胸満ちるほどに
唇を合わせる行為は癖になる。柔らかくて、相手の感触を確かめるようにもぞもぞと動かせば相手もそれに応えるように吸い付いてきて、心地よい。ちゅ、ちゅ、と時折小さな音を立てながらキスに興じていると、不意に水心子の唇が離れていった。薄く目を開ければ、躊躇いに揺れる瞳が私を写しているのが見える。
熟考の末、私と特別に心を通わせることを選んだ彼は、私への気持ちは認めて持ち続けることを決めたけれど、私と恋人としての行為に耽ることには未だ抵抗があるのだった。
「……こわい?」
「……いや、怖くはない。怖くはないし、決して貴女を軽く見ているわけではないのだが……こんなに耽ってしまってよいのだろうかと、どうしても考えてしまう」
申し訳なさそうな表情に、気にしなくても良いという気持ちを込めて彼の頬を撫でる。今日はもうやるべきことは終えて、後は寝るまでの間の気楽な自由時間だけれど、彼の気持ちは理解できる。
元々使命感が強く、刀であること、刀剣男士であることを主張していた刀だ。そういう所を含めて彼が好きだと言ったし、今もそう思っているから咎めることはない。今までにもそう伝えてはいるものの、未だ水心子は使命感への焦燥と、そう感じることで結果私をないがしろにしているような罪悪感に苛まれているらしい。難儀なことだ。
「貴女は……私にはいささか甘美がすぎるようだ。口づけを終えてもすぐに次が欲しくなる」
「……」
かと思えば、真顔でとんでもないことを言い出すのだから、歴戦の刀剣男士達にドキドキさせられて鋼の心を手に入れたはずの私の胸の中を荒らしてくる。
別に彼はこれ以上を今望んでいるわけではない。誘い文句ではない。そう頭では理解しているのに、早鐘を打つ心臓に反応が遅れた上、恥じらったのが伝わってしまったらしい。
「我が主」
心地よさに蕩けていた目が、熱で炙られたように艶めいて私を見つめる。もう一度、と私が彼の内番着をそっと掴んで身を寄せると、彼は抵抗することなく目を閉じた。
唇が触れて、ちゅ、と音を立てる。ふと漏れた息の熱さ、彼から仄かに香る桜の匂いに、審神者としての充実感とは違う、別の種類の満足感が胸に満ちた。この腕に抱かれて眠りたい、と思う。
どちらともなく無言で見つめ合う時間さえも気持ちよく感じて、水心子の首に手を回した。彼の、私を見る目が幸せを運んでくる。私が好きだと、言葉よりも雄弁に語りかけてくる。
「私は……いけない主ね?」
「え?」
「あなたが悩んでくれるほど心を占めているのが嬉しいし、そんなあなたを誘惑したくなるから」
言うと、水心子は頬を赤らめた。
「わっ、笑い事では」
「うふふ、だってあなたに想われて嬉しいのだもの。だからわるい主よ」
「貴女は悪くなどない! 私の心が……私が、至らないだけだ」
「いいえ、あなたは励んでくれているわ。これは本来あなたの御役目ではないことなのだから」
「……役目などと」
「意地悪な言い方だった?」
む、と水心子が口をつぐむ。どうしたら彼の心を軽くできるのか、いくつか思い当たる節はあるけれど……。すぐにそれを出さずに、こうして言葉で遊んでしまうのは間違いなく悪い癖だろう。
「貴女と恋仲になることが役目だというのなら、私は他の何者にも譲るつもりはない、とは言っておこう」
むすっとした声色で返される言葉がどんなに嬉しいか、きっとこの刀は想像しないまま口にしているのだろう。
「怒った?」
「怒ってな……まあ、役目だなんだと言われるのは心外だったが」
「じゃあ、自由に過ごしてよい時間の少しを、気兼ねなく私に注いで欲しいわ」
「……私は、貴女を怒らせてしまったか」
「怒ってないわよ。あなたが悩んでいることについては、どうにかしてあげたいとは思っているけど」
目に見えてしょげる彼を宥めて、やり過ぎたかと反省する。
水心子がこういう時間に私のことを『我が主』と呼ぶ機会がぐっと減ったこと。それをもっと大切にしたいと思うのに、どんどん欲が深くなる。恋心は怖い。水心子に甘えすぎている。
こほん、とわざとらしい咳払いをして、抱きついたまま水心子に笑いかける。
「本当に……意地悪だったわ。あなたに甘えてしまったの。ごめんなさいね」
「……そうか。別に、私は甘えられるのが嫌というわけではないが」
気持ちを持ち直してくれたらしい声色と、じっと素直に私を見つめてくれる目にほっとする。腕を緩め、抱擁を解くと、不思議そうな顔をした水心子に携帯端末を見せた。
「水心子、あなたの心が軽くなるような理由なら用意できるわよ」
「? 其れは……政府からの任務要請画面、か?」
水心子の言葉に頷き、普段は一切見ることのないタブから、適当にあらわれた言葉を読み上げる。
「『刀剣男士の体液を摂取することによる人体への影響を調査せよ』」
「……は?」
「『刀剣男士が審神者の体液を摂取することによる戦績への影響を調査せよ』」
「なっ、我が主、」
