恋は苔むし、愛となりぬる
八、
「……あーあ、帰って来ちゃった」
「そう言うな。ほら、」
酷い船酔いの果てにとんぼ返りすることになった私に、万葉は苦笑して私の手を引いた。そんなことをしなくたって私は逃げないのに。
と、すぐ横を南十字船隊の船員さん達が荷下ろしで通っていく。勘違いに恥ずかしくなった。
モンドで万葉と飲んだ日、途中から記憶が曖昧だった。
けれど、私は彼と共に稲妻に帰ると約束したらしい。一滴も酒を入れなかった万葉が言うのだからそうなのだろう。渋々彼と共にモンドを発って、束の間の二人旅を楽しんだ。もちろん、海に出てしまえば私は船酔いをするため、楽しむどころではなかったけれど。
「少し野暮用がある故、拙者はここで。夜にお主の家を訪ねよう」
「え?」
「前にお主の兄君と話をしたのだ。その際、稲妻に戻ったときはうちに泊まれと言われてな」
なにそれ。聞いてない。
私がそういう間もなく、万葉はそれこそ風のようにその場を後にした。足取りに迷いはなく、確かにどこかに用事があるのだろうと思わせる。……まあ、もう指名手配もされていないし、彼の名誉は回復したと言っていいから、心配はしてないのだけど。
彼の背を見送って、私も家までの道のりを歩くことにした。
稲妻の城下町。その下に私の家はある。
あんなに威勢良く出て行ったのに、こんなにも早く帰ることになるなんて。ただのモンド旅行だったな。
けれど確かに収穫はあった。そう思い直し、家の戸を引く。
「ただいま」
そう言うと、まず真っ先に母が驚いた顔で玄関までやってきた。
「あらあら、もう帰ってきたの。思ったより早かったねえ」
「……万葉と、モンドでかち合って。飛び出してきたこと、怒られて、一緒に帰ってくることになったの」
「まあ」
少し拗ねた風な口ぶりになってしまった。
そんな私を見て、母は少し呆れたように眉尻を下げた。
「あんたは昔から万葉くんのこととなるとバカなんだから」
「うっ……」
返す言葉もなく、頭を下げて母の言葉を受け入れる。
「上がりなさいな。ご飯は食べたの?」
「……船酔いでそれどころじゃなくて。今は落ち着いたけど」
「船酔い? よく帰ってこようと思ったね。もう帰ってこないかと思ってたよ!」
笑い飛ばされて、ますます居心地が悪くなる。
ひとまず靴を脱いで座布団の上に座ると、お味噌汁とおにぎりが出てきた。遠慮なくおにぎりにかぶりつく。大きくて、綺麗な形で、のりが巻いてある。塩加減に母を感じた。
「船酔いがダメなら旅なんてできないよ」
「それもそうだけど、船酔いよりもあんたが飛びだしてく寸前に言ってた話よ。お見合いでも何でもするって。お父さん、ひっくり返ってたわよ」
「なにそれ。……約束を破るつもりはないから。必要なら言ってよ。一番家のためになる人と一緒になるからさ」
「まあ。急に変なこと言わないで。でも、あんたの話はお父さんとお兄ちゃんが帰ってきたらね」
優しい母の笑みに、肩の力が抜ける。母が出してくれたご飯を食べきると眠たくなってきて、
「食事の間に布団敷いといたからね」という母の言葉に全て甘えて、皆でごろ寝する部屋に一つだけ敷かれた、お日様の匂いのする布団に潜り込んだ。
うとうととして、起きたのは夕方だった。船の上ではろくに身体を休められなかったから、身体が休息を欲していた……と言うことにしておこう。
布団を整えて障子を開けると、兄と父も帰宅していた。
「おう、柊。よく帰ったな」
「おにい……ただいま」
「結婚がどうとか言って飛び出したかと思ったら、ついに万葉を射止めたか? ま、あいつに世話を掛けさせるのもほどほどにしておけよな」
あっけらかんとした兄の言葉にかちんとくるも、実際世話を焼かれてしまったのは事実で、言葉を飲み込む。というか、兄は色々と物言いが軽薄なのだ。結婚だって、俺に任せときゃいいんだよなんて大口を叩いて、今も好い人の一人だって居やしない。
