さなぎの夢

 二年前に立った場所に、同じように立つ。そこから目に入る景色は全く変わってはいなくて――否、あの人がいないと言うことだけが唯一の違いなのだけれど――私一人になってもあの時の気持ちも、あの人の顔もよく思い出せた。
 色褪せるどころかより一層美化されてさえいるように、きゅう、と胸が締め付けられる。
 今日は、卒業式だ。



 好きになるまでにさほど時間はかからなかったと思う。レイにくっつくようにレッド寮に入って、たくさん構ってもらった。少し当たりがキツくて初めは怖かったけれど、とても面倒見のいい人で、優しい人だと気付いた頃はすでに私の気持ちは固まっていた。
 二年。私と、あの人の間に横たわる大きな隔たり。絶対に越えることのできない距離と時間。
 きっと一生分の勇気を前借りした告白に、あの人はただ静かに首を振った。
「お前は、いい後輩だ」
 それは多分、耳にしたものの中で一番優しい声色だった。私はただ深く頭を下げて、ありがとうございます、お世話になりました、と、震えて上手く発音できないながらもそう言うしかできなかった。視界は涙でぬれていて、見送った凛々しい背中は歪んでしまっていた。
 それが二年前の今日、万丈目先輩の卒業の日のことだ。振られたとはいえそう簡単に振り切れるような淡い想いではなかったらしく、私は今になっても尚ズルズルと恋心を引きずっている。いい加減新しい恋の一つでもしなさいよ、とレイには再三に渡って言われたけれど、なんだかんだ言ってレイもまだ遊城先輩が好きなんだから説得力はあまりなかった。
 前にも後ろにも動かないまま、時間だけが過ぎたように思う。
 その間にあの人はプロデュエリストとして活動していて、我慢できずに何度かファンレターを出した。私だとばれないように宛名も書かずに。レイや他の友達に、気持ち悪いストーカーみたいな文章になってないか何度も確認してもらったりもした。
 でも、いい加減この想いは胸の奥底に沈ませてしまうべきだ。もう二度と浮かんでこないように。あの人はもともと私には手の届かない人で、その距離は大きくなることはあっても縮むことなんてないのだから。
!式始まるよ!」
 声に振り返ると、女子寮の前にブルーの制服を着たレイの姿が見えた。
「すぐ行くー!」
 同じくらいの声で返すと、早くね、とレイは言って、先に行ってしまった。
 今日でこの学園とはお別れだ。荷物の運搬作業が少し残っているけれど、もうここに戻ってくることはない。
 それが良いことなのか悪いことなのかは分からないけれど、どんなに私が切なく思っても時間だけは今も昔も変わらずに淡々と過ぎていくことだけは確かだった。
 ふと、虚しくなって私も式場へ向かおうと歩きだす。
 どうして忘れられないのかなんて分からない。それだけ好きだったのだと思うしかない。あえて思いつく理由を挙げるとするなら、雑誌やテレビ中継でその姿を見るからだろうか。きっとあの人がメディアに出続けている限り好きなままなのかもしれない。そう自嘲気味にかすめた思考に、途方に暮れた。洒落にもならないし全く笑えない。
 振り払うように頭を振る。軽い感覚に、自分の変化を思い出した。
 髪を切った。些細なことだけれど、今まで短くしたことなんてなかったから私にとっては大きな変化だった。失恋したから、ではないけれど、あの人への気持ちを思い出にするには一番いい方法に思えたのだ。色素の薄い髪は幾度となく明日香先輩の妹に見えると言われるほど似ていて、憧れだった存在に近づけるような気がしていた。それは、気がしていただけで終わってしまったのだけれど。
 もう、一年の頃とは違う。私は万丈目準と言う人を好きになって、告白をして、振られて、髪を切って、そして高校を卒業する。それだけの時間が経っていたのだと不意に気付かされて、ほんの少しだけ時間を無駄にしてしまったような惜しさを感じた。感じたところで何も変わりはしないのだろうし、後悔もしていないけれど。
 校舎内に入ると、コツン、とブーツが音を立てた。いつもは人で溢れ返っている校舎内は静かで、感傷に拍車をかけるには十分だった。もう生徒も先生も式場にいることだろう。
 だから、式が始まろうとしている今、校舎内で誰かを見かけるなんて先生だったとしてもまずいないはずなのだ。それも、黒い服に身を包んでいる人なんて、もう、今は、いるはずが――……
「久しぶりだな、。髪は切ったのか」
 ない、のに。
 まぎれもないあの人だった。万丈目先輩だ。
 何故?分からない。今日はいつだっけ?卒業式の日だ。誰の?私の。先輩なわけない。もう卒業してるんだから。じゃあ何故?
