くろいと
その日、驚くほど意外な人物が私のもとを訪れた。……と言うより、私を訪ねてくる人物がいるということに驚いた。
デュエルアカデミアを飛び出して三年。あの頃一年生だった同級生たちは今頃進路に悩み、あるいは心を決め、それぞれが新しい生活・世界に向けて羽ばたいていくために準備をしていることだろう。かく言う私は一年の途中で学園を中退してとあるデザイナーのところへと弟子入りしたから、今はひたすら修行の日々だ。その人は厳しいけれど優しくて、住み込みでお世話になっている。ただ、師匠と呼ぶことだけは許してもらえなくて『センパイ』と呼んでいるのだけど。何故かと聞いたらむずがゆいから、と答えが返ってきて失礼ながら笑ってしまったのも随分前だ。
そんなことで、まだ新米ですらない半人前の私をわざわざ訪ねてくれる人なんて全くいないはずなのだ。
「紫希、ほら早く……っていうかこっちに通した方が早いか」
「えっ、ちょ、センパイ、今私こんなカッコなんですけど!」
呆気にとられて何も反応できないでいると、センパイは妙にニコニコとした声でこちらへどうぞ―、なんてご機嫌に来訪者を案内している。こういうときは要注意なのだ。先輩は恋とか愛とか、そういうロマンチックなことに目がない。今だって請け負っている仕事のクライアントと体型がほぼ同じだからと、依頼された服の仮デザインのものを着せられ、生きたマネキンにされていたところだった。結婚式に着るものだからって張り切り過ぎなのだ。まあ、それでクライアントにとって悪いことなんて一つもないから何も言えないのだけど。
とにかくそういうときのセンパイは止められない。私に用があるという人が誰かは分からないけれど、若干スイッチが入ってしまっている様子の先輩に、私は妙なことになりませんようにと祈るような思いでもたもたと動き出した。ほぼ同時に、視界が黒くなる。
「……結婚するのか?」
降ってきた声は男性のもので、私はぱっと顔を上げた。何を隠そう、今私が着ているのはどこからどう見てもウェディングドレスだから、そう言われてもおかしくない。
「いえ、これはちょっと事情があって……。あの、失礼ですがどちらさまでしょうか?」
私は酷い近視で、ビン底眼鏡がないと何も見えない。だから余計に焦ってしまうのだけど、こういう時に限ってセンパイは意地悪で助けてくれない。まあ眼鏡を奪ったのはセンパイなのだけど。
気休めに瞬きをしてみる。はっきり言って気休め以下なのは明白で、どうすればいいのかと途方に暮れていると、目の前の黒い人は不機嫌そうにため息をついた。
「す、すみま」
「織部くんが覚えてないのも無理はないだろうが……本当に分からないか?」
「……はい。あの、眼鏡も掛けてなくて、今御顔も見えないので」
どうも知り合いのようなのだけど、私は全く分からない。……否、そう言えば少し心当たりがある。でもこんな所――私の様な人間のところにやってくる人ではないはずだけど。
「……万丈目だ。万丈目、準」
「……!?うそっ!万丈目くん!?ホントに!?」
当たってたのか、と私は大いに驚いた。黒は彼の制服を思い出させる色だったから、連想的にそうかなとは思った。声も低くなっていたけど、名残があったし。でもどうして彼が?
「二人は知り合いなの?」
センパイに訊かれて、私が口を開くより早く、万丈目くんが元同級生です、と答えていた。そこで先輩がここぞとばかりに割って入ってくる。
「積もる話もあるでしょうし、奥の客間へどうぞ」
「え?しかし仕事の方がよろしいんですか」
「大丈夫。集中できるように、ウチでは同時に複数の依頼を取り扱うことはないからスケジュールはゆるめなの。紫希、着替えていいわよ」
「セン、センパイ、でも」
「いいから。私だけ紫希を独占しちゃうのも彼に悪いじゃないの」
あの、同級生だって聞いてました?