「お前の操の立て方は悪くないんだけどなあ……。昔はやんちゃで手がつけられんかったが、万葉くんと会ってからころっと変わっちまって……。今回も結局万葉くんに連れ帰って貰ったんだろう? 彼以外にお前の手綱を握るなんてできないんだから、彼を諦める事を諦めろ。お前には無理だ」
「は? ちょっと父さん、それどういう意味、」
「どうもこうも、万葉以外と結婚なんてお前にゃ無理ってこった」
「おにいには聞いてない!」
どうも風向きが悪い。
そもそも、彼に想いを伝えることをこの先一生封じようと決めた矢先に、どうしてその気持ちを挫くことばかり言われなければならないのか。
「なんなの、みんなして……おにいなんか、私に万葉なんて勿体ないなんて言ってたくせに」
「ガキの頃の話を今すんなよな」
飄々とした口ぶりに、二の句が継げなくなる。兄はいつもそうだ。いつも私より高いところから見下ろして、私には見えない視点で、平然と遠慮のない言葉をぶつけてくる。それが正論なことが多いのがまた腹立たしい。
「そうだ、万葉が帰ってきたってことは今日ウチに来るんだろ? 丁度いいじゃねえか、この機会に話をまとめれば」
「本人の居ないところでまた勝手なこと言って……!」
「なんでだよ。嫁にもらってくれって言やあ済むことだろうが」
「迷惑でしょ! 理由もないし!」
「それを決めるのは万葉なんだから別によくねえか? あっちは別に返事するだけなんだし、こっちだって引きずらん。お前が万葉以外とどうにかなる話を口にした時点で、覚悟くらいできてんだろ?」
「っ、それは……、万葉はおにいと違ってデリカシーあるし」
「万葉はこう言う話を気遣いで答えるヤツじゃないだろ」
そのくらい私だって知っている。
「その辺にしておけ。どのみち万葉くん次第でどうとでも転ぶ話なんだ。それに、彼が断ってきたら……柊、結婚云々よりなにより、まず仕事の話が先だぞ」
父までやんわりと道を塞いで、私は立ち尽くす以外なくなった。
母が口を出さないと言うことは、母もそれで了承していると言うことだ。私の頑固なところは母によく似ているのだと言われ続けたし、譲りたくない部分だけは絶対に口に出す人だから。
……家族がそう決めたなら、後は野となれ山となれ、だ。
「……私、まだ身体が重いから寝ててもいい?」
嘘だ。なんなら調子はめちゃくちゃいい。でも、家族総出で背中を叩かれると、じゃあもう私抜きで話を進めてよ、という気持ちになる。
兄があんぐりを口を開けてこっちを見て、何事か言おうとしかけたのを、母が塞いだ。
「いいわよ。ゆっくり休みなさい」
優しく笑って言う母に頷いて、障子を閉める。短い廊下を挟んで息をついた。
これじゃあ、逃げてると言われても仕方がない。
九、
万葉が来たのだろう、にわかに家の中が人の声で賑やかになった。一番大きかったのは歓迎する声で、それが終われば、楽しげに弾む声がぼんやりと障子越しに滲む。
そういえば、仮病を使うのは初めてだ。
母に優しく窘められながらも、兄と一緒が良いと言って剣術の稽古をし始めた頃、手の肉刺が潰れたときだって泣きながら休みはしたものの、もう止めたいとは思わなかった。
家族はいつだって私がやりたいと思うことを応援してくれていた。なんて幸せで、恵まれた話だろう。
頭では分かっているのに、どうして私は上手くできないのだろう。
時流を読むこともできないし、視座が低いと言われるばかりで、背伸びをしたってできやしない。風流だって……いいなと思うものはあっても、詩歌を読んだりするのは苦手な方だ。
どんな言葉が自分に合うのかなんて全然分からない。
