書淫
黒撰高校には二人の著名人がいる。尤も、それは黒撰高校内に於いてのみの知名度なのではあるが。
一人は村中魁という黒撰高校の野球部主将、三年の男子。
一人は如月皐という一年の女子である。
かたや校内でその嗜好を知らないものは居ないと言い切れるほど古典や和を愛する者(ちなみに野球でも他校にその名を馳せている)。かたや言葉という言葉を愛して止まない本の虫。
一見書物を通してなんぞ接点の在りそうな二人だがしかし。
この二人の邂逅は未だない。
何故、と問われたのならば、それは後者の少女にある。
「は?村中魁?誰それ?」
村中魁と言う男は容姿端麗で実直故に、男女から信頼の置ける――特に女子は信頼以上なのだが――人間である。
しかし少女に出来た新たな友人が魁について延々と語る度に、少女は上の一言で終わってしまうのである。
勿論それは最初の五回ほどの話で、少女は直ぐに何も知らない人間の名前を覚え、且つ友人というワンクッションを置くことにより、知りもしない魁の人間性などと言ったものを確実に偏見と明言出来るものによって無駄に精通していくのであった。
この少女は、自分の肝心が向かないものに対しては余りにも淡泊だった。勿論彼女は自らも本の虫という別称なのだか愛称なのだかよく分からない通称があることは知らない。
しかし幸か不幸か、偏見で凝り固まってしまった皐が同じクラスとしてたまたま一緒になった村中由太郎という魁の弟により、少しばかり、空間を共にすることになった。
それは昼休み。由太郎が珍しく皐に何か面白い読み物はないか、と尋ねてきたことから始まる。
皐は最近読んだ本で興味を惹かれた本を幾つか挙げてみたが、中身がミステリー小説だとかエッセイだとかであると分かるや否や、退屈そうな悲鳴を上げた。皐は至って普通に
「つーか、由太郎に本って……猫に小判、豚に真珠くらい相性に意味がない」
とフォローにもならない言葉を贈った。若干言葉遣いがおかしいのだが、それを指摘出来るほどの由太郎ではなかった。
仕方なく皐は図書室にある高校生に人気のある本をまとめた一角の所へ、由太郎を連れて行った。
その図書室で、偶然古典の本を借りようとしていた魁と出会うのである。
「あ、にいちゃん!」
声を挙げた由太郎に、皐もつられてそれを見る。そこには高校生というにはいささか強面の――と言ってそれは恐らく彼の内面を象徴している、厳しさから来るものだ――魁の顔を見た。
「これ由太郎、図書室で声を張り上げるな」
「ご、ごめん」
早速の兄の窘めに、由太郎は声を小さくして謝った。場所は由太郎にとって不慣れな図書室。しかも騒音は御法度であるから、普段来ない彼にとっては少々息苦しかったのかも知れない。それが皐によって幾分が解れていたのだろう。由太郎は直ぐに反省の色を見せた。
「次から気をつければ良いんだよ、ついつい声が大きくなることだってあるわけだし」
「ありがと皐」
由太郎の反省の顔を見かねた皐が、苦笑気味に言い添えて由太郎は少し胸をなで下ろした。
魁は皐を見下ろして、
「お主が噂に名高い如月殿か。由太郎から諸々のことは伺っている」
「はぁ……え、由太郎変な事言ってない?」
「言うわけ無いだろ。皐が本の虫で有名なことくらい。あとなんか皐がやらかした面白いボケとか」
「ばっ、何言ってんだ」
「いいじゃん」
「ポカミスってのは本人のみが笑い話にしてやっとそこで話題性としての価値が生まれるんだよ」
いらん事は言うなよ、と釘を刺して、皐は魁に向き直って礼をした。
「初めまして、村中先輩。如月皐です」
「これは……失礼した、拙者は村中魁と申す者。……こちらが先に名乗れば良かったろうか」
「かまいませんよ、て言うか先輩も私達まだ高校生なんですし堅苦しすぎですよ」
学校という社会ではどうしても年功序列になりがちな力関係も、皐には関係なかった。それでも一応目立ったことはしたくない皐としては、その力関係に従うつもりでいた。だから、年上なのだから魁は年下に対してもっと敬語を抜いていても良いのではと言いたかった。
が、魁は皐とは違う意味で年功序列等という言葉とは関係の薄い人間だった。
