錯綜バイオレット
どうしてこうなった
彼女が彼から声を掛けられたのは入学して間もなくのことだった。
「君が、恋のキューピッドで有名な柚月くんかい?」
ラーイエローの食堂で夕食を済ませ、さてすることもないしオシリスレッドに入学してきた変わり者の友人のところへでも行くか、と考えながらその場を後にした時だ。彼女が一人の男子生徒とすれ違う直前、まさにその生徒から引き留められるようにして。
何の気なしに彼女が自分の名前に反応してみると、そこには興味深そうに彼女を見つめる二つの眼とうっすらを笑みをたたえた口元があって、ラーイエローの主席として高等部から入学してきた三沢大地その人が立っていた。
柚月にとってこんな風に声を掛けられるのは珍しいことではない。中等部の頃より人の機微には敏感で、何度か親しい友人の恋を実らせる手伝いをしたことがあったからだ。
彼女は面倒なことが嫌いなこともあってそれを人に言ったことはなかったが、そういうことはそれとなく人の口から伝わり次第に勢いを増していくものだ。三沢がつい今しがたそう口にしたように、柚月は『恋のキューピッド』であり、そして彼女の恋愛指南を受けようと生徒が時折現れる。噂が噂を呼び、ついに高等部編入組の耳にまで入ってしまった、と言うところなのだろうと彼女は予想する。
「恋愛成就目当てで私を頼ってきたというのなら、残念だけど協力できないわよ」
「……どうして?」
「私が世話を焼くのは、両思いなのにいつまでたってもくっつかないおばかさんたちだけなの」
柚月が手を出すから恋が実るのではない。彼女は実る恋だけに手を出しているのだから結果がいいのは明白だった。
「……なるほど?つまり結果が分かってる相手だけを選んでるわけか。それも、本人達にすら分からないように手を回す、と」
「少なくともあれこれ指図した覚えはないわね」
聡明と評価の高い彼には真実を言ったところで何か問題が起きたりすることはないだろうと彼女は思う。いつもならそれとなくはぐらかして煙に巻くのだが、今回はこれが憚られた。三沢の目が、恋の成就などではなく柚月自身に向けられているのを感じたのだ。恐らく妙に逃げようとすれば追われてしまうだろう。
案の定真実を告げたにも関わらず、肩を落とすこともなく、それどころかより一層興味を引かれた目で見て来る三沢に対して、柚月は面倒そうだとため息をついた。
「アンタ、それが目当てじゃなかったの」
「そうだな、噂は確かに聞き逃すには惜しいと思ったよ。本当なら、是非一度会っておかねばと思ったしね」
くすくすと楽しそうに笑う三沢に不快さを与えるような様子はなく、柚月は彼の『興味』はいわゆる知的好奇心であり、口説かれているわけではなさそうだと結論付けた。それでも三沢の意図が分かったわけではなく、疑問の雲は依然として立ちこめたままだ。
「おっと、自己紹介がまだだったかな」
彼女がわずかにゆがめた表情をどうとったのか、三沢は笑むのをやめて咳払いをひとつ。けれど彼女はそれを制止して首を振った。
「いいわ、知ってるから。……それで、私を呼びとめたからには何か用があるんでしょ。それとも、もう済んだのかしら」
急かす理由はなかったものの、相手の意図が分からないまま会話するのもあれこれと邪推してしまって頭が疲れそうだと判断し、彼女はさっさとしてくれ、と言外に含めて先を促した。
三沢は手厳しいな、と頭をかいて本題を口にする。
「君が何度もカップルを成立させてるって聞いてね。そのパターンを分析すれば何か法則でも見つかるかと思ったのさ。それで、君から話を聞くのは長くなりそうだから、君の都合のいい日を予約したくて」
「……デートの誘いにしては随分と個性的ね」
「無残にも散ったけどね」
立てた仮定がそもそも間違ってた、と三沢は苦笑気味に肩をすくめた。その様子を見て彼女は、それは本当に残念だったわね、と思わず吹き出してしまう。
