錯綜バイオレット
狼の住処
準くんはあまり甘いものが好きじゃない。……かと言って嫌いなわけでもないみたいなのだけど。
疲れた時や糖分が欲しい時にチョコを少し食べたり紅茶に砂糖を入れたりする程度で、基本的には食べたがらない、と言うのが正確だ。だからきっとイベントにかこつけた誰かに付き合ってスイーツを食べるなんて微塵も思ってなくて、私は彼の部屋で唸り声を上げた。
目の前には甘くない紅茶に口をつける、準くん。ティーカップを置くと、呆れ顔で私を見やった。
「……そんなに食べたいのなら食べてしまえばどうだ」
「ダメ!それじゃ私があげたことにならないもん」
テーブルをはさんで座る私と彼の間には、お皿に乗せたパンプキンパイが一切れ。丁度ハロウィンだと言うことで調理実習室を借りて柚月と作ったものだ。私がパイで柚月はシュークリームだったんだけど。
私はとにかくたくさん作って、レッド寮のみんなとお世話になった先輩と先生と、とたくさんの人に配った。試食もしたし味は問題ないのでご安心を。
この手のイベントごとに心躍らせる私と、全く心動かされない彼とでは大きな隔たりがあることはよくよく承知していたから、私は配るだけ配った後、彼の分は取っておかなかったのだ。つまり今ここに置いてある一切れは私の取り分、と言うこと。
ところが私が半ば当てつけのように彼の部屋で食べてやろう、きっと美味しい紅茶を入れてくれるはずだし、と下心を持ったのが悪かったのか、彼は私を見るなり包み紙に包まれた小さな飴とチョコをいくつか私に握らせたのである!
その上で私が厚かましく何も返さないで彼の前で彼に紅茶を入れてもらってパイを食べる、なんてのには抵抗があった。ないはずがない。そこまで食い意地を張っているわけではないし、もらった以上私だって何か返したい。そして返せるものと言えばパイしかない、と言うわけだ。
でも食べたい。……うん、まあ、食い意地はってるかやっぱり。普段はここまででもないけれど、今日は食べるぞ!と楽しみにしていたから譲るのには非常にエネルギーがいるのだ。
「オレは別に気にしないが」
「私は気にするの。……せっかく作ったし、食べてみてくれないかな。少しでもいいし。そしたら食べる」
結局食べるのか、と言われそうだけど、そりゃ食べたいから彼が遠慮してくれているわけで。ただ、準くんにパイを渡して食べてもらおうという姿勢を見せることが重要なのだ。
唸りつつお願いすると、準くんはようやくフォークを手に取ってくれた。サクと、とその切っ先がパイに刺さる。市販されているのよりも見てくれは劣るかもしれないけれど、まだ作ってそこまでの時間は経っていないから暖かいはずだ。いい香りもする。彼はそのまま崩したところを拾って口へ。
「……甘いな。だが、カボチャの甘味もきいてる。美味い」
「ホント?」
珍しく彼のお眼鏡にかなったらしい。試食をしたとはいえ、彼も気に入ってくれてよかった!
へら、と笑うと彼の口元も緩んだ。その手が紙ナプキンを取って、フォークの先を拭きとる。そしてフォークをお皿に戻すと、ス、と私の方に寄せてくれた。紙ナプキンはくしゃりと彼の手の中に収まって、私には見えなくなる。
こういうさり気ないことに気付く時、私はなんとなく気恥ずかしくなるのだけど、彼はそれを見抜いているのかどうぞ、とわざとらしく促してきた。
「一口でいいの?」
「また改めて作るんだと思っていたが」
違うのか、と暗に目配せを受け、細められた瞳は楽しそうで私は少しの間をあけてから、今度は出来たてを一緒に食べようね、と笑った。アツアツのパイなら冷やしたホイップクリームやバニラアイスと相性がいいから次に作るときは合わせて用意してみよう。そしたら砂糖の量も減らそう。準くんはきっとケーキだけを食べるだろうから、きっともっと気に入ってくれるだろう。
少し弾んだ心で口にしたパンプキンパイは、試食した時よりも甘くなっている気がした。噛みしめるように食べつつ、ふとまだ口にしていなかった疑問を舌に乗せる。
「そう言えば、さっきくれた飴とチョコ、アレ、どうして持ってたの?」
ハロウィンだから?でも、だからと言って素直にこういうイベントに乗るタイプではないはずなんだけど……。
パイをパクついていた手を休めて、彼が淹れてくれた紅茶の入ったカップを取る。準くんは自分のカップに目を落としつつ、頂いたんだ、と教えてくれた。その言い方に更に首をひねる。
「誰に?」
「響先生からだ。……歩は渡されなかったのか?」
訊かれ、私はふるふると首を振った。響先生にもパイを渡したけれど、特にはもらわなかった。その時点では持ってなかったのかもしれないし、私も出来たてを食べて欲しくて忙しなくしていたから先生も声をかけそびれてしまったのかもしれない。
