界を解く

 きっと、この付喪神を男として見てしまった時から、もう逃げる場所などなかったのだ。
「なあ大将、何をそんなに尻込みすることがある?」
 目の前で私を見上げてくる少年の姿が、ここまで大きく見えたのは初めてのことではないだろうか。

 薬研藤四郎。短刀の付喪神。予てより狂うように戦に焦がれる一面をのぞかせ、いついかなる時も戦いを求める心を持つ一振り。来歴など一切口にせず、ただ自らが戦のために呼ばれたことを歓び、これまでの主も元の歴史も関係なく、唯一彼の欲するものを与えられる私に従い、遡行軍を屠る。
 頼もしいと思うばかりだったその姿の中に、いつから男を見るようになったのだろう。求められるがままに戦場(いくさば)を与え、向かわせていた頃はまだ、彼を付喪神以上には見ていなかったはずだった。
 初めは儚げなほど頼りない子どもの形(なり)の割に勇ましいと。
 言葉の通り戦慣れをしているだけのことはある活躍に、頼りになると。
 その後は腐っても彼は人ならざる者なのだと。
 戦に傾ける彼の心の狂気にも似た執着に慄いた。畏怖を覚えた。
 それなのに。

 それなのに、だからこそ、目が離せなくなってしまったのだ。力強い声に、瞳に、匂い立つように迸る『生』の息吹に。完全に魅入られていた。



 紫の眼が、霞がかった藤色が私を射ぬく。穏やかな色はそのままに、じっと私を見上げてくるその瞳はどこまでも強く、有無を言わせぬ気迫を伴っていた。
 ただじっと見上げられているだけだ。走り出して一時的に逃げおおせることもできる。薬研はそれを、今は許してくれるだろう。あるいは、ずっと。
 けれど私の足は動かなかった。動けなかった。彼から目が離せなくて。
 怖いからではない。ただ、抗いがたいほどの誘惑に、引きずり込まれそうになっている。それを感じながらも、最早委ねてしまいたいと思う程に心は陥落していた。
「俺が好きだろ? じゃあ、なにも問題ない」
 一縷の迷いもなく言い切った姿はこれまでと変わらない。そして間違ってもいない。いつでも彼の言うことに間違いはなかった。全てだ。
「全部俺に任せな。大将が気負うことなんてなにもないぜ」
 そうだろ?
 そう言った彼に何も返せなかったのは、彼の言うこと全てが事実だったからだ。

 薬研藤四郎は間違えない。

 審神者が付喪神を『慰める』ことを、政府や本部は全面的に認めている。荒魂と和魂のバランスを調節するのも審神者の務めであるからだ。結果的に審神者としての格も上がったりすることもあって、行為そのものは問題がない。ただ、子を成すことは今まで手にした霊力を失うこともあるため、気を配らなければならないのだが。
 薬研藤四郎は付喪神である。子どもの形をしていようとも、ヒトの子などよりも遥かに達観した思考を持ち、身体もまた、既に男として成熟している。
 私は、薬研藤四郎を男として見ている。彼の小さな身体の中から溢れる、際限のない男ぶりに惹かれている。――そして、彼もまた。

「大将が嫌なら、仕方ない。決めるのは大将さ」

 優しい声音でそう言って。彼は私を打ちのめす。積み上げてきたものを丁寧に壊して、こんなもの何でもないことだと平然として、垣根を越えてくる。
 年の差など私たちの間には何の意味もないことだと。これまで生きた世界の理など、当てはめることはナンセンスだと。
 薬研藤四郎の少年の身体を見ていると不意に湧き上がる、蜘蛛の糸に引っかかった様な違和感。無視できない倫理観。
 その程度、振り払えないわけはないだろう?
 そう言いたいのだ。彼は。決して彼からその儚い糸を払うことはしない。私が自分から、絡みつくそれを鬱陶しいものだと除けてしまうのを待っている。微笑んで。
 私に選ばせるのは優しさだろうか。それとも。
「いつまでも黙ってちゃ分からないぜ。……それとも、俺は誘われてるのか?」
 距離が近くなる。肌の温度が伝わりそうなほどに。私よりも少し低い彼の眼が細められた。薄い唇が美しく弧を描き、私を蠱惑する。
 そっと私に触れてくる手の力は彼が放つエネルギーが嘘のように柔らかく、振り払われることを望んでいるのかとさえ思えた。
 彼を拒否しない私を、その強引とも取れる力強さで浚うことこそ、彼の優しさなのだろうか。
 全ての責任を彼に押し付けるという逃げ道を遺す私を、彼は許している。私は許されてばかりだ。なのに、それを責められているようにさえ感じる。
「大将」
 甘い蜜毒が耳から注がれる。彼の手をそっと握り返すと、まるで陽だまりのような穏やかな微笑が眼前で輝いた。
「愛してるぜ、大将」
 薬研藤四郎は選ばない。薬も毒も関係ない。ただ私を溶かす方法を知っているだけ。私を得るために持てる手段をすべて尽くすだけ。
 彼の腕が首へ回り、優しく引き寄せられる。もう、心の中に残る壁などなにもない。私を止めるものなど。
 触れ合った唇は暖かくて、それで終わり。私の中に注がれ溜まり続けた毒は爆ぜ、もう僅かでも、彼に抗う気力など残ってはいなかった。

2015.05.17 pixiv掲載