春
桜埋め
「今年も綺麗に咲いたなあ」春霞の中、温まり始めた空気の中薬研が笑う。彼の目線の先にあるのは何の変哲もない桜の木だ。蕾であった頃の姿はなく、生き急ぐようにぶわりと花弁を綻ばせる様は着飾った女性の姿を思わせた。……というと、薬研は「あんたの例えは相変わらず良く分からねえな」と言うのだろうから、胸の内だけで留めておく。
彼と共に久しぶりに訪れた場所は多少の変化を見せながらも、誰に侵されるでもなくひっそりとした佇まいを残していた。
その風景の中、かつて「桜にさらわれそうだ」とからかいまじりに評したこともある儚げな少年然としたままの薬研が、真っ直ぐに桜の元へ歩いていく。風に揺られて踊る桜が花びらを振りまいて、まるで彼を祝福しているようだ。
彼はそのまま太い木の幹に手を当て桜を仰ぎ見た後、腰を下ろして満足そうな顔をした。そこは、この桜の元へ来た時の彼の定位置だ。
変わらぬ姿に変わらぬ動作。毎年繰り返すそれを指摘すると、薬研は眩しそうにこちらを見上げて、穏やかに顔を綻ばせた。そして地面を優しく叩き、言う。
「そりゃそうさ。懐かしいだろ」
彼の下には、かつて彼から大将と呼ばれ慕われた一人の審神者の身体が埋まっている。――否、埋まっていたというべきだろうか。掘り起こしたとして、最早骨さえ土へ還っているはずだ。
薬研は目線を更に上へ伸ばし、桜の木にもたれた。
「こいつも立派になったもんだが、いつまで生きるかねえ」
まさかそんな情緒的な言葉が薬研の口から出るとは思わずに目を剥くと、彼は呵呵と笑った。
「桜の下は失敗だったな。こいつが朽ちねえ限りは、あんたの一部がずっとここにある気がしちまう。早いとこ全部攫っちまいてえもんだ」
手を伸ばしてくる薬研に応える。強くもない力で掴まれた手首に目を落としながら、昔欲された時もそうだったことを思い出した。
この力に抗えない。導かれるまま、彼の隣に腰を下ろした。
頭上では、相変わらず桜の花弁が揺れている。
夜食
――だめだ。もうだめだ。身体の声に従い布団からそろりと這い出る。布団との温度差に身震いを一つ。
草木も眠る丑三つ時だ。刀剣達も基本的に夜は身体を休めるものだということは分かっているらしく、本丸の中は静かなものだ。ああ、酒盛り組はどうだかわからないが。
きゅうううう、と情けなく軋む胃を押さえ、さてどうしたものかと思案する。頭が良く回らない。しくしくと空腹を訴える胃をなんとなしに押さえてみる。が、当然空腹が収まることもなく、静かに息を吐いた。この胃を宥めるには何か腹に入れる以外ない。
本丸の中で自分が寝ているのは最も奥だ。其処から炊事場へ行こうと思うと、刀剣たちの眠る部屋の前を通って行かねばならない。板張りの廊下は音がなる。人ならざるが故に、刀剣の付喪神であるがゆえに、彼らは物音や臭い、人の発する気配には敏感だ。
主である自分を警戒することはないだろうが、折角身体を休めている所を邪魔してしまうのは忍びない。よって、少々遠回りだが一度外へ出ることにした。ぐるりと回れば彼らの部屋に近寄らなくてもよいし、炊事場は半分土間だから、勝手口から入ることは容易だ。
行燈に火をつけて手に持ち、襖が妙な音を立てぬよう、少し緊張しつつ力を込める。自分でも満足いくほど静かに開けることが出来て幸先の良さにほっとする。と、