「失礼……しかし拙者はこれが地なのでな。それに如月殿には誠、敬意を払わねば」
「……は、い?」
思わずは、と言ってしまいそうなところを、慌てていを付け加えることで先輩に対する丁寧な姿勢を見せようとした皐だったが、魁相手にそれは余り意味を持たなかった。
「聞けば此処にある書物……特に文学を読んでいると」
「ああ……まぁ、最近のは自分で買うんで……。ただ古い本とか、高い本は学校の図書室か図書館に行かないと読めないんで、読んでるだけですよ」
本人は何でもないことのように言うが、問題はその読破速度である。今現在皐は黒撰に入学して精々一、二ヶ月である。にも拘わらず、既に魁の言うように、主に高価な本、例えば有名な著者が書いたぶ厚いシリーズものであるとか、有名な作品ではあるが今や子どもにも分かるよう書き改められた物語の原文など。図書室の本棚二段分ほど読み切っているのだから。これで別途自分で購入する本もあるのだからまさに圧巻である。しかもそれでいて成績は悪くない。寧ろ成績優秀者に匹敵するほどなのだから、何か納得いかない。このなんとなく漂う理不尽さとも呼べる不思議を伴って、一、二ヶ月という少ない月日で、皐はその名を校内に知らしめていた。ちなみにこの間行われた定期テストでも、皐の成績は良かったと由太郎は記憶している。
由太郎はそう言ったことも含め魁に話してあるので、魁としては少し興味を惹かれる人物でもあった。肝心の渦中の人、皐が一番無関心だが。
「正にこの黒撰が誇る御人だ」
「先輩が言うほどの人間じゃないですよ。単に現実逃避が好きだと言えば、その程度で」
肩を竦めた皐に、魁はそれでもその御歳で良くそこまで読むものだ、とそう言った。別にそんな敢えて口に出すほどのことはしてません、と皐は頑なに言う。そして
「あ、由太郎、本見繕うからこっち。先輩、失礼しますね」
耐えかねたのか、そう言って、僅かに頷き図書室を出る魁も見ずに由太郎を引きずって歩いた。
「皐ー?なんかいらいらしてねえ?」
「別に、なんとなくあの人が癪に障っただけ」
「しゃくに?なんで?」
「私は捻くれているから、ああいう褒め言葉は素直には受け取れないんだよ」
皐は言うと、これなんかどう、と由太郎に聞く。由太郎は首を横に振って、結局その日、由太郎が本を借りることはなかった。皐に言わせれば、由太郎が本を読むってのは百歩譲って良いけど、期日までに借りた本を返せるかどうかの保障はないと言ったところで、余り気にしなかった。
ちなみにその後、皐に再び魁トークをし出した友人に魁と少し話した旨を告げると、友人は酷く興奮した様子で皐に素敵でしょうと話し掛けた。
「別に……なんか話に聞くより面白味に欠けるって言うか……あの人がやってるというか、信念みたいなものは趣があるかも知れないけど、あの人自身にそう言うユーモアみたいなのは感じなかったかな。私自分よりも真面目で堅苦しい人間って苦手なんだよね」
答えた直後、皐が友人にボディブローを受けているのを、教室に居たクラスメイトは確認している。
さて、そんな皐がふと、由太郎に一つ頼みたいことがあると持ちかけてきたのは、それから暫く経った後。
快く何かと尋ねる由太郎に、皐は由太郎じゃなくて先輩になんだけどと前置きをして
「あのさ、確かあの人古典に詳しかったよね?」
「ああ、にいちゃんは古典大好きだからな!」
にこりと笑った由太郎に、
「したら尚のこと頼まれてよ。あのさ、古典で『古今和歌集仮名序』ってのがあるんだけど。あれの現代語訳、お兄さん持ってないか聞いてきて」
皐はそう言って。由太郎は少し考えてから
「……皐、それ直接にいちゃんに聞けばいいじゃん。それにこきん……何とかって、おれ覚えらんねえ」
「……えー」
思わず顔をくしゃりと歪めた皐に、由太郎はなんだ、にいちゃんのこと嫌なのか、と皐に問う。嫌って言うかあんま取っつきにくいって言うか、と皐が言葉を濁すと、由太郎はまた皐の顔を見て何かを考えるように間を置いた。
「?由太郎?」
「……多分そう思うのは皐がにいちゃんのことあんまり知らないからだなっ!皐、今日野球部に顔だしなよ」
「え……今日は読み切りたい本が」
