どうか、どうか。
【1】
その日サオリがよく知ったファナンの下町を歩き船着き場までやって来ると、見慣れない白い鎧を纏った男が何やら困り顔で立ち尽くしていた。よくよく見れば、その足下には数匹の猫。彼の足にじゃれているせいで身動きがとれないでいるようだった。
「あらあら、なつかれちゃいましたね」
くすりとこぼれた笑みに、男が彼女を見やる。そのまま彼女が彼のそばに近寄りしゃがみこんで猫の相手をするのを、じい、と観察していた。彼の視線を感じながら、彼女はなんでもない体を装って口を開く。
「この子たちはね、下町のみんなで世話をしている地域猫なんですよ。人馴れしてるから逃げないでしょう?」
「はぁ……」
突然現れた女に戸惑っているのか、男は念願かなって猫から解放されたにもかかわらず困惑したままだ。
猫数匹に立ち行かなくなっている様子から彼女が直感的に感じていた通り、どうも嘘のつけない生真面目な性格のようで、つかみどころのない彼女の言葉にどう返したものか、とりあえずは邪魔をすべきではないだろうというその思考が彼女には手に取るようにわかってしまった。そして自然とこぼれた笑みに彼がさらに戸惑っているのを見て、彼女はいまだにこみ上げてくるその僅かな笑みを押し殺した。
「ごめんなさい。私、サオリっていいます。下町でちょっとしたお店やってるんです。貴方は見たところ騎士様でしょう? トライドラの……毎年豊魚祭の時には警備に来てくださいますよね」
彼女の言葉に男の顔が沈んだ。少なくともそうさせてしまうような発言はしてないはずだが、とサオリはわずかに首をかしげる。トライドラと言えば聖王都の盾にして剣とも呼ばれる、聖王国屈指の騎士がそろう大きな都市である。そこから三方向に構える三つの砦にも精鋭たちが暮らしている、規模の大きな、賑やかな場所だ。
その分彼らが統率する騎士団の強さもよく知られているところで、彼女はまさか稽古が厳しくて落ち込んでいるわけではあるまいにと彼の顔を覗き込むようにして声をかけた。
「お兄さん?」
おずおずとした彼女の声に、男はすぐにあわてた様子で顔をあげた。
「……失礼。私は」
「あー! 待った。待ってください」
堅物そうな男の言葉の先を読んだ彼女は、素早く声をあげてそれを遮った。一方、男は面食らって瞬きを。
「名前。別にいいです。なんか事情ありそうだし……だから」
「いえ、そんなことは」
「まあまあ。初対面のお兄さんに暗い顔させちゃったお詫びと言ってはなんですが、良かったら私のお店、来てくださいな。下町通りを下ったところにある、道場のすぐ近くなんです」
これもなにかの縁ですし、と彼女は猫を腕に抱いて立ち上がる。
「とんでもない、私の方こそ助けていただいたのに」
「ふふ、私のお店はちょっと変わってまして、不定期営業ですから、貴重ですよ」
僅かに暗さを払拭した彼の顔に、彼女は改めてにこり、と当たり障りなくきれいな笑みを作った。それでも恐縮し、半ば慣れない展開にどぎまぎとしながら滅相もないと断る男。彼は命からがらという言葉が似合いそうなほど辛くも彼女の誘いを丁重に断り、その場を濁して、まさに『逃げた』。
これが、彼と彼女の出会いである。
【2】
シャムロックは一見してなんの変哲もないドアを叩いた。彼が今目の前にしているここは、彼女の自宅にして仕事場である。
はい、と声がしてドアが開かれる。現れたのは艶やかな髪を緩く一つに纏めた、どこか異国風情漂う女性だった。
「こんにちは」
なにかとファナンに滞在している間は言葉を交わすことの多かった二人の中に、ぎこちなさはなかった。もう見慣れた姿にシャムロックが会釈をすると、彼女もまた頷くように頭を下げ、僅かに微笑んだ。
「こんにちは。今日はどうされました?」
「貴女の……治療を受けに、参りました。よろしいですか?」
唐突な彼の言葉にも彼女は微笑んだまま、かしこまりました、と言うと、彼を客間へと引き入れた。
「随分お疲れですね」
「ええ、少し根を詰めまして」
「睡眠はよく?」