「大将」
ぶわり。
すぐ耳元で風の囁きほどの吐息がかかり、ひっと微かな悲鳴が喉元から漏れ出ていった。心臓が物理的に跳ね上がったと思うほど身体そのものも飛び上がり、足元から温度が消える。同時に、手放しかけた行燈をそっと引き抜かれ、後ろから胴に手を回されるのを感じた。
「や、薬研……」
可能な限り声を殺して犯人を呼ぶと、小さな姿で精力的に仕事をこなしてくれる頼もしい近侍が、くすりと笑みをこぼしたのを感じた。
幸いにも大した音は出なかったが、鶴丸でもあるまいし驚かせるのは止めて欲しい。
荒ぶる心を落ち着けた後小さな声で抗議すると、薬研はくつくつと喉元を震わせた。
「こんな真夜中に緊張しつつも張り切った様子で部屋を出て行くなんて、なんの悪だくみだ?」
小さな子を嗜めるような声色に心外だと返すと、薬研は目を細めて笑みを収める。相変わらず身体は拘束を受けていて、大した力は入っていないものの、行燈が奪われたのは痛手だ。
沈痛な面持ちでいたのが分かったのだろうか。薬研は手を放し、それから行燈を掲げて見せた。
「それで? 近侍ほっぽってどこに行こうってんだ? 厠だろうがどこだろうがついてくぜ」
非常にありがたい心意気だが、しかしそんなに大した用事でもなく、気が引けてしまう。それでもこの近侍に嘘をついて誤魔化すのは末恐ろしく、素直に小腹を満たしたいのだと言えば、彼は納得した様子で微かに数度頷いた。
「夜食かあ……飯のアテはあんのか?」
この本丸にも刀剣が増えた。故に日々の食事の総量が大きくなることも必至。余るということも然程なく、自分で確保しない限り余分な食糧というものはない。原則、酒の肴やお菓子の類は各自が個人的に管理している。
しかし、なければ米を炊けばよいのだし、お粥でも構わないのだ。幸い米ならば、それこそ山のようにある。そこにちょちょいと塩を振るか、梅干しの一つでも乗せれば立派な一品だ。
そう告げると薬研はまた一つ高揚に頷いて、襖を閉めた。
え、と半端に手を上げて制止したい意思を示すと、薬研は反対側の襖を指した。
「こっちだ。バレたくないんだろ? 外に出るなら近侍(俺)の部屋からの方が直ぐだ」
確かにそうだ。そうなのだが……主と近侍の部屋を仕切る襖が見事に薬研の身体分開けられているのを見て、なんとも言えない気持ちになった。
この近侍にはどんな隠し事も出来る気がしない。
薬研に案内されたのが良かったのか、誰に止められることもなく無事に目的地へとたどり着くことができた。炊事場はもちろんと言うべきか静かで、行燈で照らしながらめぼしいものを探す。
と、誰かが夜食用にと置いていたのだろうか、おにぎりが2つ、誂えたようにザルの下に隠れていた。その隣には食べかけの鮭とば。大きな皿に乗っているそれらは、誰かが夜食にと用意していたが食べ残したような姿だった。
これは良い。
自分でもにんまりと口角を上げているのが分かる。薬研を手招きし、これを七輪で焼いた後お茶漬けにして食べようと持ちかけると、薬研は片眉をひょいと持ち上げて鼻を鳴らした。
「共犯のお誘いか? 光栄だな。いいぜ」
気前のいい返事に笑みが深くなる。薬研は手早く火の準備をしてくれ、褒めてつかわす、と胸を張ると、声を潜めながらも呵呵と笑ってくれた。
