書痴
「皐ってさ、にいちゃんのことすきだろ?」
切っ掛けは、その一言。
一瞬皐は目の前でにこにこと笑う由太郎に何を言われたのか理解出来なかった。
何か胸がざわついた気がしたが、それを押さえつけて意図的に更に間を置いて。それからたっぷりと五秒ほど掛けて沈黙を貫いた後に、は、と盛大に大きな声で、力一杯吐き捨てた。
由太郎は馬鹿にしたような皐の態度には一切目を留めずに、この前野球部来たからだなっ、と笑う。
皐は黙ったまま、なんで激烈鈍そうなこいつがそんなことだけ分かるってんだって言うか手前ェ教室ン中でそんなでっけぇ声出してんな事言うなこの馬鹿野郎おおお!!と思っていた。
あれからたったの一週間ほどしか経っていたいのだから、皐がそう思うのも無理はない。寧ろ皐自身はそう言った感情に戸惑いつつ、余り肯定したくなかったのだから、余計に。
恋をしている、と皐自身が認識したのはつい五日ほど前のことである。即座に切り捨てようとしたものの、なんとなく捨てがたく心の中に燻っていた感情。
それを由太郎という第三者に突き付けられ、皐は取り敢えずと由太郎の口を塞いで。
「……何でバレた」
と、低くゆっくりとした声で尋ねた。大きい声で喋んなよ!と一つ釘を刺して、由太郎の口から手を外す。
由太郎は簡潔に、あれからにいちゃんの話になると、皐前みたいに怖い顔しなくなったから、と言う。
皐はそれを聞いて、はた、と動きを止めた。それからなんだそっちかと、疲れたように息を吐いた。皐の友人に皐の気持ちがばれてしまえばどうなることやら分かったものではない。由太郎でさえ皐の変化に気付くのだから、誰にばれていてもおかしくはない。少なくとも、魁に好意か興味を抱いている位までは。
確かに皐は友人が息巻いて魁のことを話す時、前よりもきちんと話を聞くようになっていた。が、それは友人が何度も話すその熱の入れ様を上手く手懐けることが出来るようになったから、とも解釈出来る範囲だった。
兎に角、自分で肯定出来ない感情が他人にバレてたまるかと、皐はこの時自分に誓ったのである。
蝉の鳴く声が五月蝿い時期だった。
皐はその日、自宅から大分離れたところにある図書館で涼みながら本を読んでいたが、友人から来たメールを見ると無言でそこを後にした。
――黒撰の夏が終わった。
応援に行っていた友人は野球部の面々が泣くのを見たという。試合自体は2日ほど前にあったそうだ。
皐は駅まで歩き、切符を買って電車に乗り込んだ。
少しばかり汗ばんだ身体に冷房があたり、少しだけ息を吐く。皐の頭に、普段笑顔の由太郎の顔が過ぎる。
アイツでも、泣くことがあるのか。
失礼ながら電車の中で友人へ返事のメールを打ちながら、皐は、今でも泣いているのかな、と、ふと思った。
しかしそれは直ぐに振り切られる。
あのはつらつとした少年のことだ。兄や今の三年生と共に甲子園に行けなかったことは悔いとして残っても、直ぐに来年こそ、と目標を掲げ励んでいるのだろう。
メールを打ち終わるとほぼ同時に、目的の駅に着き、皐はそこで降りた。友人へのメールを送信して、顔を上げる。それから曖昧な記憶を手繰り、少し迷いながらも歩き出した。
蝉が良く鳴いていた。
「こんにちは」
住宅街の一角に、大きな和風作りの家がある。有名な村中選手の家だ。皐はそこのインターホンを押して、名と身分を告げた。
直ぐに家の中から女性が顔を出した。由太郎と少し似ている、綺麗な女性だった。母だろう。
由太郎の母は快く皐を迎えた。皐は断りを入れて、今は庭で素振りをしているという由太郎の元に直接足を向けた。行かなくとも、既に素振りの音は聞こえている。
皐はひょっこりと縁側に顔を出した。真っ先に気付いたのは、縁側で冷たい緑茶の隣に腰掛けていた、魁。
「こんにちは」
皐が会釈をすると、魁は少し驚いたように目を見開いて、それから直ぐに挨拶を返した。
「あれ、皐だ」
「おお、私だ」
