掌中の魂

 長閑な景色の広がる人外境をねぐらとする刀剣の付喪神が帰還した。数は六。出陣から戻った彼らの姿は綻びが見え、まさに惨憺たる有り様であった。
「お疲れさん。……じゃ、後は各自自由行動ってことでいいよな? 解散!」
 隊長を務めた薬研が声を張り上げる。とてもそのような余力があるとは思えない程に澄み渡る声に頷く刀剣たちは、各々、思い思いに散って行った。いつもであればまずは穢れを落とし禊をするのだが、今回はしたい者がすればよいということになっていた。
 薬研は両手で抱えていた風呂敷の包みに目を落とすと、真っ直ぐに湯殿へ向かった。そこで丁寧に汚れを落とし、清め、水気を落として寝殿へ。
 本丸は静まり返り、鳥のさえずり一つない。直に契約は切れ、この場ごと消滅するからだ。その為に、刀剣たちは残りの時間を好きなように過ごすことで合致していた。皆、静かにその時を待っているのだ。
 薬研は、審神者の過ごした部屋へ足を踏み入れた。長らく仕え、近侍としても重用された彼がここで過ごすことを咎める者は誰もなかった。多かれ少なかれ過ごした時間を、主を偲ぶ。
「戻ったぜ、大将」
 薬研は審神者の部屋へ入ると柱に凭れ、胡坐をかいた。今まで審神者がよくそうしていた場所であり、今まではずっと目にしていたそこから薬研が見ることの無かった景色を見る。障子や蔀戸(しとみど)、妻戸(つまど)の開け放たれた今は、穏やかな日差しが室内を照らし、明るいものだ。庭の緑は瑞々しく、どこまでも変わらない景観に薬研は眼を細めた。この景色を、審神者はいつも見ていたのだ。光を背負い、審神者と対面する、己を。それはどのように映っていたのだろう。もう、知る術は無い。

