Umlaut

特別夜: 彼という男 ~ How simple he is ! ~

 日が傾いていた。あと半時もすれば、白く輝いていた太陽は熟れたトマトのように赤くなり、辺りは徐々に艶やかな夕焼けに照らされる。かぐわしい夕飯の匂いが立ち込める中、人々は家路を急ぐだろう。……一部、嬉々として外に繰り出す輩も少なくないのだろうけれど。
 そんな中、私はなにをどうしてか余ったケーキが入ったピクニックバスケットを下げて帰路についていた。
 今日は一日パッフェルさんのお手伝いで終わってしまった。
 おうちに帰るまでがバイトですよォ?と言われて、制服のまま今お世話になっているギブソンさんとミモザさんの豪邸に足を向けている。特徴的なオレンジと白の制服は人目を引いていて恥ずかしくもあるけれど、まさに帰宅するまでがバイトなのだと思えば自然と営業用の笑顔は出てくるものだ。制服での通勤は宣伝も兼ねているらしく、扱い的には勤務時間外になるこの隙にも商売根性を燃やすオーナーには畏怖すら感じてしまう。すれ違いざまに投げられた視線に愛想笑いをふりまいていると、あることを思い出した。
「……」
 そういえば。
 ふと足を止め、本来なら目的地へと続くはずの道をそれた。もし手伝いが終わった後時間があれば、稽古をしているはずの面々に加わろうとしていたのだった。今からでは流石に遅すぎるから稽古は出来ないけれど、一緒に帰ってみるのも悪くはないだろう。店の宣伝と、そして帰宅したらギブソンさんにバスケットの中身を奪われかねないという危惧もあって、私はみんながいるだろう再開発区へと急いだ。
 すでに高級住宅街へと踏み入れていたため、導きの庭園を抜けて蒼の派閥のすぐそばを駆け抜ける。景色が徐々に開け、野ざらしになっている石材が見え始めた。そしてその開け切った場所には明らかに工事関係者ではない姿をしている人間が数人、固まって組手をしているのが確認できた。良かった、まだみんないるみたい。
「みんな!」
 声をかけると、まずはじめにリューグとモーリンの組手をみていたロッカとシャムロックさん、マグナ、フォルテがこちらを振り向いた。四人の目が軽く見開かれる。それに合わせるように組み手をしてた二人も私へと視線を寄越した。
キョウコ、その格好はどうしたの?」
「ちょっとお手伝いを、ね」
 バスケットを胸元まで引き上げると、自然と視線はそこへと落ちた。
「今日ね、たまたま、ホンットーにたまたまなんだけど、珍しくケーキが余っちゃったのね。商品としてはもうギリギリでね、店長がよかったら持って帰ってくれって。あ、あの、でもね、確かに作ってからちょっと時間も経っちゃったんだけど、ちゃんと食べれるからね?」
 念を押すようにそういうと、私は積み重ねられた石材の上にバスケットを置いて、ふたを開けた。
 わあ、とマグナが嬉しそうな声を上げる。中には、美味しそうなケーキがズラリ。……と言っても、売れ残りだから種類はそう多くない。チョコレートケーキとモンブラン、それにショートケーキが二つずつ。……丁度今組み手をしていた面々と数は一致している。
「うまそうじゃねぇか」
「じゃ、女性のモーリンから選んで。はい、御手拭はこれね」
「……ええっ!?あたいからかい?」
「勿論!」
 私が手渡した御手拭を流れで受け取りながら、一拍置いて驚き戸惑うモーリンの頬は赤く染まっていて、どう見てもそれは組み手をしていたことによる体温の上昇ではなさそうだった。時折見せる彼女の表情に、かわいいなあ、とオヤジみたいなことを考えていると、モーリンは少し迷ってからモンブランをそっとつかみ上げた。少し頬が緩んでいる。私もつられて笑みがこぼれた。
「はい、じゃ後は男性ね」
「……キョウコは?」
「私はいいよ、今日散々見たから、なんかお腹いっぱいで。それに数も足りないし」