兄の変化に気付いて、由太郎は直ぐに皐に気付いた。皐は練習続けてても良いよと言った。一言断りを入れてから、からんと音を立てた緑茶を挟んで魁の隣に腰掛ける。
「凹んでまだ泣いてるなら、慰めてあげようと思ったのに」
ふふ、と皐は笑う。魁は、何処でそれを、と尋ねた。
友達からメールが来たんですよ、今日。それも図書館で本読んでる時に。皐は答えた。
「みんな泣いてたって書いてありましたよ」
僅か口元に微笑みを携えて、皐が言う。魁は、皆それだけ想いがあったのだと答えた。
皐は素振りを続ける由太郎を見ながら、随分と彼は逞しかったのだと言うことに気付いた。普段の彼からはあまり感じられないだけで、短い袖から出た腕も、同じく丈の余りないズボンから伸びた足も、その辺の男子よりもしっかりしていた。
「こう言う時、掛ける言葉なんて見つからないんで、言わないですよ」
皐はそう言うと、
「泣けるほど夢中になれるものがあるというのは、良いことですね」
と、そう続けた。
皐の言葉に魁はまた、やはり如月殿は面白い御人だ、と僅かに笑う。
「常套句という便利なものがあろう?」
「それは今回私の心からの気持ちと合わなかったので、除外です。納得出来ない時は、使いたくもなりません」
まして、こう言う時なら。
皐は言って、彼らの母が皐に出した冷えた緑茶とお茶菓子を遠慮無く頬張る。
生き返るようだ、と皐は満足そうに言って、魁の笑いを誘った。
「あ、皐何食ってんだ?」
「茶菓子。めちゃ上手いなこれ。……あ!これ『たらふくや』の茶だんごじゃん!あそこ茶菓子高くない?由太郎の家リッチだなー」
あそこの老舗は確か京都の宇治だったよな、と変に詳しい皐に、魁は茶菓子が好きなのかと尋ねた。皐は夏場はケーキよりも和菓子だと主張した。
「私此処の茶だんご一度食べてみたかったんですよ!うわ、今日来て良かったな」
悦に入る皐に、由太郎は一口くれ!と頼む。いつも食べてるだろ、と皐は言ったが、まぁ頑張っているのだしと一つあげることにした。
が、それは魁に因って阻まれた。
「これ、直接口を付けるな」
焦ったような魁の声に、改めて皐は古風というか時代錯誤も甚だしい人だと思うが、僅かに赤に染まる頬を見て可愛い人だなあとも思った。
「別に私は気にしてないから良いですけど?由太郎も気にしないだろ?」
「へ、何が?」
「ほら」
意味が全く分かっていない由太郎に、魁は少し言葉に詰まって、手間もかかるんで、と早々に由太郎に団子を食わせる皐を見て、一つ溜息をついた。
「如月殿は変わった御人だ」
「そうですか?……仲良くなると男女でも気になりませんよ」
少なくとも私はね、と皐は言った。
そう言うものだろうか、と魁は言う。
「……なんなら先輩もどうですか。由太郎の後ですけど」
「遠慮しておく」
即答する魁に、皐はそうですか、と最後の一つを食べた。
二人についていけないのは由太郎で、始終首を傾げていたものの。
「兄ちゃんも皐も仲良くなったな!」
と、笑顔でそう括った。普通だろ、と皐は即答したが。
「そういや、何で皐は今日うちに来たんだ?」
素振りに集中して聞こえていなかったのだろう。皐は一つ大きく呆れたような声を出して
「貸してた本を返して貰おうと思って。由太郎終業式の時忘れるんだもん」
「ああ、そっか!ごめん」
「いーよ。読めた?」
「うん!面白かったぜ」
「そりゃ良かった」
今から持ってくるな、と縁側からどたどたと家の奥へ消える由太郎を見送って、皐は元気だなあと緑茶を啜った。
「如月殿」
「はい?」
不意に呼ばれて、皐は魁を見た。魁は少し居づらそうに口ごもったが、皐の顔を見て
「前々から気になっていたことがあったのだが……」
「なんでしょう」
「如月殿は何故友人殿以外は名で呼ばれぬのか」
「……はあ」
皐は幾分か真剣な表情で尋ねてくる魁に、曖昧すると怒りそうだな、と思った。
「どうしても言わなくちゃいけませんか」
「強制するつもりは毛頭無いのだが……」
「……。やっぱり名前を呼ばないのは失礼ですか」