まず湯を沸かしておき、それを二つに分けておく。七輪で鮭とばを炙り、お湯の一つで煮る。身をほぐしつつそうして出た出汁と醤油とごま油、みりんを少しずつ混ぜたものをおにぎりに垂らして崩れない程度に染み込ませ、焼きおにぎりを作る。
焼き加減を見ながら、徐々に漂い始める芳ばしい香りに食欲が高まっていく。それは薬研も同じのようで、互いに目が合うとどちらともなく湧き上がった笑いを噛み殺した。
今すぐつまみ食いでもしてしまいたいが、ここで焦ってはいけない。美味しいご飯のためには我慢と手間を惜しんではいけないのだ。
様子見をしている間に取っておいたもう一つのお湯でお茶を淹れる。
「もうそろそろどうだ?」
菜箸でひっくり返しながら、おにぎりの表面がカチカチになってきた頃、薬研がそっと囁いた。頷き、二つのお椀に乗せる。鮭とばを入れた出汁を掛け、二つのお椀に同じ量になるように柔らかくほぐれた鮭とばを乗せれば完成だ。
「美味そうだな」
炊事場で椅子を並べて、調理台を机にして二人、お茶漬けに舌鼓を打つ。
柔らかな鮭とばは適度に塩気が抜けていて箸が進む。焼きおにぎりもほぐして食べれば、パリッと焼けた表面と、よく温まりほっこりした中身の味わいに頬が緩んだ。
焼きおにぎりは味をつけなくても良かったかなと零すと、薬研が「美味いぜ?」と首を傾げる。鮭とばの出汁が味付けのせいで飛んでるのだというと、薬研は一つ喉元で笑い、「歌仙の真似か?」と口元を歪ませた。
歌仙は普段から炊事場の全指揮権を預ける程度には料理に関して信頼の置ける存在だ。確かな舌を持っており、味の品評をよくする。薬研は戦に関しては別だが、彼ほど日常の細やかな部分に気を配ることがなく、先の言葉に彼を連想したようだ。むべなるかな。
米の一粒、出汁の最後の一滴まで残さず食べ終えると、お茶を啜った。一息つく。腹が満たされ、えも言われぬ充足感に浸っていると瞼が重くなってきた。
「どうだ? 眠れそうか?」
見計らったような言葉に頷きを返す。声色は穏やかで、胸に染み込むようにして入り込んだ。
少しゆっくりしてから火の始末は勿論、後片付けをして炊事場を後にする。来た道を辿り部屋へ戻ると、布団に入るまで見送ってくれた薬研が行燈の火を落とした。
「おやすみ、大将」
思いの外近くで聞こえた声に驚きつつ、同じ言葉を返す。そのまま薬研が襖を閉める音を追いかけてから目を閉じた。満たされた欲求は今度は大人しく眠りへ向かい、夢を見ることもなく意識はふわりと闇に溶けた。
「たーいしょ、朝だぜ」
呻き声を上げながら瞼を持ち上げると、白湯の乗ったお盆と共に控える薬研の姿が目に入った。
眠たい。猛烈に眠たい。
そんなようなことを覚醒しきらない舌を回して訴えるも、薬研は起床を促すのを止めてくれなかった。
「朝飯食いっぱぐれるぜ」
それは嫌だ。
むりくりに身体を起こして開け切らない瞼を擦る。差し出された白湯に口をつければ、少しだけ目が開いた。
「顔洗って来な。ちったぁ目も覚めるだろ」
湯呑みと交替で蒸しタオルが顔に当たる。主に目を揉み解すようにすればまた少し瞼の重みが取れていく。そんな中、何よりも意識を覚醒する言葉が耳に届いた。
「夜食の件、今回は大目に見るけど頻発するなら厳しくしてくれって歌仙から聞いてるぜ」
もうばれているのか!