完全にスイッチが入ってしまったセンパイに抗う術があるはずもなく、私は仕方なく言われるまま着ていた仮のウェディングドレスを脱ぎに戻った。勿論眼鏡はセンパイから渡されたから、今度はもたつくこともない。
それにしても突然、どうしたのだろう。万丈目くんと私は別に仲が良かったわけでもなくて、どちらかと言えばまあ、私が彼に憧れている以外特別なことなんてないのに。それも私の一方的な気持ちに過ぎず、接点らしい接点なんてない。ああ、でもたった一度だけ彼とぶつかってしまって眼鏡を落とした時、拾ってもらったことがある。それきりだ。
「紫希、紅茶とお菓子用意しといたから、ゆっくりしてくるのよ」
「は、はあ、ありがとうございます」
センパイに肩を叩かれてグ、と親指を立てられたけど、生憎彼と私は何でもない。
とにかく待たせるわけにもいかなくて、私は客間に急いだ。ノックするまでもなく扉は開いたままで、そこから見えた彼の姿に私は息をのんだ。
ゆったりとソファに腰掛け、足を組み、ティーカップに口をつける様はまさにアッパークラスに相応しく、私は間抜けにも口を開けたまま見惚れてしまった。
いつだって彼は人を惹き付ける。でも、『ただそうしている』だけの姿にそうなったのはこれが初めてかもしれない。力強さよりも繊細そうな印象を受ける静かな姿。その彼の目が不意に私を捉えて、私は急に覗き見していたのがばれてしまった恥ずかしさでいっぱいになった。
「あの、遅くなってごめんなさい」
「いや。……コンタクトにはしないのか?」
「一度やってみたんだけど、目に入れるのが怖くて……。それに眼鏡の方が慣れてるから」
私が答えると、万丈目くんはそうか、とだけ。私は彼の前のソファに座ると、どうしてここへ来たのか尋ねた。
「学校、卒業まではまだ日があるし、今着てるのってノース校の制服だよね?」
「ああ。今は進路関係での外出が認められている。今日来たのはそれに関連してのことなんだが」
万丈目くんはそこで一旦区切ると、ティーカップをソーサーへ戻した。そして姿勢を正す。まっすぐに見つめられ、私も自然と居住まいを正していた。彼の綺麗な唇が、動く。
「プロデュエリストとして活動できることになった。その正装と言うか、……まあ、勝負服だが、それを織部くんに頼もうと思ってきたんだ」
「……え……」
彼がデュエリストとしての才能を如何なく発揮した時のことはテレビ中継で流れていたから知っている。だからプロになったとしても何ら不思議はない。もともと注目されていたし、後はスポンサーさえつけば、と言うところだったはずだ。今の話を聞くに、無事その問題はクリアできたらしい。
でも、何を、誰が、どうするって?
「俺はこれでも構わないんだが、何せこれは学生服だろう?スポンサーから止せと言われてしまってな。違うものを用意する必要があるのさ」
まあ、プロとなった直後の今ならそれでも良いだろうけど、確かに今後、いい大人になって学生服では今一つ決まらないかもしれない。その、イメージ、として。
「でも、どうして私なの?万丈目くんならもっと立派な方にお願いすることだって」
「だめだ」
いやにはっきりと彼の声が響いた。私がうろたえていたせいもあるかもしれない。彼の静かさで、私は言葉を失った。こんな風に言われては断れない。だからと言って私が請け負えるような仕事でもなければ、私自身がそれに値するとはとても思えない。
そして何より、彼が私に何かを頼んでいるという今の状況が事実として受け入れ難い。
「どこの誰とも分からんような奴に任せるつもりはない。だから君に頼みたい」
「……こういっちゃなんだけど、私だって万丈目くんのことよく知らないのに?」
「少なくとも君は、俺がこの制服を着るようになった理由も、『サンダー』の経緯も知っているだろう?」
知っているも何も、忘れるはずがない。万丈目くんがノース校の頂点に立ちアカデミア本校に帰ってきたとき、私は自分の背中を彼が押してくれたんだと思った位なのだ。
学園から去ることは逃げることなんかじゃない。彼が目的を持って本校から姿を消し、『やり残したこと』の為に戻ってきたのだと知った時、私はアカデミアを退学しようと決心した。デザイナーになりたい、という夢の為に。
だから私は勝手に彼を尊敬しているのだけど、それ以降のことは知らない。私が知っていることと言えば――……
「でも私、テレビ中継での万丈目君しか知らないんだよ?学園でどんな風だったのかなんて分からないし」