 遠慮がちなマグナの声に答えて、バスケットを差し出す。マグナはうんうんと迷った後ショートケーキを。シャムロックさんはチョコ、ロッカはショートケーキ、フォルテはモンブラン。
「リューグは?」
 最後、なかなか手をつけようとしないリューグにバスケットを向けると、す、と掌を見せられた。
「俺はいい」
「え?でも、ちょっとくらい甘いのなら平気じゃなかった?」
 首をかしげていると、リューグはしかめっ面をして、
「……あの召喚師の家でさんざっぱらあの臭いをかがされて、あんだけの量食ってるのを嫌でも目にしてたら、食う気も失せる」
 思い出したのか、その顔が苦虫をかみつぶしたようなものに変わる。甘いものについて話しているはずなんだけど。
 変なの、と思考をあらぬ方向へ飛ばしていると、リューグはそれと、と言葉を続けた。
「テメエも臭い。……それ以上寄るな」
「え?」
「甘ったるくてかなわねえ。鼻が曲がる」
 そりゃ、確かに外回り担当だったとはいえそういう匂いが染みついている可能性は否めない。くん、と自分でも臭いを嗅ごうとしてみたけれど、良く分からなかった。
「そう言えば、甘い匂いがするな」
 まだケーキに口をつけていなかったロッカが、私の首元に顔を近づける。ケーキから甘い香りがするのはせいぜい出来たての時だから、今はしないはずなのだ。だから彼の言う臭いの元は私、ということになる。
「そう?」
「うん。僕は嫌いじゃないけど」
 ロッカは笑ってそう言ってくれた。まあでも、火薬臭いとか、血なまぐさいよりははるかに良い、ということだろう。はにかむと、既にモンブランをたいらげたフォルテが私の頭に鼻を寄せた。シャムロックさんがそれを咎めたけれど、フォルテはお構いなしだ。
「……ふむ。確かに少しばかり甘ったるいかもな。髪にもついてるし……あと」
 こっちの服のほうも、とフォルテの頭が降りてきたところで、ロッカとリューグからそれぞれ一発喰らっていた。
「調子に乗んな」
「それ以上はいけませんよ」
「……弟くん達、過保護すぎねえか?」
 間髪いれずに鋭さを持って飛んできたそれに、フォルテは小突かれた場所を抑えつつ私に同意を求めてくる。私がそれに応えるよりも先に、モーリンの追撃が落ちてきた。
「アンタがスケベすぎるんだよ。ちょいとスキがありゃこれなんだから」
「あたた、いた、いたい、助けろシャムロック!」
「……今のは自業自得かと……」
 最早苦笑もなく、呆れるようなシャムロックさんの言葉にフォルテが情けない声を上げた。フォルテの行動が『いつも通り』なのはみんな承知の上だ。こんな軽いやり取りが出来ることにふふ、と笑いがこぼれた。出会った当初ならまずできなかっただろう。特に、ロッカが。
「そうそう、どうせスケベオヤジするなら、一人に絞らないと、ねえ?」
 意味深長に笑ってみせると、フォルテの口元がわずかにひきつった。これもいつも通り。
 なんのことかな~?とえらくあからさまにはぐらかしてみせるフォルテに、さあ?と返して、私は結局バスケットの中に残っていたチョコレートケーキを手に取った。
「……要らねえんじゃなかったのか?」
「勿体ないもん。一個だけ余ってるのもなんだし、食べる」
 苦笑するフォルテに直球でそう返し、口に含む。甘くて美味しいけれど、いつもならもっとしっとりとしているスポンジが少し乾いているような気がした。コーヒーか紅茶が飲みたくなる。帰ったら淹れようか。
「さぁて……今日はそろそろ終いにしようかねえ」
「おう、帰って風呂にでも入るかな」
 モーリンとフォルテの言葉に、私は指についたチョコレートクリームをなめとりながら、空になったバスケットを見降ろした。
 これ、持って帰ったら絶対ケーキの話になるよね……。
 御手拭で手を拭いて、僅かに出たごみをバスケットに戻す。折角みんなと帰ろうと思ったけれど、一度店に戻って、これを処理してからの方がよさそうだ。特に女性ばかり数人の恨めしそうな視線が怖い。食べ物の恨みは恐ろしいのだ。