驚きに顔を上げると、薬研は「流石台所の一切を仕切ってるだけあるな」と苦笑していた。七輪の炭の具合や伏せたお椀の数からばれたようだ。くわばらくわばら……怒髪天を衝かないよう、これからは気をつけよう。
「ってわけで、夜更かしが酷い場合は俺が寝かしつけてやっから、まあ楽しみにしてくれや」
……歌仙より先に、気をつけるべき相手がいた。
どういう方向で『寝かしつけ』られるのか訊ねるのも恐ろしく、圧倒的ないい笑顔を前にただただ首を何度も縦に振るしかできなかった。
特別扱い
刀剣男士たちは人間ほど睡眠を必要としない。まあ、人の真似事が好きな者、誰に似たのか寝汚い者や酒の影響で朝が遅い者など様々だが、本質的にはそうである。この本丸では人間である自分に合わせて皆夜は寝るものと理解してくれているため、宴会でもない限り夜半に騒がしくなることはまずない。あ、また寝てる。
寝るという行為に皆が慣れたこの頃、昼寝の習慣を導入してみたのだが、これがなかなか評判が良く、本丸では日向ぼっこのようにして眠る刀剣男士の姿が散見されている。薬研もその中の一振りで、あまり頻度は高くないが、静かな場所で身を横たえていることが多い。薬師であり医術の心得もある彼には他の刀剣たちとの寝室の他に、作業部屋――保健室のような場所だが――という縄張りがあるのだが、先日はそこの椅子に掛けたまま腕を組んで、器用に寝入っていた。今日は永らく彼に任せている近侍としての部屋から続く縁側で、座布団を二つに折って枕にしている。
静かに、穏やかに繰り返される寝息。淡い藤色の目は伏せられ、大胆不敵で気風のいい言葉が飛び出す口も閉じられており、白い肌に良く映えていた。柔らかく細い黒髪は少しの風にもよく靡き、座布団の上で思い思いに散らばっている。つい忘れがちだが、彼の姿は線の細い麗しい少年だということを強く意識させられる。依代である短刀がベルトから外され、直ぐ手に取れるよう側に置いてあるのがなんとも彼らしいが。
そっと近寄りまじまじと見つめるも、起きる様子はまるでない。どうやら眠りは深いようだ。普段ならばこちらが息を殺していても気取られるほど敏感なのだが、漸く彼ものんびりすることに慣れてきたのだろうか。
折角だからこのままゆっくりと寝かせておくのがよいのだろうが、なにかブランケットの一つでも掛けてやった方が身体を冷やさずに済むはずだ。今は日向だが、直に陽は傾き、風は冷たくなる。それまでに起きるか起こすかするにしても、普段こちらが散々言われていることを気にしないわけにもいくまい。
自室から普段使っているブランケットを持ち出し、薬研に掛ける。少し寝息が乱れたものの、彼は納まりの良い形を暫し模索してブランケットを身体に馴染ませると再び動かなくなった。
いつもは何かと眼力のある彼が目を閉じていると、年相応のあどけなさが見えてよいものだ。
もう一度寝顔を覗き込み、決める。うん。万が一誰かが来ることのないよう、少し人払でもしておこうか。
折角だからと薬研の姿が目に入るところで端末を起動することにして、凡そ一時間。端末は他の審神者へ演練の届けを出したり、審神者を統括する本部と連絡を取り合ったりするための専用の回線が引かれたもので、暇な時は大体これを使ってまだ回収できていない刀剣の情報収集などに努めている。
すやすやと寝続ける薬研が不意に寝返りを打った。少し深い呼吸の後、瞼が震え、ぱちっと両目が開く。夕方、艶やかな夕陽に照らされた雲のような色の目が、寸分違わずこちらの目を射抜いていた。既にある程度覚醒していたのだろう。その顔に最早隙はなかった。
おはよう、と唇を綻ばせると、薬研はブランケットに包まったままにんまりと口角を上げて「おはようさん」と返事を。そうしてブランケットを抱えて身を起こし、手櫛でさっと髪を整えた。……今更ながら、良く服を寛げないまま寝ていられたものだ。
「これ、ありがとな」