「それで充分なんだ。どうしても君がいい」
是非に、と言われて、私はどうすればいいか分からなかった。
「あの、万丈目くん、お話はとてもうれしいんだけど……私、まだ半人前なの。だからそんな大切な依頼は」
彼が私を必要としてくれている時に断るしか出来ないのは本当に苦しいのだけど、私の今の立場ではこうするしかない。中途半端なことは出来ないし、何よりセンパイに迷惑がかかってしまいかねない。否、多分確実にかかる。
私の何が彼の琴線に触れたのかは分からないけど、私は改めて受けられない、と口にしようとした。
「その依頼、お受けます」
私より早く、センパイの声が響く。私たちは驚いて立ち上がった。
「センパイ!?何を言って」
「あのね、紫希。男性が頭下げて頼んでるんだから恥かかせるような真似しないの」
いや、頭はまだ下げてもらってないです。とは言えるわけもなく、私は立ったまま万丈目くんとセンパイを交互に見るしか出来なかった。
「ねえ、万丈目クンって言ったっけ」
「はい」
「キミ、一度私の個展に来てるでしょ。なんか見たことある顔だと思ったのよね。今、個展の時出してた芳名録あさってたら名前が書いてあったの」
「へ」
唐突な先輩の言葉に意図が分からず、私は首をかしげた。
「そこで紫希の作品、気に入ってくれたでしょ?」
センパイの個展はつい最近まで近くの小さなギャラリーを借りてやっていた。そこのスペースの一部をさらに借りる形で私の作品も数点置かせてもらっていたのだけど……。
瞬きを繰り返す私の隣で、万丈目くんがええそうです、と答える。
「彼女の刺繍作品は素晴らしかった」
昔よりも低くなった声で、彼が、私の作品について触れる。それだけでも夢か現か、という気分なのに、高い評価をもらえて私は腰が抜けてしまいソファへ突っ込んだ。センパイが私を見て笑う。
「たまたまその時紫希はいなかったけど、代わりに私がいたから覚えてるわ。紫希の作品を買おうとしてくれてたの、彼よ」
飽くまでセンパイの個展で、私は顔見せというか、センパイの厚意で作品を展示させてもらっていたから作品は全て非売品だった。後で私の作品を買おうとしてくれた人がいると聞いて気になってはいたのだけど、まさか万丈目くんだったなんて。
「あの」
震える自分の声は今にも泣いてしまいそうで、必死になって飲み込んだ。
「わ、私でよければ、精一杯やらせていだだぎまず」
自分の作品を認めてもらえた時の歓びがどんなに深く大きいものか、彼は知っているだろうか。残念ながら最後まで耐えきれなかった私の想いは、眼鏡を避けて、白くて細い万丈目くんの指にすくわれた。
「万丈目くんの期待に応えられるように、センパイの邪魔にならないように、頑張ります」
まさか異性に涙をぬぐってもらう日が来るとは思わなくて、私は顔を真っ赤にしてそう呟くように答えた。
「織部くんが受けてくれるなら、後のことは、その」
「センパイでいいわ」
「……センパイにお任せします。俺には分からない分野ですので」
よろしく、と万丈目くんは言って、私は何度も首を縦に振りまわした。
「そ、それじゃ万丈目くんの身体、測らせてもらうね」
「じゃあ私は今持ってる仕事の予定をたて直すわ」
弾んだ先輩の声は、今日はとてもありがたかった。足腰にも力が戻ってくる。やる気も出てきたところで私は立ちあがってメジャーを取って戻ったのだけど、上着のコートを脱いだ万丈目くんに再び見入ってしまった。
万丈目君は細い。だけどそれは女性の細さとは違っていて、ぴったりとしたインナーの上からでも引き締まった筋肉が浮いて見えた。間違いなく男性の身体だった。
「織部くん?もしかして、全部脱いでしまわないといけないのか?」
「えっ!?いや、うん、それで大丈夫だから!」
彼のいぶかる表情に気を引き締める。これは私だけじゃなく彼にとっても大切な依頼になるのだから、浮かれている場合じゃない。
「じゃぁ測っていくね。まずは胸囲から」
順番に測ってはメモを取る。基本であるバスト、ウエスト、ヒップはもちろん手足の長さや太さも測る。その一つひとつを書き出して、一つ息をついた。男性の身体に触れたのなんていつぶりだっけ?というかお父さん以外まともに触ったことなんてない。
「センパイ、終わりました」
少し大きな声を出すと、はーい、という声と足音がやってくる。
「万丈目クン、予算とか指定あるかしら?期日は?」
「特にはありません。ただ、必要以上に金はかけないでください。期限は俺が卒業するまで」
「畏まりました」