「最近は浅いほうです」
「では、熟睡できるようにしましょうね」
笑みを絶やさないまま、彼女は彼にハーブティーを振る舞った。心を落ち着かせる効能があるんですよ、と勧められたそれに彼が口をつけると、仄かに甘味を帯びた香りが彼の鼻をくすぐった。熱すぎない温かなそれは彼を体の内側から暖める。
彼女はこのファナンの下町に居を構える、『セラピスト』である。モーリンとは旧知の仲であるという彼女は、精神的な癒しを目的としたストラを施すことで知られている。自分好みの患者しか診ない反面、患者の名前や立場など一切聞かないことで、一部――特に貴族をはじめとする由緒ある家柄の、やんごとなき人々――には有名らしい。
らしい、と言うのはそれがモーリンとフォルテから聞かされた情報で、シャムロック自身は彼女のことを大して知らないせいだ。彼女がストラを使う際に用いるお香はシルターン仕込みだとも言われ、どこかで嗅いだような、初めて経験するような不思議と心地よい匂いがすることも、彼女を神秘的に思わせる要因の一つだろうと彼は考える。
「お知り合いの方にでもせっつかれましたか」
急ぐこともないと彼女が切り出すと、シャムロックはまあそんなところですと言葉を濁した。
彼の知り合いとは彼女も知るフォルテその人であるが、彼女がこの仕事場において誰かを患者として接する場合に個人名を口にすることはまずない。結果秘密めいたやりとりをすることになるのも、彼女が上流階級者や冒険者に気に入られる理由の一つである。シャムロックは苦手としているが、そういうやりとりを楽しむ人間は多い。
「なすべきを見出だしたなら、成すために備えろと」
「そうですか」
いいことです、と彼に同調する彼女は、そろそろ始めましょうかと声をかけた。
彼はそれを受けて、彼女に案内されるまま、さらに奥の部屋に足を踏み入れた。
ふわり、と控えめながら、優しい香りに包まれる。
「ではこちらにお掛けください」
「あの、鎧を」
「構いませんよ」
「え?」
制止を受け、シャムロックはにわかに首をかしげた。
「それは大切なものなのでしょう? 外したくないのでしたら、そのままでも」
よくも悪くも真面目な彼を知り尽くしたような言葉に、彼は狼狽を隠さなかった。明らかに彼の負う事情を知る彼女に、彼の身体はにわかに緊張で強張り、けれどそうして同時に止めていた息は、数拍の間をおいてゆるりと吐き出された。自然と、身体から余計な力が抜けていく。
「……そのことも、『知り合い』に?」
「さあ、貴方の仰る知り合いがどちらの方かは存じ上げませんが」
はぐらかされ、彼は暫く沈黙したのち、よろしくお願いしますとまた会釈をして用意された椅子に身を沈めた。
彼女は彼の正面に座り、そっと彼の手を取る。そうして異性に慣れない彼はふたたび先ほどとは異なる意味で固まったのだが、彼女と目を合わせ微笑まれると、言われるままにその眼を閉じた。
唯一触れている自らの手に重ねられた、小さな彼女の手。
じわり、じわりとそこから暖かなものが流れ込んでくる心地。
まるでどこか安心のする――たとえば自室のような――場所にいるような、思わず緩んでしまう気を感じながら、シャムロックは深く息をした。
しばらくして、最近の眠りの浅さも手伝っているのだろう、何の危険もない、彼を脅かすものなと何もないのだとさえ思えるほどの安堵に包まれ、彼の上半身がわずかに前へ傾いた。それを正面にいる彼女が、手はつないだまま、肩口で受け止めた。
「……す、みま」
「大丈夫ですよ。どうぞこのまま」
眠りの淵へ落ちる瞬間のように朦朧とした状態でシャムロックは彼女の声を聴いた直後、意識を手放した。
「――……」
ふ、と浮上したと言わざるを得ない感覚にシャムロックは細く息を吐いた。
久しく心地のいい睡眠だったとぼんやりと考える。もう長くこんなことはなかった。
その彼の鼻が嗅ぎ慣れない匂いを感じとる。否、慣れてはいるのだ。ただ、この香りは――
「……おはようございます。気分はいかがですか?」