「話には聞いてたけど、数式が恋人なの?」
「いや、恋人っていうより、俺が一方的に熱をあげてるって言った方がいいかな。振りまわされても尚愛しいってやつさ」
「首ったけ」
「そう」
印象は悪くない、と柚月は思う。元々彼女の友人づてに三沢の話は耳にしていたのだが、それに違わず、と結論付けた。成績優秀、スポーツ万能で、あの万丈目も下した男。そして、ブルーへの昇格も蹴った変わり者。
私には変わり者に好かれる性質でもあるのかしら、と彼女は内心苦笑する。
そう言えば彼女が今から向かおうとしていたその友人は、万丈目が三沢に負けて学園から姿を消したことで酷く気落ちしていたことを思い出した。――やはり彼女のところへ行って、気を紛らわせてやらねばなるまいと柚月は気持ちを新たにする。
「悪いけど、私、これから行くところがあるのよ」
「ああ、引き留めてすまなかった」
「急いでないから平気。それじゃ」
三沢に手を振り別れを告げ、彼女はその場を後にする。その背を、彼はじっと見据えていた。口元には変わらず笑みが浮かんでいる。
「……面白いな」
こぼした言葉は、そのまま雑音にかき消された。
******
「――~~ッ!バカ沢!」
「うわっ」
急に大声で激怒され、三沢は身をすくめた。振り向くと、顔を真っ赤に染めた柚月が立っていた。
「せめて下着くらい穿きなさい!全く、何やってるのよ、バカ!」
「ッすまな」
「早くしてッ」
固く目を閉じて怒鳴り散らす彼女に、三沢は慌てて彼女が握りしめている服を手に受けた。
いつもならやる気のなさそうな顔をして何事にも動じないような構えをしているのに、と三沢は思いつつ、今にも頭に血が昇って倒れそうな彼女を見る。無論彼女の顔が赤いのはほかでもない三沢に原因があって、それは彼が一糸纏わぬ出で立ちをしていたからであり、つまり彼女は例えそう見えなくても恥じらっているのである。思いがけず目にした初心な反応に妙な新鮮さを覚える三沢だったが、彼女が持ってきた服が彼が着用していたラーイエローのものであったのに気づくと、ついにその顔を破綻させた。
とはいえ、彼も彼でまさか生まれた姿そのままでいるところに声を掛けられるとは露ほどにも思っていなかったために、今さらながら強い羞恥に責められていた。ただその姿で校舎から走って出て来たために彼の全裸は他の生徒にも目撃されているのだが、彼は気付かないのか無意識に気付くまいとしているのか思い出すことはなかった。
そそくさとそれに袖を通しながら、三沢は柚月を盗み見る。じっと何かに耐えるように僅かに頭を背けて目をつむり、唇を引き結ぶ柚月に妙な心地を覚えつつ着替えを済ませる。そして
「もう大丈夫だ」
「……」
恐る恐ると言う風に片目を開ける彼女を笑顔で迎えた。彼が服を着たことを確認した彼女はようやくそこで普段通りにため息をついて、身体から力を抜いた。
「全く、三沢大地ともあろう男が、何バカなことしてるんだか」
「ははは……面目ない」
普段ならば絶対にやりそうもない行動だ、と彼は自覚しながらも、あれはある種必要なけじめの様なものだったのだと釈明した。
「だからって下着まで脱ぐことないじゃない。アレ、白くなかったわよ」
「見たのかい?」
「見えたのよ!バカ!」
いつになくいきり立つ彼女に彼はもう少しからかってみるのも悪くないかと思ったが、今回ばかりは本当に助けられたためそれをこらえた。
「柚月も一人の時にやってみれば分かるさ。クセになるぞ」
「そんなのクセにしたくないわ」
幾分か引いてきた頬の赤みが三沢の目には愛らしく映り、女子と言うのはどんな顔を持っているか分からないものだとしみじみと感じる。
その三沢の顔をじっと見上げ、柚月は静かに口を開いた。
「それで、よかったの?」
「……えーと?」
「ラーイエローの制服で、よかったの?」