「?」
訝る魁を見て、皐はあれ、そうじゃなく?と一人で首を傾げた。
「なんのことだ?」
「や、名前で呼ばないから失礼であろう、とかって説教喰らうのかと思いまして」
はははと適当に笑う皐を、魁は真面目な顔をして否定した。皐はそれを受けて笑うのを止め、
「別に、そんなに親しいわけじゃないんだし」
と、息をついた。
「クラスメートなら名前で呼ばないと分からないけど、学年越えたらそんな知り合いが居るって言うわけでもないんで、名前使わなくても分かるじゃないですか。私も分かる時しか呼びませんけど。先生達も同じ理由です。名前は一応把握してますけどね」
「では、由太郎は……」
「ああ、あの子は気兼ねしなくて良さそうだったから、喋り始めた頃から名前で良いと。苗字でさん付けなんて慣れなかったんでしょうね。なんて言うか、不似合いだったから別に要らないと言いました」
本気で似合わなかったなーと皐はそこで少し笑みを見せた。
「それに……別に名前で呼ばなくても仲の良い奴は居ますよ」
皐はそう締め括って、これが答えです、と魁を見た。
魁はそうか、とだけ相づちを打った。
「先輩は名前で呼んで欲しいんですか」
少しからかってみようかと芽生えた悪戯心に、魁は見事に引っかかった。
「そのようなことは……しかし親しくなれば名も呼ぶようになろう?」
「別に先輩とはそんな言うほど親しいわけじゃないですけどね」
「拙者のことは今は置いておいてくれぬか」
「だって先輩が名前で呼んで欲しそうにしてるから」
「拙者は何故かと問うているだけだ」
「名前が覚えられないんですよ。ずっと続く付き合いじゃないんですから覚えなくても良いでしょう」
苛立った皐の声に、魁は少し身を固くさせた。しつこいと言外に含まれているのがありありと見て取れる。
少し間を置いて、皐は私は別に先輩の気を悪くさせるために来たんじゃないんですけど、と会話を打ち切る方向へ向かおうとした。
「……拙者が、如月殿と長く交流したいと望んでいても、それは叶わぬだろうか」
「は?」
皐が、どうして良いか分からない困惑と、驚きをない交ぜにしたような複雑な顔で、魁を見上げた。
一瞬、蝉の音が聞こえなくなるほど、皐はその言葉を意識していた。
魁は庭に目を落とし、しかしまたすぐに皐を見る。
皐の困惑が増し、どう言って良いのか言葉が見当たらないまま数秒が過ぎた。魁の言葉の真意を探ろうとして、しかしどう捕らえたものかと皐は考えあぐねた。
最終的に、どういう意味ですか、と言葉の意図を尋ねた。
魁はそのままだ、としか答えず、更に皐は答えに窮した。
「……それは……先輩が私と親しくなりたいと捕らえて良いんですか」
「……。まあ、そうなるのだろうな」
「物好きですね。先輩だから言葉は一応直してますけど、私口悪いですよ」
「行きすぎはどうかと思うが、飾らない方がお主らしくて良いと思うぞ」
魁の言葉に、皐は思わず顔が赤くなるのを感じた。心臓が心なしかいつもより早く、大きく鳴っている。
「……名前は」
「?」
「先輩の名前ですよ。言ったでしょう、私なかなか人の名前覚えられないんです」
畜生と心中で悪態をつきながら、やけっぱちになった皐が喚く。魁は自分の名を告げて、皐は一度大きく深呼吸をした。足りなかったのか、そのあと二回ほどたっぷり時間を掛けてやり直した。
「……魁さん。これで、良いんですね。仕方がないから、私も名前呼びで良いですよ」
吐息と共に出されたそれに、魁は至極満足そうに笑んだ。
「……あのさー、もう良いかな」
「!」
ぎゃ、と叫んでしまいそうになるのを抑えて、皐は背後を見た。
「持ってきたは良いけど、皐がやたら荒くれてるからさー。いつ入ろうかおれ、迷ってたんだぜ」
「左様か……もう良いぞ由太郎」
「……なんで魁さんは平然としてんですか……!」
吃驚するわ!と皐が喚く。
それも蝉の声に紛れて小さく聞こえた。
2006/02/03 : UP