「っ!」
意識を手放すに至った経緯を思い出したとほとんど同時に掛けられた声に、シャムロックは体を預けていた椅子から勢いよく飛び上がった。
「ああ、急に動いては」
「いえ、……申し訳ありません! あの、自分はどのくらい……?」
「まだ半刻ほどですよ」
長い方になると二時間はのんびりと過ごしておかえりになります、と彼女は微笑んだまま丁寧にシャムロックの問いに答えた。
「鎧を外してらっしゃらないので、あまりそのままで眠らないほうがいい、という意味ではこのくらいが丁度でしょうか」
少し長いかもしれませんね、という彼女は、改めて彼に体調はどうかと訊ねた。
確かに僅かばかり身体は強張っているが、それは彼が今まで過ごしてきた日々を振り返れば微々たるものであり誤差の範囲内である。彼が目的としていた蓄積した疲労の回復という意味では、目覚ましいほど素晴らしい結果となっていた。
身体が軽くなったようにさえ感じ、どこか気分まで晴れたような気持ち。おそらくは彼女のストラによる気の充実と、質のいい睡眠がとれたことによる爽快感なのだろうが、このところふさぎ込むことの多かった彼には光明だった。
「ありがとうございます。お代は――」
「2,000バームです。けれど、もうお帰りですか?」
いつもなら、もっといろんなことをするんですよ、たとえば、按摩のような。
そういうサオリは彼にそれができないことを承知の上でくすくすと笑う。仮に鎧を脱いだとて、きっと彼がそれを許さないであろうことは彼女にはわかっていた。
「ストラをつかったとはいえ、こんな短期間で他の方と一律のお代をいただくわけにはまいりませんね。何か、それに代わることでもさせていただきませんと」
少々の居心地の悪さに、彼は言葉を探るように視線をさまよわせ、それから
「それでは、先ほどのお茶をもう一度いただいてもよろしいでしょうか――」
どうにかこうにか、はにかみながらそう申し出たのだった。
【3】
「香水、ですか?」「女性にこう言った質問は失礼かもしれませんが」
恐縮するシャムロックに、サオリはくすくすと笑った。
「いいえ、私はつけてませんよ……ただ、あなたにそうしたように、香を焚くことがよくありますから、それが染み付いてるのかもしれませんね」
「そうですか……」
「……あの香り、お気に召しましたか?」
よろしければお裾分け致しましょうか、と申し出たサオリに、シャムロックは勢いよく首を振った。
「い、いえ。確かに気持ちは落ち着きますが、それは貴女がいてこそで……ッ!?」
「あら、それは嬉しいですね」
「――~ッ! す、すみません、わ、私はただ、貴女はとてもこの職に向いていると」
「そうですか」
口が滑るというにはあまりにも素直にまろびでた己の言葉に顔を赤らめる彼に対し、サオリは大した動揺もせずに笑顔を崩さない。
流石、日頃癖のある客を相手にしているだけあるとシャムロックは感心しながら、気持ちを落ち着けるように咳払いをした。
その様子を見て、サオリは僅かに笑みの種類を変える。彼女の笑みが変化したことに気づいたシャムロックは首をかしげた。
「あの?」
「……表情が柔らかくなりましたね。いいことです」
相応のことがあったとは言え、貴方は根を詰めすぎていましたから、とサオリは続け、笑みを消した。
「そういえばロッカくんやリューグくんの様子はいかがです? あの二人も相当に酷い状態でしたが」
「自分が見たところでは、笑顔をこぼすこともありますね。ですが、やはり彼らが背負ったものを思うと……」
「……ふむ。一度無理にでも診てみますか……来ないならこちらから押し掛ければいいのですし」
「お手柔らかに」
シャムロックが苦笑を漏らすと、サオリは綺麗に微笑んで見せた。有無を言わせぬ気迫のようなものをまとったそれはつまり、遠慮をするつもりは毛頭ないということだった。
「お邪魔します」
身一つとわずかばかりの手荷物を持ち、モーリン宅の門をくぐったサオリは、シャムロックの方がぎょっとするほど勝手知ったるとばかりに縁側から上がり込んだ。『ここが私の玄関なの』とはサオリの弁である。