もっとも、私はそれしかあずかってないんだけど、と彼女は続け、三沢は首をかしげた。
「勿論さ。これはオレの制服だろう?あずかっていてくれるとは思わなかったが……ありがとう、嬉しいよ」
三沢はそう言って僅かに笑みを浮かべたが、柚月はどこか口ごもった様子で言いたいことを飲み込んだ。それに気付かない彼ではない。
「何か、俺に言いたいことが?」
「……まだイエローにいるつもりなの?アンタは万丈目に勝ったんだから、ブルーにいたっていいじゃない。それに白の結社の構成員は原則ブルー……アンタは引き抜きで入ってたでしょ」
思わぬ話題に、三沢は目を丸くした。今さら、と言う感が否めなかったが、柚月はずっと思っていたことなのだろう。ホワイト寮はそのままブルー寮を塗り替えていた。今まで三沢がいたのはブルー寮の建物であり、なぜわざわざ再びイエローに戻ってくるのかを問いたいのだ。
「オレの寮はイエローだ。やりたいと思うことはそこでも十分出来る。……いや、はっきり言ってどこでも出来るし、寮はもう、関係ない。ブルーをあきらめたってわけじゃないけどね」
三沢が肩をすくめると、ようやっと柚月も表情を緩めた。その顔はどこか嬉しそうにも見え、三沢は苦笑する。
「おいおい、そんなあからさまにホッとしなくたっていいじゃないか。俺は今傷ついたぞ」
「あ。……だって、大地にブルーの制服は似合わないと思って」
「……どう言う意味だい」
「制服の青色に、顔が負けるってコトよ」
肩を竦め、柚月はそこで初めて笑みを見せた。白も似合わないではなかったが、やはりアカデミアの制服で一番三沢に似合うのは黄色なのだと、彼を見て思う。当の本人は彼女の発言により一層苦々しく顔をゆがませていたが、柚月はそんな彼の背後に回り、その腰を押した。
「さあさ!早く帰りましょ」
「お、押さないでくれよ」
「急がないと夕飯食べ損ねちゃうじゃないの」
食いっぱぐれたら責任とりなさいよね、と言われて、三沢はやれやれとため息をついた。
******
性欲と言うものは決して悪いものではないと三沢は考える。その対象を傷つけてしまうことは可能な限り――否、そもあってはならないが、誰かを求めることは人としてそう珍しくもない行動だからだ。程度や種類は違えど、彼は人に必要とされる喜びを知り、それに応えるべく自らの意思で一人異世界にとどまる道を決めた。悲しいかな彼について心配する人間はそう多くないと知っていたし、また友人たちですら彼を覚えているか微妙なところだ。しかも彼が自意識過剰や被害妄想でそう思っているわけではなく、あくまでそれは客観的事実であることが彼をほんのわずか憂鬱な気分にさせたが、そんなとき彼は以前よりも精神的に強くなったのを実感するのだった。
かつて抱いたどうしようもない、途方もないほどの不安。それは、たとえそれが一度きりであっても誰かから必要とされたことがあるという事実によって、驚くほど薄れていたのである。
それでも彼は物足りなさを感じるときがあった。それはいつでも同じ人を思い出させて、そこに至って初めて自分の想いを自覚した。
部屋にこもって数式と向かい合い、疲労を感じた頃にコーヒーと菓子を差し入れしてきたり、落ち込むことがあれば側にいてくれたり、人の機微に妙に敏感だった少女――柚月。彼女自身はそういうところを疲れるからという理由で好ましく思ってはいなかったが、まさにその部分に彼は救われてきたのだと一人になって痛感するのだ。そうして彼は彼女に何を返せたかと考えるとき、何もなかったのではないかと言う結論に行きつき、決まって焦りにも似た重みを胸に感じてしまう。