……準くんはトリック・オア・トリートとでも言ったんだろうか。先生相手に?まさかね?頂いたって少し強調してた言葉からも、決して催促してもらった風ではないし。響先生は寮の色関係なく生徒に接するから依怙贔屓じゃないことは確かだし。準くんも全く心当たりがないみたいで腑に落ちないようだ。
まあ、そう言うこともある、と結論にもならない結論を出して私たちはそれぞれ紅茶とパイを再び口にした。
「……レッドの成績が良かったと聞いたから、機嫌が良かったんだろう」
ふと準くんが口にした言葉に、私も思い当たる節があった。
「あ、そういや成績の底上げが出来たらしいね。十代も追試ないって喜んでた」
パイを渡した時、二人はそれぞれの理由で喜んでいた。十代についてはまだあと一回、冬休みが始まるまでに中間テストがあるんだけどあの様子じゃ今は頭の中から抜けているだろう。
「来年学校が始まってスグのテストでまた酷い点数取らなきゃいいけど」
「自業自得だ」
準くんはあっさりしている。まあ、十代の為に彼があれこれ言ってるのも想像できないんだけど。
私はパイの最後の一口を咀嚼して飲み込むと、唇を舌でなめてから紙ナプキンで拭いた。ふと、彼と目が合う。珍しく薄く口をあけて何かに見入るような表情に瞬きを一つ。
「どうかした?あ、口周り汚れてる?」
「いや……。なんでもない」
何処か憮然として彼は表情を改める。頬が薄く染まっているけど、私、何かはしたない事でもしただろうか。
心当たりのなさに戸惑っていると、彼は紅茶を淹れ直す、と席を立ってしまった。怒らせるようなことはしてないはずだし、今の今まで普通に会話してたのだ。
気になって後を追いかける。キッチンの入り口で顔だけを出すと、彼がさっき手で丸めた紙ナプキンを捨てているところだった。
「あの、私なにかした?」
恐る恐る口に出すと、私に気付いた彼は私の方を見て、少し考える素振りをした後私を呼んだ。そろそろと近づいていくと、じぃ、と見降ろされ。
それから急に頭を撫でられた。髪を梳くようにその手が降りて来て、頬に添えられる。少しの間されるがままに撫でられていると心地よくてうっとりとしてきたのだけど、ふと彼の親指が私の唇をなぞった。私のそれよりも大きな指の腹に熱を感じる。――それを彼ではなく私の熱だと緩やかながら胸がはねたことで理解する。と、ほぼ同時に唇同士が重なった。慌てて眼を閉じる。いつものかすめるようなそれではなくて、ゆっくりと、触れるだけなのに彼の唇――彼の身体の中で一番柔らかいんじゃないだろうか――をはっきり感じるキス。
それがゆっくりと、微かな音とともに離れ、薄く眼をあける。彼と目があって、彼の指がもう一度私の唇をなぞった。口を開けようにもできなくて、別に禁じられたわけでもないのに私は固く唇を引き結んでいた。怖くはないけれど、ドキドキして視線がさまよってしまう。
その姿がどう映ったのか、彼の咽喉がくつりと動く。離れていった指に、私はようやく声を出すことが出来た。
「な、なに?」
「……したくなった」
笑みを浮かべている彼はどこか妖しくて、さっきとはケタ違いに心臓がはねた。男の子に使うべきかは分からないけれど、すごく色っぽくて、よからぬことを考えてしまう。
その間に彼は私から視線を外して、慣れた手つきで沸騰したお湯で紅茶を淹れていた。口元は緩んだまま上機嫌そうだ。……何となく負けた気がする。
「準くん、変」
呟くと、何がだと変わらない態度。
「だってさっきなんだか機嫌悪そうだったもん」
腑に落ちないと言うと、彼はまた少し間を置いた。黙ったまま、頃合いになったのを見計らってカップに紅茶を注ぐ。私はそれを目で追っていたのだけど、その手が止まって、彼が私に向き直ったのを見て視線を上げた。
「……今日はハロウィンだったな」
「?うん……今さら、どうしたの?」
さも今思い出したとでも言わんばかりの台詞に、私は眉をひそめる。と、彼が私の腰で手を組んだ。その腕に出来た輪にすっぽりと収まる形になる。……言い方を変えると、逃げられない、と言うことだ。
「歩」
楽しそうに彼の口元が緩むけれど、何処か意地悪そうに見えるのは――
「トリック・オア・トリート」
気のせいじゃ、なかった。
まさか言うはずがないだろうと思っていた言葉が彼の声に乗って私の耳をくすぐる。私は目を丸くして彼の顔を凝視してしまった。
「さっきパイ、食べたでしょ?」
「オレは何も言ってない。歩が食べてみてくれと言ったから食べただけだ」
「そん……っ、ズルイ!」
だって、準くんだって何も言わずにお菓子くれたじゃない!
