薬研藤四郎が折れた日

 薬研が出陣から帰ると、本丸の様子がおかしいことに気づいた。普段本丸は審神者によって管理されているため、空気は清浄であるし、刀剣たち以外の魑魅魍魎なども刀剣を恐れてか、はたまた審神者の手腕のためか、悪さをすることなく、上手く共存できている。
 門をくぐったのち薬研は率いていた部隊を解散させ違和感の正体を突き止めるべく歩を進めたが、程なくしてその原因に行き当たった。今日の本丸はどこか静かなのだ。

 嫌な気配はないため単純に本丸に残留している刀剣の数が少ないのかと思いながら、土を落とし、審神者の元へ報告を上げるため土間から板の間へ上がる。ふと床が軋む音がし、見ると、にっかり青江が薬研を見て軽く手を上げていた。
「やあ、お帰り。怪我が無くて何よりだ」
「おう、帰ったぜ。あんたが出迎えとは珍しいな?」
 偶々なのだろうか。そう自然な方向へ思考が流れたが、すぐさま薬研はそれを否定した。
「本丸の様子がおかしいのと関係あるのか?」
 駆け引きなどするつもりもなく、率直に訊ねる。青江は「まあね」と思案気に眉尻を下げた。
「ちょっとね、のっぴきならないことがあったのさ」
「?」
 片眉を上げて先を促すも、青江の口は重い。過去形で語るからには既に事自体は済んでいるのだろうが、それにしても普段は何食わぬ顔で茶々を入れる類の刀剣であるにもかかわらず、困ったように言いよどむ姿など見てしまえば、済んだことと流してしまうには少々無理があった。
「で、なんだよ。大将に報告するより先に聞いておいた方がいいんだろ?」
「……察しがよくて助かるよ。実はねえ……」
 青江を突き飛び出してきた話に、薬研は眼を丸くした後、盛大にため息をついた。



 審神者の部屋は本丸の中でも奥にある。どこか浮足立ったような本丸の様子の理由も分かった薬研は、一人、普段と同じように歩き、目的の部屋の襖の前に立った。元より主である審神者の近くで刀剣たちが騒ぐことは無かったが、今日に限っては静寂も素直に穏やかであるとは言い難い。
(辛気臭いな)
 大きくため息をつきたいのを堪え、薬研は息を吸い込んだ。
「大将、帰った」
 声を掛け、中の反応を待つ。だが、確かに審神者の気配はあるものの、返事が響くことは無かった。戦帰りでひりついた感覚に中の音を拾う。
 乱れた呼吸。微かに響く嗚咽と、鼻を啜る音。
(こいつは……)
 今己は笑っているだろうか。だとすればそれはどういう理屈だろう。
 薬研は髪をかき上げた。深刻そうにしているところにどう入って行ったものか。どうすれば主と仰ぐ人間の心を折らずに顔を上げさせることができるだろうか。薬研の考えるところはそれだけであった。破壊は得意とするところだが、萎れかけた花を再び持ち直させる方法など何のとんちかと言いたいほどの門外漢。薬研の感覚からすると、審神者は励ましに肩を叩けば重傷を負いそうな程脆弱な存在なのだ。
「入るぜ」
 ええい、ままよ。兎に角じっとしていては始まらぬと襖を開ける。薄暗い部屋の中、歪な塊を一つ確認した。
(あーあーあー、陰気背負っちまってまあ)
 あまりいつまでも陰鬱であると良からぬものが寄ってくる。薬研は部屋に入り襖を閉めると、まるで土下座でもしているかのように身を丸める主の斜め後ろへ座った。と、審神者が頭を向ける先、一枚の懐紙の上に広がるものを見て、薬研は静かに息を吐いた。
「大将、報告させてくれ」
 出来るだけ穏やかに、優しく聞こえるように。意図のまま広がった己の声に、薬研は同じように唇を緩める。するするといつものように己に課せられた役目を果たすべく舌が回っていく。出撃部隊の損傷具合、拾得物、審神者は出撃こそ共にしないが、刀剣たちの声や、部隊近くの映像などは常に感知することが出来るため、知ってはいるだろう。だが審神者も人である。見たくないもの、聞きたくない音もあれば、今日のように出撃中の部隊とは関係のない所で起こった事が原因で、出撃部隊の状況を視ることが叶わないことも少なくない。念のためである。例え余裕が出来て、審神者が刀剣たちの情報が映し出される端末を確認すればよい話であっても。
「――……以上だ」
 恙無く報告を終えた薬研は、報告の間徐々に姿勢を正した審神者を見た。正座にこそなったが、表情は鎮痛そのもの。顔色はさほど悪いようには見えないが、心の方がどうかは別問題だ。泣き濡れていた後があるのも明白で、この瞬間に再び涙が零れ落ちないのは、目の前のヒトが懸命に薬研たち刀剣の主足らんと、そのように応えようとしているからに過ぎなかった。
「大将」
 薬研が呼び掛けると、審神者の肩は眼に見えて過剰に跳ねた。まるで叱られる子どものようだと考え、ヒトである審神者と己とでは、意識がまるで違うのであろうことを実感する。
「大将、俺は、帰ってきたぞ」
 丁寧に言葉を区切り、その手に握らせるように優しく言葉を贈る。胡坐から上体を前へ沈ませて、審神者の眼を覗き込むように、そして審神者からもまた薬研の顔が見えるように、意識を己へ向けさせる。双方の視線が重なると、審神者の眼が見る見るうちに潤みだし、瞬きと共に涙が一つ零れ落ちた。
「俺が折れたんだって?」
 言葉が終わると同時に、審神者が瞼を閉じた。その内側に納まりきらなかった滴が、頬を伝っていく。
「そうしょげるなよ。こういうこともあるさ」
 何も珍しいことではない。戦場で折れることができたのだ。刀として、そう悲しむことでもない。寧ろ、ある意味幸せな終わり方ではないだろうか。緩やかな時間の中、ただひっそりと存在するだけなど、只々月日が経ち、風化に任せるまま緩やかに朽ちてゆくなど薬研には耐えられそうにない。人の手により長きに渡り存在し続ける『だけ』と言うのもまた、刀として生まれた身では苦しみもあるということは、他の刀剣を見ていれば感じないわけにはいかなかった。