すでに三沢にとって何物にも代えがたい存在であるところの少女に、友人としてしか――それもよくよく思い返せばかなり自分本位に振る舞っていた記憶しかない――見られていない。そしてその少女は年の割には大人びていて、容姿も申し分なく、寧ろ艶やかなほどで、かと思えば男の裸に顔を真っ赤にさせて恥ずかしがるなど酷く初心だったのを思えば男が放っておくはずもない。そのことが彼を居ても経ってもいられなくさせるのだ。
このままではいけない。
元の世界に帰りたい、とは思わなかった彼でも、柚月に関しては別だった。想いも告げぬうちから彼女をあきらめることなど、どうしても出来ない。
と言うのは本音の一部で、実際のところ彼は自覚してから頻繁に夢に出て来るようになった艶めかしい彼女の姿にほとほと困り果てていた。現状友人にすぎない彼女を夢の中でのこととはいえこみ上げる欲求をぶつける対象として好きなように扱うのは少なからず罪悪感を覚えたし、また本来の彼女の姿からかけ離れているだろう淫らな誘惑を受ける自分自身のことを踏まえると、自己嫌悪にも似た気分になるのである。よって話は冒頭へと至るのだが、彼はそこで頭をむしるかのようにひっかきまわした。
彼女の容姿に惚れたわけではないが、これでは単に欲求不満なだけのようにも思われる。しかし、友人として接していた頃はそんなことはなかったのだから、身体が目当てではないことははっきりしているのだ。それに関しては自信を持てばいい。
三沢がぐるぐると思考を巡らせていると、
「なんだ、随分と迷走しているようだな」
声がかかり、三沢は顔を上げた。
「タニヤ」
以前彼が熱を上げた屈強な女性――その本来の姿は虎なのだが――が、くつくつと笑っていた。
ひょんなことから三沢が異世界にやって来て再会を果たしたパートナーは、三沢のことなど全て分かっている風にその肩を叩いた。
「一体どうしたんだ?」
「……ちょっと、あっちにいる友人のことを考えていたんだ」
彼と彼女は篤い信頼関係で結ばれている。三沢がここに残る決意をしてからはずっと共にいたのだ。十二も存在するという世界の謎と、その繋がりの調査。彼の興味は数年経った今もなお尽きることはない。その間を二人で過ごしてきた。互いに支え合い、良い関係が築けたと三沢は思う。タニヤには、深く感謝していた。
「友人を想う顔つきではなかったぞ」
「……」
タニヤの言葉に三沢は黙って、ただ曖昧に笑った。それを見て彼女は言葉を重ねる。
「なぁ、三沢」
「……なんだい」
「会いに行ったらどうだ?私は決してお前を縛りつけたいわけではない。あちらにも、お前を必要としている者がいるのだろう?」
背を押す彼女に三沢は少しはにかんで、そうだと良いんだが、と言葉を濁す。ツバインシュタイン博士との通信も最近は安定して行えるようになり、互いの世界を行き来するために必要なデュエルエナジーも異世界に来て出来た友人を介せば得ることが出来るだろう。戻ろうと思えばいつでも戻れる。だからこそ三沢はタイミングをつかみかねていた。
「でも、忘れられてるかもしれない」
「本当にそう思っているのなら、そんなに思いつめたりしていない。お前を想う者がいるから、そこまで気を揉んでいるのだろう」
きっとその人――柚月は三沢のことを忘れてはいない。確信じみたタニヤの声に、三沢ははじかれたように顔を上げた。二人の視線が交わり、一筋の道を作り出す。
「行って来い。行って、為すべきを為せ」
もう一度強く背中を押され、三沢は一つ頷くことでそれに応えた。
******
デュエルアカデミア校内――厳密には特別に設けられた研究室。柚月はそこでパソコンと向かい合いながら書類と格闘していた。
卒業前、校長に頼んでアカデミアに残れるよう取り計らってもらったおかげで、彼女は卒業後もずっとこの学園で一年の大半を過ごしている。というのも彼女が残ったのはアカデミア敷地内で頻繁に起こる怪奇現象をつきとめるためであり、行方不明者に関する情報の収集と更新も彼女に一任されていたのだ。
