"I'm yours, my Lord. "
雨のぱらつく夜だった。
致命的なミスこそしなくて、でも朝から小さなミスを繰り返して凹んでいた。上司に叱られることこそなかったけれど、塵も積もれば山となる、だ。傘も忘れるし、ツイてない。鞄の中に大事な書類が入ってないのが唯一不幸中の幸いだった。
駅から濡れながら家路を行く。なんて惨めなんだろうと込み上げてくる涙をどうにかこらえていた。こんな時は家でゆっくりするに限る。
「……」
ふと目に留まったのは、雨に打たれている一枚のカード。たったそれだけが、何か袋からはみ出した状態で道路の脇に、打ち捨てられるようにして落ちていた。
いつもなら、こんなことは思わない。のに。
けれど気分が沈んでいた私は、翌朝には無残な姿になっているだろうそれと自分を重ねて、気づけばそっと、ハンドタオルでソレをくるんでいた。軽く拭って、状態を確認する。幸いよれてもいないし、大丈夫そうだ。
カードと言っても、よく見なくともいわゆるカードゲームで使われるようなもので、私の生活には全く必要のないモノ。
警察に届けるようなものでもない、だろう。落し物と言うよりはごみのような扱いでもってここにあったのだ。
こんな夜になって雨に打たれて、誰にも拾ってもらえなかったカード。
欲しいわけじゃなかった。
ただ酷く凹んでいた私は、こんな無機物にみごとに感情移入してしまっていた。それを家に持ち帰ってしまうほどに。
お風呂から上がって体を温め終わってから、もう一度カードを見てみた。……拾ったはいいけど、これ、どうしようか。
明るい部屋の中で改めて見てみると、雨のせいか少し頼りない感触。
このままタオルで挟んで、ドライヤーで乾かそう。今はまだ捨てる気にはなれない。
スイッチを入れて、けたたましい音を立てながら温風を当てた。
カードの文面に目を通す。うん、やっぱりカードゲームで使うもののようだ。造詣は深くないけれど、友人の弟がハマっていると言って、見せてくれたことがある。それとそっくりだ。
これ、人気あるのかな。……あったら捨てられてないか。
カードに描かれているのは黒い衣装を身にまとった男性で、鎖が緩く巻き付いていた。マスクと帽子で顔のほとんどが見えないし、銀色の髪は右目を覆っていて、左目くらいしかまともな露出がない。
「ガガガマジシャン、ね」
一通り乾かし終わって、ふと部屋に沈黙が下りた。
何をやっているのだろうと我に返ると、途端にすべてが馬鹿らしくなる。
こんなことなら捨て猫でも拾った方がよかった。生き物ならここまで空しさなど感じなかったに違いない。一応ペット可だし。
はあ、とため息がこぼれた。
(それにしても細いなあ……ヒョロイっていうの? 弱いのかな 捨てられてたくらいだし)
勝手に情がわいて拾った以上、何か放置するのも気が引けた。気づけばじろじろと眺め、その表面を指でなぞっていた。
その時。
ありがとう、と確かな声を聞いた気がして、私は部屋を見回した。
一人暮らしだ。防音にはそこそこ気を使っている。よほどの大声でもない限り、隣人の声なんて聞こえない。
けれど気のせいと言うにはあまりにもはっきりと耳に残るそれに、私は眉をひそめていた。
と、視界に映る黒い何か。
たどっていくと、黒い衣服を着た――そう、手に持っているカードと全く同じ格好をした、人? モノ? が、私の目の前に浮いて、いた。
黒衣と鎖はゆらゆらと揺れ、どこからか鎖の擦れるしゃらしゃらとした音が響いている。
不審者、と言うにはあまりにもそれは常識はずれの存在で、そしてどこかボケたように輪郭がふわついていた。それを確かに存在するものとして恐怖を覚えるよりも先に、自分の頭を疑う程度には。
あ、私頭おかしくなった。と、思った。
鼻の上には二本の傷跡。肌の色は浅黒くて、対照的な銀色の髪はカードに描かれたそれよりも柔らかそうだ。
何度瞬きを繰り返しても、目をこすっても、消えることのない、それ。