だからきっと、万葉に憧れ続けた。素敵な人。彼が私を見てくれたら、それはどんなに幸せなことだろうかって。
神の目が欲しいと、神に愛されたいと渇望する人と全く同じ。
そう、頭では分かっている。
勿論眠れるはずもなく、ただ見た目は取り繕おうと思って寝間着に着替える小細工までして、段々じっとしているのも飽きてくる。
きっと囲炉裏の側で、皆談笑しているはず。
そろりと抜け出して、勝手口から出て行けばバレないんじゃないだろうか。
……無理か。だって腐っても武士の家系だもの。気配には敏感だろうし、廊下が軋めば私だと分かるはず。用を足すだけだと言えば誤魔化せるだろうけれど……。
幼い頃、あんなに毎日万葉が恋しくて恋しくて、彼の笑顔が欲しくて駆けていったというのに。
布団を跳ね上げて飛び起きる。
じっとしているのは、本当に性に合っていない。やっぱりこっそり外に行こう。
どこかあてがあるわけでもないけれど、布団の中で横になっているより気分は良いはずだ。
それで、気持ちが落ち着いたら皆に交じって夕飯を食べればいい。
そう決めると、さっき脱いだ服にもう一度着替えた。布団を整えて、寝間着も畳んで、そうっと、そーっと障子を開ける。
廊下に出て、やっぱ慎重に障子を閉める。
抜き足、差し足、忍び足。
そろそろと廊下を歩いて勝手口の土間までたどり着くと、最後まで気を抜かないように戸を開けて外に出た。
ひゅう、と海風が吹く。
遠くまで行くつもりはなかったから、そのまま家の軒先で大きく伸びをした。
「ふぅ」
日はとっぷりと暮れて、星空が遠くで瞬いている。
波の音は遠く、静かだった。
とくとくと、自分の胸の鼓動を聞く。いつもより少し早い。緊張してるんだろう。
どうせ気遣いのない兄が、さっさと「あんなのでよければ嫁にもらってくれ」だなんて言ってるんだろう。万葉はもう返事をしたのかな。はぐらかしたり、煙に巻くような人ではないから、きっともう話はついてしまっただろう。
私はそれを家族の誰かの口から聞くことになるんだろうか。
――……それは……いや、だな。
どうせなら、万葉の口から直接聞きたい。
私はやっぱりどこまでも我儘で、強欲なんだ。
あんなに告白を止めると決めていたのに、彼から答えがもらえるなら、直接がいいだなんて。
「……万葉」
特別な気持ちを乗せてその名前を舌に乗せる。思ったよりも甘い響きに思えて、胸が痛んだ。
会いたい。やっぱり、顔が見たい。声が聞きたい。
恋しくなって、今からでも交ざりにいこうと深呼吸をした。
瞬間、
「呼んだか?」
「きゃっ?!」
思ったよりも近くで声がして、身体がぴょんと飛び跳ねていた。
「か、万葉っ?!」
「そうでござるよ」
振り返ると、盆を手にした万葉がにこにこと立っていた。
「い、いつの間に」
「拙者は玄関の方から回り込んできた故、気づかなかったのであろうな」
「……やっぱり、部屋を出たのバレちゃったか」
「そうだな、皆気づいておった。……母君がこれを食わせてやるようにと」
「……お粥?」
「おじやでござる。今宵は鍋を馳走になった」
万葉に気配を消されたら、私には分からない。流石に勝手口を開けられていたら気づいたけれど、彼の方が一枚上手だったみたいだ。
「外で食えってこと?」
「拙者はお主に届けるよう申しつかったのみ。仮にも具合が悪いと言ったのだから、大人しく部屋で寝ていない方が悪い」
「う、それは……」
「おおかた、柄にもない仮病など使ったせいで、余計にじっとしていられなくなったのだろう」
「……万葉は、私のことよく分かるんだね」
言うと、万葉は黙った。それでも微笑んだまま、穏やかなのは変わらない。
彼は盆を軒先の長椅子の真ん中に置くと、その横に座った。私もそれに倣う。盆を挟んで並んで座ると、昔、こうして一緒におにぎりを食べたのを思い出した。