 今この時にも、消滅へ向けて刻一刻と期限が近づいている。あるいは、それはもうすでに始まっているのかもしれない。彼ら付喪神を取りまとめる主を喪った時から。

 薬研は抱えていたものへ目を落とした。それから、風呂場で清潔なものへ取り替えた風呂敷を取り払う。細心の注意を払って髪に櫛を通し、そっと肌を撫でた。
「なんでも頼られていろんなことを覚えたが、最後の最期で化粧の心得がなくて悪ぃな……でも、死化粧が上手いなんて大将も困るだろ?」
 血が抜け、青白くなった顔が薬研の腕の中に納まっている。風呂場でよくよく清めたため、それは眠っているようにも見えた。眼も口も閉ざされているが、間違いなく彼ら刀剣の主であった顔だ。
 何の手違いかはたまた運が悪かったのか、出陣に合わせ本丸の門が過去の時代へ重なった際に潜り込んだ曲者が、この首を、大将の首だとして持って行ったのがつい昨日。その敵討ちをさせろと、審神者を主たれと命じたヒトの元へ向かい、目的を果たした暁には大人しく本丸ごと消えることを了承し、承諾させ、そして荒ぶる心のままに精鋭六人で敵討ちへ向かい、帰ってきた。
 すべては終わった。少なくとも、この本丸においては。
「身体の方は石切丸たちが丁寧に綺麗にしてくれてな、ただ、火葬は俺達にはできなかったから、きちんと身体を畳んで、でかい壺に入れて、蓋もして……それで見事に咲いたって喜んでた桜の下に埋めたぜ。墓石まで都合はつかなかったが、ちゃんとした墓になってる。……本当は、この頭もなくちゃだめだったんだが、そこはな? なにせ無いもんを入れろってのも無理な話だろ」
 薬研は語り掛ける。魂などないことは明白だが、なかなかどうして、人になった身にはすっかり人らしい行動が染みついたようであった。人は何も宿らぬ物に語り掛けることもあるのだと、薬研は頭の隅で感心する思いがした。その心の在り様が、物を器にする。付喪神となった自身のルーツがこれなのだと。
「……大将の首はここが消えるまで、消える時もずっと俺が預かるぜ。ま、どこにも持ってけやしないだろうがな……。これが感傷って奴か? なあ、そのくらい、いいだろ?」
 ゆるゆると、頭の中にある泉から漏れ出てくるものに胸が熱くなる。渦巻いたそれがはらりと体外に飛び出し、審神者の口元へ落ちた。それを追いかけ、薬研は眼を見開く。瞬き、頬を伝う熱いものを拭った。
 涙を流したのは初めてのことだった。途切れる様子の無い涙に、薬研は笑う。
「はは、」
 戦場でさえ感じたことの無い、血が湧き立つ感覚だ。審神者の頭の無くなった姿を見て冷え切った頭と、すぐさま『やるべきこと』をはじき出した思考と、目的のために動く身体と、敵を前に抑える必要もなくなった衝動のまま振り回した刃と。
 人の身体を得て初めて『記憶』というものを持ち、振り返り感じた想いとは桁の違う激情。激昂。思考を一つの柱として身体に通し、高揚を感じて尚いつでもそれに従って振舞ってきた己にもそのようなものがあったのだと、薬研は初めて気づいた。審神者の元に現れた頃には、薬研はすべてを失っていたから分からなかったのだ。
「俺は……思ってたより、ずっと大将に入れ込んでたらしいぜ。これも人になったから……か?」
 審神者は薬研の腕でじっと沈黙を保っていた。もう目を開けることもない。口を開くことも、声を発することも、薬研に笑いかけることも、共に食事をすることも、息をすることも、刀剣たちを従えることも、手入れをすることも。
 急に息が上がり、薬研は殆ど反射的に歯を食いしばった。ひくりと痙攣する喉元。覚束なくなる呼吸に身体が熱くなり、鼻を啜る。一方で、人の身体はままならないなと冷静な部分が感心していた。
「何もかも遅い……な」
 過去は変えてはならぬもの。過ぎ去ったことは仕方がないと受け入れてきた。それ以外に方法はなかったからだ。薬研が記憶というものを持ち、それを認識することができたのは人の身体を得て以降のことであったから。他の刀剣たちも、恐らくは。
 であるからこそ、今この時、初めて後悔というものに苛まれている。――はずであった。しかし最早取り戻すことのできないもの、失ったものを偲ぶというには、己の行動を振り返るというには、薬研のそれは余りにも純粋な悔しさで満ちていた。己へ向けることもなく、ましてや、他の刀剣たちに向かうこともなく。
「どうせ死ぬなら、俺で死んで欲しかったぜ」
 名の由来にしては余りにも用途とかけ離れ、縁起物として名を馳せた短刀。それとは真逆の渇望を薬研が自戒することは無い。首に目を落としながら、勝手に震える声を投げかける。
「惚れた御仁の死に様を、懐に潜り込んだまま中からも外からも堪能できる機会なんて早々ないだろ? それがまあ、心残りと言えばそうかもしれないな。だが、敵討ちはできたし……落としどころとしとかなくちゃな」
 薬研の口からはいつになく言葉が漏れる。ぽつぽつと、寝入る時のような息遣いと共に零れていくそれらは、まるで薬研の思考をそのまま紡いでいるようにも思われた。普段、余り己の感情という物を口にしない薬研のその様子は、明らかに異常であった。審神者が死に、本丸が消失するということの影響が出ているのかもしれなかった。
「死ぬってのがヒトの記憶からなくなるってことなら、俺達刀剣はこれから先も随分長生きするだろうな。だが、だったらこの本丸に居たこの俺も、俺達も、もうすぐ死ぬって言っていいんじゃないか?」
 受肉してから得たものはその個体だけが持ち得るものだ。記憶も霊力も、『薬研藤四郎』という刀の概念に影響を及ぼすことは無く、還元されることはない。だが、人の魂は死の後に転生する。そう言う考え方があるのだと、かつて薬研は聞いたことがあった。他でもない審神者から。
「今頃大将は転生してんのかね……俺の力の端くれだけでもいいから、俺もヒトになれないもんかね……らしくない、とか言われそうだが……でもな」
 焦がれて、恋しく思う程には薬研は人の身体に馴染んでいた。それとは思わないままに今日までを過ごしてきたが、肉体が、そして人の身体を得た刀剣たちに対する審神者の態度が与えた影響は深く、大きなものであったらしい。
 口惜しい、と薬研は改めて思った。言葉の重さ軽さについてはそれなりに思うところはあったが、惜しんでいる場合ではなかった。
 もっと多く言葉を交わせば、触れ合えば、己の内に燻っていた情に気づくこともできただろうかと考え、直ぐに頭を振った。それは気づきを経た今やればよかったと思うことであって、気付けたかどうかは分からない。今手にしている審神者の頭部など、触れに行ったことは無かった。器の大部分が失われているとはいえ、こんな風に胸に抱くことなど初めてのことだ。
 鼻を啜り、涙を腕で拭って目を落とす。丁寧に審神者の輪郭をなぞり、その形を少しでもはっきりと覚えたいと反芻する。本当に捉えたかった影は最早居らず、それでも遺された物に何かを見出したかったのかもしれない。代償行動でしかないことは理解しつつも、残された時間が然程無いことが薬研の心をこれ以上ないまでに宥めていた。
 直に終わる。一人の審神者の死が、この本丸を、この本丸に存在する全ての刀剣男士を飲み込み、消すのだ。それはある種の心中のように思えて、薬研は唇をゆがめた。抗えない主であった審神者だが、想いを手にした今ならば、それを心地よく感じる。そして安堵さえ。

 死のようにやってくるものの気配を感じることは出来ないが、意識することは出来る。器が害された時、審神者はどのように死を意識しただろうか。審神者となったことを後悔しただろうか。その答えは失われてしまったが、少なくとも、薬研は消失するその瞬間でさえも、悔やむ心を持ったことを後悔することは無かった。
「もう一度だけ……あんたに会えりゃあな――」
 最期の詮無い願いは、誰に拾われることもなくただひっそりと無に帰した。

2015.05.06 pixiv掲載