「『期間は無期限。本任務への参加は任意とする。尚、任務に臨む場合は必ず政府管轄の部署による検査及び本丸情報の登録を行うものとする』……。一時は問題になった特殊任務の一部よ。今は参加に当たって各種検査も必要だし、任務達成の可否も物凄く厳しく精査された上で判断されるらしいから滅多なことはないと聞くけれど。どう? 参加してみる?」
閲覧制限の掛かった特殊な任務。審神者の中には刀剣男士と懇ろになる者もおり――実際私もつい最近そうなったのだけど――、ならばとスキンシップや性的な行為による影響を調べようという政府のやり方だ。彼らが刀剣男士に直接命令をすることはできないし、強制することもできない。その上非常にデリケートな部分でもあるから、余程の使命感やメリットでもない限りデータを集めることはできないゆえの。
任務の一つとして提示すれば、いくらか水心子の心は軽くなるだろうか。それとも、こういったことを任務として行うのはいかがなものかと苦言を呈すだろうか。でも、一応恋仲になったし……。
いろんな気持ちが頭を過る。水心子の反応を待っていると、目を白黒させていた彼は端末の画面を凝視していたのを無理矢理顔を私に向けるようにして剥がした。
「わが、あるじ、これは」
「あなたたちは普段見られないように制限がかけられている、特殊な任務欄よ」
「……人とは、本当に強かだな」
水心子らしいと言えばらしい言葉に思わずふふっと笑ってしまった。そんな私を見て、水心子は物言いたげな顔をする。
「どうしたの?」
「いや……、貴女の気持ちはありがたいと思うが……私は、これを口実に貴女に触れるのも違う、と、思って」
うろうろと目が彷徨う。彼の目線が私の身体のあちこちへ移動して、内番着の襟元で口を隠してしまった彼に、私は心が喜びに疼くのを止められなかった。私の方こそ、彼の気持ちを見誤っていたらしい。
刀剣男士達は皆侮られることを厭う。彼を過小評価していたと言っても過言ではないにもかかわらず、水心子は覚悟を決めたように私を見た。
「貴女にとってよいことが……相応しい報酬があるというのなら応じる。だが、私は、私がそうしたくて貴女を求めている」
「……うん」
嬉しい。水心子が考えながら言葉を選んで、私にくれる。
「だから……理由が欲しいわけでは、ない、というか……」
そこまで言うと、言い淀んだ水心子の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。躊躇いを含んだ目が閉じられて、私からは見えなくなる。
「……貴女が欲しくて仕方がないから、際限がなくて困ってるんだよ……」
ぼそ、と小さな声が内番着の内側で響くのを聞いた。はっとした水心子が慌てたように言葉を重ねようと口を開く。
「い、いやっ、その、私の時間は全て貴女に費やしても問題はないのだがっ、貴女こそ個人的にしたいことなどあるだろうにとっ……! いや、罪悪感を貴女に押しつけたいわけではなく、だな……!!」
なんと言ったものか、と言い募ろうとする彼に、私は携帯端末を置いて、人差し指を一本、彼の口元があるだろう場所にそっと押し当てた。内番着越しに彼が口を閉じたのを見計らって、大丈夫だと告げる。手を離して、ぱん、と両手を打ち合わせた。
「ねえ、水心子。任務に参加しましょう」
「は、」
「だってこのタイプの任務は、あなた以外には任せられないわ?」
「当然だ」
戸惑いつつもしっかり頷く彼を見て、私も一つ頷く。
「だから……ちょっと、共犯になりましょう」
「……我が主、端的に言ってもらえないか」
「任務を理由に、蜜月を過ごすのはいかが?」
ぱちぱちと、水心子の瞼が動く。
「この任務、一回だけじゃなくて継続的に様子を見る必要があるの。だから、その期間、気兼ねなく過ごせるわ」
「私は、誰に何を言われたとして、それを任務だからと片付けたくないと言ったはずだが?」
「だって、触れたいと思っているのはあなただけではないのだもの。でも普段の勤めを疎かにはできない。ちゃんとした理由がないとね」
こんな御託を並べなくたって私の刀剣男士達は気を回してくれるだろう。けれど、他ならぬ水心子が気兼ねするに違いない。
私が言うと、水心子はぐう、と言葉に詰まった。あと一押し。
「あなただって……次の日の予定が台無しになるほど、私を抱いてみたいと思わない?」
「……!」
瞬間、顔をめいっぱい赤らめて、水心子は口をはくはくと動かした。潤んだ目が私を見る。そこに、桜の花びらが数枚舞うのが見えた。
水心子もそれを見たのだろう、まるでそのことを恥じ入るように急にすっくと立ち上がって、
「だっ、だめだよ! そんな……我慢できなくなることっ 僕、今日はもう部屋に戻るから!」
狼狽えたままそう言うと、あっという間に戦場にでもいるかのような速度で走っていってしまった。少しして今剣が楽しげな声を上げているのが聞こえる。訓練でもしているのかと笑っているようだった。
「……押しすぎたかしら」
ぽつりと呟くと、近侍部屋の乱から「明日もう一回押せばいけるんじゃない?」と楽しげな声で返された。
2021.06.06
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