ直ぐだけれど、表情は頼りない。
「上がっておいでなさい」
「……ああ」
 手招きと共にそう声を掛けると、水心子は観念したように返事をして、ゆっくりとこちらへやってきた。私も距離を詰める。けれど、水心子は池の端までやってきても、上がろうとはしなかった。躊躇うように私を見上げてくる。
 大丈夫。分かっている。
 安心させられるかどうかはともかく、できるだけ優しい声色を心がけ、口を開いた。
「戦の高揚感で眠れないのでしょう。誰かから『やり方』は教わった?」
 はくはくと、水心子の隠されている口元が何か言いたげに動く。
「知っている。知っているが……」
「上手くできなかった?」
 水心子は沈黙する。あまり長時間水の中に居させたくないのだが、焦りは禁物だろう。
「あなただけではないわ。今までにも何振りか知ってるし、私が知らないだけでもっといるのでしょう。あなたを咎めたりはしないから、早く池から上がって。冷たいでしょうに」
 手を差し出すと、水心子はじっと私の手のひらと顔とを見比べて、少し迷うような仕草を見せた。
「鯉たちも寝ているのだから、邪魔してはいけないわ」
 ダメ押しにそう言ってやると、ぱちぱちと目を瞬かせる。それから両目を瞑りくつりと喉で笑うと、私の手を優しく押しのけた。
「主の手が濡れてしまうからな。……すまない、見苦しいところを見せるが、我が主の言うことはもっともだ。御前、失礼する」
 一言断り文句があった後、ざば、と池から上がってくる。彼の戦装束なら、私が直視することはないだろうのに律儀なことだ。そう思って、でもきっと、彼の中では大切なことなのだろうと思い直した。
「折角手入れ部屋で綺麗になったのに、そんな風に濡れてしまって」
 やれやれと声色に気をつけながら咎めると、水心子がたじろいだ。
「それは……そうだが」
「私の部屋へ行くわよ」
「は?」
「服もそうだけど、そもそもあなたがどうしてあんなところにいたのか、その原因を払わないと眠れないでしょう」
「い、いや、我が主、それは」
「だめよ。あなたが頼りになる刀に黙って一人であんな風にいたのだから、諦めてちょうだい」
「しかしっ あ、わ、私は……この通り、濡れてしまっていることだし、」
「その状態で私の部屋に上がるのが気が引けるというのなら、あなたの部屋に行ってもいいけれど?」
「駄目だ! 我が主、あなたは私だけでなくこの本丸の主なのだから、そう易々と臣下の元へ足を運ぶなど」
「じゃあ私の所へいらっしゃいな」
 案の定素直に頷いてくれない刀の手を引こうと外套の端から手を差し入れようとすると、やんわりと手を取られた。
「貴女と私は人間と刀剣男士だ。違う存在なのだ。そして……貴女は女で、私は男だ」
 水心子は相応の距離を保ちたいのだろうが、そうはいかない。私がやるといったらやる審神者であるということでこの本丸では有名だ。付き合いの長い刀はよく知っている。勿論、水心子はまだ知らないけれど。
「一人で昂ぶりを宥められないなら、まだ一人前の男ではないわよ」
 敢えて水心子を刺激する言葉を吐く。訝る彼の手を今度こそ優しく引いて、私は月明かりの中歩き出した。


 水心子は観念したのか、大人しくついてきた。縁側で外套などは脱いでしまうように告げて、できるだけ畳が濡れないようにする。縁側は……まあ、大丈夫だろう。そんな柔な作りではない。
「……我が主、その……本当にこのまま上がってもいいと?」
「そうよ。濡れてしまって身体も冷えてるだろうから……あ、ズボンも脱いでしまって。誰も見てないから」
「貴女が見ているだろう!」
「そういうのはいいから」
「そういうのはいいから?!」
 早く、と言うと、水心子は憤懣やるかたない、という様子だったものの、それをぐっと堪えて飲み込むと、覚悟を決めたのか纏っていた服を脱ぎきった。ふむ、シンプルなボクサーパンツ。
「あまり見ないでもらえるだろうか」
 下着一枚になった水心子は私の目元近くで手のひらをかざし、視界を遮ってくる。それもそうかと頷いて、私は彼を蚊帳の中――布団の中へと引き入れた。勿論、布団が濡れるからボクサーパンツも脱いでもらって、だ。