ペガサス・クロフォードやツバインシュタイン博士が異世界についての調査をしていると知って、彼女は一度ペガサスの会社であるI2社から内定をもらった後、直談判して派遣調査員、と言う形を特別に取ってもらっていた。鮫島校長も行方不明者がいつ学園に戻ってきても混乱しないよう専門の担当を置くのは決して悪いことではないとそれを承諾しており、I2社社員でありながら、普段はトメさんや教員の手伝いをする学校関係者の二つの顔を持っていた。場所が学園だということもあって、教員とも生徒とも異なるが、それを思わせる制服を着用していた。
彼女がこの進路を選んだのは、三沢が行方不明になったのを受けてのことだった。元々I2社、またはKCへの入社を視野に入れてはいたものの、はっきりと意思を固めたのは間違いなく三沢によるところが大きい。謎の解明が、三沢へ続く一番違い道だと考えてのことだった。勿論三沢一人の為だけで決めたわけではなく、様々なことを乗り越えていくだろう生徒たちに近い場所にいたかったというのもあった。面倒なことは避ける彼女は教師ではなく、回り回ったやり方で、彼女にとって最適な立場を手に入れたと言えるだろう。
一生かかっても謎は解けないかもしれないが、それでももし三沢をはじめとする行方不明者が帰ってくるようなことがあれば世話をする者がいたほうがいいだろうとは思っていたし、また彼女はリスクを抑えて異世界を行き来する手段でも見つけることが出来たなら自ら探しに行くつもりでいた。その程度には彼女は彼のことを深く想っていて、そう簡単に忘れられるはずもなかった。
すでにレイも卒業し、あの当時学園にいた顔はもうない。ただ、何かと年中行事にかこつけて会っている為に懐かしく感じることはなかった。会うのが難しい面子もいるにはいたが、そういう人間はメディアのどれかで見ることは出来たし、何より三沢ほどではない。
今頃、どうしているだろうと柚月は思う。とにかく生きてさえいてくれればいいと。三沢は以前から自分の存在意義について思い悩むことがあったため、今でもそうなのだろうか、と考えると、彼女の口からは自然とため息が漏れた。こうも彼女の心を占めるのは三沢くらいのものであり、彼女はまったく惚れやすい――気の多いあの男は今度こそ恋の成就に成功したのだろうかと考える。そして、きっと三沢にだけは、例え実る恋であろうと手は出せないだろう、とも。
キューピッド自身の恋は、どうやって実らせればいいのかしら、と柚月は苦笑し、休憩がてら緑茶でも入れようかと席を立った。そして目を休めるために窓から外を見ていた時、彼女は信じられないものを目の当たりにした。
一筋の光。それが森の中めがけて落ちた。柚月がこれを見るのは二度目だった。かつて、異世界へ行った仲間が帰ってきたときのものよりはるかに細かったが、間違えるはずがない。
「ッ」
気付けば、彼女は研究室から飛び出していた。
期待するのを止められないまま森を駆ける。次第に砂埃が立ち込めて、彼女はいよいよ確信めいた胸の高鳴りを覚えた。
海からの潮風がわずかに届き、視界が晴れていく。柚月は足を止めてじっと眼を凝らしながら、荒くなった息を鎮めるためにハンカチ腰に息を吸った。だが、それも焦りからか上手く出来ず咳込む。
「……誰かいるのか?」
彼女の咳に気付いて投げられたそれを、彼女が聞き逃すことはなかった。間違えるはずの無い低く優しい男の声。久しく聞くことの叶わなかったそれ。
「大地!」
柚月は焦がれたその姿を認めると、それに向かって抱きついた。
「!柚月……!?」
彼女に気付いた男――三沢は、戸惑いながらも自分の胸の中に飛び込んできた彼女を抱きとめた。
「その制服は一体……ここは学園の森か?どうして君がまだここに……教師になったのか?」
柚月は彼の問いには答えなかった。黙り込む彼女をあやすように、三沢の手が彼女の背をゆっくりと叩く。