 念の為このケーキのことは内緒で、と口元で人差し指を立ててお願いをしておく。まあ、もしその話になってしまっても、改めて埋め合わせをするまでなのだけど。
「……おい、帰らねえのか?」
 皆の足がまっすぐ高級住宅街へ向けられているのに、私一人が繁華街方面へ行こうとしているのに気がついたのだろう。リューグが僅かに首をかしげながら私を振り返った。
「ちょっとこれ持って帰ると軽く内紛起こっちゃうからさ」
 バゲットを高く持ち上げると、リューグは合点がいったようになるほどな、とこぼして、それから
「なら、俺も行く」
 私が思いもしない言葉を口にした。
 え?と意味のない声を発する暇もなく、リューグの足は私と同じ繁華街へ。
「……大丈夫なの?鼻」
「もう慣れちまった」
 何でもないことのようにそういう姿に、急に嬉しくなって胸がいっぱいになった。色とりどりのケーキを眺めるときよりも、もっと、もっと。
 店を出た時よりも陽はより一層傾き、空は赤く染まり始めている。その中を、二人で歩きだした。一応格闘の心得はあると言っても今はこんな格好だし、店長もよく変な人間に絡まれやすいから気をつけて、と口を酸っぱくしている。まあ外回りを任される人は大抵体力なり何なりに自信がある人のようだから、今のところ取り立てて問題は起こっていないようなのだけど。これから夜の帳が落ちるまでそう時間はかからない。特に繁華街は今の時間が一番昼と夜との境界線が曖昧になって、ある種異質な空気を纏う。聖王都ゼラム、と言う場所は決して綺麗で煌びやかなだけではないのだ。それと同等の薄暗い部分も持っている。
 そんな不安を特に感じてしまうようなこんな時間に、リューグがいてくれるなら心強かった。
「ありがと」
「気にすんじゃねえよ。それより……手伝いはいいとして、あんまり遅くならねえようにしろよ?」
「うん。あ、そうだ!お店のコーヒーでね、すごく香りがよくて美味しいのがあるの。買って帰って飲もう?美味しい淹れ方も教えてもらったから、楽しみにしてて」
「おう」
 リューグがわずかに口元に浮かべた笑みを目敏く見つけ、私はより一層心が弾むのだった。
 側にいて、隣を歩いてくれるだけで、世界はこんなにも見違える。他愛のないやり取りがどうしようもなく嬉しい。触れたくなるのを……手を繋ぎたくなるのを必死で押しとどめて、それでも抑えきれなかった弾んだ気持ちを笑顔に乗せた。
「やけに上機嫌だな?……そんなにケーキが食いたかったのか?」
「人が食い意地はってる風な言い方は止してよ!」
 人目のつく場所でバスケットを振りまわすわけにもいかず、口をとがらせて抗議すると、リューグは珍しくくつくつと笑った。少し意地悪そうな顔だけれど、兄のような、弟のような、屈託のない笑顔だ。
「じゃ、普段着ないような服が嬉しいのか?」
「……ナイショ。ね、それはそれとして、これ、似合ってる?私胸なくてさ、パッフェルさんみたいに綺麗に見えないんじゃないかな」
 自分の胸元に目を落とすと、悲しいかな地面まで視界をさえぎるものなんてないのだ。あの人みたいにふわふわな胸があったら、もうちょっと見栄えは良かっただろうか。
「大丈夫だろ」
 笑みをひいたままの声色で、リューグは私の全身を見渡した。
「ホント?」
「大体、客の目当てはケーキのはずだろ。例外があるとはいえ、殆ど女ばっかなんじゃねえのか?」
「ところがぎっちょん!結構みなさん目が肥えてらして……。あと、結構カップルとか子連れとかで男の人も来るよ」
 うう~ん、子ども体型ってやだなあ。これでも一応オトナに分類されるはずの年齢なのだけど。
「……店員の身体をじろじろ見るような野郎なのかよ?」
「いやいやそんな言い方……。まあ、他の店員さんは確かに目を見張るほど魅力的な人が多いけど」