 帽子もなく、口元も覆われていないどころか私が見た限りもっとも無防備な姿の水心子の身体は打刀独特の瑞々しさとたくましさがあった。
「ああ、ほら、こんなに冷えて」
 ぎこちなく布団に横たわる水心子にぴったりとくっつく。本当に冷たくて、寝間着越しに直ぐにそのひんやりとした温度が伝わってくる。いくら刀剣男士が頑丈といっても目に見えて身体を強張らせる様子に、もう一度彼の手を取って、安心させるように自分の肌へ触れさせた。頬を挟ませる。
「怖くないわよ。ほら」
「別に怖がっているわけでは……だが、その、我が主の身体はいささか柔らかすぎないか」
「女の身体としては普通よ」
「……そうなのか」
「それより、あなたの身体、本当に冷たくなっているわ……覚えておいて、冷やすと動きが鈍るし、体力も使ってしまうの。ここは本丸で、私やあなたたちには安心できる場所だけれど、戦へ向かった先で同じようなことをしていたら出遅れてしまう」
「……気遣い、痛み入る」
「いいえ」
 水心子の冷え切った身体は、けれど、程なくして暖まった。……下腹部を中心に。下着姿になったときからはっきりと見えていた昂ぶりは、彼の中で一番熱を持っている。この熱を、ただ冷やそうとした水心子の行動をからかうことはできない。彼とて知識として知っていたはずだ。けれど自慰が上手くできないからと頭を冷やすために水を被り、それでも振り払えない熱のためにああしていたのだと思うと――目を覚まして良かったと思う。
 人の身体を得て早々性的な快楽に溺れるのは困るが、本来自然と覚えていくものをいきなり持たされ、扱いかねているのは不憫だ。
 初期刀も同じように池に浸かっていたことを思い出す。あの頃は私も若く、本丸を与えられたばかりだった。初めて敵大将の首をあげた際の小さな祝いの席の後のことだ。今でもよく覚えている。初期刀に教えてからは、何を言うでもなく先に顕現した者が持て余している者へ教え伝えていくようになっていた。最初期は短刀達が多く来てくれたのも良かったのだろう。
 仰向けに横たわって身を固くする水心子に寄り添うようにしながら、そろりと、水心子の猛りへ触れる。息を詰める気配に、様子を見ながらそっと手を動かした。
 敏感な先端は避けて、皮に包まれた竿の部分をゆっくりと手のひらを押し当て、さする。水心子の陰茎は熱く、勃起したままだった。ここに触れることなく、淫蕩に耽ることなく鎮めることを選ぶ刀剣男士もいるが、皆が皆その方法で落ち着けるわけではない。水心子も、もしかしたら他の手段の方がいいのかもしれない。けれど、取り敢えずはこの方法で収めることを覚えてもらう。
 ……男ではない私にはそれがどれほどまでのことかはきちんと理解できないけれど、きっと朝、誰かが起き出して手を差し伸べるまで耐えるには、あまりにも夜は長いと思うから。
「どう? 痛くない?」
「ん……大丈夫だ」
 悪くない反応にほっとする。水心子の身体がじわじわと温かくなり、私にされるがままに身体を固まらせている様子は微笑ましいものの、このままでは私が困る。
 初期刀の時はどうだったのだっけ。
 思い出しながら、陰茎の皮を包むように手で輪っかを作った。陰毛を巻き込まないように気をつけつつ、少し力を込めて、ゆっくりと扱く。
「うっ……」
「痛い?」
 水心子のうめき声に手を止める。水心子は首を横に振った。
 そろそろと手の動きを再開すると、今度は明らかにうっとりとしたため息が彼の口から漏れ出た。
「気持ちいい?」
「ん、」
 言葉少なで、控えめな首肯。快感に戸惑っているのか、私に遠慮しているのかは分からないけれど、目を伏せながらも素直に応えてくれるのはありがたい。私はもう片方の手で彼の頭を撫でた。
「どうされると気持ちが良いのか、覚えていて。大切なことだから」
「……はっ……わか、った……っ」
 上擦る声を堪えるように水心子が眉を寄せ、固く閉じていた目を僅かに開けて私を見る。瞬間、手の中のものがぐっと硬くなった気がした。