「皐なら直ぐ読めるって。な、絶対な」
由太郎に迫られ、皐は流されるようにして頷く。どんな形であれ自分の意志でした約束を反故に出来ない皐もなかなかに義理堅いというか、真面目な性格である。結局その日皐は由太郎に連れられて歩くことになった。
放課後、由太郎は担任の連絡事項を聞き終え短いHRを終えた後、即行で皐を引き連れ階段を駆け上がった。
「ちょ、由太郎、どこに……野球は外でやるんじゃ」
「にいちゃんとこ!頼み事なら今のが言いやすいだろうしさ!」
「お前にしたら出来た気遣いだけど……ッ、私の体力は人並みなんだよ!」
「だいじょぶだって!」
「なんでお前がそれを言う!」
的確な突っ込みも虚しく、皐は魁の居る教室まで全力疾走する羽目になった。着いた頃には酸欠で頭が少し痛む。
由太郎はそれに構わず兄の名を呼んで、教室から顔を出した魁は皐を見た。
「如何された?」
答えたくも、今の皐にはそんな余裕がない。心臓が痛く、気管が勢いよく移動する空気に触れて気持ち悪い。加えて今は梅雨時で、じっとりとした空気に大量の汗が滲み出た。
「……由太郎、まったく、如月殿は婦女子なのだ、気を遣え」
「ご、ごめん」
兄に小突かれ、そこでやっと由太郎は皐に謝った。皐はもういいと言おうとして言えずに、辛うじて手を軽く振ることでそれに答えた。
「大丈夫か?」
「は、……はい……」
少し楽になったのか、皐はやっと顔を上げた。魁はハンカチを差し出したが、皐はそれを丁寧に断って自分が持ってきていたタオルで汗を拭いた。
「すいません……。えっと、先輩に頼み事があるんですけどお願い出来ますか?」
「気兼ねなど必要ない。拙者に出来ることならやらせて頂こう」
兄弟揃って快い返事が返ってくるものだと皐は思いながら、由太郎に言ったことと同じ内容を魁に告げた。
「あの、本当に冒頭の部分だけで良いんです」
「ふむ……それなら、拙者で良ければ訳せるが?」
「え、本当ですか」
皐は驚いたように目を見張った。魁は以前に読んだことがあるものだから大丈夫だと少し笑う。
「今日は日が悪いが、明日にでも」
「有り難う御座います……。すいません、お手数をお掛けしてしまって」
「遠慮しなくても良い。わざわざ拙者に申し出てくれたのだ」
言うと、魁は柔らかく微笑んだ。思いがけない顔に、皐は失礼ながら目を擦ってしまったが。
「にいちゃん、今日は皐部活見てくって!」
「ほう……しかし、硬球は当たれば相応に痛むぞ」
「あ、ご心配なく。適当に離れたところで見てるんで」
「えー!皐近くで見てけよー」
「あ、はあ……ていうか良いんですか。本当に見るだけですよ、マネージャーとかなる気とか更々無いし野球自体もそんな好きってわけじゃないんですよ」
露骨な皐の言い方に、魁は少し目を見開いてから、また、笑う。
「如月殿は面白い御人だな」
直後皐はどこがですかと即問い返したが、答えらしい答えは返ってこず。
「時に……何故敢えて拙者に件のことを?先生方でも良かったのではないかと思うのだが」
逆に話を打ち切られ、そう尋ねられて皐は一瞬言葉が浮かんでこなかった。
「……なんか先輩の方がより分かりやすい言葉で訳してある文章を知ってる気がして……」
なんかそんな感じ、と曖昧に言う皐に、魁は特に気を害した様子もなく。
「それは……誠に光栄だ。名誉ある命を受けて拙者は実に誇れる気持ちだ」
挙げ句そんなことまで言うものだから。
「は、ちょ、そんな大それたことじゃ……」
思わず顔を赤くしてしまった皐に、魁はにこり、と笑った。
謀られた!?と皐は更に恥ずかしくなり顔を赤らめる。
「皐ー?どうした?」
「や、なんでも、ないっ」
必死に言う皐に、珍しいものを見たという気持ちがありありと顔に浮かんでいる由太郎は、若干首を傾げ。
それから部活へ行くぞと言う兄の言葉につられ歩き出した。魁はちら、と皐に目をやり、それを受けて皐も足を動かす。
珍しくペースを崩された気恥ずかしさととんだ曲者の登場に、赤らめた頬は熱を帯びる身体で逆に火照りを増し。
とくとくと、いつもよりも大きく打ち響く心臓が心地良いと、皐は初めて感じた。
2006/01/31 : UP