万葉も、剣を振る私を否定したことはなかったな。
「……拙者はそうは思わんよ」
ぽつりと、万葉が呟いた。それが私の言葉に対する返答なのだと気づいたのは、万葉が続けた言葉のおかげだった。
「拙者は、お主がどんな気持ちを抱えてきたのか、なにも知らぬ。……知らなかった、と言った方が正しいな」
「え……」
「拙者がここを発った後、お主がどれほど拙者を心配したか、拙者を想ってくれていたのか……拙者の胸に納まらぬほど聞かされたのでござるよ」
「あっ、もしかしておにいが……?!」
「はは、兄君だけではござらん」
くすくすと楽しそうに万葉が笑う。そりゃ、万葉だって私がどれほど彼を慕っていたのかはもう知っているだろう。あれだけ名前を呼んでつきまとっていたら嫌でも分かる。
誰がどんな風に、何を言ったのだろう。
そう考えて頬が赤くなる私を、万葉の目が柔らかく見守っているのに気づく。
「な、なに」
「いや……柊のように気性の真っ直ぐな女子に、こうも長い間真剣に思われていたと思うと、面映ゆい気持ちになった」
ドッ。
心臓の音が一際強く鳴り、まるで内側から力一杯殴られているのかと思う。
「……そ、それで? そんな話、今更聞いたって……仕方ないでしょ。万葉だって、旅を楽しんでいるんだし、私も心配なんかしなくたって大丈夫だって、もう分かったんだし」
ああ、もう。言ってること、めちゃくちゃになってない?
とにかく沈黙だけは避けたくて、思いついた言葉を並べて行く。
けれど、万葉は誤魔化されてはくれなかった。
「拙者は、お主の口から聞きたいと思ったでござるよ。何を言うのも、決めるのも」
「……そ、それって……」
結婚がどうの、という、あれ、だろうか。
聞きたいけど言葉が出てこず、万葉も微笑んではいるものの、助け船を出してくれる様子はない。
私は自分の両膝をしばらくじっと見つめて、それから、
「……か、万葉が今も好きなの。笑っちゃうよね。家族も呆れててさ、もう万葉がもらってくれなきゃ結婚なんか夢のまた夢だなんて言われちゃうくらいで、今日だって、おにいが……」
ちがう。
きっと万葉は、そういうことが聞きたいんじゃない。
「……あの日、海祇島で万葉と再会したとき……私、なんにも分かってなかったんだって、分かっちゃったの。家族を失って、家も、名誉も奪われて、指名手配までされて……どんなに苦しかっただろう。悔しくて、辛かっただろうって。
でも、実際に会った万葉は、とっくにその先を考えてて……私、あんなに万葉のことばかり追いかけていたのに、一体何を見てたんだろうって」
泣きたくないのに涙が出てきて、言葉を切る。
口に出すと余計に声が震えてしまって、その先を言いたいのに、喉が詰まって、肝心の言葉が内にこもる。
こぼれ落ちそうだった涙を掬ったのは、万葉の指先だった。
「……え、」
「お主は覚えてなかったが、モンドで共に話をした時……拙者は、拙者を想うことでお主が苦しんでいるのが看過できぬと言ったつもりであった」
はっとして顔を上げる。万葉は穏やかな顔で、じっと私を見つめ返した。
紅葉の如き瞳が、今は夜に沈んで、暗い。
「あまり強い言葉は好まぬが……拙者を自責の念に『使う』のは、もう止めるのがよかろう。お主の理解は正しい。拙者には、今の暮らしが身の丈にも、性分にも合っているようだ。情けない話かも知れないが、ほっとしているくらいでござるよ。そして、そんな自分のことを受け入れている。それだけなのでござる」
「……ほんとう?」
「ああ。嘘は言わぬよ。……ああ、しかしモンドで『共に帰ると約束した』のは方便であったか。これは失敬」
「……え?!」
いきなり爆弾を投下されて、一気にしんみりとした気持ちが引っ込む。
……あの万葉が?! 嘘を?!