センパイはさらさらとメモを取っていく。そして
「万丈目クンは紫希にやってほしいのよね?」
「はい」
「じゃ、この件は私じゃなくて紫希が責任を持って承ります」
「せ、センパイ……いいんですか?」
「良いも何も、あなた本当にやる気があるの?チャンスを掴まないでどうするのよ。フォローならしてあげるから全力でやりなさい」
「でも、センパイの今の依頼は」
「私のことは心配しなくていいの。あなたが来るまでは一人でやっていたことなのよ」
いいわね、とセンパイの目が鋭く光った。プロとしての目を向けられては、ノーとは言えない。仕事教えるよりフォローだけで済むほうが楽とまで言われて、私は頭が下がる思いがした。
半人前なんだから足を引っ張るのは当然だ。それを置いてもやってみろと言われているのだから、と私は顔を上げた。センパイの言う通り、これは願ってもないチャンスなのだ。私がステップアップするための。
「連絡先……と言っても学校のものだが渡して置く。必要な時に」
「はい」
初めてのクライアントが万丈目くんだなんて、これはなんてめぐり合わせなんだろう。私は彼から手渡された名刺をしっかりとつかんだ。
「じゃ、お邪魔虫は退散するから、今度こそごゆっくり」
ハートをまき散らせるかのようなセンパイの声に引き戻された時、無情にも客間の扉はすでに閉められてしまっていた。今思えばセンパイ、盗み聞きしてたんだろうか。助けてくれたのは嬉しいけど、なんだか素直に喜べない。
「……かけないか?」
「えっ、あ、ごめんね」
万丈目くんに促され、私はゆっくりソファに座りなおした。彼もコートを着て、正面に座る。何をすればいいのか、と思案した後、彼の制服を見て思ったことを口にすることにした。
「学園生活は、どうだった?」
中退したことを後悔したことはない。でも、万丈目くんのその後が気になって呟いていた。彼のコートは時間を感じさせるほど傷んでいた。ノース校から帰った来たとき以上に。
「悪くはなかったな」
「遊城くんには勝てたの?」
ムスッ。
音が出そうなほど万丈目くんがむくれて、私は全てを察せざるを得なかった。私からは苦笑が漏れ、彼は不遜気に足を組み、ソファにもたれる。そしてふと、
「そんなことより、面白い話を聞かせようじゃないか」
さも何か企んでいます、と言いたそうな笑みで私を見た。
「面白い話?」
「ああ。それもとっておきだ」
彼の手が私を呼ぶ。お互いの顔が近づいて、その唇が何事かを紡ごうとした、その瞬間
「アニキったら!そんなに顔なんて近づけて、キスでもするつもりなのぉん!?」
ぽん、だかぼん、だかの音とともに、目の前に何か黄色いものが現れて、私は思わず身を引いた。その際、ひええええ、とバカみたいな頼りない悲鳴を上げてしまったことはここだけの秘密にしていただきたい。
「な、なに、なにこれ」
「織部くんは、デュエルモンスターズのカードに宿るという精霊を信じるか?」
「え?信じるって、え、これ、万丈目くんも見えてるの?精霊?これが?」
精霊っていうよりもモンスターに見える。そう思ったけど、これがデュエルモンスターズの精霊だというのならまあ、間違ってはいないのかもしれない。なにせモンスターの名を冠するカードなのだから。
その黄色い精霊は私を見て、腰を振り振りしながらオイラが見えるのぉん?と嬉しそうに言った。
万丈目くんとそれを交互に見ると、彼は酷く楽しそうに肩を揺らして笑っていた。悪戯が成功した子供みたいだった。……まさか今になってそんな一面を見ることになるとは思わなかった。代表デュエルの時も随分変わったと思ったけど、あの頃よりもさらに一皮も二皮もむけたような。勿論いい意味で。それは確かに彼の魅力になっているというか。
コイツが今の俺のエースカードだ、と万丈目君は言う。これがとっておきの面白い話なのだろうかと疑問に思ったけど、私が学園に在籍していた頃の彼のスタイルとはまるで違う、と言う意味でなら、彼の言わんとすることが分かる気がした。それを、私にも笑って欲しいのか。
黄色の精霊は彼との出会いからデッキに入れられるまでを切々と語ってくれた。途中万丈目くんにキスをしようとして思い切りはたかれていたけど、彼がとても好かれていて、彼もそれを受け入れているということはよく分かった。
「人間、何があるか分からないものだな」
そういう万丈目くんの表情は全く険しさのかけらもなくて、今まで彼を彼たらしめていたものはどこへ行ったのだろうかと思うほどだった。何かを悟ったような、解脱と言うのが適切だろうか、そんな様子で。