 同じところをぐるぐる回る思考を止めたのは先輩の足先だった。それがこちらに向いて、彼が私に向って歩き出すのを感じた瞬間、私は弾かれたように外へ飛び出していた。
 もう履き慣れたブーツで走るのは容易い。森の中を駆け抜けながら、式には出られないかも、とぼんやり思うけれど、不思議と何の感慨も湧かなかった。
 さっき見た姿が頭を占めてそれどころじゃない。
 二年前のノース校の黒い制服でこそなかったけれど、黒をこよなく愛しているのは変わらないみたいでやっぱり全身黒づくめだった。
 でも二年前より、美化しているのではと思っていた自分の記憶よりもずっと、ずっとカッコよかった。
 息苦しさにスピードを緩める。涙がこぼれて嗚咽が混じった。吹っ切れてはいなかったけれど、そうしようと思った。思い出に出来るはずだと。でも実際は全くそんなことはなくて、一年の頃以上に苦しくて、あの時よりも遥かにあの人を好きになっているのだと気付かされてしまった。
 どうしてあそこにいたんだろう。もし出会わなければ、あの人の身体が、声が、目が、意識が、私に向かないでいてくれたならあるいはそれだってどれほどの時間がかかったとしてもいつかできたはずなのに。
「オイッ、何処へ行くつもりだ!式が始まるぞ」
 急に強く腕を掴まれ、止まらざるを得なくなる。やっぱりまぎれもなく万丈目先輩だった。
 酷い顔をしているはずの私にインナーの袖で涙をぬぐってくれる。嬉しいのにそれ以上に辛くて、私はその腕を振り払った。
「や、やめてください」
 お互い息が上がっているとはいえ、これ以上逃げたってすぐに捕まってしまうだろう。私の方が体力もないし足だって早くない。
 それでも逃げたい気持ちが足に出て自分から距離を取ると、自分でしたことなのにきゅう、と心臓が痛くなった。
 ぐす、と鼻が鳴る。
「人の顔を見るなり逃げ出した揚句触るなとは随分な御挨拶だな」
 先輩の顔は見てないけれど、ムスッとした声だから大体想像はついた。人の気も知らないで、と思うと同時に腹が立ってきて、私は全く迫力の無い涙声で反論していた。
「だって、まだ好きなんだから仕方ないじゃないですか……!優しくされたら、変な期待するに決まってます。……大体、どうしてここにいるんです」
 声を出すとまた涙が出てきて、手の甲で拭う。睨むように先輩を見ると、彼はくしゃりと顔をゆがめた後、後輩の卒業式にOBが顔を出すなど珍しいことでもあるまい、と。
「翔も来ているんだがな。来賓とまでは言わんが、校長から祝辞の一つでもと頼まれたのもある」
「ヒマなんですか」
「スケジュール調整をしたに決まってるだろうっ」
 二年前はもっと可愛げもあったのにレイに感化されたか、と先輩は少し苛立っているようだった。そんなこと言われても、困る。だって私は先輩に振られていて、どうにかこの恋心を捨てるか仕舞いこむかしたいのに、先輩は、
「大人びたのは外見だけのようだな?」
 ……見てくれだけ変わった私とは違って、もう完全に大人の男の人で。なのにあのころと変わらない態度で、私はやっぱり彼の後輩でしかなくて。やっぱり私はまた少し、後ずさった。
「私だって、早く、中身ごと変わりたいですっ!大人になって、先輩のことなんか忘れて、新しい恋を、して……っ」
 そんなのが出来るのか、こんなにもまだこの人が好きなのに。
 頭の中でもう一人の自分が囁く。でもそうするしかない。そうするしか、だって、他にどうすればいいの?