そしてモーリンもまた、呼んでもいないサオリが自宅内にいることに特に驚きもしなかった。
「サオリじゃないか。どうしたんだい?」
「あの双子くんはどうしてる?」
「ああ……あの二人なら道場で鍛練してるはずだよ」
「ちょっと上がらせてもらうわよ」
言ってすたすたと迷いなく道場へ向かうサオリに、もうあがってんじゃないかとモーリンはあきれたように声を投げた。明らかに自分に対するそれとは異なる彼女の振る舞いに、シャムロックはおろおろと彼女の背中を見送りながら、モーリンに声をかけた。
「あ、あの……サオリさんはいつもこうなのですか?」
「あたしらは気心知れてるからねえ。他のやつには弁えてるのはあんただって知ってるだろう?」
「ええ、だからこそ驚いているのですが」
彼女が消えた方向を見やりながら呟く彼に、モーリンは長い付き合いがそうさせるのだろう、呆れきったように肩を竦めた。
「あれでかなり……というか、頑固なんだよ。単に」
「はぁ」
直後、道場のほうから響いてきた喧嘩にも似たサオリとリューグのやり取りが二人の耳に届き、モーリンはやれやれと呆れ半分に、シャムロックはやや引き攣った表情で、遅まきながら彼女のあとを追うように道場へと足を向けたのだった。
「だから! 素直に診察を受けなさい!」
「いらねえっつってんだろうがッ! 稽古の邪魔だ! 出ていけよ!」
もはやいつ手が出てもおかしくない剣幕の二人は、モーリンとシャムロックがやってきたことも全く気にせずにお互いを見据えて語気を荒げていた。
二人の間に割って入ろうとするロッカも手が付けられないらしく、苦々しい顔で二人のやり取りを見ているだけだ。二人に代わって眉を下げ、うるさくて申し訳ないです、とモーリンに頭を下げる様子は哀れですらあり、モーリンは一つ大きくため息をつくと、手を叩いて二人の注意を自分に向けさせた。
「はいはい、やかましすぎるよ」
どこか慣れた風にも見えるその様子を、ロッカとシャムロックが見守るように眺める。
「ちょっと下町から距離があるからって、こんなにやかましくされたんじゃたまらないよ。いいかい、二人とも。ここの家主は誰か、言ってごらん?」
「……」
「……モーリン」
「うん、そうさ。あんたたち、これ以上やかましくすんなら話がまとまるまで出てっておくれよ。銀砂の浜にでもでてくりゃ、誰の迷惑にもならないからね」
「私は、……双子くんが私のセラピーを受けてくれるなら帰るわよ」
「余計な世話だって言ってるじゃねえか。何度も言わせんじゃねえよ」
双方、一向に譲る気配はなく、知らずの内に厳しくなる目つきに、モーリンがまたわざとらしく手を叩いた。
「あのねえ、いいかい、リューグ。これでもサオリは、自分を追いつめて追いつめて、自滅していっちまった奴ってのを結構な数見てるのさ? あんたたちとは事情が違うけど、病気だったりとかでね。そいつらと全くおんなじとは言わないけどさ、サオリはあんたたちにはそうなってほしくないって思ってんのさ」
迷惑でもその辺の気持ちは分かってやりな、とモーリンが諭す。そしてそのままサオリに視線を移すと、やはり長年の付き合いがそうさせるのだろうか、何の躊躇もなく、ぽかりと彼女の頭に拳骨を一つ。
「いたっ」
「あんたもあんたであんまり押し付けるんじゃないよ。こんな風に詰め寄ったら、リューグじゃなくても意固地になっちまうもんさ? 気に入ったやつ以外は看ないくせに、気に入ったやつに関しちゃ譲るってことを知らないんだから」
「だって、」
「あーはいはい言い訳はよしとくれよ、どうせきりがないんだから。とにかく、お互いそれぞれに事情ってもんがあるわけさ。リューグはサオリが思うほどよわっちくないし、サオリもリューグが思うほどうっとうしいやつじゃないんだよ、ほんとは。頑固なだけでね。まあそれがタチがわるいっていうかさ」