 まあ、少なからずからかいを含む視線や含み笑いを感じることはある。無性に気恥ずかしくなるけど、別に私に非があるわけではないし、なにも悪いことはしていないのだから堂々としていればそれで済む話だ。仕事が出来ないと言われているわけでもないんだから。実際それを表に出さないように振る舞えているはずだし。でも、心から凹まないでいられるのとは違う。
 ……考えると悲しくなってきた。
「このバイト自体は好きなんだけどさ……」
 知らずため息が漏れて、リューグはそんな私の背中を叩いた。
「……。妙なやつに絡まれたら、すぐに言えよ」
「一応気をつけてるから大丈夫だと思うけど、もしもの時はみんなに迷惑がかからないようにはするよ」
「テメエは人の話を聞いてんのか?会話しろ会話」
 リューグの鋭い言葉が刺さる。実を言えばその妙なやつというのは少なからずいて、実害こそ被っていないものの、従業員の中にそういう手合いに遭遇したことがないという人はいないのだ。付きまとったりっていうのは今のところ聞かないけれど、わざと目当ての従業員を呼びつけてクレームを付けてきたり、必要以上に身体に触れてきたりということ前例は存在する。かく言う私もそれとなく避けてはいるものの、何度かそういう経験がある。
 嘘をついてしまうのは忍びなくて、嘘にならない程度に逸らそうとしたけれど、リューグには通用しなかったようだ。
「テメエが無理した挙句塞ぎ込むことの方が迷惑なんだよ。俺がケリつけてやる」
「……。飽くまで穏便に済ましてよ?」
「ハッ、誰に言ってんだよ?」
 リューグは半目で私を睨みつけた。……この顔は絶対に容赦しない顔だ。
「……有事の際はロッカに頼もうかなあ」
 ぼんやりと吐き出すと、リューグの眉間にしわが出来てしまった。
「俺じゃ不服ってのか」
「客商売って言うのは、リューグみたいにするの、御法度なの」
 私がそうたしなめると、知るかそんなこと、となんとも彼らしい言葉が返ってくる。それに苦笑すると、更に何が不満なのか目をそらされてしまった。それを追求する前に、店の看板が見えた。
「ちょっと待っててね」
「ああ」
 早足で店に入る。ドアベルが可愛い音を立てた。もうお客さんはいないからよく響く。奥に行くと店長が今日の売り上げを確認しているところだった。うーん、計算途中っぽいところに、邪魔だったかな。
「あれ?どうしたの」
「さっき頂いたケーキを知りあいと一緒に食べきっちゃったので、バスケットを片づけに来ました。あと自腹で良いので、珈琲一袋いただいても良いですか?」
「構わないよ。好きなの取って」
 笑顔を向けられて、私はバスケットの中のごみを片づけてから所定の位置に戻す。それからテイクアウト用にと詰められたコーヒー袋を一つ、手に取った。前に試飲させてもらった時に、とても美味しかったものだ。
 会計処理が終わったらしく伸びをしている店長のもとへ向かう。
「じゃあ、これ頂きます。お金これで良いですよね」
「はい確かに1,000バームね」
「ありがとうございます。お先に失礼します」
「手が空いてたらまた頼むよ。気をつけて帰って」
「はい」
 小さくお辞儀をして店を出ると、リューグと目があった。腕に抱いたコーヒー袋を掲げると、目線がそっちにずれる。リューグの手が伸びてきたから、そのままコーヒー袋を手渡した。彼の目線がコーヒー袋のラベルに落ちる。
「おりじなるぶれんど?」
「そう。お店で扱ってるコーヒーを混ぜたゼラム店独自のものなんだけど、私今まで飲んだコーヒーの中でこれが一番美味しいと思うのよ。ファナンブレンドもよかったけど、私はゼラム派」
 自信満々に言うと、リューグは大して興味もなさそうにふうんとだけ。……もう少し何らかの反応を欲していた私としては少しつまらない。けど、特別コーヒーが好きというわけでもないからこれが普通の反応なのだろう。まあロッカならもう少し気の利いたことでも言ってくれたかもしれない。
「俺はバカ兄貴じゃねんだよ」
「え」
「……テメエの考えてることなんざ、大体分かる」
 特に、バカ兄貴がらみになるとな。