言い返そうと口を開くと、私が何か言おうとしているのが分からないはずがないのに彼はそれをさえぎって早口で
「何もないなら、悪戯だ」
言うが早いか、私の首筋に吸いついた。
「あ……っ」
くすぐったいような腰が抜けるような感じがして、反射的に肩をすくめようとしたけどそれも出来なくて仕方なく彼にすがりつくしかなかった。
しばらく何度も強く吸われ、最後にちゅ、と音を立てて彼の唇が離れる。吸いつかれたところがじんじんと熱を持っていた。
「今、歯立てたでしょっ!」
「噛みつきはしてないが、当たってたかもな」
満足そうに自分が唇を寄せた場所を人差し指で撫でている彼に対して、私は不満たらたらだった。……だって、絶対今の、痕がついてるもん。しかも絶対隠せるギリギリのところだし、絶対わざとだ。
私の言いたいことが分かったんだろう準くんは、「魔除けみたいなものだ」なんて肩をすくめている。
悔しくなって、私はさっき彼が口にしていた言葉をそのまま彼に返した。
「トリック・オア・トリート!」
我ながらスネているのが丸わかりな声だったけれど、もし何もないなら悪戯では済まさない、という気迫はこもっていたと思う。
準くんだってもう何も持ってないはずなんだから――……
「ホラ」
けれど私の予想を裏切って、彼はズボンのポケットから何かを私に握らせた。その際、くしゃ、と音が響く。その感触には覚えがあった。
そんなバカな、と開いた掌には、さっきもらったのと同じ飴が一つ。
飴と彼の顔を交互に見やっていると、彼はくすりと笑みを一つ。
「まだ残ってた」
「~~ッ!」
絶対、わざとだ。
「帰る」
これ以上何かしてやろう、と思ってもきっと無駄だろうし何もいい案が思い浮かばない。もう恥ずかしさよりも悔しさの方が完全に勝ってしまっていて、私は半ば涙目になりながら彼の腕の中から出た。
「オイ、」
「もらうものはもらったので、大人しく帰りますッ」
さっきから拗ねている自覚はあるけれど、もうどうしようもない。
テーブルに置きっぱなしだったお皿とフォークを引きとろうと彼に背を向けると、すぐに彼の腕の中に閉じ込められた。耳元で、悪かった、と呟く声を聞く。
「他の奴に何かされる前に、と思ったんだ」
「……なにもされないもん」
「あんな風に唇をなめられたら、誘われているのかと思うだろ」
予想もしないことをたたみかけられ、思わず首だけ捻って彼を見る。だからキスをしたくなったのだ、と言いながら、またゆっくり唇が触れ合った。――こんなの、本当に珍しいことだ。
「わ、私誘ってない、よ」
「知ってる」
至近距離で彼の吐息に触れる。
「……酔ってる?」
勿論お酒ではないけれど、ハロウィンはお祭りだ。本場では私たちくらいの年の子はパーティをするらしいけど、みんな小さい子がやるようにお菓子をもらい合っていていつにも増して陽気さがあふれている。その陽気に中てられでもしたんだろうか。
彼はそうかもしれないな、とだけ言うと私の頬を一撫でしてトレイにティーカップを載せた。それを持って、私も席につくように促す。
「歩が来るまでに見ていたDVDがある」
一緒に見よう、と言われて、私もこくりと頷いた。DVDは勿論決闘のDVDで、それを再生する頃にはもうさっきまでの甘ったるい空気は幾分か薄れていた。気が抜けたせいか浅く息をついたのはばれてないはず、だ。
その後DVDを見ている途中に眠りこけてしまってもう一度『悪戯』をされる羽目になってしまったのも……一人掛けの肘置きの無いソファをくっつけて、準くんにもたれながら見ていたせいだ、きっと。
甘い匂いがするから、なんて彼らしくもない理由に、私は二つに増えた痕を手鏡で確認しながら次のパイはとびきり甘くしてやろうと画策するしか反撃方法が思い浮かばないのだった。
2010/10/06 : UP