I'm beside of you in this castle anytime and anywhere.

 朝起きたら全裸だった。それはいい。いや、やっぱりよくない。いいんだけど、よくない。

 一人暮らしだし、今日は久しぶりの休みだし、誰にも迷惑はかけないという意味では何ら問題はない。恥ずかしながらこんな風にして起きるのは初めてではないし。
 よくないのは昨晩のことだ。気心知れた女友達と夜遅くまで飲み歩きした挙句、べろんべろんになって帰ってきて、あられもないことをしたという記憶は、幸か不幸かばっちりと私の頭の中に残っていた。

 ちらり、と視線を巡らせても人の気配はない。
 と思ったのは一瞬で、『それ』はベッドのわきに控えるようにそこにいた。
 黒衣と鎖をまとい、静かにたたずむ姿はすでに私の眼には馴染みのあるものとなったけれど、おそらくは本来、人の目に見えるものではない、彼。

「……」
 暫く目を合わせる。薄い緑の瞳は相も変わらず綺麗で、唯一露出している左目に引き寄せられるように手を伸ばした。
 彼は逃げるわけでもなく、私の手を待つ。果たして、そこに届いたはずの私の右手はそのまま、彼を通り抜けた。
「……ぇ」
 間の抜けた声は自分のもの。そこでようやく頭が本稼働して、私は思わず叫びそうになったのを本当にギリギリのところで我慢した。

 昨日。確かに触れた。出会ってから初めてのことだった。
 そういえば昨日ははっきりと質量をもってそこにいた彼は、今は私の眼に慣れたその雰囲気、少し透けているような、輪郭のはっきりしないような感じになっている。
 そんなことよりだ。
 そもそもあられもないことというのはつまり『やらかした』と言うことであり、それは一人では出来ないことで、相手なんて彼くらいしかいなくて、だから夢ではないのだ。夢だったら彼の存在そのものが夢みたいなものだ。
 あれは確かに現実だった。そして現実だからこそ今の状況が恥ずかしいのではないか。恥ずかしいと言えば今の自分の格好は――

「――~~っ! み、見ちゃダメって教えたでしょ!」
 慌ててタオルケットを手繰り寄せて身体を隠すと、私はできるだけ小さな声でそう叱りつけた。お風呂やトイレは覗かないように教えるのは勿論、着替え中だとか寝てる間とか、裸に近い時も呼ばない限りは出てきちゃだめだって言いつけた。今まで、彼がそれを破ったことなんてなくて。

 私の言葉に、彼は面食らってからけれど昨晩は見てといった、と僅かばかりの抗議と大いなる疑問の眼を向けてきた。
 彼は基本的にしゃべらないけれど――声とも言葉ともつかない彼の意志は、直接私の中に届いてくる感じなのだ――言わんとしていることはなんとなく伝わってくる。初めはその感覚に戸惑ったけれど、今はもう慣れてしまった。人間の適応能力ってすごい。

「見てって、私、そんなこと……」
 彼の言い分に私が反論しようとすると、彼は私が昨晩口にしたんだろう言葉を改めてなぞった。

「もっと、ちゃんと私を見て。触って、感じて」

 聞いたことがない低い男の声を感じて、それは間違いなく昨晩溺れた彼の声で、私の身体は一瞬で熱を持った。
 致した事実は覚えていても、具体的にどうしたのかなんてすぐに思い出せるわけじゃない。けれど彼のそれで、昨晩の感触が再び皮膚を撫でるように浮き上がった。

 仕掛けたのは私。
 アルコールでへべれけになっていたとはいえ、帰って早々に出て来いと彼を呼び出し、私には女としての魅力がないのかと狼狽える彼を問い詰め
、わめき散らし、どうしようもない彼に、触れないと分かっていながら抱きつこうとして、それで。

 それで、ぎゅ、と、抱きしめることが出来たのだ。できてしまった。
 どうしてかは全く分からないけれど、その瞬間、彼がはっきりとそこにいると実感した瞬間、今まで保ってきたはずの均衡はあまりにも簡単に崩れ落ちた。

 まともな抵抗をせず、ただその左目で戸惑いを示す彼に、私は気づかないふりをして覆いかぶさった。それから……彼が今そう告げたように、自分から服を脱いで、彼の手を引いて、それから、肌を、なぞらせて、
(ただの痴女じゃないの……)
 いくら酒に酔っていても、やっていいことと悪いことがある。けれど私だって、誰彼構わずそんなことをするわけでは勿論なくて。

 じ、と静かにこちらを見る瞳を、見つめ返す。
 漫画みたいな出会い方。漫画みたいな不思議な同棲生活。ある意味昨晩のことも漫画のような展開だったけれど、それは彼への好意無くしては絶対に起こりえなかった。
 『触れない』ことでじっと押しこめていた彼への想いが、最後の最後、それが叶ってしまったことで一気に溢れてしまったのだ。

 私は、今の生活の中で彼をいっとう好いている。恋愛、対象として。

 彼が見えるという時点で既に異常だというのは分かっていた。もしかしたら私は何かの病気かもしれないわけだし。人間ドック的に異常はなかったけど。精神的な何かかもしれないという可能性だってあるけど、でも彼と出会ったことによって今までの生活がおろそかになったりするようなことはなかったし。

 そして彼もまた私を嫌っていないことは彼の優しい瞳を見れば十分わかったし、むしろ彼も私をマスターだと言って慕ってくれていることもしっかりと伝わってきた。……その好意がいわゆる主従や恩人に向ける類のそれであることも。