 拭っても拭っても湧いてくる涙を、更に拭う。そこに飛び込んできた先輩の言葉に、耳を疑った。
「なんかとは何だ。別に忘れる必要などないだろうが」
「ダメです!そうしなきゃ気持ちが切り換えられないじゃないですか……っそれも出来ないなら、可愛くなくて結構です、嫌われるくらいの方が諦めも」
「ええい、貴様は黒か白かの二択しかないのか!」
「黒一択の先輩に言われたくありません!!」
 叫んだ言葉の後は続かなかった。気付いたら先輩は視界から消えていて、代わりに、何か、暖かいものが。
「誰にでも忘れられん恋の一つや二つあるだろう……っ」
 すぐそばで聞こえた声に、先輩に抱きしめられているのだと知る。
「大体、自分を慕ってくれている者をどう嫌えと言うんだ」
「わ、私、もう先輩のことは、あきらめるんですっ」
「お前は本当に分かり易いな」
 呆れかえったような低い声に、うぐ、と嗚咽ともつかない声が漏れた。
「何度か、ファンレターを送ってきただろう」
「……私じゃないです」
「癖字は苦労するな?」
 降参しろ、と言われているようで、私は最後の砦、固く口を閉ざすことで抵抗を試みた。……本当は、気付いてくれてすごく、すごく嬉しかったのに。告白しないままだったなら、きっと素直に喜んでいた。でももう遅い。
 先輩は変わってない。変わったのは、私なのだ。ちょっと意地悪なところも大好きなのに、もう、受け止め切れない。
「せ、先輩は、なにがしたいんですかっ……わたし、の、こと、いじめて たのしいですかっ」
 嗚咽では済まなくなって、声が漏れた。そうなると後は恥も外聞もなくて、徐々に叫ぶように鳴き声が大きくなるだけだった。
「、オイ、泣くな、」
「せんぱい、ひどいぃ~~……っ、ひど、ひどいぃ……わ、わたしが、すきなの、しっしってる、くせにぃいい~~……っ」
 小さい子どもみたいにわんわん声が出てくる。さっきは震えっぱなしだった涙声は堰を切ったように勢いづいて止まらない。何度もしゃくりあげて息を吸って、一気に吐き出すように言葉を投げつける。
 泣けば泣くほど悲しくなってきて、私は先輩を振り払おうともがいた。
「悪かった!俺が悪かったから、暴れるなっ」
「っやだっ も、せんぱい、キライっ」
っ」
 無我夢中で暴れようとしても先輩の力を上回ることが出来ない。こんなの、いじめ以外の何があるだろう。――……ほのかに香る先輩の香水はあのころとは違っていて、全く知らない人のようにも思えた。
「~~っ!お前は!どうすれば笑うんだ!」
 はっきりと聞こえた、森の中に響いた声に動きを止める。と、そこで初めて先輩の息がまた上がっているのを知った。私もふうふうと顔まで熱くしていて、もう時間の感覚なんてないけれど相当力んでいたようだった。
「……え?」
 で、今、何を言われたんだっけ?
 ピタリと嗚咽も止まって、一度鼻をすする。ここまで来たらみっともないとか恥ずかしいなんて思わなかった。さっき大声で泣き叫んだ時、確かに捨てたし。
 もがいた時に押さえつけられた腕が痛い。先輩は息を整えると、何処か苦々しく顔をゆがめて目をそらした。
「あのころに戻れとは言わん。……だが、俺に笑いかけることも無理か」
 酷くムシのいい話があったものだ。そう思うと同時に、先輩の口ぶりに違和感を感じて私はそのまま動けずに息をのんだ。
 なんだろう?何かおかしい気がする。
「何かを捨てなければ、別の何かは得られないのか?」
 いつの間にか、先輩と目が合っていた。
「ならば、……俺の、お前に対する想いは、どこへやればいい」
 ――違和感の正体を、知る。振られたのは私なのに、これでは立場がほぼ逆転しているのでは。
「俺はわざわざ恋心を忘れたり捨てずとも、お前の想いを受け止めたい」
「……どういう、意味ですか」
 幾分か落ち着いた頭で尋ねると、先輩は困った顔をした。
「先輩が明日香先輩を好きなのは、知っています。……まだ、好きなんでしょう?だから、先輩は私を振るべきです。私の気持ちは、無いものとして扱ってください」