まだ未成年の男が何を生意気なことを、と思う人もいるかもしれない。けれどその言葉は彼の境遇についてうかがい知る程度の私ですらため息が漏れるほどいろんな感情がない交ぜになっていて、笑うことなんて出来なかった。
「……万丈目くんは、前から優しかったもの。覚えてる?私が万丈目くんとぶつかって、眼鏡が外れてしまった時のこと。万丈目くんはすぐに拾って渡してくれた」
眼鏡がなければ立ち行かない私にとっては、感謝してもしきれないくらいのことだった。万丈目くんはぶっきらぼうに別に普通だ、と言うけれど、拾ってくれない人だっている。それを、彼は私が慌てている間にさっと手渡してくれた。それから怪我はないか、と心配もしてくれたし、尻もちをついていた私に手を差し伸べて立ちあがらせてくれた。
そういう振る舞いは彼の家が大層なお金持ちであることとは関係ない、彼自身が持つ美しいところだ。
さっき黄色い精霊がそうしたように当時のことを振り返ると、彼は顔を真っ赤に染めて、そんな昔のことは覚えていない、と顔をそむけた。さっきまでは普通に話をしていたのだからそんなはずはないのに。照れているのが丸わかりで、私はくすりと笑うと同時に驚いた。
万丈目くんって、こんなにころころと表情を変える人だったのか。
「楽しかったんだね」
私の知らない、いろんなことがあったんだろう。私はそんな言葉で締めくくると、紅茶を淹れ直そうと立ちあがった。
「織部くん」
一度客間を出る直前、引き留められて振り返る。そこにはまっすぐに私を見る万丈目くんがいて、私は動きを止めた。
彼の口が薄く開く。けれどそこから音が漏れることはないまま、再び閉じてしまった。そして、代わりにため息が。
「すまない。君には愚問でしかないことを聞きかけた」
「いいよ。何を言おうとしたの?」
そう言われると気になる、と言うと、彼は少し迷った風に視線をさまよわせた後、私を伺うように見て、言った。
「アカデミアをやめたことを後悔していないのかと」
「……」
「君の作品を見たらすぐ分かることのはずだったんだが」
私が彼に対してそう思うように、彼も私を見てそう思っているのだろうか。なんだか、前よりもいきいきしている、と。
「今日、万丈目くんが来てくれなかったら、そう思ってたよ」
「……?」
客間の扉を開ける。
「今の万丈目くんを見て、残っても楽しかったんじゃないかって思った」
何か一つを選ぶということは、その時点においてその他のものをすべて捨てるということだ。
確かに私は後悔してない。けれど、万丈目くんの変化を目の当たりにして、学園にいることで得られた何かもあったのだ、と気付かされた。例えば、級友との思い出。私にはもう、絶対手に入らない。
狐につままれたような顔で瞬きする万丈目くんを残し、私は客間の扉を閉めた。私だって、こんな風に思う日が来るなんて、思ってなかったんだよ。
とは言え、やっぱり私はこの道を選んで幸せだったことには違いない。センパイとの出会いはその最たるものだ。仕事そのもののほかに、コネクションを持つことの重要性を教えてくれた。センパイが私を弟子として迎えてくれたのはその部分が大きくて、今回こそ万丈目くんと言うセンパイとはかかわり合いのない人からチャンスをもらったものの、センパイ自身が持つ繋がりの中に私を入れようとしてくれていたのだ。結果的に初めてのクライアントは万丈目くんになったけど、センパイはきらきらと目を輝かせつつも、万丈目グループに繋がりを持てたことはプラスになるに違いないと満足そうだった。
そして私はと言うと、コネクションだと将来だの考えるよりも先にまず目の前のことに立ち向かうのに必死だった。毎日毎日考えるのは万丈目くんのことばかり。と言ってセンパイが期待するようなロマンスなんて欠片もなくて、彼が私に、そして依頼品に望んでいるものについてのことだ。
勿論イメージカラーは黒以外にない。制服のインナーや、ブルーとレッドの寮にいたことを考えても紫を入れようか。コートか、それに準ずる長い丈の上着も必要だろう、シルエットは重要だ。サイズを測った時の彼は細いながらも身体のラインがとても綺麗だったから、それが分かるように露出は少ないながらもタイトに、そしてややフォーマルさも出るように。アカデミアのブルー生が着用するような、上半身だけ前留めに出来るものの方が映えそうだ。素材はもちろん動きやすさと、色を考慮して通気性のいいものを。決して安っぽく見えることのないものを使おう。