「髪、切ってしまったのか」
「……」
「でも、よく似合ってる」
「……」
「なぁ、柚月。君に大事な話があるんだ。俺は、そのために戻ってきた」
柔らかかった声が真剣味を帯び、柚月はようやく顔を上げた。その代わりとでも言いたそうに、彼の衣服を強く掴む。
「それで、それが終わればまた行方不明になるの?」
「引き留めてくれるのかい?」
「勝手に行って、勝手に戻ってきて、どうせまた勝手に行くのに、どうすれば引き留められるっていうのよ」
「君が、俺の言葉に頷いてくれたら、かな」
三沢が柚月の手をそっとつかみ取る。睨むような柚月の目と、穏やかに細められた三沢の目がお互いを捉えた。
「君は優しいけど、俺は君に優しくされるだけの人間になるのは嫌だ。俺にとって君は特別だ。他の男に取られたくない。……柚月、君のことが好きなんだ。俺を受け入れてくれないか」
まさかこんな出迎えを受けてこっ酷く振られることはないだろうが、三沢の胸は緊張で張り裂けそうだった。想いは伝えたものの既に柚月には特定の男がいるかもしれないし、また友人としていっとう想われてはいても恋愛の情はないのではないかと心中は気が気でない。
それでも膨らみ破ける寸前の緊張をしぼませることもなく彼女の返答を待っていられたのは、三沢を見上げる彼女の目から涙がこぼれたからだった。彼は黙って、優しく指先で拭いとる。そしてその手を払いのけられ、眉を下げた。もう、目は合わない。
「すまない、俺は」
「私」
三沢をさえぎって柚月が声を上げた。
「私は、別に誰にでも優しいわけじゃないわ。……大地だから、そうしてたのよ」
にぶちん、と拗ねたように言われ、三沢は目を丸くしたまま数度瞬いた。思わず息を止めるが、柚月は構わずに言葉を紡ぎ続ける。
「アンタがいなくなって、私がずっと、どんな気持だったか分かる?」
「柚月、」
「答えなら、もうずっと前から決まってるわ」
顔を上げた彼女の瞳は涙でぬれていて、三沢はふと微笑んだ。
「首ったけ、か」
彼の言葉に、彼女は頷く。三沢は彼女を抱きしめると、キスしてもいいかい、と呟いた。それに彼女はくすりと吹き出し
「……わざわざ訊かないで」
彼女の方から、その艶やかな唇を寄せた。
「――と、いうことよ」
「……ッ!!貴様ら、そんなのろけ話のために貴重な俺たちの時間をつぶすとは、それなりの覚悟があってのことだろうなッ」
テレビ電話越しに万丈目の怒声が飛んだ。それを歩がまあまあとなだめる。その二人の前に置かれた紅茶は話をする前に淹れたものだが、すでに冷え切ってしまっていた。
しかし柚月は全く意に介した様子もなく、研究室でゆったりと腰掛け、やはり冷めてしまった緑茶をすすった。
「私が卒業前アンタに『歩が失恋して傷心してるから慰めてやんなさい』って知らせたら喜び勇んで走って行ったようなヘタレが、随分な口を聞くようになったものね」
「ぐっ……!!!」
喜んだのか、と歩は思うが、それでもあれがなければ今の二人はいないのだと思うとすぐにどうでもよくなった。
「それに、私と歩がこうやって話をするのはいつものことよ。アンタがイレギュラーなだけ」
「なんだとッ!」
「もーッ、テレビ越しにそんなに怒らないでよ。柚月も、あんまり準をあおらないで」
めっ、とたしなめる歩に、万丈目は苛立ちを収めるべくソファに腰掛けたまま、隣に座る歩の腰を深く抱きよせた。柚月はムスリとした顔を隠しもしない万丈目と、恥ずかしがりながらも全く抵抗しない歩に笑みをこぼす。随分とお互い素直になったものだ、と感心をして。
「二人がそんなことになってるとは思わなかったけど、よかったね」
「……そうね、ありがとう」
「それで、三沢くんはどうしてるの?」
友人からの祝福に、柚月は柔らかく微笑んだ。普段からそうしていればいいものを、と万丈目がこぼすが、相手にはしない。そのまま歩からの質問に、僅かに視線をずらした。
