Pandora's box

 彼との生活は、今までの単調さを一変することこそなかったけれど、どこか色のあるものになった気がするのは、私の心の変化のせいだろう。

 夜、帰宅して施錠を確認して、靴を脱ぐ。リビングで部屋着に着替えて、お風呂を沸かしながら化粧を落とす。マッサージも兼ねたそれを終えると、浴室に入って身体を洗い、湯船にじっくりと浸かるのだ。そして大きく息をつく。この時が一番幸せかも、なんて思ってしまうのも毎度のことだ。
 お風呂から上がって髪を乾かして、軽くストレッチを澄ませばあとは自由時間。帰宅時間によってはご飯を作って食べるし、夜あまりにも遅い時はそのままゴロゴロと過ごす。見たいテレビや雑誌に飽きると、時折彼を呼んでとりとめのないことや、愚痴を言ったりする。そして寝る前は必ずおやすみと言ってベッドへと潜り込むのだ。朝はおはようを言って、身支度と朝食をとると、行ってきますと言ってすぐに家を出る。これがだいたい一日のリズムで、彼が占める割合はとても少ない。

 基本的に口を開かない――彼が何か言いたいことがあるときは、不思議な、テレパシーのような方法を取るものだから、この言い方が適切かどうかはわからないけれど――ので静かだし、そもそも普段姿を見せること自体がない。
 呼べば出てきてくれるし、ほんのわずかに見える表情は柔らかいから、冷淡だとか、私との会話が嫌なわけではないようなのだけど。

 ほとんど私ばかり喋って、彼は専らの聞き役で。一度耐えかねて直接尋ねたことがある。貴方も何か言いたいことがあれば聞くよ、と。
 そうしたら彼は、こんな風に認識されるだけで十分幸福だと言ってのけた。
 その時はなんだか気恥ずかしくて、はぐらかされたのかと思ったけれど、今振り返ると恐らくそれは嘘ではなかったのだろう。
 とにかく、私はていのいい話し相手を手に入れたのだった。

 なんだか都合よく利用してるみたいで、ふと罪悪感に見舞われることもあるけれど、概ね彼との関係は良好だった。


 それでもやっぱり違ってくることもあって。
 友人の弟にそれとなくカードゲームのことを訊いてみたり、カードを触らせてもらったり。結局私が見えるのは彼だけで、なんとなく浮かれてみたり、でも仲間を見つけてあげられなくて少し申し訳なく思ったり。
 他にもカードを綺麗に保つためのスリーブを買ったりと、なんだかんだで彼のカードは大切に扱っている。
 なんだか秘密めいた彼と私の生活は、少しずつ日常の中に溶け込みながらも、私の心に絶え間ない喜びのような暖かなものを与えてくれていたように思う。

「でもねえ」
 人間とはかくも欲深いものか。とは思ってみるものの、実際、そんな風に感じているのはそう特別なものでは……いや、こんな特殊な環境があってこそのわがままなのだから、普通のそれよりはるかに性質は悪いのかもしれない。
 私と同じように座布団に座っている――ように見えるけれど、実体がない以上そう言い切っていいものか未だに悩む――彼は、私の唐突な声とため息に不思議そうな目を向けてきた。当然だ。
 休日の昼下がり。昼食のナポリタンを食べていた手を止めてフォークを置くと、かちゃんと小さく音が鳴った。
 見えるだけ、感じるだけで、この世界のものに触れたりできない彼には、食事だとか言った概念もなく。彼がやってきたことで部屋に戻るのが楽しみになったこと以外、私は本当に代わり映えのない一人暮らしを続けていた。

 つまり、作る食事も一人分。
 まさか『お供え』するわけにもいかず、私のフラストレーションはたまる一方だ。
 気にしなくていいと言われたものの、私は気が引けているのではなくて、彼ともっと何かを共有したいのだ。つまり、それが楽しいことでなくてもいい。会話をする以上の、とにかく、何か、なんだろう、何でもいい、今はとにかく彼のために食事を作ったり、彼にそれを食べてもらったりしたいけど。
「一回トンデモなことがあったんだから、後二、三回はあってもいいかなって話よ。気にしないで」
 そう言って苦笑すると、彼はますますもって分からないような雰囲気で首をかしげた。まあそれはそうだ。
 多分、私が感じているのはあと一歩、何かが足りないような、そうだ、物足りないんだ。
 じい、といつもは彼がすることを、今日は私がやってみる。
 綺麗な薄緑の瞳は今日も済んだ色をしていて、私は見つめ返してくる彼ににっこりとほほ笑んだ。

 この気持ちはなんだろう。まだ、知りたくはない。

2011/09/18 : UP