身なりを整えた薬研はもういつもの通りだった。少し掠れた声が彼が寝起きであることを示しているだけだ。
ブランケットを畳んで立ち上がった彼にどういたしましてと返すと、側に寄って来た薬研はそのまま顔を近づけて笑った。
「大将の懐にいるみたいで悪くなかったぜ」
「!」
からかうようでいて、多分に、どこか甘ささえ滲ませた囁きに声も無く目を見開く。にんまりと、彼の浮かべる不敵な笑みには寝顔のようなあどけなさなど欠片もない。
起きていたのかと訊ねるも、
「そりゃ、大将がよく分かってるだろ?」
そうはぐらかされ、そのまま直ぐに小腹が空かないかとお茶へ誘われた。時計を確認するともう午後三時になろうとしていた。おやつの時間には丁度良い。
結局真偽のほどは分からなかったが、後日別の子たちとの会話の折にどうやら薬研が眠る姿を見たことがあるのは自分だけらしいことが判明し、より一層謎が深まることとなった。――懐かれているのだと、自惚れても罰は当たるまい。
命の華
本丸は長閑なものである。血生臭さや穢れなど微塵もなく、まるで桃源郷のようにひっそりと息衝くこの場所は、常世と現世の狭間とも言うべき異界。そこには数々の刀剣から成った付喪神が人の姿を持って過ごしていた。たった一人、彼等を降ろした審神者なる者を主と呼んで。近侍として世話役を仰せつかった薬研藤四郎は、じっと頭と仰ぐ審神者を見つめていた。
部屋の中、布団も敷かず横たわる主の身体が小さく動いている。意思の介入しない筋肉の動く様は穏やかながらも確かに血潮を運ぶために淀みなく働いており、彼の目には力強く感じられた。
外から入ってくる風に髪が乱されるのも構わず、柱に身を預けたまま薬研は動かない。その様子に気づく第三者も今は近くにはいない。
ここは本丸。主たる審神者の部屋近くにまで侍ることができるのは近侍のみ。興味を引くこともなければ、不躾なと咎められることもない。故に、彼が何を思ってそうしているのかを知る者もなかった。
薬研の脳裏に戦場が過る。
開戦の合図、鉄砲の放たれる音。上がる煙。火薬の臭い。弓の弦が張り詰め、矢が放たれ空を切る。雄叫び。悲鳴。武具が擦れ、刀が振るわれる。ある時は刀同士がぶつかり合い、ある時は鍔迫り合いが。徐々に増えていく人々の喉と空を震わせる命乞いと無念の呪詛。彼らの肉に深々と己を食い込ませながら、最期の血潮が迸るのを内側から感じ、外側から眺める。
そのようにして、束の間、戦場はむせ返るほどの華で溢れる。
直ぐ側に迫る死を前に人の肉体からは生が爆ぜ、艶やかに咲き乱れる。潜り込むべき肉体を喪い、惑うように外へ飛び出すその姿の鮮烈さは桜の咲き方にも似ているように思われるほどどこか妖艶で、薬研はその瞬間を見ることを好んだものだ。
さる折りに花見は好きだと歌仙に告げたことが思い出され、薬研は微かに口元を綻ばせた。さて、彼はどの様にして受け取ったろうか。まさか薬研の言うところの意味で理解したわけではあるまい。薬研もまた過去の発言をした際に示したところと、今示したいところで差異が出たことを知ったばかりなのだ。あの頃言いたかった『花見』なる行為は、ただ己の手で花を手折っていただけではなかったか。あれに比べれば、今している行為こそ余程『花見』と呼ぶに相応しい。
横たわる主から感じる命の鼓動。息吹。その身体の隅々にまで行き渡る血潮が主を生者足らしめている。これまで薬研が目にしてきた花々とは比べるべくもなく密やかに存在する様はまるで開花を待つ蕾か、名も知らぬ小さな野花と言った風情を持っていた。その器を害せば、きっと肉を突き破るようにして咲き誇る美しい華が出てくるのが見られることだろう。だが、それだけだ。今の姿の比ではないほどの大輪の花は一時薬研の目を楽しませるだけで、瞬きほどの間にも直ぐに消え失せてしまう。そして、二度はない。
長閑で、およそ終わりの見えぬ戦いに身を投じているようには見えなくとも審神者は薬研たち刀剣の主であり、戦いを指揮する者には違いない。なれば、年老いて弱った果てに逝くよりも、ある日突然命を落とすことの方が現実的である。