 ――か細い声で審神者が薬研の名を呼んだ。

 薬研のみならず、付喪神たる刀剣男士たちは皆、審神者に名を呼ばれることも、触れられることも好きである。それこそが審神者の能力であるからだ。その唇が己の名を呼ぶとき、目覚めを知った心というものは打ち震え、そして快を識る。燻るような思いが清流で洗われるような気分になるのだ。それが例え、どんな気持ちで紡がれたものであったとしても。
「なんだ、大将」
「薬研、薬研」
「ああ」
 堰を切ったように同じ言葉を繰り返し始めた審神者に、薬研は一つ一つ丁寧に返事をした。徐に審神者の手が伸び、薬研の手を掴まえる。握り返したが、直ぐにそれは腕へ移り、胴体へ絡みついた。鼻を啜り、息が乱れるのがよく聞こえる。こちらからも手を回すべきだろうかと思案したが、まるで抱き潰すような力で薬研へすがりつく様子を腕の中で感じ、されるがままになった。人の身体を得たことで痛みもまた知ったが、それでも審神者程度の腕力では薬研に痛みを与えることは出来ないのだ。
 やはり生粋のヒトとは脆い。戦帰りでまだ感覚の鋭さを残す薬研が、己の身体が審神者を裂くのではと心配になるほどに。
「ごめんちょっとこのままで」
「……いいぜ」
 酷い鼻声だった。仕方のないヒトだと感じつつ、やはり好きなようにさせる。涙は心の浄化を行うのだという。それが今の審神者に必要なのであればいくらでも泣けばよい。泣き続けるのも体力と根気を使う。そして、心とは移ろうもの。この落ち込みも今だけのものに過ぎず、また、そうでなければならなかった。
 千々に乱れているのだろう心に呼応するように、審神者の身体は熱を持っていた。病の類ではないため、それが己に染みついていくのをただ感じる。暫くじっとしていると、泣き続けるのにも飽いたのだろう、審神者の腕の力が弱まった。兄がそうするように、こういう時はやはり背中か頭の一つでも撫でてやるのが定石だろうとふと思い立つ。ただ、腕ごと拘束するように抱きしめられているため、薬研は審神者の脇腹近くをぽんと叩いた。
「お疲れさん」
 ゆっくりと、寝かしつける時のように一定の調子で審神者の身体を叩く。すると、薬研の肩口で審神者の首が横へ振られた。聞き取り難い声で、何も疲れるようなことは無かったと、懺悔のように繰り返す。
「ごめん、薬研、ごめん」
 言葉の合間に謝罪を挟まなければならない規則でもあるのだろうかと茶化したい気分になるほど、審神者は同じ言葉を繰り返した。戦慣れしており、実際に華々しく活躍する薬研への安心感から二振り目を出陣させ、その果てに折ってしまったことを切々と詫びた。あの時ああしていれば。そんな言葉も懺悔も、栓無いことだ。薬研は相槌の代わりに審神者の身体を叩き、
「大将、俺に謝ったって気は晴れないだろ。大将が本当に謝りたい俺は、もういないんだ」
 告げた言葉の後、審神者は一つ鼻を啜り返事をした。
「うん」
「ま、だからってそこに置いてある残骸に言っても、もう俺じゃないんだから同じことだな」
「うん」
「確かに、大将の中に慢心があったことは反省しないとな。出陣はいつでも気を引き締めてかからなけりゃならん」
「うん」
「しかしなあ、俺達は付喪神なんて大層に呼ばれちゃいるが、結局依代が壊れりゃ消える小っさいモンだ。大将みたいにヒトが死ぬってこととは、まあ、ちょっと違うが、それでも使い物にならなくなる時は来るもんさ。それが戦場だっただけの話だ」
「うん」
「安心しな。折れたところで、戦に出してもらえるってんならいくらでも大将のところに来る。ま、弱っちくなっちゃいるが」
「うん」
「なに、蔵に置かれてなまくらになるよりずっと良いさ。なあ、だからもう俺を出すのは嫌だとか、言ってくれるなよ」
 命令には従うつもりではあるがな。薬研が苦笑めいた声でそう締めくくると、審神者は緩く首を振った。
「言わない。言わないよ。だって薬研がいなけりゃうちの一軍は索敵もまともにできないんだから。頼りにしてる」
「そりゃよかった」
 審神者が薬研を抱く力が改めて強くなる。しかしそれは取り乱した際よりは随分と柔らかいものであった。その抱擁も解け、審神者が自ら薬研の顔を見つめるのを、正面から受け止める。腑抜けにはならなかったかと安堵したものの、しかしあまりの泣きっ面に堪え切れず、薬研は噴き出しながらハンカチで審神者の顔を拭った後、鼻をかんでやった。