目を白黒させていると、珍しく、悪戯が成功したかのような顔で万葉が吹きだした。
「家族でよく話をした方がいいと思ったのだ。……拙者もお主も、だが」
「え……」
「拙者は流浪の浪人。先のことを何も約束出来ぬ身で、武家の大切な珠玉を拐かすというのは……あってはならぬと、そう思っておった」
「……?!」
ひゅ、と喉が鳴る。
「しかし、拙者が思うよりもずっとお主に想われていたと知って……考えを改めたのでござる。お主さえよければ、拙者の胸の、最も重い石になってくれまいか」
「い、石に……?」
「そうだ。故郷を、家を想うとき、拙者は楓原家の庭をよく思い出す。そこに、柊。お主がいて欲しい。
お主に「おかえり」と迎えてもらうことを夢想すると……得も言われぬ、満たされた心地になる」
万葉の言葉はピンとくるものではなかったけれど、彼が何を言いたいのかはどうしてだか真っ直ぐに伝わってきて、頬が、耳が熱くなる。
「い、いいの?」
「勿論でござる。ただ……」
「?」
万葉が言い淀んで、胸がざわついた。どんな懸念があるのだろうと固唾をのんで言葉の先を待っていると、ふと万葉がふわっと風を纏って立ち上がり、一瞬で家の壁に手をつき、片膝を長椅子に乗り上げた。
顔が、近い。
「……こういうこともする関係になるということを、お主は分かって言っているのか……と。それだけは未だに計りかねている故、そちらから応えてくれると、非常に助かるのだが」
「?!」
前髪が、鼻先が触れている。すり、と鼻先を擦り付けられて、今にも口と口が触れ合いそうだ。
『こういうこと』? って、『ソウイウこと』ってこと……?!
「っ……な、え、あ、」
「どうだ? お主は拙者と『そうなる』つもりがあるのか、ないのか」
じり、と万葉の目が細められ、近づく。目が近づくってことは、他の場所も近づくわけで。
もう触れている気さえする唇を、混乱する頭でちょんと突き出せば、柔らかなものが触れる。
そして、私の唇は彼のものになったのだった。
十、
「柊、万葉、お前らいい加減戻ってこい。親父もお袋もそわそわして、ぼちぼち俺も止められねえ」
「きゃうっ」
万葉と唇を重ね合わせて、夢か現か分からなくなっていた私に、兄の叱責と勝手口が豪快に開く音が届いたのは同時だった。
抱きしめられていたわけではないものの、似たような体勢で口づけをして、彼が離れた矢先のことだった。……もしかして、兄の気配に気づいて離れた?
「はは、まだ柊はおじやを食べられてないのだが」
「ったく、なにちんたらしてんだよ」
兄が顔を真っ赤にしている私を一瞥し、むすっと口元を引き結ぶ。
「わっ、私母さんにおかわりもらいに行くっ」
私は誤魔化すようにおじやをかき込むと、そそくさとその場を後にした。
「折角いい雰囲気でござったのに」
「……万葉、お前な」
「拙者の嫁にと、水を向けたのはお主が先でござるよ。義兄上」
「まだ嫁にはやってねえし、お前の兄でもねえよ! あとその日に手ぇ出すやつがあるかっ、この馬鹿たれ!」
……兄の声がこっちにまで響いてくる。
万葉曰く、『拐かす』というのはあながち間違いではなかったらしい。
土間にこそこそと忍び込むと、母が目を丸くしてこちらを見ていた。
うん。私に聞こえるということは、母にも聞こえると言うことで。
なんなら父にだって聞こえているだろう。
「……母さん、おかわり、ある?」
「あらあら、そんな顔で。お父さん、やっぱり嫁の話は無しにするか、なんて言い出さないかしら?」
「楽しまないで」
「うふふ。娘の慶事を喜ばない母なんて居ないわ?」
どういう話をしたのか、その話はどう決着をつけたのか。
私の顔を見るだけで分かってしまうなんて、だったら、今私はどんな顔をしているのだろう。悲嘆に暮れてないだけで、顔が赤いだけで、そんなに伝わってしまうものなのだろうか。
「おかわりはないけど、おにぎりはあるわよ。食べる?」
「……うん」
下がったまなじりのまま出された塩握りは、やっぱり変わらない味がした。
「万葉くん、柊をよろしく頼む」
「謹んでもらい受けたく候」