そして、彼がわざわざ私を選んだ理由――私の作品で私が最も大好きで、得意とするもの――刺繍のデザインを考える。これなしにはとてもじゃないけど渡せない。
しばらく考えて、私は黒い布地に黒い糸で刺繍をしつらえることにした。変に色を使ってしまうと彼の肌の白さと身に纏う黒の関係が壊れてしまうような気がしたのだ。代わりに、前留めの部分が彼の愛称である『サンダー』になるように整える。黒の刺繍はコートの裾に。腰の後ろに一つ大きめのプリーツをつくる。これを仮のデザインとして一度作ってみよう。
布選びはセンパイにも助けてもらってつつがなく済んだ。安っぽくなく、けれど服に着られるような仰々しさやもったいぶった感じが出ないように。
万丈目くんが卒業するまでまだ時間はあるけど、一番手間暇かかるのは何せ刺繍だ。そのデザインや確認作業で何度か彼にメールをしたものの、一任する、とだけしか返ってこなかった。初めてのことだけにもっとクライアントとしての意見を聞きたくて改めて電話をしても、俺の専門じゃないことに口出しはできない、織部くんの好きなようにしてくれとすげなく言われてしまった。
クライアントが上手く説明できない、頭の中のイメージを形にするのが私たちの仕事なのよ。とはセンパイの言葉だ。分かっているけれど不安なものは不安なのだ。自分が納得できないものは論外だし、かと言って見当違いなことでもしたらどうしようかと頭をひねる。
「万丈目クンがなぜ紫希を選んだのか、自分の良さは何かをもう一度考えなさい」
センパイがくれたヒントを頭の中で巡らせる。彼が私を選んだのは刺繍、そして、彼を知る、人間だったからだ。
全てを任せる、と彼は言ったけれど、もしかして私は試されているのだろうか。彼の期待に応えられるような人間かどうかを。私が彼をどうとらえているのかを。
なら、することは限られる。やっぱり今までそうだったように、彼についてだけを考えればいい。
刺繍は遠目に見えるようなものではだめだ。万丈目くんの魅力を邪魔することがないように。巨大で自己主張の激しいものは要らない。大切なのは私の刺繍を見せつけることではなく、衣装の素晴らしさを彼に理解してもらうことでもなく、既にテレビにも顔を出し始めてファンも獲得している彼をより引き立てることだ。
最終的にコートの裾両サイドに刺繍をあしらうことにして、その最終案とも言うべきデザインをセンパイに相談すると、センパイはにこりと満足そうに笑うだけだった。事前にあまりにも酷い時は酷いという、と聞いていたから、私はそれを見て早速作品を形にする作業に入った。
彼の卒業は春。今は冬。今頃彼はどうしているだろう、と考える。
仕事場はセンパイの依頼が無事終了して、今まで私がしていた諸々のことをセンパイがしてくれている。何度も頭を下げると、そんなのは良いからとびきりのものを見せて頂戴、とウインクを返された。
暖かくした室内で糸を通すごとに気持ちが膨らむ。いつか私が彼に抱いた思いを、感動を、彼に感じてほしい。
以前から胸に秘めていた感謝の念を形に出来ることがどうしようもなく嬉しくて、そうして出来た彼の衣装は、私にとっても特別なものになった。
「いいわね。後は彼に気に入ってもらうだけよ」
学園当てに送る手配をしていると、センパイが意味深に私の肩を叩いて、笑った。
「余計だと思ったから今まで言わなかったけどね、彼、あの日来るまでに何度か手紙で依頼してきたのよ」
「え?でも私、手紙の整理してましたけどそんなものに心当たりは」
「封筒には私の宛名しか書いてなかったからね」
初めは断ったんだけど、いい機会にもなると思って、とセンパイは言う。私は改めて感謝し、ありがとうございます、と言うべく口を開いたのだけど
「とにかく顔を見ないことには、と思って面接のつもりで会うことにしたら、来たのはカッコイイ子じゃない?しかも紫希の作品に入れ込んでると来た。二人の間のときめきの導火線に火がつくかもしれない、と思うともう受けるしかないと思ったわ」
昔のアニメのエンディングテーマが出てきた辺りはスルーして、私は開けた口から乾いた笑いを出す羽目になった。
後日、私宛てにたくさんの赤いバラの花束が贈られてきて、言うまでもなくそれは万丈目くんからで、その上彼のプロ初戦となる試合のプレミアム観戦チケットまで同封されていたものだからセンパイの高ぶりようと言ったらなかった。そしてどんな風に暴走したかは、推して知るべしである。
2010/08/11 : UP