 暫くそうして手を動かしていたけれど、徐々に水心子の力が抜けて私に身を委ねるように頭がこちらへと動いた。少し迷って、自分の身体の位置を調整する。掛け布団を蹴って退かし、水心子の首の下に腕を通して、頭を抱えるようにして撫でた。瞼と同じように固く閉じていた口元はうっすらと開いてきている。いつもガードの堅い彼の姿からは考えられないような隙のある様子にとくとくと胸が鳴る。
「……どう? 自分で気持ちの良いようにやってみて」
 優しく頭皮を指先でなぞりながらそう囁くと、水心子は私の手の上から自身を握り込んだ。もう片方の手が、私の脇の下を通って背中へ向かう。寝間着を掴まれて、彼の物慣れない姿に笑みが漏れた。
「水心子、私の腰を抱いて良いから」
「しか、し」
「いいのよ。首が絞まっちゃう」
 飽くまで責めないようにと気をつけながら優しく言うと、直ぐに水心子の手が離れる。
「っ、すまない」
 背中を通って、水心子が私の腰を捉えた。私の手を包む方もそうだけれど、存外その手が大きくて、ああ、年若そうな姿でも立派な刀剣男士なのだと場違いに思う。
 大丈夫だと言葉を重ねて、自分でやってみるように促すと、水心子は片膝を立てて思ったよりもずっと強い力で陰茎を扱き始めた。
 彼の筋肉の動きを感じながら、それでいいのだと頭を撫でる。時折耐えきれなかったように、小さく幼い声が漏れる。なのに、私の腰を抱く腕は強く、果てる瞬間、一層強く抱き込まれた。
「ふ、……っ……」
 びく、びく、と彼の陰茎が手の中で強く脈打つ。水心子の赤く染まった耳が鎖骨に当たり、その熱さを感じる。無意識か、水心子が私に頬ずりをして、落ち着ける場所を見つけたのか動きが止まる。何度も大きく深呼吸をする。
 私が自慰を覚えて、達することができたときはどんな風だったっけ。そう思いながら、疲れたように力を抜く彼によくできました、なんて子ども扱いのような言葉を言いたくなる。機嫌を損ねたくないから絶対に言わないけれど。でも、その気持ちは正直な所だ。初めて人の身体を得て、男の性衝動をいきなり御せというのも酷な話だと思うから。
 指を伝う精液と、水心子の腹部に飛んだ同じものを横目に、水心子が落ち着くのを待つ。
 暫く虫の声を聞きながら、このまま寝てしまいそうだなと思った頃。強く抱きしめられていた力がゆるゆると解けるのを感じた。強張ったまま私の手ごと陰茎を握っていた手が、ぱりぱりとぎこちなく離れていく。
 ゆっくりと目を開けた水心子の綺麗な瞳は潤んでいた。そして衝動の残滓を見遣ると、どうしてか眉尻を下げた。私から手を離して、ゆっくりを身を起こす。合わせて私も布団の上に楽な格好で座ると、一向に視線を合わせようとしない水心子が口を開いた。
「すまない、我が主……」
「いいのよ。初めてだから不慣れなことも勿論、」
「違うんだ」
 生真面目な彼のことだ、手間を掛けさせて、とか、本来こういった手合いを異性がするという慣習は今はもう廃れてしまっていることは知っているだろうから、恥じらいだとか、申し訳なさがあるのだろう。そう思って返事をすると、水心子は弱々しく頭を振った。
「最初……手入れ部屋で自分でどうにかしようとした時……貴女の顔が浮かんでしまったんだ。咄嗟に駄目だと思った。でも、一度浮かんでしまうとどうにも振り払えなくて……手入れは終わっていたから、頭を冷やそうと思った。その、服の上から水を被ったのは私の判断ミスだが」
 彼のことだ、自慰の際の対象に私が出てきてしまったことを余程重く捉えたのだろう。慌てていたのか、一刻も早く冷静になりたかったのかは知るべくもないが、自責の念もあって池の中に入ったことまでは容易に想像できる。
「今も……性器に触れてどうこうというよりは……貴女の手と身体の柔らかさが……その、こ、こういった不埒な考えは刀剣男士としてあるまじきことだと理解しているのだが、」
「水心子」
「我が主の懐の深さに付け入るようで据わりが悪いというか、だな」
「水心子正秀」
「はいっ ごめんなさい!」
 懸命に言葉を吐き出して弁明しようとする彼を遮ると、水心子は白旗をあげるように背筋を伸ばしてぎゅっと目を瞑った。普段落ち着いた話し方を心がけているのを知っている分、恐らく本来の彼の柔らかな言葉がまろびでて少し嬉しく思う。