それを考えればこの主が誰ぞに手折られることなど到底看過出来ぬし、またそうであるならば――介錯は己の手で。その身の内に潜んだ血潮が破れた皮から迸り散っていく様を余すところなく感じるのは己でなければならぬと薬研の胸底は俄かにいきり立った。
薬研は付喪神である。神としての己は幾らでも『分かれる』事の出来る存在であり、実際に同じ薬研藤四郎を何度も目にしてきた。演練で手合わせをする際に相手方の顔ぶれの中に見たことも一度や二度ではない。しかし、この本丸の、目の前にいる審神者の元へ早々に降りたのは今ここにいる、肉体という個を持った己だ。名前や外見が同じであろうが、降りて以降過ごした日々はたった一人己だけのもの。
薬研を再び戦へと導いてくれた大切な主だ。その死が他者によってもたらされるのであれば、それは己でなければ。此度こそ誰にも渡さない。最期まで主の華を誰よりも近くで愛しみたい。主だからこそ。
ごう、と風が吹いた。陽射しこそ暖かだが、春の風はまだ冷たさを残している。どこからか舞い込んだ桜の花弁が畳の上を駆け、審神者の側でくるくると回った。それを見て、薬研はようやっと立ち上がり、言う。
「大将、居眠りか? 身体冷やすなよ」
秘密のお誘い
本丸は現世と常世の境にあるようなものだ。敢えて言うのなら、人の手によって再現された常世、といったところだろうか。時間の経過はあるが、四季は審神者の手であれば選ぶことができる。代わり映えの無い地へ幽閉同然に赴任する者への手向けだろうか。然るべき品と引き換えに、ではあるが。刀剣たちも風景の変化は歓迎するところのようであるから、自然な四季の移ろいを味わえなくとも、景観を時期に合わせて変えることそのものに否やはないのだが。寒さが足先から皮膚の中へ潜り込んでくるような冬景色を止め、暫し時間をおき、春の装いを試みて数日後の夜半。一度身体を休めたは良いものの、ふと目が冴えて布団を抜け出した。回廊へ出れば柔らかな風が身体を撫でて行く。月が出ているならば外を歩けば行燈は必要ない。
華やかに咲き乱れ、滾々と散り続ける桜で満ちた庭は、春霞による朧月夜で薄らと照らされている。本丸から漏れる灯りで下からもほんのりとライトアップされている様は観光地のそれと遜色ないほど見ごたえがある姿だ。昼間には確かな薄紅色が、夜半には他の新緑の中に白く浮かび上がり、遠くの山々にも見ることができる程。
それを褥にしどけなく身を置く艶めいた人のようだ、などと下世話にも考えていると、ふと今し方脳裏に過ぎった様な怪しげな生白い肌が目に留まり、思わず足が止まった。たたらを踏む程に動揺が出なかったのは幸いだった。
「お、大将じゃねえか。どうした?」
柱に凭れて悠然と白い足をのばしているのは薬研藤四郎という短剣の付喪神。近侍ではあるが、既に一日の仕事は終わっており、一振りの刀剣として羽を伸ばしているところだったのだろう。傍らにはいかにもな瓶があり、手には透明の液体が入ったぐい飲み。まさかこれで水を飲んでいたわけでもあるまい。
眠れなくて起きただけなのだが、意図せず邪魔をしてしまったことを詫びると、薬研は屈託なく笑った。
「別に邪魔なんてことはないさ。眠れないんだったら、大将もどうだ? 歌仙の作り置いた芋焼酎だぜ」
ぐい飲みを掲げる薬研に、焼酎は不得手だからと断りつつも隣に腰を下ろす。いつの間にそんなものを会話を続けると、薬研は「確か……丁度二つ前の芋の時期だな」と答えた。と言うことは、一年半ほど置いていたことになる。
「他の奴らには内緒にしといてくれ。歌仙がな、季節ごとにあれこれ酒に浸けるのは好きらしいんだが、飲むのはそうでもないらしくてな。かと言って酒好きの連中に知れたら催促が鬱陶しいとさ」