自分のごり押しぶりに彼女自身も思うところがあったのか、少し肩身の狭そうにしてモーリンの説教を聞いていた彼女だったが、あまりにもあけすけな言い方につい口を開いてしまった。
「モーリン! 私にだけ厳しいじゃないの」
「当たり前だろ、いくつからの付き合いだと思ってんだい」
モーリンよりも年上であるはずのサオリの立場は最早ない。ぴしゃりと言われてしまい、サオリはばつの悪そうに唇を尖らせた。それが余計に幼稚に見えてしまうのだが、それを指摘する人間もまた居合わせておらず、事態は一応の収束を見せたということでロッカが口を挟んだ。
「あの、サオリさんの申し出自体は、僕もリューグもうれしいんです。でも、やっぱりまだ僕たちはそれどころじゃないというか……」
「自分と同じで、気持ちの整理がつけば、自ずと貴女のところへ足を向けることもあるかと」
どう言うべきかと言葉を選ぶロッカの背を押すように、シャムロックがそう付け加える。僅かに安堵したように顔をほころばせたロッカを見て、シャムロックは自然とその相貌を細めた。
どちらかと言えばこの生真面目な人間のほうこそ問題児であったりすることは往々にしてあるのだが、子どもではないのだからと言われてしまえばそれまでの話。サオリは諦めたように息をつくと、いつでも待っているから、と言うと、使うことのなかった道具箱を持って道場の入り口に足を向けた。
「おい」
その背中に、リューグが声をかける。
「治療だか何だか知らねえが、稽古後の怪我でも見るってんならおとなしくしといてやるよ」
小生意気にも取れる言い方にも、サオリは参りましたと苦笑を一つこぼす。
「それが頻発しないように、強くなってくださいな」
そうして力なく、茶化すように返事をすると、道場を後にした。
「サオリさん!」
玄関口をくぐりかけたサオリを呼び止めたのはシャムロックで、彼女は彼を振り返った。
「どうかされましたか?」
先ほどまでの空気はなく、相応の女性としての雰囲気になっている彼女を見て、シャムロックは僅かに言葉に詰まった。
「いえ、その、……お送りします」
どうも遣り辛いと思っているのがありありとその表情から見てとれ、そのわかりやすさに、サオリは少しだけ笑みを浮かべた。
道場から彼女の自宅兼職場までの道のりは短い。その短い道のりを二人で並んで歩きながら、サオリは見苦しいものをお見せしてすみませんでした、と口を開いた。
「せっかくあなたの前ではそれなりに振る舞ってましたのに」
「いえ、話に相違なく、とても気心の知れた仲だとお見受けしました」
「まあ、ストラを習得するのに道場に通っていたこともありますし……幼馴染、ってやつですね。……あ、でも、モーリン以外の人に特別気を使っているわけではないんですよ」
「ええ、それは承知してます」
彼女との会話は上滑りするわけでもなく、かといって込み入った話になるわけでもなく、いつも彼を好意的に受け入れるような、心地のいいものである。職業柄、と言ってしまえばそれまでだが、それを抜いても絶妙な距離感であることは確かだった。深く事情を聴かず、おそらくは耳にしていることも表立って訊ねてこない上、『わけあり』だらけの集団にあからさまな不信感を抱くこともなく、少しの間顔を見せなくとも会った時には何でもないようにお久しぶりです、と笑う。
そんな他愛のないことに彼が救われているのは事実だった。
【4】
規律を身に纏うかのような男がいる。
旧トライドラ領、ローウェン砦にて守備隊長を勤めていた聖王都の騎士にして盾が一人、シャムロック。
現在は戦争により壊滅したトライドラを復興し、また聖王都にて開かれた武道大会で優勝を果たして見事、『巡りの大樹自由騎士団』を立ち上げた人物で、広くその名を知られるようになっていた。
多くを失ってなお騎士道精神を貫けたのはひとえに彼のその生真面目さゆえだろう。と、彼女――ファナンの下町で何度も顔を合わせていたサオリ――は思う。
そして、彼女はその武道大会でシャムロックが唯一表情を崩した相手の存在を知り、自分の中に芽生えた恋の終わりを知ったばかりであった。