 突然迫られて、彼だってきっとどうしていいかわからなかったに違いない。
(いよいよもって痴女以外のなにものでもないわね……)
 せっかくの休日なのに朝から気分は最悪だ。どうせなら、まともにものを考えられないくらいの酷い二日酔いでもしてればよかったのに。
 ため息をつけば、彼は少し心配そうに私の方へ手を伸ばしてきた。
 そんなことをしても、もう触ることは叶わない。案の定、彼の指先は私の頬を滑ったけれど、それを感じることなど全くなかった。……夜は、とても熱かったのに。
 熱い掌が、私の、

「……」

 ……思い出すんじゃなかった!
 かあ、と顔が熱をもって、彼の手が這った場所がうずく。少し身をよじると、彼の手はそっと私から離れていった。
 気分は最低最悪で、後悔でいっぱいだ。彼と私の違いをきちんとわきまえていると思っていたのに。こんな、酒の勢いで『しでかす』なんて。

 幾分か泣きそうな気持になっていると、大丈夫か、と今度は確かに気遣いの気持ちが響いてくる。
「……だ、大丈夫。その、き、昨日は、わた、し」
 謝るべきなのはわかっていても、それ自体を――彼も応えてくれたことを否定してしまうのがこの上なく怖くて、それに、ほんの少しの期待にしがみつきたくて、その先が続かない。
 まんじりともせずに私の言葉の先を待つ彼はやっぱり静かで、私の僅かな葛藤はすぐにかすれてしまう。一人相撲だったのではないかと、不安になった。
「……ねえ、嫌だった?」
 かろうじてそれだけを絞り出すと、彼はふるふると首をゆるく左右に振る。
「ほん、と?」
 次はこっくりと頷いて。それから、少しはにかんだように左目を細めた。

 それだけで舞い上がりそうになる私は大層安い女だと思う。でも、彼の微笑みがそれまでとはどこか違うような気がして。
 今度は彼の顔が近づいて、彼のマスク越しとはいえ、唇同士が、重なった。
 やっぱり感触はないけれど、私の心を喜びとときめきで満たすには十分で。
 至近距離で、閉じていた彼の眼が開かれるのをじっと見つめる。
 その眼が、いつもは穏やかで澄んだ静かな瞳が、どこか熱っぽく私をとらえるのが、分かってしまった。
 か、と熱くなったのは顔だけではなくて。

 慌ててブランケットをかぶると、私はお風呂に入ってくるからついてきちゃだめよと言い捨てると、そのまま昨夜脱ぎ散らかした衣服もそのままに脱衣所へと飛び込んだのだった。
 甘く疼いた体の痛みに、くらくらと眩暈がした。


******


 慌ただしく部屋から出て行った彼女を見送り、所定の位置へ戻る。
 肌を合わせることになったのには驚いたが、胸を満たす心地よさはまぎれもなく本物で、自然と頬が緩んだ。

 捨てられ、そのままカードごと消えてしまうはずだった己と言う存在。
 それを救ってくれた彼女をマスターと呼び、慕っていたのは間違いない。
 ――まさかそれが恋慕になろうとは。
 そもそも踏めるはずのなかったそれを踏み抜いてしまった事実に、未だ実感が伴わない。
 彼女をこの手で抱いたことは、こんなにも鮮明に噛みしめられるのに。

 昨晩のことを彼女が覚えていたのは予想外だったが、果たして彼女は思い出しただろうか。
 つ、と鼻の傷跡をなぞる。
 本体ともいうべきカードへの口づけ。その後、どうも実態を持ってしまったらしい己に彼女が行ったのは、なんともいじらしい、傷へのそれだった。
 柔らかな唇の感触も焼きつくように肌に残っているような気さえする。
(単なる好意だけでは、応えたりなど)
 初めは触れることをこれ幸いにと押してくる彼女を何とか止めさせようとした。その己の理性を奪い取り、想いの自覚を促したのは彼女の声。

「……やっと、触れた」

 切なげなそれに、いつだったか触れればよかったのにと寂しそうに笑ったことを思い出した。
 それから、おもむろに服を脱ぎだした彼女に逃げ道もなく顔をそらせば、
「だめ。ちゃんと私のこと、見て」
 ぴったりと体を寄せ、潤んだ瞳で己を追い詰め、
 かと思えば
「……私、前からあなたのことが」
 好きだったのよ。と。蚊の鳴くような声。

 マスター、と困り果てた末に呼びかければ、名前で呼んでとせがまれて。
 そして彼女の望み通り名を紡げば、この上なく嬉しそうに笑む。手を引かれるまま彼女に触れ、そして――……あとは転げ落ちるように彼女へと傾いていた。
 自分の意志で彼女に触れ、ベッドへ横たえて。

 己にとって特別な存在である彼女が、己を特別視していること。それだけで幸せなはずだった。
 デュエリストでもないのに己を大切に扱ってくれ、一人暮らしで寂しいから話し相手になってと言って、気味悪がることもなく、傍に置いてくれている。

 己と彼女は異なる存在で、彼女が己をどれほどの想いで見ていても『触れない』ことが互いの立場をこれ以上ないまでに浮き彫りにし、強く縛り付けていることはよく分かっていた。だからこそ必要以上に彼女に気を持たせることはしてこなかったし、また出来るはずもなかった。
 けれどそれに甘え、彼女の想いに向き合わなかっただけだったこともまた、今でははっきりと理解できる。
 同時に、もはや彼女がただの主ではなくなったことも。

 ――最初の言葉は何にすべきか。

 遠く響く水音に耳を傾けながら、彼は音もなくカードに消えた。
 きっと直に彼女が己を呼ぶであろうその時を心待ちにしながら。

2011/08/21 : UP