「思い詰めないでいいから。まあ、流石に他の皆が誰の事を考えながら処理しているのかは知らないけど……この本丸に顕現したあなたが知っている女と言えば私くらいのものだし、そもそも私があなたをここに招いたのだから、あなたがそう感じるのはおかしなことではないわ。
 どうしても気になるというのなら一応、刀剣男士向けにこういったことに関するサービスとか、相談窓口とかもあるから。そのうち別の女性とか、そもそも特定の個人を思い浮かべなくてもよくなるかもしれないし。最初のあたりでこの本丸に来てくれた短刀達なら皆詳しいと思うから……ああ、そうね、薬研藤四郎に相談してみたらいろいろと案内してくれると思うわ」
 つらつらと言葉が出てくる。初期刀の時は慌てたりぎこちなかったりと色々あったけれど、今は流石に顕現した付喪神もかなりの数になるし、知識として頭の中に入っているから、水心子が不安になるような姿は見せないで済むはずだ。あとは、きっと気まずく感じているだろう彼に、追い打ちを掛けるようなことをしないように気をつけるだけ。私まで変に恥ずかしがらないようにしなくては。
 けれど、水心子は私の言葉にひゅ、と息を止めた。思わずといった様子でこちらを見てくる彼の表情が決してよいものではないことは直ぐに分かった。
「……水心子?」
 何か間違えただろうか。
 やっていることがデリケートなだけに、じりじりとした焦燥感めいた感覚が胸の下で生まれる。
 次の言葉を迷っていると、水心子ははくはくと口元を動かして、それから一度唇を引き結ぶと、ぽつりと呟いた。
「ちがう……」
 その声が泣いているのかと思うほどか細くて、私はどうして良いか分からなくなった。顔を覗き込むのも、下手に声を掛けるのも躊躇われたし、その判断は間違ってなかったと思う。
 水心子の、私の腰を抱いていた手が迷うように私の手を取ろうとして、引き戻されるのを見送る。
「私は……刀と人は、私と貴女は違う存在なのだとあれほど言っておきながら、貴女に懸想しているのだ。自慰だって、今までできなかったわけではなくて……あ、貴女が頭の中に過ってしまって、それでそれ以上は憚られたと言うだけで、」
「……」
「……嘘ではないし冗談でもないぞ?」
「あなたがそんなことを言う刀じゃないのは理解しているつもりよ」
「そ、そうか」
 水心子の求める着地点がどこなのか見えないし、私から恣意的に話を進めるのも憚られた。それに――初陣でこそなかったとは言っても、水心子正秀はこの本丸に来てまだ日が浅い。彼に好かれるような何かでもあっただろうかと振り返ってみても、何も心当たりがなかった。
「あなたにそこまで想われているなんて、光栄だわ」
「……」
 恐る恐る、私の真意を見極めるようにしてやっと目を向けてくれた水心子の表情は、どこか思い詰めているようにも見えた。私の表情は、彼の目にどんな風に見えているだろう。戸惑っているように見えなければいいのだが。
「待ちます」
「え?」
「あなたが結論を出すまで、待っているわ」
 ゆっくりと、決してまくし立てないように自分の気持ちを少しずつ吐き出す。
「あなたが思い悩んでいるのは分かったから。あなたが……私を想うことを肯定するのか、それとも戒めるのか……分からないけれど。私はどちらの結論も受け入れるわ」
「我が主? しかし、それは……」
「私はこの本丸を任された審神者です。あなたたちの主でもある。……もし、あなたが肯定した時は……その時は、私があなたをどう思っているのか、あなたとどうなりたいのか話します。そして、二人で決めましょう。勿論あなたがその気持ちを戒めるというのなら、それらは明かさなくてもいいことです。そうでしょう?」
 数多の付喪神を束ねる者だ。本丸を運営し始めた当初ならともかく、今は本丸を一番に考えることくらいできる。
「でも、そうね」
 ――ただまあ、水心子がその心の内を見せてくれたように、私も今だけは、少し気持ちを吐き出しても許されるだろうか。