(なにも言えないままだったなあ)
とはいえ、シャムロックに想い人が居ることを知らなくても告白などするような気にはとてもなれなかったのだが、せめて初めて感じた甘い疼きに浸っていたかったと彼女はため息をついた。広い部屋の中、むなしく響いたそれに顔をしかめる。
彼らの過酷な旅が終りを告げ、既に二年と半年ほどの月日が流れようとしていた。それぞれが新しい門出を迎えるなか、彼女だけが出鼻をくじかれたようで酷くみじめさを感じてしまう。深入りしないと決めてフォルテやシャムロック達の旅に同行していなかった彼女に、出鼻も何もないのだが。
彼女はセラピストである前にはぐれ召喚獣である。厳密にはその家系であるというのが正しい。この呼び名や、流れ者であるということには嫌な思いをさせられてきたが、そのことに偏見なく、また彼女を一人の女性として意識していたのがシャムロックだった。と言って彼は異性に慣れていないだけだったのは彼女もわかってはいるのだが、どうも彼女を取り巻く人間にはない種類のその様子に、彼女は新鮮さと幾ばくかのほほえましさを感じていたのは確かだった。堅苦しいと言われるまでのその一挙一動が、彼女にとってはとても心地よいものだった。彼のためなら、大抵のことは煩わしく思わないだろうな、などと思わせるほどに。
夢を見るような恋はもう終わりにしよう。
そう思うが、少しでも復興を手伝えればとトライドラの一角に新たに構えた家が下心に満ち満ちている気がして、彼女はやはり肩を落とした。
復興時から騎士や兵士たちの疲労や怪我を治療してきた彼女は、既にトライドラ及びデグレアを併合した新しい都市となったこの場所では欠かせない存在になっているのだが、彼女本人としてはあまり実感がない。ストラが使えたところで、病気が治せるわけでもない。少々医学の心得があったところで、元々患者を選ぶような商売っ気のない彼女には、医者のように来る者すべてを受け入れる気概などなかった。
今では往診と称してトライドラとデグレアを行き来することもあるが、それも立派な医者が来れば彼女はお役ごめんとなるだろう。彼女としてもそれは望むところなのだが、ではいよいよもってその時が来れば、彼女がここに身を置き続ける理由の希薄さが浮き彫りになる。誰にとがめられることもないだろうが、それでも暮らしやすさでいえば気心知れているファナンの方が上だ。
どうすればよかったのだろう、と彼女はぼんやりと考える。深入りしたいと、関わりたいと思う人と出会えたにもかかわらず、動き出すのはもう手遅れだったのだろうかと切なさに襲われ、気分も沈んでしまう。
――帰る場所があればよいと、思ったのだ。
ただいまと言える場所。お帰りと声がかかる場所。温かい料理にふわふわの布団。そういう、何でもないことを用意できたなら、と。それも、宿ではなく、知人による手で。
思えばそれは傲慢なことだったのだと彼女は今さらながらに頭を抱えた。
シャムロックが民の為の騎士団を設立したいと言うことはフォルテ伝いに既に知っていた。当然、それを目指す彼が新しい都市の領主など、引き受けるわけもない。ましてや彼の騎士団に拠点とする場所などあるわけがない。
今も聖王国領のどこかで、誰かの為に剣を振るっているのだろう白騎士の姿を思い描いて、サオリは背伸びをした。今日の診療はすでに終え、やることもない。元々がのんべんだらりとした不規則な生活の為、彼女はそろそろファナンや聖王都、同じく壊滅状態からある程度復興したと言うレルムの村でも回ってみようかと考えていた。
復興着手から二年以上。彼女は彼が力を入れてきた新しい都市の復興を見守り、そしてそれは既に十分に果たされたと言っていい。馴染みのある者からは惜しまれるだろうが、彼女一人がこの都市に常駐する医師というわけでもない。そもそも、彼女は正確には医師ではないのだ。
失恋の傷を癒す旅も悪くはなかろう。
あるいは、人伝に頼んでお見合いでもして、結婚するのも一つの手だ。