成る程。歌仙らしいと言えば歌仙らしい。特に神社などにあった刀剣は御神酒が供えられていた所為か酒を好んでいたり、得意な者が多い。大凡、薬研は口が堅く羽目を外すということもないだろうからお裾分けを貰った、というところだろうか。甘い酒であれば少しは飲めるから、今度何があるか聞いてみてもいいかもしれない。
「……そうだ大将。今からでも歌仙に言って果実酒でも貰ってくるか?」
薬研の提案に頷きかけるが、それはまた次の機会にでもどうか、と提案を返す。勿論その時には薬研と一緒に。今日は恐らく一人で飲むつもりだったのだろうし。
「別に俺は構わないが……大将、眠れそうか?」
気遣いの言葉に、寝酒の習慣があるわけでもないし、瞼が重くなれば布団に戻ることを告げる。そこまで深刻になるほど寝付けないわけでなし。まあ、明日は多少の寝坊はあるかもしれないが。
あまり薬研が重く取らないように軽い調子で付け加えると、彼は口元を歪めて小さく噴き出した。
「起こすのは任せとけ」
本当に。起こされなければいつまで寝ているか分かったものではない。朝御飯を食べ損ねるのは御免である。この本丸にはブランチなどという習慣はないし、習慣に出来るほど食べ物が余ることもまずない。歌仙や燭台切辺りが気を利かせておにぎりの一つや二つ、握ってくれていたりする時もあるが、小言とセットだからできれば回避したいところである。
さて、それはそれとして。時に薬研はどうしてまたこんなところで酒を、と気持ちを切り替えて訊ねてみた。酒を酌み交わす相手がいるわけでなし、部屋で飲んでいるよりは景色でも見ながらの方が健全な印象はある。しかし薬研は一人のんびりと過ごすということが殊更に好きというわけではなかったように思う。
疑問は直ぐに解決した。
「それがなあ……この酒を持たされた時に、歌仙からたまには季節の変化でも感じたらどうだって言われちまって……」
溜息をついた薬研の姿は内番で馬当番や畑当番に指名した時と重なるものがあり、思わず苦笑が漏れた。
まあ、歌仙も風流を解せよなどとまでは思っていないだろう。だが、歌仙の言葉を律儀に守っている薬研と言うのもなんだかおかしく思われたのだ。
それで、何か感じるところはあったのか。
訊ねれば、薬研は開き直った顔ではっきり答えた。
「月は冬の方が明るい。今までは月が出てるかどうか位しか気にしたことがなかったが、意外と違いがあるもんだな」
その目がやや据わっているのは気のせいだろうか。それでも、薬研らしい答えに目を細めた。彼の言葉に頷き、確かにそうだと返す。まあ、今晩のように朧月夜というのは春特有のもので、歌仙の言葉で言うところの『風流』なものだが、別にそのように感じなければならないこともない。桜が咲いている。散っている。それを知ることだけで足りるのだ。歌仙とて、季節ごとに果実など酒に浸けているというのも、そこから四季を感じるためだろう。どちらも季節の変化を感じていることには違いない。
夜桜や朧月夜を目に映すだけで楽しむ晩酌ではなかったようだが、今度は二人でやってみよう、と改めて持ち掛ける。また新たな発見があるかもしれない。そう言うと、薬研は涼しげな目元を細めて唇を綻ばせた。春の月が薬研の輪郭を淡く照らし、より柔らかく感じさせる。
「ああ。大将と酒飲むの、楽しみにしてるぜ」
そう言って、薬研は再びぐい飲みを掲げ、目配せを。それに頷いて、少し重く感じ始めた身体に気づき、腰を上げた。布団へ戻る旨を告げると、おやすみと穏やかな声が返ってくる。薬研も良い夜をと返し、来た路を引き返した。
折角だから、季節を変えぬうちにしたいものだ。歌仙ならば桜を浸けていたりしないだろうか? もしあるのならそれを二人で開けてみてもいい。それに、一応秘密の晩酌になるのだ。話を持ち掛けるのも時と場所を選ぶだろう。どうやって薬研に伝えようか?
くふくふと弾む心地で部屋へ戻り、布団へ潜り込む。心は浮ついていたが、身体の方は直ぐに眠りへと引き込まれた。
2015.04.02 pixiv掲載