「白状するとね、一番ショックだったのは、折れる薬研を綺麗だと思ったからだ」
 随分と落ち着きを取り戻した審神者は、気まずそうに目を逸らしてそう呟いた。しかし薬研は眼を瞬かせただけで、特に否定も肯定もしはしなかった。美醜を論するような感性は持ち合わせていないためだ。折れ、最早なにも宿らない依代の成れの果てを早々に捨てなかったのはそう言った理由からかと思うだけである。
「大将がそう言うなら、そうだったんじゃないか?」
 ゆえに、返事として持ちだした言葉は使い古された常套句ではあったが、審神者の心を揺さぶる助けにはなったらしい。目をひん剥き薬研を凝視してくる様がおかしく感じられて、薬研は呵々と笑った。
「酷い間抜け面だな、大将」
「ううううう……だって、……変じゃないのかな……」
「さあな。それ聞いて、俺がなにかしら答えたところで大将は安心するのか?」
「……できない、かも」
「だろ。まあなんだかんだ言って俺も薬研藤四郎なんだ。俺がそれでいいって言えばいいんだと思っとけ。大将がぽきぽき折って回るわけでなし」
「お互いに納得ずくで刀解するのと、敵に破壊されるのは全然違うでしょ……」
「そうだな。戦の最中に折れちまう俺がいいって言うんだから」
「いいとは言ってない!」
「俺も大将を守れないのは困る。奴(やっこ)さんも強くなってきてるし、このまま強くなり続けていたいしな」
 部屋に入った時を思えば随分調子が戻ってきた審神者の様子に、薬研はどうにか景気づけには成功したかと口角を上げた。
 ここが話の切り時かと、膝を打ち退室する旨を告げる。胡坐の状態から即座に立ち上がった薬研に慌てた審神者は、薬研を引き留めると居住まいを正した。
「これを」
 言って、薬研へ小さな何かを握らせる。
「……こいつは」
「薬研には、まだまだ頑張って貰わないといけないから」
 手の上に乗せられたのはお守りだった。気休めでもなんでもない。依代の破壊は勿論のこと、刀剣が付喪神として顕現するための力が全て損なわれるのを防ぐ、力のあるものだ。それを薬研へ渡すということは、審神者が審神者としての使命と仕事を果たそうとしている、その心が折れていないことの何よりの証左であった。
「ありがとうな、大将。俄然やる気がわいてきた」
 自然と破顔した薬研は手早くそれを首から下げる。審神者の言葉に嘘偽りのないことを誓われ、戦前のような昂揚感に跳ねたくなる衝動を覚えた。深々と頭を下げ、よろしく頼むと僅かに笑む審神者に力強く頷きを返し、部屋を後にする。暫くして刀剣たちの部屋に面する廊下に差し掛かると、頭だけを覗かせる刀剣たちの姿があるのを見て、薬研はしたり顔で頷いたのだった。


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 懐紙の上で鈍く光る依代であったもの。審神者は然るべき手順を踏んでそれを供養した。既に宿っていた神はいないが、かと言って神気を帯びているものを粗雑に扱うことなどできはしない。ただでさえ一度神が宿ったものだ、少し目を離せば別の霊魂が入り込んでしまう可能性があるからである。
 丁寧に感謝を述べ、また謝罪もし、残る神気を掃う。すると、折り重なった依代は返事のようにして塵となった。そのあっさりとした様子がまるで「気にすんな」と笑っているように思われて、審神者は頭を下げたまま、暫くその場を動くことが出来なかった。

2015.04.19 pixiv掲載