初めて抱いた恋心をどうふっ切ればいいのか、彼女は知らなかった。
「……こんにちは」
「……ん」
ふと響いた声に、彼女は顔を上げた。ここ最近はやるべきことを終えるとぼんやりとしていることが多くなったが、どうやら随分長い間、白騎士に想いを耽らせていたらしい。
夕暮れも迫った頃、それは彼女の前に姿を現した。
「……シャムロック、さん」
「お久しぶりです、サオリさん」
穏やかな笑みをたたえながら彼女を訪ねたのは、彼女が焦がれていたシャムロックその人であった。
「楽になさってください」
「は、はあ、しかし……」
出会った当初と全く同じやり取りに、サオリはくすりと笑みをこぼす。
「なんですか?」
「いいえ、なんでもありません」
彼女の笑った気配には気づいたらしい彼が、彼女を振り返ったのに合わせて、彼女はいとおしげに彼の首に腕を回した。
「サオリ、さん」
「なんです?」
許しを請うているようにさえ感じる彼の声も意に介さず、彼女は彼の首筋に唇を寄せた。言葉にする気には、とてもではないがなれなかった。
途端に緊張で身体がこわばっていくのを鎧越しにでさえも感じてしまい、サオリはそれを少しの間堪能した後、腕を放した。
「すみません、突然」
「い、え、」
「お会いできてよかったです。この家を閉めるかどうか……考えていたので」
は、とシャムロックの口から息が漏れた。動揺をあらわにする姿に、多少よく思われていたのだなと彼女は思う。満足だった。
「私のセラピーは母に叩き込まれたものなんですけど、代々定住する生き方ではなくて。……ファナンの家も、母の代で建てたもので」
だから旅に出るのも私には不思議なことではないんですよ、と彼女は笑う。
そうして、そろそろお婿さん探しでもしますとおどけたような言葉を発した直後、シャムロックの顔つきが変わった。
「……サオリさん」
「はい、なんでしょう」
「今日は……大切な話があって参りました」
幾分か低くなった声色に、サオリも居住まいを正す。
十分な間を置いて、彼は切り出した。
「自分は騎士ですが、ご存じの通り流浪の身です。約束ごとなど出来るようなものでもありません。しかし」
彼はそこで言葉を区切る。何度かためらうように唇が動き、程なくして再び言葉が続いた。
「貴女の、その、フォルテさ……んから、貴女が、け、結婚相手を探していると聞いて」
それは随分と前に、ふらりと現れた二人の冒険者を迎え入れた時のことだった。闘戯都市へ行くと言い残していった二年半前と同じようにふらりとやってきて――たしか、武道大会が終わって少ししてからだっただろうか。
その時に茶化すように口にした戯れ言。まさか彼の耳に届くとはと彼女は目を丸くしたが、まだ終わる気配のない彼の言葉をじっと待った。
「……私と、家庭を持ってくださいませんか」
静かな部屋には二人きり。仄かに香る心地のいい部屋にはまるで似つかわしくない緊張した面持ちで、シャムロックはそう申し出た。
「伴侶をお探しだという貴女に、私のような者は相応しくないと、自分の身勝手さは重々承知しています。それでもこの場所で、いえ、どこにいても構いません。私を待っていてはくださいませんか」
家を空けるどころか、殆ど帰りもしないであろう彼の思いもよらない言葉の数々に、彼女はただただ目を瞬いた。
「……それは、私を……?」
「私の、いえ、私を、貴女の夫にと」
じっと返事を待つ男に、多くの言葉が脳裏をよぎり、結局彼女ができたのは短い返事だけだった。
【5】
シャムロックが鎧を外している。
サオリは未だその事実を噛み締めて得も言われぬ心地になる。鎧を外すと彼も一人の男なのだと妙に感じてしまい、なによりも頑なに鎧を外そうとしなかった様子を知っている身からすれば、感慨深いからだ。一人物慣れぬのではないだろうかという杞憂は、寝床を異性と共有することのなかった彼もまたそうであったようで、二人揃って相好を崩したのも懐かしい。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