 もし、万が一にも私が先輩を惑わせているのなら、いっそ捨ててくれればいい。私だってプライドもあるし、恋に対して夢だって持っている。……好きな人には、ありったけ好かれていたい。私をいっとう特別に、大事にしてほしい。他の人とは一線を画するほどには。
「だからそれでは……。……いや、俺は多分、お前が好きなんだろうな」
「は?」
 唐突で曖昧極まりないつぶやきに眉を寄せると、先輩は私から手を離して、乱暴な動作で自分の頭をかいた。
「今日逃げられるまで、お前がそんな風に思っているとは微塵も考えてなかった。会えばまた、あの頃そうだったように笑って駆けてくるものだと」
 でもそうじゃなかった、と先輩は続ける。
「俺がそうだったから、と言うのもあるが……お前に甘えていたんだ。告白を断っても、ずっと俺を好いたままでいると。あのままの関係が壊れることはないと」
 ファンレターを見た時はすぐに分かった、とはにかんだ先輩は少し寂しそうで、何か言わなきゃ、と思うのに咽喉が震えない。
「それは思い違いだったんだな。お前が俺の前から逃げ出した時、思いがけずショックを受けたせいで追いかけるのが遅れた」
 アレは傷ついたんだぞ、と言われても、仕方ないじゃないですかとしか返しようもない。
「振っておいて、元のままでいられると思ってたなんて酷い人ですね」
「……告白を受けたのは初めてだったからな」
「私は、先輩と違って振られた後も仲のいい関係でいられるほどタフじゃないです」
「……ああ」
 するりと海から吹いてきた風に晒される。息を吸い込むと潮の匂いがした。吐き出して、もう納まった涙の後をぬぐいさる。
「それで、私に言いたいことは何ですか。そのことについて、謝りにでも?」
、俺の話を聞いてなかったのか?」
「そんなはずないでしょうっ それ以外に何があるっていうんですか」
 ……お互い、何かすれ違いがあるらしい。しかめっ面で見つめ合い、奇妙なことこの上ない。
 先輩が、私のことを大切に思ってくれているのはもう十分わかった。これ以上、何かあるだろうか?
「俺はっ」
 語気を強め、先輩が何事か口にしようとしたところで、私のではない、携帯の着信音が鳴り響いた。この場合先輩のそれしかあり得ない。案の定舌打ちをして先輩はコートの内ポケットから携帯を取り出した。
「翔か、どうした」
「どうしたじゃないよ!あと五分で式が始まるのにどこほっつき歩いてんのさ!」
 ……珍しい丸藤先輩の怒鳴り声が私の耳にもはっきりと聞こえた。万丈目先輩は携帯を耳から離して、殊更に顔をしかめつつすぐ行くと伝えている。
 五分。五分で式が始まるってことは、今戻れば間に合うってことだ。先輩が通話を切るのを待たずに、私は全力で走りだした。
「!オイ、待てっ」
「先輩も早くしないと間に合いませんよ!」
 後ろで大きな舌打ちを聞く。先輩はすぐに私に追い付くと私を見て。
「話はまだ終わってないぞ!」
「後でいくらでも伺いますっ」
 半ば喧嘩腰のような声でやり取りをしながら、私たちは校舎まで戻った。玄関には丸藤先輩とレイが立っていた。
「ったく、しっかりしてよ」
「すまん」
、スグ行くっていったじゃない!」
「ごめん」
 それぞれに怒られ、素直に謝りつつもそのまま一緒に校内へと急ぐ。行先は一緒のはずだけれど先輩たちは式場より先に向かう場所があるのか、腕を掴まれ引き留められた。
「式が終わればあの場所に来い。……二年前の、仕切り直しだ」
「え?」
 早口で囁かれ、訊き返してももう先輩は丸藤先輩と一緒に廊下の向こうへと駆けていた。
 ――二年前の、仕切り直し?
 その言葉がさしているのなんて、一つしかない。つまりそれは私の告白で、でも私の気持ちは変わってなくて、仕切り直しっていうのはやり直しのことで、それをするからには二年前とは何かが変わっていないと意味がないわけで。
「ちょっと、行くよ?」
 訝るレイの声に、私はさっきまでとは違った意味で途方に暮れてか細い声を上げた。
「……レイ、私、……どうしよう」
 期待に喜びはねた胸は、この上なく素直だった。

2010/10/10 : UP