「俺ならここにいるぞ」
その先にいた三沢が、柚月の後ろに立つ。その姿を認めた歩は元気そうだと喜んだが、ふとあることに気付いた。
「あれ?三沢くん、ラーイエローの制服?」
「大分遅れたけど、折角だから復学するって」
「卒業しなきゃ勿体ないし、柚月がここにいるならそうしようかと思ってね」
照れたように笑む三沢に、万丈目が鼻を鳴らした。
「良い御身分だな」
「なんだ万丈目、うらやましいのか?」
「……うるさいッ。少々会えない日が続こうが、俺たちにはこれくらいのペースが丁度いいんだ」
負け惜しみにしか聞こえない、と万丈目以外の三人は皆思うものの、あえて口には出さない。歩はもう少し先に進むべきなのかと思いながら万丈目の手に自分のそれを重ねると、それで、と切り出した。
「卒業はいつするの?」
「半年後だよ。都合がついたら是非来てくれ。季節外れに一人で卒業もさみしいから」
「うん、きっと行くわ」
「せいぜい今の学園生活を楽しむんだな」
卒業すればなかなか会うことも難しくなるのだと言外に添えて、万丈目は万丈目なりに三沢の帰還を祝した。だが、三沢は万丈目のように柚月との仲を見せつけるわけでもなく、ただ苦笑する。
「俺は早く卒業してしまいたいよ。毎日会えるのに手出しできないのは思ったより辛くて」
「……え?」
「なんだ貴様ら、公にはしてないのか」
場所を考えればそれも当然か、と万丈目は呟く。柚月はそれに頷いた。
「校長には言っておいたんだけど、他の生徒に示しがつかないでしょ。本当はこうやって研究室にまで来るのもやめさせたいくらいよ」
ただの一社員とはいえ、柚月が身を置く場所は学校であり立場も複雑だ。その曖昧さに流されるつもりも、相手が三沢であろうと生徒と一線を越えるつもりも毛頭ないのだとはっきり告げる。確かに三沢は特別事情があっての復学の為に理解してくれる者はいるかもしれないが、二人の関係が生徒たちに与える影響は少なくないのだ。
三沢も勿論納得したものの、実際そう言われてしまうと余計に意識してしまうもので、この状態で柚月の姿を見るのは毒でしかなかった。休みの日くらいは、と僅かに期待もしていたものの、彼がアカデミア生徒として在籍する限りそんな期待は抱くだけ無駄なのだと知ってしまっただけだった。
「勘弁してくれ。いよいよ生き地獄が完成してしまう」
教師ではないが生徒でもない。だからこそギリギリで許されている研究室の訪問すらできなくなることを思って、三沢は柚月の肩口に顔をうずめる。が、それも素気無く払われてしまった。
「三沢くん、大丈夫?」
「ある意味苦行にも匹敵するな」
まあ柚月が正しい、と万丈目は言う。歩はそれに、自分達が彼らだったらどうなの、と尋ねた。
「勿論俺だって柚月と同じようにしたさ。当り前だろう」
「えー……でも、私は我慢できないかもしれない、かなぁ」
何よりも万丈目から触れられるのがこの上なく幸せなのだと知ってしまった以上、それを強請っても駄目だと言われれば辛いだろうと歩は思う。それを口には出さないが、なんとなしに触れていた万丈目の手の甲を撫でた。
「まあ、俺たちが入れ換わるなどあり得ん話だから話すだけ無駄だ」
「そうね。……大地が限界だから、今日はもう切るわ。歩、またね」
「うん」
酷くあっさりとしていた柚月だが、きっと三沢が卒業すれば相応のことはするつもりでいるのだろう、と歩は思う。幸せそうに笑う柚月の顔を思い出し、自分も幸福を感じながら万丈目の胸にもたれかかった。
「……どうした?」
「別に?……柚月と三沢くんの状態を聞いたら、贅沢したくなっただけ」
自分達は会うことは難しいが、会えば今のように振る舞える。その幸福を味わおうという歩の意図に気付いた万丈目は、彼女のつむじに、そっと唇を落とした。
2010/08/06 : UP