食後、ハーブティーの香りを楽しみながら、ぽつりぽつりと言葉を交わす。そして沈黙が長くなる頃に就寝するのが二人にとってのいつもの流れだ。
季節が一巡りする間のほとんどを、サオリはファナンで過ごしていた。トライドラに常駐する医者が来たこともあるし、トライドラではシャムロックはあまりにも名が知れているためだった。といって、彼がファナンでは全くの無名というわけではないが。
『巡りの大樹自由騎士団』として動いているシャムロックがサオリの元で過ごす時間はそう多くない。騎士団の本部は聖王都ゼラムだが、騎士団の性質上本部にさえいないこともままあるほどだ。
彼が長く家を空けることについて話をしたことはない。そんなことは百も承知で共にいることにしたのだから、サオリからしてみれば今更のことだったし、シャムロックとしても掘り返すのは礼を欠くと思われたからだ。とはいえ、蜜月もないままであることは確かなので、シャムロックは申し訳なさも感じていた。それは二人の時間を長く持てないこともそうだが、それをわかっていながらも自分の心にある理念を最優先していることに対してだ。
普段は押しが弱いのに、貫き通したいことに準じる姿勢は真面目なだけではなく頑固なものだと言われたことも記憶に新しい。
「自分を待っていてくれる存在がいるというのは、いいものだな」
「……そうですか」
「ああ、私は随分貴女に甘えているよ」
柔らかな表情をたたえながら、シャムロックが微笑む。あまり聞くことのない砕けた話し方も特権の一つだとサオリは思う。そして、しみじみと口にする彼の様子を見やって、自分も倣ってみようと思い立つ。
「私も、帰ってきてくださるのを待つのはいいものだと思います」
「そう、……か」
「ええ。子供の頃以来のことですし、それがお慕いする方ならなおのこと」
サオリはシャムロックと同じように微笑んで、ティーカップに口をつけて口元を隠した。さらりと好意を示され、シャムロックの頬がわずかに赤みを帯びる。茶化すようなことはないが、しっかりと噛み締めて受け止めろと言わんばかりの間に彼は身じろぎ、取り繕うようにハーブティーに視線を落とした。
「それは……光栄だな」
はにかみながら返した言葉には微かに笑みが滲んでおり、二人の心を温めた。カップの中を空にして、どちらともなく手が触れ合い、絡み合う。
「明日はどうしますか? 私はすべてあなたに合わせられますけど」
「貴女さえよければ、その……ゆっくりと過ごそうかと思うのだが」
歯切れの悪いシャムロックの声に、サオリは彼の顔を見る。そうしてもの言いたげな口元を認めると、目尻を下げた。彼なりの誘いの言葉に、こくりと頷く。
「いいですね。……夜は寒いですし、もうお休みしませんか?」
そっと己の身体を彼に寄せ、彼女なりの返事をする。シャムロックは幾ばくか硬い声で了承すると、サオリを横抱きで抱えた。
「きゃ、」
思いがけない行動に声を上げる彼女だったが、促されるまましっかりと腕を回し、まじまじと彼を見る。彼女の視線を一身に受け、シャムロックはこほんと咳払いをすると
「……貴女を、一時でも放すのが惜しくなってしまった」
そう言って、目線を彷徨わせながらも寝室へ足を向けた。サオリが微かに笑う。
「ふふ、意外です」
「そ、そうか? 私は貴女が思うほど上等な男ではないよ」
「それをこうやって惜しみなく見せてくださるのが……特別だと感じるから、嬉しいんです」
縁あって出会えたことさえ、有り難いものだと思う。望みがかなった上、心を許されるなどなかなかに考え難いことだった。
そう言ってもらえると気が楽になる、と返すシャムロックの耳元に、サオリは唇を寄せ、続ける。
「サオリ?」
「シャムロック様。――……今夜はどうか、私を好きにしてください」
彼の耳にそっと吹き込まれた言葉に、彼女を抱く腕に力がこもる。そして顔をこれでもかと赤く染めた彼は「参ったな」と弱々しく呟いた。
2011年執筆 2020/08/12 : 加筆修正後UP