父と万葉が対面でそうかしこまって、胡座でお辞儀なんかするものだから、なんだかそわそわして仕方がない。
「……昔から跳ねっ返りのじゃじゃ馬娘だが、本当に、すまん。頼んだぞ」
「ちょっと、父さんってば」
「今まで数々の不義理を働いた身でありながら、親御殿に頭まで下げられるなど、恐悦至極にござる」
「いや、正直なところ万葉くん以外の男では荷が重いんだ……尻に敷く程度で済めば御の字で、婚家からもある日飛び出していきやしないかと」
「父さん!」
「ははは」
「万葉まで……!」
「諦めろ柊。俺の親父だぞ」
とどめに兄の言葉を受け、私はぐぬぬ、と口を曲げた。
「その点、万葉くんなら安心だ。柊が飛び出していくのは万葉くんのところに決まっているからなあ」
ふわふわした父の言葉に、眉が寄る。
「……ねえ、父さん酔ってるの?」
「こんな話、酔ってなきゃできねえだろ」
「いいのよ、お父さんは酔っても記憶が残るタイプだから」
兄と母からの返事に、余計に嫌じゃない? と疑問が浮かぶも、母はそそくさと寝床を整えてくると奥へ引っ込んでしまった。お酒はもう出さないらしい。
兄も話は終わったと、銭湯へ行ってくると言いだして出て行ってしまう。
「……なんかいたたまれないのって、私だけ?」
ぽつりと呟いた言葉には、もう誰も反応してくれなかった。
十一、
結局あの後は客間で万葉だけ寝るのかと思ったらしれっと母が私の布団まで客間に敷き直していて一悶着あったものの、――母だけは最後までこっそりと「もう親が認めたんだから、夜中いつでも万葉くんの布団に入りに行っていいのよ」なんて食い下がっていたけど、当然そんなことができるはずもない――すやすやと自分の布団で朝まで眠った。
家族や当人がいくら嫁だなんだと言ったって、実際に式を挙げるかと言われるとそれはまた別の話で。
準備は進めておくと言われたものの、楓原家の人間は万葉しかいないのにと疑問を浮かべると、一つ心当たりが浮かんだ。
「もしかして野暮用って、」
「モンドで、酔ったお主から本音はもらっていたからな。昼のうちに義父上と必要なことは済ませておいたのだ。婚姻に関する手続きも、社奉行の管轄であっただろう?」
にこ、と変わらぬ笑顔で返してくる万葉に、また知らない彼の側面を見つけてパクパクと口を開ける。社奉行は別に身内贔屓な組織ではないけれど、他の奉行と比べれば人と人との繋がりを感じる、暖かい空気はある。
それでもだ。
こんな……こんなに段取りのいい人だったっけ?
「偶然にも神里家当主殿が直接預かってくれたというわけだ。ふふ、『家はなくとも楓原家を引き留められるのは強い手札である』と。そういうわけでござる」
「ど、どういうわけなの……」
神里家のご当主と言えば綾人さんだ。若いうちから家を継ぐことになり、私みたいな立場でもきっと多くの苦労をしただろうと――……いや、私はこれで万葉のことを見誤ったのだから、推し量るのは止めておこう。
とにかく。
そんなえらい人が直接預かるなんて、絶対に偶然ではないと思うのだけど。
まあ、万葉がこれ以上言わないというのなら、それでもいいか。
「さあさあ、いつまでも呆けてないで。万葉くんは今璃月の南十字という大きな船にお世話になっているそうじゃない。柊がついて行くにせよ、行かないにせよ、稲妻にいるうちに、一緒に挨拶回りくらいしてきたら?」
「それはよい案だ。では、柊。今日は当てもなく共に歩いて、周知に努めるとしよう」
「え、え」
家の中でのんびり過ごすつもりは、確かになかったけれど。
昨日の夜から展開が急転直下過ぎてついて行けてない。
「さあ」
けれど、私の前で立ち止まって手を差し出してくれる万葉を見ると、反射のように手を出してしまう。
優しく手を包まれ、引かれる。指が絡まって、万葉の目が優しく細められた。
あの頃良くしたような手つなぎを、あの頃とは違う関係でなぞっている。
それがなんだかくすぐったくて、誤魔化すように彼の手を握り返した。
fin.
2025/12/31 UP
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