つい、と視線が交わった。明るい色。薄い緑の瞳。
厳つい風貌とは裏腹に、その瞳は優しそうに細められていた。
ありがとう、とまたどこからともなく響くそれ。
「……ガガガ、マジシャン?」
呟くと、その綺麗な目が驚きで目いっぱい見開かれた。
見えるのか、とまた響く。声? 言葉? はどこからか私の頭の中に入ってくるようで、だからこれは幻覚や幻聴ではないかと言う気持ちがぬぐえない。それを超えて、ドキドキしているのはどうしてだろう。あるいは、わくわく、なのか。
戸惑いが伝わったのか、それは座布団に座る私の目線に合わせるように音もなく移動して、同じように、私の横にやってきた。胡坐と体育座りの中間のような形で座ったそれは嫌に様になっていて、目が離せない。
唯一見える顔のパーツ。その明るい色の瞳に吸い込まれそうだった。
視線を重ねると、なんとなくそれの言うことが頭の中に広がってくる。
悲しいかな、私の予想通り捨てられたらしいこと。
主であるデュエリスト――カードで遊ぶ人間のことを指すらしい――に使われることが一番の幸せであること。
私に拾ってもらえてうれしかったこと。
彼はいわゆる精霊と呼ばれるもので、カードに宿っているということ。
姿は基本的には見えないらしいこと。
私が見えなくても聞こえなくても、どうしてもお礼が言いたかったこと。
カードが傷ついて破れたり、印字が消えたりすれば、精霊もまた消えていくということ。
もし今私が遭遇しているこの不思議な現象が現実であるなら、あの時このカードを拾い上げてよかったと、素直にそう思った。
とはいえ、彼も一般に人間とは相容れないことをわかっているらしく、それ以上何か希望や期待があるわけではないことも教えてくれた。
捨てようが放置されようが、私の一存にすべてをゆだねると。
そうまで言われてじゃあ要らないから捨てます、とも言えなくて。
かと言ってだれか譲れる人を探すことにためらいを感じたのは、このカードは誰にでも使えても、彼の姿を見ることができるのはごく限られた人だけで、私はその限られた枠の中に入っているという、優越感にも似た、冒険心。
幸い、彼は今のところ私以外の誰にも見えない。らしい。
カードに戻ることもできる。
言葉も通じる。
食事や睡眠は必要ないらしい。つまりお金もかからない。
そして、お互いに触れない。というか、厳密にいうと会話以上の干渉はできないらしい。
こんな手間のかからない非日常が他にあるというのならぜひ体験してみたいものだ。
そう思った私は、きっと本当に疲れていたのだろう。あるいは、寂しかったのかもしれない。
友人と飲みに行くにしたって、都合が合わないことなんてざらにある。
いつもはこの部屋に、一人。話し相手になる人も飲みと同じで生活リズムが合わないといけないし、何より仕事が終わって疲れ切った体ではなかなか難しくて。
彼の話では、彼と話したりしても、怖いことはないようだし。
好奇心は猫をも殺すというけれど、心配が猫を殺した、ともいうわけだし。
とりあえず害はないようだと判断した私は、じっとこちらを伺ったままの彼を見た。
「ねえ、私、カードゲームはやらないし、これからもやるつもりはないけど……あなたを捨てることも、今のところ考えてないの。だから……ここにいて、いいよ。話し相手になってよ」
打算的なものがないわけではなかったけれど、お互いにマイナス点がないのなら、これはとてもいい案のようにも思えた。
彼はまた驚いたように目を丸くしたけれど、ダメ? と首をかしげると、ふるふると首を左右に振った。
それからまた、優しげに眼を細めて。ありがとう、と。
今度ははっきりとそれを受け止めた私は、これからよろしくね、となんとなく頭を下げた。
こうして、私と彼の奇妙な生活は幕を開けたのである。
翌朝、起床とともに姿を見せた彼に驚いて、変な声を出してしまったのは大目に見てほしい。
2011/08/21 : UP