 そっと顔を寄せ、水心子の綺麗な頬に唇を押しつける。軽く吸い付くと、ちゅ、と甘やかな音がした。虫の声がけたたましい中、彼には聞こえただろうか。
「わっ、我が主ッ?!」
 咄嗟に水心子が口づけた頬を抑える。顔を赤らめて、正直な反応をしてくれる彼に微笑んだ。
「折角だから、色好い返事を待っていましょうか」


「あーあ、私も好きよって言っちゃえばよかったのに。あれじゃあ、水心子さん、また悶々としちゃうよ?」
 後片付けをして、後藤か乱が用意してくれていたらしい浴衣を私の予備だと言いくるめて水心子に着せ、濡れてしまった衣類は乾燥機へ放り込んでおくことを約束させて部屋まで返した後。そっとふすまを開けて乱が入ってきた。その手には湯飲みが三つと、急須をのせたお盆。
「自分でも気持ちの整理がついてないみたいだったからね。それに、好きな男にオカズにされてるのはなんだかそれはそれでいいものだと思って」
 私の予備にしては明らかに大きなサイズの浴衣だったのに、水心子は気づかないほど動揺しているようだった。
「余計な世話だったか?」
 縁側で、びしょ濡れになった部分を雑巾で拭きながら後藤が私をうかがうように見てくる。乱が淹れてくれたお茶の入った湯飲みの一つを後藤にも渡しつつ、私は熱いお茶に舌鼓を打った。うん。美味しい。
「いいえ、おかげで私も水心子も似たような下心があったのが分かってよかったわ」
 勿論、審神者として、人の身を得て不慣れなことも多い刀剣男士のサポートは当然だと思っている。かと言って、誰彼構わずこんなことをするわけではない。まあ、水心子がとっくに自慰で処理できるようになっていたのは意外だったけど。
「それ。気になったけど、わざわざそんな回りくどいことしなくても良かったんじゃねえ?」
「こういうのは最初になあなあで流されちゃうと、本刃にとってよくないからね。特に、水心子は生真面目だから」
「でもさ、冷静になったら主さんとはやっぱり審神者と刀剣男士の関係で、ってなるかもだよ?」
「別に、それならそれでいいのよ」
 そう。水心子が私と自身の間に線を引いて、交わることをよしとしなくても、いい。
 彼を迎えるまでに、私の本丸は大きくなった。色んな刀剣男士達を迎えて、個性的ながらも優しい彼らにドキドキしたことは数知れない。そんな中、充分過ぎるほどに心臓が強くなった私は水心子正秀に出会った。まだ、私の刀でない頃から彼が気になっていた。いつだって理想を求め、努力する姿。使命感と責任感を強く持ち、かと思えば清麿を高く評価し絶賛する姿は微笑ましくも背筋が伸びた。燭台切光忠だって似通った性質を持っているのに、水心子に強く惹かれたのはどうしてだったのか。成熟しきらない姿のためか。それとも彼の心がまだ背伸びをしているのが垣間見えたからか。
 彼がどうして私を好いているのが分からないように、私も彼にいつ、どんなところを好きになったのか聞かれたら答えられないかも知れない。
「私の恋心くらい、この本丸を思えば小さなことだわ。だって、水心子を含めてあなたたちみたいに大きな愛情は、私には持てないもの」
 私に懸想している、と水心子は言った。けれど、彼をはじめ、刀剣男士達は皆ヒトに対する大きな愛情でいっぱいだ。私に同じものは持てない。それが、私と彼の違い。
「えーっ そんなことないよ」
「ありがとう、乱。勿論、報われれば嬉しいよ。けど、だからって何かが変わるわけでもないだろうしね」
 どう転んでも私は審神者としての務めを全うするし、彼もそうだ。私が、水心子を想い続けられるまで想うのも、今と変わらない。
「皆が強くなったように、私もこの本丸で皆に育ててもらった。だから、きっと誰を好きになっても変わらない」
「……いや、大将も大概でっけえよ」
「そう?」
「うん」
「そうかしら……?」
 大抵の本丸は似たような状態だと思うのだけど。
 浮かんだ言葉はそっと胸の中にしまって、私は湯飲みに残るお茶を飲み干した。虫もそろそろ眠る頃だろう。月は明るく、相変わらず空にぽっかりと浮かんでいた。

2021.06.02

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