 リューグの言葉に私はなんというべきかと視線をさまよわせた後、伺うように彼を見上げた。
「怒っ、た?」
 さっきもそうだったけれど、こういう時、嘘を言えないのはどうしてなのだろう。下手だから、ではないはずだ。だって、仕事や一人で居る時は嘘とまでは行かなくても上手くはぐらかせてきたから。……リューグ相手には、どうも難しい。彼が敏いからではなくて、私の気が進まないからだということは一応自覚してるから、あからさまな嘘をついた上見抜かれるのがどうしようもなく気まずくて嫌なのかもしれない。
 なんで嘘なんかつくんだ、と言われるのが、ちょっとでも失望されるのが怖い。
「……はっ、行くぜ」
 目を落としていたコーヒー袋を小脇に抱えて、リューグは歩きだしてしまう。私は慌ててその後を追いかけた。
 背中だけでは、リューグが何処まで怒って……気を悪くしているのかは分からない。不用意だった、と反省しても過ぎてしまったことはなかったことには出来ない。
 折角リューグが穏やかだったのに、さっきまでの雰囲気は逃げてしまった。重くないとはいえ、袋を持ってもらってることへのお礼も言いにくくなってしまうし。
 自然とリューグの背に隠れるような形で歩いていると、不意に前を行く足が止まった。下がった視界の中でそれをとらえ、私も歩みを止める。顔を上げると、前の赤と茶色の髪が、あからさまにはあ、とため息をついていた。
「怒っちゃいねえよ。横、歩け」
「……」
 つつ、と場所をリューグの横に移す。そっと窺い見ると、苦々しそうな、それでも何処か呆れたような顔でリューグが笑っていた。
「美味いコーヒー、飲めるんだろ?」
 だからもっと喜べよ、とリューグは続ける。……彼なりの『気にしなくていい』、『元気を出せ』というメッセージだった。悪かった、と続かないのはリューグらしいなと思う。まあ、今のは私がリューグの嫌いなことを彼に分かってしまうくらい外に出してしまったから、私が悪いのだけど。きっと他の人なら、わざわざ私が考えたことを指摘するなんてしないのだろう。仮に指摘して気まずくなったところで、お互いが謝る流れになるのだ。
 でも、リューグは違う。お茶を濁すような言葉は出さない。そしてそれがそのまま、彼の意見になる。
 ロッカと比較しないでくれ、と、リューグは言っているのだ。
 この旅の間でも何度か比較されてきたことは知ってるし、きっと村にいた頃もそうだったのだろう。はっきりとは言わないけれど、それが嫌だというのは今のでよく分かった。多分私に対してはっきりと言ってきたのは、それだけ彼が心を許してくれているからなのだろう、と勝手な推測をする。当初よりも遥かに大所帯になった今の環境でリューグが他の面々にそういったことを言いださなかったのは、彼なりに空気を乱すまいとしての行動なんだろう。だから、私にはそうして言ってきてくれたことが、嬉しかった。
「袋、持ってくれてありがとう」
 御礼を言うと、これぐらい大したことじゃねえとその肩が優しく笑う。
 夕食の準備だろう、暖かな煙と美味しそうな匂いが立ち込めていた。繁華街を抜けて、さっき道をそれてしまった場所を過ぎ、高級住宅街の中を行く。
 言葉は、要らない気がした。顔も見ずに、会話もせずに、ただ隣を歩く。沈黙を優しいと感じるのは、私の想い上がりなのだろうか。けれど、それだけのことが何故かとても幸せなことのように思えたのだ。
キョウコ!リューグ!」
 おかえりなさい、と視界の中に出てきたのはミモザさんとギブソンさんの豪邸と、その玄関口まで出てきて、手を振るアメルの姿。
 途端くるくる、と鳴った私のお腹にリューグが顔をそらして吹き出したので、リューグのわき腹を撫でまわしておいた。……その後結構容赦なく小突かれてしまったから、もうしないと思う。

2011/03/02 : UP

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